「黒猫。ちょっと、いいか」

 ドックに顔を出した平賀博士は、黒猫に声をかけた。黒猫はすぐに立ち上がり、平賀博士の執務室へと付いて行く。ネットワーク経由で呼び出すことも出来るのだが、平賀博士はあまりそういうことをせず、大抵、こうして顔を見せに来る。

「例の、サクマミレニアムのことだがな」

「その件は、部長命令により、凍結されています」

「分かっている」

 黒猫は、小首を傾げた。

「なぜ、俺があの件にこだわるのかを、聞いておいてほしいと思ったんだ」

 平賀博士は無精髭を撫で、溜め息をついた。

「まあ、座れよ」

「はい」

 向かい合って座り、黒猫が平賀博士の言葉を待つ。

「緒方が、ヴォストークの設計データを持ち逃げしたときのことだ」

 黒猫の無機質な眼が、続きを待っている。平賀博士は少し言い澱み、やがて言葉を継いだ。

「そのデータは、俺が肌身離さず持ち歩いていた。奴は、俺の家に忍び込み、そのコピーを取ったんだ」

「はじめて知る知識です」

「そのとき、俺は眠っていた。何日も眠らず仕事をした後だったんだ」

「博士は、もう少しこまめに休養を取るべきだと考えます」

「そうだな。緒方は、眠っている間に、データをコピーした。俺の妻と娘は、物音で起きてきた」

 光の宿らぬ眼が、平賀博士を見つめている。その眼に、それがどういうことか分かるか、と問うた。黒猫は、分からないと答えた。

「緒方は、起きてきた俺の妻と娘を刺し殺した。叫び声も、二人が逃げようとする音にも、俺は気付かなかった」

「深く眠っていたのですね」

「朝、起きてみれば、二人は血の海の中で冷たくなっていた。猫だけが、どうしていいのか分からないような様子でうろうろしていた。分かるか。猫ですら、そうだったんだ。それなのに、俺は、ただ眠っていた」

「不可抗力であると考えます」

「俺は、そうは思っちゃいない。あれは、俺のせいなのだ。俺が、あのとき起きていれば。俺が、ヴォストークなど作らなければ」

 言って、今目の前にいる黒猫は、その研究の結晶であることを思い返した。

「いや、お前達がいてくれて、よかったと思っている。しかし、俺は、どうしても緒方を、そして自分を許すことが出来ないんだ」

「報復行為を、望んでおられるのですね」

「そうさ。いや、お前には、はっきりと言っておく。俺がお前達を作ったのは、俺のためさ。復讐や、報復。そういう俺の中の黒い気持ちがなければ、俺が研究をここまで煮詰め、実用化することはなく、お前達は今ここにはいなかっただろう」

 黒猫は、答えない。ただその黒目に、自嘲と後悔を浮かべた平賀博士を映している。

「つまらない話をしてしまったな。お前にとっては、面白くない話だった」

「なぜ、わたしにこの話を?」

「なぜだろう。こんな風に、お前に当たるつもりじゃなかったんだ。許してくれ。ただ、俺のことを話しておきたかっただけなんだ」

 黒猫は、無表情である。ただ、そっとその手を伸ばし、冷たい机の上で組まれた平賀博士の手に、自らのそれを重ねた。

「お前、人の気持ちが、分かるのか」

「いいえ。ただ、博士は人間であるために、その家族を大切に思っているということは、分かります」

 重ねて言うが、ヴォストークは、学習する。家族を大切に思うから、手を繋ぐ。それを黒猫は知っている。平賀博士が虚無と寂寞せきばくを感じていることを予想し、平賀博士がそれを求めていると考え、その欲求を和らげようとしたのかもしれない。そして、彼女が行ってきた学習のうちには、人がこのようなときにどうするかということも含まれていた。

