四月十日

 モリアーティ教授は犯罪専門のコンサルタントとして、多くの犯罪者から相談を受けているそうです。今回わたしが手伝うのもそのひとつだとか。チャールズ・バスカヴィル準男爵は、南アフリカの投機で大成功を納め、巨万の富を築き上げました。彼には子がいないため、爵位と遺産を相続するのは、二人の弟ということになります。けれど次男はゆくえが知れず、三男は中央アメリカへ渡ったのち一八七六年に黄熱病で未婚のまま死去しています。

 ですが実のところ、三男のロジャー・バスカヴィルには息子がいました。その名は父親と同じでロジャー・バスカヴィル、ただし現在はジャック・ステイプルトンと名乗っています。彼は今すぐにでも莫大な遺産を手に入れたいと考えました。なぜならサー・チャールズは欲のない人柄で、地元や地方の慈善事業に多額の寄付をしていたからです。このままではせっかくの遺産が目減りしてしまうと、ステイプルトンはサー・チャールズを殺害しようともくろみました。ですが、もしサー・チャールズが不審な死を遂げてしまえば、タイミングよく現れた相続人に疑いの目が向けられることは避けられません。ましてやステイプルトンには、多額の公金を横領して逃亡したうしろ暗い過去がありました。そこで彼は正体を隠したまま、他殺を疑われないよう標的を始末することにしたのです。

 そこで問題なのが、いかにしてサー・チャールズを殺害するかということです。明らかな他殺は論外として、毒殺や自殺を偽装するのも完璧とは言えません。可能なかぎり自然死に見せかける必要があります。例えば病死してくれるのがもっとも理想的です。とはいえ、サー・チャールズは心臓が弱いのものの、今すぐどうこうなるような症状ではありませんでした。

 ステイプルトンは人並み以上に優れた知力を有していましたが、それでも良い方法はなかなか思い浮かびません。そこで彼が依頼したのが、ジェームズ・モリアーティ教授です。成功した暁に相続した遺産の半分を分ける条件で、モリアーティ教授は合意しました。

 相談を聞いたモリアーティ教授は、ならばいっそのこと、心臓病が悪化するくらい精神的に追い詰めてみてはどうかと考えました。おあつらえ向きに、サー・チャールズには意外な弱点が存在しました。それは極度に迷信深いということです。彼はバスカヴィル家に伝わる、とある怪談を心の底から信じ切っていました。

 それは十七世紀半ばごろの出来事だと言われています。当時のバスカヴィル家当主はヒューゴー・バスカヴィルでした。彼は非常に悪名高い男で、人の言葉に耳を貸さず、荒々しく、不敬で信心も皆無、勝手気ままで残酷な性格だったと言います。

 ある時、ヒューゴーは領地近くの土地を持つ郷士の娘に恋しました。彼女は分別のある娘でしたので、けっしてヒューゴーのような男にはなびこうとしませんでした。やがてしびれを切らしたヒューゴーは、仲間を引き連れて郷士の農場へ忍び込み、娘を誘拐してしまいました。しかし勇敢な娘は隙を見て、手籠めにされる前にバスカヴィル館から逃げ出しました。それに気づいたヒューゴーは怒り狂い、娘に猟犬をけしかけて自分も馬で追いました。

 あとからヒューゴーを追いかけた三人は、恐ろしい光景を目にしました。猟犬のような姿をした、けれどもこの世のどんな猟犬よりも大きな黒い獣が、ヒューゴー・バスカヴィルの喉笛を食いちぎっていたのです。三人は恐怖で金切り声を上げながら、荒野を脱兎のごとく逃げました。うち一人はその夜のうちに亡くなり、残りの二人は死ぬまで廃人だったといいます。

 以来、バスカヴィル家の人間には、たびたび不幸な死が訪れたという話です。それはいつも突然に降りかかり、血生臭く、不可解なものでした。まるで魔犬に呪われているかのように。

 バスカヴィル家にはひとつの家訓があります。それは「暗くなってからダートムーアの荒野を横切るな」というものです。なぜなら、悪魔の力は夜にこそ高まるから。現当主チャールズ・バスカヴィルも、この教えを今も忠実に守っています。彼は三兄弟のなかでも特に、子供のころから魔犬にひどくおびえていたのだとか。実際、二年前にバスカヴィル館へ移り住んだ直後は、地元の住民に巨大な黒い獣を見なかったかと聞いてまわったのだそうです。

 だとすると、もしも実際サー・チャールズの目の前に伝説の魔犬が現れれば、彼は恐怖心でみるみるうちに身を持ち崩すのではないでしょうか。モリアーティ教授はそのように考えました。

 ただし、この計画を実行するには前提条件として、伝説にたがわぬ巨大な猟犬を用意しなくてはなりません。とはいえ、現実には存在しないからこその魔犬なわけでして、そうそう使い物になりそうな犬は見つからなかったそうです。

 ですが、とある人物の登場によって、事態は急展開を迎えました。その人物とは何を隠そう、わたしことイロナ・コルヴァンです。

 スコロマンスの魔女は、オオカミへ変身する魔術が使えます。それも怪物じみて――というより怪物そのものなのですが――大きいオオカミです。具体的に例えるなら、小さな雌ライオンほどもあります。まさしくバスカヴィル家の魔犬にふさわしいと言えるでしょう。もともとモリアーティ教授は魔犬の話を聞いたとき、真っ先にドラキュラ伯爵の存在を思い出したそうです。残念ながら伯爵はもうこの世にいないのですが。そんなときにわたしがロンドンへ現れたのは、まさしく運命でした。モリアーティ教授がわたしをスカウトした背景には、実はそういう事情があったのです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る