第15話 噂の出所

「なあ帝人たいと、あの噂本当か?」

「あの噂?」


 伊藤が登校してくるなり、俺に小声で話しかけてくる。

 あの噂がなにをさしているのかさっぱり分からなかったので、聞き返す。


「椿本さんの」

「丸の?」


 丸に関する噂なんて聞いた覚えはないけれど、もしかすると岡谷と付き合っているとかそういう類いなのかもしれない。

 あの一件を見てから、俺は丸と距離を置いていた。

 あの喧嘩から微妙な感じではあったけど、岡谷と付き合うなら俺があいつの周りをうろちょろするべきじゃないと思っていた。心から歓迎出来ることじゃないけれど、それが丸の選択なら俺に何かを言う権利はない。


「お前本当に知らないのかよ。椿本さんがお前と岡谷に二股してるって話」

「二股?」


 あまりにも予想外の言葉に俺の声は自然と大きくなっていた。


「あんまり大きな声で言うなって」


 伊藤が口に人差し指を当てて、静かにしろとジェスチャーをする。


「二股もなにも、俺とあいつは付き合ってないぞ」

「岡谷とは?」

「知らない」

「確かに最近岡谷と椿本さん仲が良さそうだよな」

「あいつが岡谷と付き合ってようがなかろうが、俺と丸は付き合ってないんだからそんな噂は百パーセント混じりけのない嘘だ」

「否定しなくていいのか?」

「教壇に立って、俺と丸は付き合ってないとでも宣言すればいいのか?