「大丈夫よ。あなたのせいじゃない」

 視聴したテレビ番組か何かで、そういう台詞があったのだろう。それを、再生した。

 平賀博士はおもむろに声を上げ、涙をこぼした。彼の嗚咽が続く間、黒猫はずっとその手を握っていた。



 また、任務であった。政府の中で、企業に情報を与えている者があるということが発覚した。

 黒猫が単体で出動、三時間以内に内通者はこの世から消えた。一見普通のコートにしか見えぬ戦闘用のケプラー繊維製の衣服を纏った黒猫が帰営し、分析官に戦果報告をする。それを送信され続けていたデータと照合する作業をしている最中、黒猫が平賀博士を訪ねた。

「再起動は、済んだのか」

「いいえ。その前に、お聞きしたいことがあります」

 機巧の再起動とは、人間でいう睡眠にあたる。それを行うことで自律制御システムに蓄積された不要なログやキャッシュを消去すると共に、人工筋肉や代謝の修復を行う。任務の軽重に関わらず、帰営した場合必ずそれを行わなければならないが、黒猫は自分の意思で、それをする前に平賀博士のもとを訪れたのだ。

「なんだ」

「わたしが殺した標的。それにも、家族があったのでしょうか」

 平賀博士は、答えに窮した。事前調査によると、妻と三人の子供がいた。黒猫は、他の機巧よりも、人間というものに対する理解が深い。そして、その学習の幅は、未知である。もし、自らが殺害する標的にも家族があるということを気にするようになってしまえば、任務に障りが出るかもしれない。いや、おそらく、黒猫は、命じられた仕事は必ずこなすだろう。しかし、苦しむことになる。感情として苦しむというわけではないだろうが、許されぬ矛盾を抱え、その解消に戸惑いを覚えることは間違いないだろう。

「家族?確か、データでは、いないことになっていたが」

 と答えざるを得ない。

「そうですか。これより、再起動に入ります」

 黒猫は、退室した。彼女は無論、人は事実と異なることを口にすることがあるということも知っている。だが、平賀博士の言うことに偽りがあるとは、微塵も思っていないらしい。


 平賀博士は、また作業に戻った。

 今日死んだ標的の家族は、それが特公行の仕業であると何かで知ったら、黒猫を恨むのだろうか。その設計者である自分を、恨むのだろうか。緒方にも、家族がいる。妻と子があり、七年前の時点では両親も健在で、確か妹もいた。助手であった頃、甥が可愛くて、自分の子供そっちのけでサッカーをしたという話も聞いたことがある。自分が恨みを晴らした後、その者らは新たな恨みを、自分に向けるのだろうか。そんなことを、考えた。


 恨みや、憎しみが解消されたとしても、それらが消滅するということにはならない。バトンのように別の誰かに手渡され。更に大きなものとなって、返ってくる。そして自分が死ねば、今度は黒猫がその報復をするかもしれない。そうして、どんどん、増殖してゆくのだ。まるで、たちの悪い病原菌のように。

 平賀博士が作ってきたのは、そういう道具である。そのことに、人生を懸けてきた。無論、はじめは、純粋な動機だった。このいびつな世を正し、人が安寧のもとで暮らすことが出来るようになるための技術であると信じていた。しかし、それが現実のものとなったとき、彼女らがもたらしたのは、血の雨であった。それはときに赤く、ときに白かった。恨みや憎しみの色も、そのようなものなのであろうか、と思った。少なくとも、平賀博士の中にあるそれは、あの日見た血だまりの色をしていた。

 それとは別に、彼の娘が可愛がっていた猫は、黒い色をしていた。



 システムリカバー

 再起動 待機中

 人工筋肉損傷:三パーセント

 代謝機能:良好

 再起動完了想定時刻:〇三三七

 自律制御システム終了待機中

 ログデータ選択中

 保存:九二パーセント

 破棄:八パーセント

 キャッシュ消去



 ——嘘つき。

 どうして、嘘をつくのか、分からない。

 だけど、これは、博士が選んだ嘘。

 怖がらないで。

 大丈夫よ。あなたのせいじゃない。

 おやすみなさい。

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