第二十二譚 彼は《春》には憧れない

 旅人が出掛けた後、宿には来客があった。

 掃除は終わっていたので、ハルビアは夕食の準備を、と調理場にこもっていた。不意に扉の鐘が響き、車輪を転がして玄関に急ぐと、頬を強張らせた幼馴染がたたずんでいた。寒さのせいかとも思ったが、あきらかに様子が違っている。


「エンダ……? どうかしたのですか?」

「いや、なんでもない。近くまできたから、ちょっと、寄ってみただけで」


 エンダは自分から訪ねてきたわりには煮えきらない様子で、ハルビアを直視できずに視線を泳がせていた。息がきれているわけでもないだろうに、舌の根が凍りついているかのように言葉が詰まる。ハルビアはその様子をみて、ふわりと彼の腕を取った。


「なかにどうぞ。なにか暖かいものでも飲んでいって」


 エンダを食堂に通して、暖かい飲み物を用意する。暖めた綿羊蹄モップの乳に卵黄を落として、蜂蜜であまみをつけた飲み物だ。少量だが香辛料を振ってあるので身体が芯から暖まる。

 鍋から木製の杯に移して、焼き菓子と一緒に食卓に置いた。


「あったかい……それになんだか、なつかしいな」


 杯をかたむけて、エンダが息をついた。

 段々と落ち着いてきたのか、頬の緊張がほどけてきた。


「覚えてるか? がきの頃に一緒に遊んでて、凍えて家に帰ったら、暖炉の火が消えててさ。すぐに薪を積んで燃やしたけれど、全然暖まらなくてよ。毛布にくるまって、震えてた。そしたらおまえが鍋を持ってきて、これをつくってくれたんだ」

「そんなこともありましたね」

「あの頃から、たまに菓子を焼いては持ってきてくれてたよな」


 焼き菓子をかじって、エンダは相好を崩す。


「おまえは昔から料理がうまかった」


 彼が昔の話をするなんてこれまでになかったことだ。

 懸念を募らせつつも穏やかに頷いて、ハルビアは幼馴染の調子にあわせた。


「親の後を継いで、食堂をやり始めた時は驚いた。冬患いが蔓延まんえんして客が減ってからは弁当の配達をしてる。曜日によっては結構な数を用意してるんだろ。おまえは立派だよ」

「そんな……私には、他になにもできませんから」


 ハルビアの父親は料理人だったという。耳が聞こえなくてもできる仕事といって、料理を選んだ。漢方を取り入れた料理を振る舞い、食堂は毎晩賑わっていたと聞き及んでいる。それを思えば、自分の腕は未熟だ。だから彼女も勉強を積み、父親の背に追いつきたいと考えていた。


「私は、エンダは立派だと思います」

「俺が?」

「ええ、いつだって町を護ってくれて、凄く頼もしい。町が氷狼ヴォルガの群に襲われた時にも、貴方がまっさきに剣を握って。隊を先導して、一頭残らず町から追い払ってくれた。それに貴方は凄く優しいひとだから」


 ハルビアは柔らかく睫毛を震わせて、微笑んだ。


「歩けない私の手を取って、後ろから支えて、練習をさせてくれたこと、私は凄く嬉しかったのですよ。みんな、私の脚は動かないものだと諦めていて、なのに貴方は諦めたらだめだっていってくれた。貴方は、凄く優しいわ」


 ずいぶんと昔のことだが、いまでも昨日のことのように思いだせる。

 それくらいに、ハルビアは嬉しかった。救われたといってもいいほどに。


「無理をさせただけだった」

「そんなことはありません」

「長さまに怒られたよ」

「おばあさまはちょっと過保護だから」


 ふふと笑って、ハルビアは指を組む。祈るような仕草だ。


「それから、貴方は私に車椅子を造ってくれた。古書なんて普段は読まないのに、一所懸命に私が動く助けにならないかと車椅子の造りかたを勉強して、ほんとうに造ってしまうのですもの。驚きました。こうして料理ができるのも、配達ができるのも貴方のおかげだわ」


