「ヒビ入り」

「遅刻の理由を教えてもらおうか?」


デスクに座る上司の言葉にスミ子は

ただ一言「バスの関係で…」とだけ答える。


駐車場の出来事の後、

その場から逃げ出すようにしてバスに乗った。


自分が見ていたものが信じられなかったし、

とにかく会社に行かなければならないという焦りもあった。


だが、バスが会社に着いたのは午前8時45分。

就業時間からすでに15分も遅れてしまっていた。


気が動転していたので連絡することも忘れ、

結果として上司に呼び出され、ここにいる。


「言い訳にしか聞こえないが、

 何か他に言うことは?」


上司の言葉に、

スミ子は「えっと…」と言葉を詰まらせる。


まさか自分の車が丸ごと消えてしまった

なんて言えるわけがない。


迷った挙句に頭を下げた。


「すみません。」


上司は腕組みしてこう続ける。


「君さあ『すみません、すみません』って、本当に反省してる?

 していないよね。大体、何度同じことを言えばいいのか。

 教える方も嫌なんだよね。同じことの繰り返し、時間の無駄だよ。」


それから、スミ子の最近失敗したこと、

間違えたことをつらつらと話し出す。


一方的な言葉、

つぶてのようにぶつかる言葉。


「…ともかく、自分のことは自分でしてくれないと、

 教えるこっちとしても仕事の効率が落ちるんだよ。

 困ったことになった時に責任は取れるの?無理だよね。」


上司は方針を告げることをしない。


自分で考えろと最後に言い、

こうして怒ること以外はスミ子と話そうともしない。


プロジェクトをしていた当初は

スミ子のデスクは前任者の仕事で溢れかえっていたが、

今では分散して他の人間に役割が割り振られていた。


入ってから数ヶ月のうち、

勝手も分からず人に聞き回っていた仕事。


それでも結局残業し、間に合わず、

他の人に手伝ってもらうたび周りから舌打ちされる職場。


…そして、上司はスミ子がこれ以上

プロジェクトの進行ができないと判断すると、

他の人間を選任しスミ子に雑用などの仕事を割り振った。


しかし、仕事の引き継ぎや雑用への実質的な降格は

スミ子の心労を増加させる結果となり、

日々すり減っていく気持ちにスミ子は日々葛藤する他なかった。


「こっちだって手が足りていないのに。

 人の足を引っ張るようなことは本当に困るんだよ。

 他の人間を雇い入れようにも時期が時期だから

 目をつむってここに置いているんだから。」


度重なる上司の言葉が

重石のように積み重なっていく。


…本来ならば辞めるべき身である。


そんなニュアンスの言葉も

上司の口から発せられた。


…でも結局、それは自分が悪いのだ。

スミ子はそう考える。


そう、遅刻しそうな時には、

連絡を入れなければならない。


社会人として当たり前のこと。

人として当たり前のこと。


それができない時点で自分はダメなのだ。

だからこうして立っていることしかできないのだ。


言葉が重い。

重石がますます積み上がる。


しかし、何が悪いのか考えようにも

思考がまとまらない。


後頭部と首筋のぼんやりとした痛みとともに

余計に頭が回らなくなっていく。


上司はとうとうこの数カ月にした失敗まで掘り返し、

スミ子はさらに苦しくなっていく。


終わらない言葉。

終わらない時間。


だんだんと息がしづらくなっていき、

首の後ろが鈍い痛みへと変化し、

ついにスミ子の目からポロリと涙が落ちた。


その瞬間、上司が「あーあ」とつぶやいた。


「そうやって俺を悪者にして何が楽しいんだろうな。

 もういい、あっち行って。これ以上言うことはないから。」


そう言って追い出されたスミ子は、

涙を拭くために慌ててトイレに駆け込む。


ショールームの掃除をしようにも、

とうに別の人たちがやっていて、

誰もがスミ子を見ないようにして

自分の席に戻り始めていた。


スミ子はそれを見て、

さらに辛い気持ちになる。


そして入ったトイレで

ばったり同僚の一人と出会った。


彼女は洗い終えた手をハンカチでぬぐうと、

メガネのフレームを押し上げる。


「あら、おはよう。仕事やっておいたから。」


スミ子は半ば目をそらしながら、

「おはようございます」と言って頭を下げる。


すると、同僚はスミ子の目を見てため息をついた。


「また泣いたのね。どうにかなんないの?

 大の大人が泣くなんて、みっともないたらありゃしない。」


スミ子はそれを聞いて

グッと泣きそうになるのを我慢する。


しかし、我慢しそうになればなるほど、堪えれば堪えるほど、

目がしらは熱くなり胸はますます苦しくなる。


落ち着こうと息を吸おうとも、

気持ちをなだめようと深呼吸をしようにも、

逆効果でしかないらしく、さらに涙がホロリと落ちる。


その様子に同僚は厳しい目を向ける。


「前の職場でも同じことをしたんでしょう。

 仕事が短期間しか続かないのもそのせいよ。

 病気なんだか知らないけれど、全部あんたの性格の問題よ。」


入社してから数ヶ月のあいだ、

彼女は相談役としてスミ子の話を聞いてくれる立場だった。


そのためスミ子は過去や精神病のことも含め、

正直に胸のうちを彼女に話してしまっていた。


だが、スミ子がプロジェクトで失敗すると、

手のひらを返したように彼女はスミ子の過去の話をほじくり出し、

今までの失敗は全てスミ子にあるとなじるようになっていた。


「…でもね、これくらい当たり前なんだからね。」


…ここに居られるだけ幸せと思わないと。

これ以上のひどい場所なんていくらでもあると。

だからこそ考えを改めてここにいるべきだと。


同僚はそう言った。


「じゃあ…何を、どうすれば…?」


ぐらぐらする頭でそう聞いた瞬間、

同僚はスミ子を鼻で笑った。


「あんたは怠けているのよ。

 そんなこと自分で考えればいいじゃない。

 他人に仕事を渡している時点で、

 頭を下げて生きるべきなんだから。」


…ビシッ


その時、何かが割れるような音が足元から聞こえた。


見れば女子トイレの床に横一線、

大きな亀裂が入っている。


しかも、それは蜘蛛の巣状に広がっていき、

一瞬体が沈んだように感じられ…


「え?」


一気に床が崩れた。

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