第22話 進入扉――6時21分、第九天菱号

 目が覚めると、つけっぱなしのラジオから流れてくる声はすでにせきのものではなく、ラジオてんりょうでたった一人の専属アナウンサーが落ち着いた調子でニュースを伝えていた。

 夜色の薄明かりの中で、枕元に放り出してあった携帯端末ワンドを探り当て通知ディスプレイを引き出す。網膜を刺すように眩しい名刺大ほどの画面は、たちまち自動調整が掛かって光度を下げた。時刻は夜明け前。天海の縁もまだ朝焼けを始めていない。

 最初に思い浮かんだのが、柴とオリオーザは天菱に帰還したのだろうかということだった。

 二度寝できる感じはしない。すぱっと目が覚めてしまった。普段寝起きのよくないあおぎくにしては珍しく、覚醒してから三分以内に身体を起こしベッドを降りて、冷気に満ちた部屋の暖房スイッチを入れた。

 今朝は何もかもが普段と違う感じだ、と思う。身体はまだ少し疲れている。頭はもう冴えてしまった。喉が乾いて小さな冷蔵庫を開けると、昨夜かいがくれた珈琲の残りが黙って冷えていた。残り少ないそれをボトルから直接飲むと、不定形の冷たさが口から喉、喉から胸の奥へ染み渡っていく。

 普段通りじゃないのも仕方がない、珍しく怪我をしたんだから、と思ったが、怪我以上に珍しいことが昨夜起こったのをそれからやっと思い出した。

 父と姉が来た。この雲の上に。

 青菊が怪我をしたという、ただそれだけのことで。

 父のえいは子供時代の青菊がおうぎやまに家出した時のような顔をしていたし、姉のしらはお祖母ちゃんの臨終に呼ばれた時のような顔をしていた。そんなことを自分が覚えていたとは驚きだった。祖母が亡くなったのは青菊がまだ五歳の頃だったはず。エピソード記憶は薄くても、見たことは見て、記憶だけはしているのだろう。自分のものなのに脳には自由に読み取りできない領域が多すぎる。

 忘れてしまう。読み出せなくなってしまう。

 たとえそこにあっても見えないのならば消えてしまったのと同じだ。

 だから撃つ。写し止めるために撮る。

 昨日の事故は撮れなかった、と青菊は残念に思った。現場も現場、破損した耐圧窓のまさに目前といっていい距離にいた。あそこで何枚かでも撮れていたら事故の検証に多少は役立っただろう。当時、大勢の客のなかであの場の映像を残した者もそれなりにいて、運輸安全局は天菱や各店舗の防犯カメラ等の映像と合わせてそれら個人的映像も集約し事故状況の解明に活用している。

 暖房の前に服を放って歯を磨き顔を洗う。髪をとかして、そろそろ前髪を切ろうと思う。うすぬるく温まった服を着ながら、つけっぱなしのラジオの声が再び耳に届く。


『……ただいま入ってきたニュースです。昨日の事故で破損し現在は撤去されている中一階フードコートのクリスマスツリーについて当船安全委員会は、耐圧窓の破損状況から同等品の再設置は困難との見方を示しました。例年、中一階フードコートに飾られるツリーは当船最大のサイズで来船客の人気が高く撮影スポットにもなっていましたが、今回はフードコート自体が閉鎖になっていることもあり……』


 事故現場を中心とした一帯は立ち入り禁止区域になっている。昨夜、鋭児や白音と買い物に行った上七階の商店街は場所が遠いこともあって、まるで事故のことなんか誰も知らないように通常営業していたが、買い物に入ったあけぼのドラッグはかなり品薄だった。地上ではまるで知られていない店だが、船内に複数店舗を持つそれなりの規模のチェーンだ。恐らく災害協定を結んでいて、こういう場合には避難所などに在庫を送ることになっているのだろう。

 ドラッグストアで白音とメイク落としや化粧品を選ぶなんて初めてのことだった。生きているとこんな珍しいことが起こる。品物を選ぶ姉の見たこともないくらい真剣な顔は本当に集中力が高く美しく、もし許されるなら撮影したいほどだった。

 売り場を見ながら、結構年配の女性もたくさん住んでいるのねと白音は言った。化粧品のラインナップから分かるのだという。青菊にはそういう視点がない。そもそも化粧品のブランドがそれぞれにターゲット年齢層を持っていて、これは若い子向け、あれは熟年向け、と分かれていることもよく知らなかった。それを言うと、気付かないで生きてくるって可能なの、あたしもママもコスメのCM結構出たのに、と笑われた。