 エンダは驚いたように目を見張り、嬉しそうに頬を持ちあげた。

 だがすぐに笑みは絶えて、彼は眉根を寄せた。


「俺は、俺は…………護る為だったら、なんだって」


 なにかを言おうとして、声は搔き消える。それからもなにかを打ち明けようと試みては、失敗する。最後には、彼は全然喋らなくなってしまった。


「なにがあったのか、聞かせてくれますか?」

「いや……ごめん、なんでもないんだ」

「そう、ですか。聞かれたくないことだったら、私は無理に、とは言いません」


 ハルビアが理解を表す。


 しばらくは沈黙が流れた。

 互いに杯を持ちあげては、飲み物を喉に通す。天候は普段よりも落ち着いていて、窓を奏でる氷雪も壁を軋ませる嵐も途絶えている。薪の爆ぜる音だけではなく、暖炉の火が揺らめく音まで鼓膜をなぜるほどの沈黙だ。


「おまえは、なんで春にあこがれるんだ」


 沈黙を破り、ぽつりとエンダが尋ねてきた。


「理由、ですか」


 ハルビアが苦笑する。


「理由をあげれば、きりがないのです。春を迎えるのが父親の願いだったと思うから。幼い頃に絵本を読んだから。季節の名前を受け継いでいるから。けれど、ほんとうはきっと、理由なんてなくて、ただ、あこがれずにはいられないのです」


 桃染の瞳を輝かせて、ハルビアは言葉を紡いだ。


「冬が嫌いなのか?」

「いいえ、好きですよ。冬は寒いけれど、雪が積もったばかりの朝の輝きは美しくて、なにもかもが真っ新になったような気持ちになります。息の白いもやも、樹木を覆う氷も、ほんとうは全部好きなのです」

「それなのに、春がいいのか」


 エンダの声は途方に暮れるように萎んでいた。


「私からすれば、みんながなぜ春にあこがれないのかが不思議なくらい」

「だって、みたこともない季節だぜ? あこがれるもなにもない。なにもないんだよ」


 彼の言葉は町の総意だった。


「生まれた時からずっと冬だけが続いている。いまさら変わるなんて、なんだか」

「怖い、のですか?」


 むっと、眉が寄る。


「怖くはない」


 意地を張るようにエンダが主張する。

 ハルビアはそれを笑い、それからふっとちからを抜いた。

 涙でもこらえているように遠くを仰いで、彼女は息をするように言った。


「春が、みたいだけなのよ。ただそれだけなのに」


 わかってもらうことがこんなに難しいだなんて。


「私は、きっと、長くは生きられないから」

「そんなことない!」


 エンダが大慌てで反論する。


「お父さまもおじいさまも若くして命を落とされたのよ。私だって、残された時が短いことは理解しています。はじめから、決まっているの。だから気をつかわないで」


 エンダは言いすがることができず、視線を落として、うつむいてしまった。彼にはそれを否定できない。ハルビアの家系がみな、寿命が短いことはあきらかな事実であり、彼女は生まれた時からそれを受け継いでいる。


 ハルビアは静かに、宿命を受けいれていた。


 昔は恐れたのかもしれない。物心つくまでのことを彼女は覚えてはいないけれど、死にたくないと枕を濡らした夜がなかったとは言えない。


「俺は、おまえの為だったら、なんでもするよ」


 唇をかみ締めて、誓うようにエンダが言葉にする。


「春はみせて、やれないけれど、おまえを護る為だったら」


 複雑な感情が彼の胸のなかで暴れているのが、表情から見て取れた。手袋をはめていなくとも肌の厚いてのひらを取って、ハルビアはしっかりと握り締める。握ると震えていることに気がついた。彼はいったい、なぜこれほどまでに追い詰められているのか。


「ありがとう、エンダ」


 ハルビアは大事な幼馴染に微笑みかける。

 他にできることがなかった。無力さをかみ締めているのはどちらも一緒だ。

 晴れた空に段々と黄昏たそがれがせまってきている。夕陽を受けて、建物の影に残った雪が燃えるように輝いた。焼けつく雪。とけることもなく、灼々と。

 雪の種火たねびが絶えれば、夜が訪れる。

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