第5章「象徴」

「バスと過去」

市役所のデジタル時計は

午前10時10分を表示していた。


スミ子たちは、10時半に

空間委員会の曽根崎と会う約束をしている。


幸い、市役所は駅に近いということもありバスも定期的に来るので、

スミ子とユウキはちょうど来た「旧市役所行き」のバスに乗り込み、

空間委員会本部へと向かうことにした。


「とりあえず、ここまでのことをメールでまとめて報告しておくよ。

 情報は早い方がいいからな。何かあったら声をかけてくれ。」


そう言うと、ユウキは前の席に座って

スマホをぽちぽちといじり始める。


スミ子は特にすることもなく、

バスの窓際の席に身を縮こめる。


見れば、早朝のラッシュ時から外れているためか、

バスの車内はスカスカで車窓から外を眺めると

歩道を歩く人の姿がまばらに見えた。


彼らの大部分は首に名札をぶら下げており、

その多くが市役所で働く役人だということが容易に見て取れた。


その中でもビジネススーツを着て堂々と歩く女性見ていると、

スミ子はひどく恥ずかしい気持ちになり、さらに身を縮こめる。


向こうはバリバリに仕事をこなすキャリアウーマン。

片や会社が潰れて無職になるかもしれない女。


年は同じほどなのに、

この差はなんなのか。


他人と自分は違うとは思いたいけれど、

人生の中で何が明暗を分けたのか。


スミ子は自分の腕に巻かれた紐を見つめ、

ため息をつく。


…そう、好きなことは好きでいい。

嫌なことを無理にすることはないの。


自分の気持ちに素直であることは、

とても大切なことよ。


昨日、本部の空間の中で銀髪の女性に言われた言葉。


彼女の編んでいた毛糸と同じく赤い糸で編まれたミサンガは、

ほつれもない美しい一本の紐の腕輪としてスミ子の腕にはまっている。


だが、そんなスミ子の耳に過去の言葉が蘇る。


…でも結局、趣味だけでは人間食べてはいけないよね。

溝口さんは才能が無いし。


そんなことを言われたのは学生時代だったか。


そう、才能がない人間はどれほど努力をしようと意味がない。

分不相応な望みを抱くのはいけないことだ。


バスの揺れる車内、

スミ子は暗い気持ちでミサンガを見つめる。


…思えば、あの学校にもあまり良い思い出はなかったな。


そんなことを考えながらも、

スミ子は疲れた顔で車窓に頭をつける。


バスは、スミ子が数年前まで通っていた大学を

今まさに通り過ぎようとしていた…


「ねえ、溝口さん。

 ここの飾り付けどうしたらいいかしら?」


大学祭。


編み物サークルに入っていたスミ子は自分の作品を展示する傍ら、

人の作品を飾る手伝いをさせられることが多かった。


大体の学生は徹夜明けで、

眠い目をこすりながら自分の作品を作ることも多く、

まともなディスプレイができない子がほとんどだった。


スミ子はそんな子たちの作品をどうすれば魅力的に見えるか考え、

説明ボードを作り、引き立てるような置き方などを考える役割を

いつしか担うようになっていた。


「うわー、見てみて。この名刺。

 あの有名なニットデザイナーのだよ。

 私の作品見て声かけてくれたの、すごくない?」


きゃあきゃあと、声を上げるサークル仲間。

しかし、スミ子はその輪の中にはいない。


自分の場所はいつも一番隅。


しかも、声をかけられても

人は他の子の作品に関した質問をするばかりで、

スミ子の作品を見ようともしなかった。


「なんていうかさ、才能ないよね溝口さんは。

 ハングリー精神もないし自分を売り込もうともしないし。」


文化祭の終日、スミ子を説明係として

割り振ったサークルのリーダーは、

しれっとそんなことを口走った。


聞いてくる人間の言葉に素直に答えた結果、

スミ子以外の仲間はたくさんのデザイナーの名刺をもらい、

自身の収穫はゼロだった。


暗くなるスミ子に彼女は肩を叩いて笑う。


「ま、いいんじゃない?

 スミ子さんは飾るのだけはうまいしさ、

 そっち系の仕事に就いたらどうなのさ。」


ケラケラと笑われる飲み会での一幕。

スミ子はそれを暗い気持ちで聞いていた。


自分は作品を作っても認められない。

他人の作品を飾るだけしか能のない女。


でも、それも才能と呼ばれるのなら、

そちらのほうを仕事にしたほうがいいのかもしれない。


そして、スミ子はインテリアコーディネーターとしての

資格を取得したが、どうしてか心のもやは晴れなかった。


大学卒業後にインテリア関係の職につくも、

どこか毎日の仕事に引っかかりを覚えていた。


そんな気持ちはいけない。


社会人なのだから、

もっと真面目に働かないと。


職があるだけでありがたいと。


自分に言い聞かせ、働く日々。


いつしか趣味だった編み物もやめていた。

いや、できなくなっていた。


才能がないのなら、

分不相応なことはしてはいけないのだ。


そう考えながら真面目に働こうとするも、

ボタンの掛け違えのように日々は苦しくなっていった。


編み物もしたい。

でもそれに時間を割く意味はあるのか。


意味のないことをしてはいけない、

自分は自分に合った仕事をしなければならない。

社会人だ、自分のことなど二の次なのだから…。


だが、そうして必死になればなるほど、

仕事に励もうとすればするほど、

スミ子はなぜか日々疲れるようになっていった。


上司に叱られ続け、

達成感よりも焦りや苦しみを覚える日々。


趣味をする時間はない。

自分は働かなければならないのだから…。


いつしか、仕事から帰るとぐったりと動けなくなっていた。

何もできず、鬱々と仕事のことばかりを考える日々になっていた。


編棒も毛糸もベッド下の収納スペースに収められ、

久しく表に出ることはなかった。


そうして自身のプライベートを犠牲にした上でも、

スミ子は必死に職場にしがみつこうとし、あがき続け…


その挙句、何事もなし得ないままここにいる。


…結局、自分はそんな人間だったのだろうか。

元から何も成り立たない人間だったのだろうか。


自問自答はいつまでもループし、

スミ子はぐったりとした気持ちでバスから降りる。


目の前には旧市役所の建物があり、

その下には空間委員会の本部もある。


でも、そこまで行く足取りが重い。

気分が悪く、ぐったりとする。


「ん、大丈夫か。少し休んで行く?」


ユウキがそれに気付き声をかけるも、

スミ子は静かに首を振った。


なんにせよ、目の前のことを

早めに片付けた方がいい。


そのためにも、自分のことは二の次でいいとも思っていた。

たとえ倒れても、するべきことはしなければ…


「…ダメだよ、気分が悪いと思ったら無理せず休まなきゃ。

 心にも体にもよくないんだよ。」


気がつけば、近くに止められた車の中から、

曽根崎が顔を出しているのが見えた。

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