(二)

第8話 増岡の写真――9時52分、鴬台

 どさどさどさ、と砂袋をいくつも投げたような音を立てて、屋根から雪が落ちたようだった。しらが何か言うより前にえいは窓の方を少し見て、ああ、と小さく声を出した。


「車、死んでっかもなあ……」


「雪でしょ? 雪でそんなことになる?」


「湿った雪の重さってシャレなんないんだよ、あれ水だからね。水は重い。撮影でも何度かえらい目に遭ったわ。……あぁ、フレーム逝ってたら買い替えかぁ。何でクリスマスに車失うのかなー俺」


「……危機感が見えない」


 朝食の後、昨夜と同じくヒータの前に寝そべっている鋭児は、昨夜とは別の写真集を眺めていた。


「今度はなに」


「ああこれな、昨日ギリギリ届いてた。友達の、ほら増岡ますおかちゃんいたでしょ、ここんとこまた会わないけど」


「久し振りに名前聞いた。お元気なの?」


「写真集出す程度には元気みたい」


 鋭児の前に座り込んでさかさまに写真集を覗き込む。増岡は鋭児のカメラ友達だ。映画を本業にする鋭児と違い、増岡の場合は写真が本業である。郊外にだだっ広い敷地と豪邸を持つ資産家の息子ながら、生活スタイルは基本的に放浪という変わり者だった。

 増岡が自宅にしばらく留まっていた頃、一家で招かれたことがある。白音がまだ高校生の頃だから、随分昔だ。


「……いや、元気じゃないのかな。旅写真じゃねえもんな」


 鋭児が顎の無精髭を触りながら、あまり愉快そうではない声を出す。


「若い頃からの、旅以外の写真ばっかりだ。仲間を撮ったのとか、家族を撮ったのとか……うっかり俺も写ってるし」


「ほんとに? 許可取ってるの、増岡さん」


「秋口くらいにメールで。他の仲間んとこにも連絡あったみたいだけど、居場所言わないんだよな。いつもそうだからあんまり気にしてなかった」


「……どこにいるのかな。案外、あのお家にいるのかもね」


 ぺら、とページがめくられる。あまり光沢のない紙、懐かしい色合いの印刷。そう、増岡の写真ってこんな色だった。白音は記憶を辿って微笑む。

 しばらくそのまま、一緒に写真集を見ていた。白音はさかさまからものを見てもある程度平気である。特に文字は、正位置でも逆位置でもほとんど変わりなく感覚できて、新聞も本もさかさまから読めるので、鋭児とはこの形で向かい合うことが昔から多い。写真はさすがに何が写っているかくらいしか分からないが、それでもこうしているのが好きだ。

 静かだった。時々あちらこちらで、雪の滑り落ちる音がする。だがそれだけだ。車も人も通らない。

 雪に埋もれた世界。

 ぺら、とページがめくられる。鋭児は全く自分のペースで進んでいく。

 やがてあるページが現われたところで、あ、と白音は声を漏らした。


「おお」


 鋭児も笑った。


「……青だ」


 増岡の家の庭で撮ったものらしい。見覚えのある飛行機が背景に見える。珍しいものだから、良く覚えている。


 ……違う。

 飛行機じゃない、問題は。

 その手前にいる青菊あおぎくだ。


 青菊は、だから、あの頃はまだ小学生だったはずだ。もちろん同じ家に住んでいた。毎日見ていたはずなのに、その写真の中からこちらを見る妹は何故か、酷く他人めいて感じられた。

 あの頃、腰まで伸ばしていた真っ直ぐな黒い髪。水色のワンピース。そう、見覚えがある。


「増岡ちゃんはこういうの上手いな。視線が上手い」


 そういう事じゃない、白音はさかさまになった妹を改めて見直す。ノースリーブのワンピース。これは白音とお揃いだったのだ、白音のは白かった。


 あたしはあの日、そのワンピースを着たくなかった。青菊とお揃いにはなりたくなかった。

 あの頃から。あんなに前から。

 ……あんな子供に、あたしは。


「覚えてない」


 半分本当で半分嘘だ。白音は眉間に軽く皺を寄せた。


「あの子、このとき怪我なんかしてたっけ……?」


「してたよ。左腕と右脚に」


「良く覚えてるね」


「あいつの怪我ん中じゃ一番派手だったからなあ」


 まだ細い子供の身体の、二の腕と手の甲に包帯が巻かれていた。鋭児の言う事が本当なら、脚も多分何か手当てのあとがあるのだろう。

 本当に、この怪我のことを覚えていない。

 増岡の家。庭。飛行機。バーベキュー。フィルムとプリントが詰まれた部屋。旅でくたびれ切ったノートと地図。そんな事は良く覚えているのに。


「外で暴れるタイプじゃないじゃん。何したのあの子。っていうか、あたしやばい? 忘れ過ぎ?」


「いや、お前には理由話してなかったからね」


 それはそれで意外だった。いや、嘘だ。意外だな、と言う方が家族としてはアリだと思ったから心の中で、そう言葉を並べただけのこと。

 当時もう、白音は青菊とあまり話をしなかった。

 でも、だからと言って。妹がこうも分かりやすい怪我をしていたのに、訳も訊かなければ覚えてもいないのか。そんなにも……見たくなかったのか。


「このちょっと前に、青菊ね、家出したの」


「え?」


「家出。まあ徒歩だし距離こそあんまりなかったけど、方向がいまいち安全じゃなくて、怪我した」


 何か。

 覚えているか。何か。白音は記憶を引き寄せる。あの日。あの日は。その直前は。

 ……思い出せない。

 同じ家で生きていたはずの妹のことが。

 全然、思い出せない。


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