馬鹿らしい、こんなの無視しとけばすぐに消える」

「お前はいいかもしれないけどさ」


 伊藤は何か言いたげな表情で丸のいる方へ目線を向ける。

 丸が居心地悪そうに身を縮めて、席に座っている。

 そして、その周りでは女子の集団が小さいけれど丸には聞こえているであろう声でひそひそ話をしている。


「あんな大人しそうな顔してやることはやってんだね」

「男子ってああいうあざとい子が好きなんでしょ」


 そのひそひそ話の一部が漏れ聞こえてきた。

 他人の恋愛事情は、噂好きの女子にとっては格好のネタだ。

 男子は静観している人が多い中、女子は丸に聞こえてもおかまいなしというように好き勝手に話している。

 俺だけが対象なら無視していればいいだけだ。本当に分かって欲しい人間にだけ分かってもらっていれば周りなんてどうでもいい。

 でも、丸はそうじゃない。

 今はまだこの程度ですんでいるけれど、これ以上酷くなってしまったら耐えられないかもしれない。

 かといって、俺にはどうしようもできない。

 俺と丸が付き合ってないと説明したところで、丸のことが未だに好きで庇っていると思われて火に油を注ぐ結果になる可能性だってある。

 岡谷の方を見ると、彼も今のところ動く気はないようだ。

 俺も様子を見よう。この程度の噂なら、すぐに皆忘れるかもしれない。



 その日の昼休み。

 俺は久しぶりに教室で昼ご飯を食べていた。都築先輩はここのところ忙しいようでお弁当を作る時間がないそうだ。

 岡谷と丸が付き合っていることが分かってから、ある意味吹っ切れた。

 無理に仲直りしようとか考えすぎていたから逆にぎくしゃくしていたんだ。

 もう少し経って普通に話しかければ、また気負わずに話せる仲に戻れる。そう思っていた。


「そういやお前演劇部はどうだ? やっぱりきついか?」


 俺の前の席を借りている伊藤が購買のパンを頬張りながら聞いてくる。

 演劇部に俺と丸が加わったことは、このクラスの人間なら殆ど知っている。

 隠してはないし、隠そうともしてないから当然だ。


「慣れないことをやるのはきついな。

知ってるか? 演劇部って結構体育会系なんだぞ」

「都築先輩ってスパルタなのか?」

「厳しいっちゃあ厳しいけど、怒鳴ったりはしないな。なんか静かに怒る感じ」

「うわー想像つくな、それ。

でも、あれだけの美人なら怒られても怒られてないようなもんだろ」

「なんだ、その理論……」


 伊藤と馬鹿話をしていると、背後で机が揺れる音がした。そして、何かが床に落ちる音が続く。

 振り返ると、歩いている人が机にぶつかった衝撃で弁当箱が落ちてしまったようだ。


「あーごめんね椿本さん」


 その弁当箱の持ち主は丸だった。

 床に散らばった弁当箱の中身をじっと見つめる丸の瞳に、涙が溜まっていくのが分かる。


「ごめんね、よそ見してて」


 真っ赤な言葉。

 おそらくよそ見していたことが嘘なんだと思う。

 つまりそれは狙ってやったということ。

 机にぶつかった女子は言葉だけ謝っているものの悪びれる気配すら見せずに、弁当箱の中身を必死でかき集める丸を手伝いもしない。

 そして、そのまま丸の横を素通りする。


「待てよ」

「どうしたの、三井くん」


 俺は立ち上がって、その女子の前に立ちはだかる。


「人の弁当箱をひっくり返しておいて、謝っただけで終わりか?」


 らしくない。

 自分でもそう思ったけど、我慢出来るわけがなかった。


「わざとじゃないんだからしょうがないでしょ。弁償しろって言うわけ?」


 また嘘。

 彼女の言葉はずっと赤い。

 俺でなくても分かるような見え見えの嘘をついて、認めなければ大丈夫だと思っているんだろうか。


「そんな見え見えの嘘をよくも平気な顔して言えたな。

故意じゃなかったとしても、もっと誠意があるだろ」

「二股されたくせにまだこの子が好きなわけ?」


 あまりにも幼稚すぎる返しに俺の頭は怒りと呆れでごちゃごちゃになっていた。

 このままだったら何をしでかすか自分でも分からなかったので、一つ息をついて気持ちを落ち着ける。

 しかし、俺の頭は完全に血が上り冷えそうになかった。


「そんなことは関係ない。もし、もう一度俺の前で下らない嫌がらせをしてみろ。

俺は――」


 俺がその女子の胸倉をつかむと、


「やめて!」


 丸の滅多に発しない大声が俺の声を阻んだ。


「もう……やめて」


 一筋の滴が、丸の瞳から零れ落ちる。お前は俺に怒らせてもくれないのか。

 俺の中にあった怒り炎みたいなものが急速にその勢いを失って、燻った。

 俺は何も言わずに唇を噛みしめて、席に戻った。戻り際、岡谷の席を一瞥する。ただ机に座って、身動き一つ取っていない。

 付き合ってるんだったら、お前が怒ってやるべきじゃないのか?

 教室内は昼休みであることが嘘のように静まりかえり、隣の教室から聞こえる笑い声だけが響いていた。



 俺は家に帰って、一人で物思いに耽っていた。

 丸へのイジメをどうすれば抑えられるだろうか。まだ取り返しはつく。

 一部の女子は露骨に嫌がらせをしてきたが、様子を見ているだけの女子も多い。

 狙ったわけじゃないけど、俺があそこまで怒った以上軽い気持ちで丸に嫌がらせをする人はいなくなるはずだ。

 ただ、俺の行動であの女子が恥をかかされたと感じたならば、更に悪化する可能性はある。

 二股なんて噂を流した人物をつきとめないと、根本的な解決にはならない気がする。

 そんなことをする人物は一人しかいない。考えるまでもない。

 江守さんだ。

 ヒロインの座が奪われそうな彼女以外に、丸に嫌がらせをする理由のある人物はいない。それにクラスの中心的人物の彼女ならば、これほど早く噂を広められたのも納得だ。

 しかし、江守さんを糾弾したところで証拠もなにもないし、しらを切られるだけ。

 何より、俺が動くことを丸は果たして望んでいるのだろうか。

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