 嘲笑されたのではなかった。青菊も驚いたことにそれは、装わない白音の、まるで修飾のない笑顔だった。テレビや街の広告で見る白音とは違う。

 つまりメディアの中の白音は仕事をしていたのだなあ、という当然のことが今更のように感じられた。飛び抜けて美しいからといって、ただ生きているだけで自動的に仕事になるわけではないのだ。受注した仕事を、自分の身体を駆使して実現し納品している。そのために学ぶことや訓練することもきっとたくさんあるのだろう。役者やモデルという人々は凄いことをやっているな、と思う。

 昨夜青菊の目の前にいたのは、他人の発注に応えているのではない、素に近い白音だ。生まれてからずっと一緒に暮らしていたのに、空に引っ越してからのたった一年で青菊はその感じを忘れていた。

 そうして気がつく。一緒に暮らしていた時には、白音は青菊と雑談をして笑ったりはしなかった。青菊はいつも姉の横顔だけを見ていた。姉は青菊に対してコミュニケーションすることがほぼなかったからだ。白音の言葉も表情もそのほとんどは鋭児か母のまどかに向けられたものだった。だから青菊は、自分にネガティヴではない関心を向けている白音をほとんど初めて見たのだ。

 お姉ちゃん、どうしてこっちを見るようになってるの?

 どうして私を見てくれないの、という台詞なら様々な物語で飽きるほど見掛けているが、どうして私を見るの、というのはちょっと新鮮だな、と青菊は思う。私は化粧しないからと言ったときの反応といい、白音が自分に興味を示すと思っていなかったからびっくりした。

 そもそも鋭児と一緒に天菱まで来たこと自体が。いや、それは鶯台付近の地上が大雪と停電でまずいことになっているから、鋭児としても白音を冷え切った真っ暗な家に一人残しておきたくはなかっただろうけれど。

 ともかく天菱まで駆け付けてきて、怪我は、と聞いた。

 不思議だ。

 子供の頃、増岡の家を訪れたときのことを思い出す。夏の陽、緑の濃い梢のざわめき、快晴の青、古いオリオーザの輝く機体。よく冷えたレモネード、汗をかいたグラス、家族以外では同年輩の旧友にだけ見せる鋭児の手放しの笑顔。

 あのとき青菊が左腕と右脚とに巻いていた包帯について、白音は一言も聞かなかった。青菊が母や姉の出ていたコスメのCMに興味がなく内容も把握しなかったように、白音も青菊の状態に関心がなかったのだろうと思う。

 でも昨夜は、どのくらいで治るの、欲しいものはないの、と言った。

 一月もあれば治るし、このシップには何でもある。だから大丈夫。大丈夫だけど動揺はした。事故にも怪我にも動揺したけれど、白音の様子にも動揺した。

 たった二日前、スタジオに訪ねたときはあんなにクールでフラットだったのに。


『……雪閉せっぺいの長期化が各所に影響を及ぼしています。当初は天海上から地上に戻れなくなった人が問題になっていましたが、厳寒に加えて停電が起こったため、逆に地上から天海上へ避難する需要が出ています。しかし現在、降雪地域では連絡船バスもわずかしか動いておらず、……』


 髪をゴムで結んで、カメラ箱から手に触れたカメラを取り上げ、いつものように窓の外に向かってシャッタを切る。シャコン、と気持ちのいい音が鳴る。

 シャッタスピードを変えて、絞りを変えて。裏蓋を開いて、おはよう、世界。おはよう、世界。おはよう、世界。


『……それでは本日二十五日の連絡船の運行についてお伝えします。現在、全社、始発は未定。繰り返します、連絡船は全社とも運行予定は白紙です。各社とも条件が整い次第運行を再開する方針ですが、昨夜からの長時間待機などで勤務時間規定により任務に当たれないパイロットが発生するなど、再開の見通しは立ちにくい状況とのことです。

 また、各地から天菱号行きの連絡船についても雪閉の影響から地上住民等の避難に機材が振り分けられている兼ね合い上、大幅な間引き運行が予想されています。

 今後、新しい情報が入り次第お伝えして参ります。なお再開の場合も、各便とも傷病人輸送等のため自由席は通常より大幅に少ない設定での運行となる見通しです。ご了承ください。……』


