第六譚 ここは《春》のはずだと旅人は語る

 ゆったりと食事をし、食べ終わる頃には日が暮れていた。

 客室も落ち着くが、暖炉がたかれた食堂ものんびりとくつろぐのにちょうどよかった。荷物を整理してから、セツはクワイヤをつれて食堂に戻ってきた。


 この地域の暖炉は驚くほどに暖かい。

 暖炉の火を眺めていて、セツはなにか、違和感を覚えた。薪を燃やす火には微かだが、季節の息吹がまざっていた。だがこの地域にあるのは、寒い季節だけだ。火を凝視していても、詳しいことはわからない。諦めて、窓に視線を移す。

 食堂には小振りの窓がいくつかあった。窓にはすきまから吹き込んでくる風を塞ぐ織物の幕が掛けられている。外の様子が気になってめくれば、夜の帳に暖かなあかりがちらほらと散っていた。窓硝子に霜が張っているので、風景はぼやけている。広場をはさんでいるだけなのに、町のあかりはやけに遠くみえた。


 車輪の音が近づいてきて、セツは窓のおおいをおろして振りかえる。食後のかたづけを終えて調理場から戻ってきたハルビアは、盆を膝に乗せていた。


「食後のお茶はいかがでしょうか?」


 食卓に木製の杯を置く。杯の数は三個。


「私もご一緒していいかしら」

「もちろん。ご一緒できたら、僕も嬉しいですよ」


 車椅子を食卓につけるのを待ってから、むかいあって、椅子に腰掛ける。

 木製の杯には暖めた乳が、なみなみとそそがれていた。この地域の家畜だと綿羊蹄モップの乳だろうか。ひとくち飲めばあまく、蜂蜜と独特な芳香が漂った。香辛料の粉がまぜてあるのか。

 クワイヤは先ほどの甘露煮で味を締めたのか、セツがうながさずともてのひらで包んだ杯を傾け、ほおと幸福の息をもらしている。


「いろんな季節を、旅してこられたんですよね」


 ハルビアが話しかけてきた。


「ええ、様々な地域の、様々な季節を。

 夏に訪れた町に、冬になってからまた訪ねていったこともあります。季節はその土地に様々なものをもたらしますからねぇ。四季折々、違った実りを。違った風景を。地域がかならずしも四種の季節を持っているとはかぎりませんが、四季とは異なる季節が巡る地域もあります。

 季節は天恵であり、地恵です」


「季節は、美しいものなんですね」


「例えば、そうですねぇ、とある町は青い湖のほとりにありました。森にかこまれた湖は青緑に透きとおり、みがき抜かれた青銅の鏡のようでした。湖には魚が棲み、水の豊かな地域でしたが、船に乗っての漁業はおこなわれていませんでした。湖に船を浮かべないことが昔からの決め事なのだとか。なので湖のほとりから釣り糸を垂らす人の姿が見られるだけでした。

 湖の縁から眺めると島がありまして、無人の島かと眺めていると。

 いやあ、目を疑いましたよ。島にぼんやりと建物の輪郭が浮かびあがっていたのですから。それもひとつやふたつじゃない。町とおんなじくらいの規模ときた。船がないはずなのに、島には桟橋まである。

 これはいったいどういうことかと思いましてねぇ。夏の蜃気楼かと思いながら町の長に尋ねると、冬においで、と言われました。

 それから季節は巡り、僕はあらためて冬にその町に足を運んだのです」


「湖の島には、ほんとうに建物があったのですか?」


「冬に町を訪ねてみますと、町はもぬけの殻で、人の影ひとつ見当たりません。途方に暮れて湖を見れば、なんとあの美しい湖が凍りついているではありませんか。湖を渡っていくと島に近づくにつれて湖の氷がなくなってしまい、いきどまりかとも思ったのですが、桟橋が架かっていたのを思いだしまして、そこからは桟橋を渡って島にたどり着いたのです。

 島には町があり、夏と変わらず町の人が暮らしていました。なんでも湖が結氷するとほとりからでは魚が取れなくなるそうで、漁業が盛んなこの地域では暮らしが成り立たないので、島に渡って暮らすようになったとか。島のあたりは鉱脈の影響で水が凍結せず、地熱がほんのり暖かくて過ごしやすいのだそうです。他にも貴重な果物も取れ、島の側の水域にだけ生息する魚もいるそうで」


「それでしたら、夏の間も島に暮らせばよいのではないでしょうか」


「普通に考えれば、そうですねぇ。けれど、そこの地域の人はそれを選ばない。冬にその土地を利用する分、夏には土地と魚の生息地を休ませるんです」


「素敵な地域ですね。そこに暮らす人達は、ほんとうに島や湖とともに暮らしているんですね」


 ハルビアは実際にその地域を旅できたような満たされた表情をして、きゅっと胸もとで指を組んだ。彼女の目蓋の裏にはいま、硝子のように透きとおった夏の湖と、穏やかに恵みをもたらす冬の湖が浮かんでいることだろう。


「地域とは季節ごとに様々な姿をみせ、人もそれにあわせて多様な暮らしを営んでいます。季節は勝手に巡るものでそれを恵みだと思わない者もたくさんいますが、その湖の町の人々は地域の季節に寄り添い、大地と助けあって暮らしています」


 語尾が間延びしなくなる。セツは真剣に語っていた。


「そこの地域には、冬と夏だけがあります。境にあたる時期が極端に短く、季節と言えるだけの長さがないのです」


 はたと、ハルビアが現実に返る。憂いの影が瞳に差す。


「この地域に、冬以外の季節が巡らないように、ですか」

「いえ、それは違います」


 重く積もる諦めを、彼は一言で払いのけた。


「ほんとうは、ここにも《春》があるはずなんです」


 胸もとで組まれていた指が、ぴくりと震えた。

《春》という言葉が、ハルビアのなかに眠っていたなにかを呼び覚ますようだった。それは、町の医者や若者がのぞかせた、張りつめたような敵意とはまるで違っていた。常冬の土地に生まれ育った娘は《春》という響きを受けて、一縷の希望を滲ませた。

 けれど希望などはないのだと律するように、ハルビアは憂いを残して、苦笑する。


「昔はあったのだと」

「僕は、《春》があるはずだと、言いましたよ」


 静かだが、強い言葉に驚いて、ハルビアは視線をあげた。


「いま、ここは《春》なんですよ」


「それは」

「ええ、にわかには信じられないことだと思います」


 沈黙のはざまで、かたかたと窓枠が震える。風だけではない。冬の砦から吹きおろしてきた細かい氷が凍りついた窓硝子をたたいているのだ。織物の幕の、僅かなすきまから吹き込んできた寒風が暖炉の熱を押しのけて、ふたりの背中を震えさせる。


 どうしようもないほどに冬だ。

 されど旅人は、いまは春だと言いきった。


 笑われてもしかたがない。あるいは怒られ、そんなに春だというならば確かめてみろと、扉から放りだされてもおかしくはなかった。もちろんハルビアはそんな乱暴なことはしないが、ひどく動揺しているのが見て取れた。


「…………――この、ノルテ地域では、長く冬が続いています」


 硬い、凍てついたような声で、ハルビアは語り始めた。

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