 シャコン、と音を立てて黒い羽根が夜の雲海をスライスする。百二十五分の一秒の世界。もっとも、この暗さでは市販の高感度ネガフィルム程度では何も写らないだろう。二分の一秒なら? 無理だ。一秒、二秒、四秒、八秒。何もかも流れることを覚悟でどうしてもこの色が欲しければバルブにしてしまうか。

 でもそれでは飛行機は写らない。光の線としてしか。飛行機の美しさはあの形にある。

 飛行機といってデフォルトで柴のオリオーザを思い浮かべているな、と思ったとき、ラジオの向こうでガサガサと紙の音がした。今時、紙でニュース原稿を出すことなんて滅多にないはずだ。ラジオ天菱のスタジオには行ったことがあるが、ほとんどあらゆるものが大きなテーブル型のマルチ情報ディスプレイに表示される。タイムテーブルも構成も原稿も投稿メッセージも全てだ。紙原稿で差し込みが来るのは珍しい。


『……ああ、いや先にこれ読みますよ。今入ってきた情報です。下七階船尾の旧ジェット発着場でアプローチ開口部の扉に電気系統の不具合が起き、現在、自動開閉ができなくなっています。旧ジェット発着場にはこのあと二十分ほどで連絡船シバイチが戻ってくる予定になっておりまして、今現在扉は閉まっていると。開かないと入れない。開ける必要があります。目が覚めてる皆さん、どうか聞いてほしい』


 これは冗談じゃないぞ、と思った。今ニュースを読んでいるアナウンサーの石塚はトーク番組などでは砕けた口調になることがあるが、ニュースの途中にそうなるのは珍しい。青菊は手にしていたカメラの裏蓋をぱちんと閉めてラジオに顔を向けた。


『今こちらに向かっているシバイチには、天菱に機体がある各社連絡船のパイロット等交代要員と医療関係者、それに船内負傷者の家族が乗っているとのこと。シバイチはジェット機で、昨夜からずっと事故関連の輸送でフライトを続けており燃料に余裕がなく、待機飛行はハイリスクです。航行能力は主に空港離着陸のための垂直移動に使われるだけのサブですから、航行のみになると天菱になかなか追い付けなくなる。この二十分で何とか扉を開けて収容する必要があります』


 目の前の机に置いた携帯端末ワンドから通知ディスプレイが勝手に展開した。船員クルー宛ての一斉通知だ。職業船員プロパー客分船員レジデントも区別しない全員宛て。

 これは昨日の事故後にも何度か見たレベルの通知だった。大きなトラブルの発生時にはこうして広く船員たちに支援を呼び掛ける仕組みになっている。

 その通知領域には、旧ジェット発着場の故障した進入扉を手動で開けるから手伝える奴は来い、停電しているので各自なるべく照明持参、という内容が表示されていた。


『進入扉は停電時も手動で開閉が可能ですが、極めて重いため人手が必要です。上七階船尾付近にいて手の空いている方は旧ジェット発着場で作業を手伝ってください。ジェット発着場の営業当時から設備メンテナンスしている当船の技師が現場指示に入ります。

 繰り返します、上七階船尾付近にいて手の空いている方は旧ジェット発着場で進入扉を手動で開く作業を手伝ってください。船内クリニックに収容した負傷者の中に産気づいた女性がいます。予定日よりかなり早く、不測の事態を考えると天菱のクリニックではお産が取れない。シバイチに乗っている連絡船パイロットが時間通りに着けばそのまま妊婦さんを連絡船で移送できます。皆さんの助けが必要です』


 事故があった昨日の今日で、しかもまだ夜明け前だ。恐らく、起きていて自由に動ける人間はごく少ない。

 青菊は手にしていたコンパクトカメラをカメラ箱に戻すと革ケース入りの一眼レフを引っ張り出し、ケースを外して標準レンズも外して、数秒迷ったあとズームレンズを取り付けフィルムを詰めた。市販のネガでは一番感度の高いフィルムの三十六枚撮り。羽織ったコートのポケットにも同じものを五、六本放り込む。

 手持ちの中で一番高いフィルムだが、それがどうした、と思った。今最もよく撮れるものを選ぶべきだ。撮るべきものを撮るために、できる限りの装備をすべきだ。

 いつも目に映るものはそれが最初で最後の光景だ。写し止めたいと思ったその一瞬を撮れないのなら何も意味がない。

 一眼レフを斜めがけにして携帯端末ワンドを掴み、青菊は部屋を飛び出した。


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