ただそこにあるだけの

「……ユリ?」メルトは目を見開いて呟く。

「あなたは、そんなことしなくていい」


メルトを腕の中に抱く花さんの口調は、どこまでも優しい。


「あなたは普通の女の子になれる。あなたのお母さんが――そしてお父さんが望んだことは、きっとこと」

「普通に……?」

「わたしはやっぱり普通になれないけど、何を普通と呼ぶかは、小春が教えてくれた。弱くて、迷って、本当の心と反対に身体が動いてしまう人たち。やるべきことを理解していても、思考はバラバラで、自分一人のことさえままならない」

「……」

「あなたには、予測不可能な世界を生きて欲しいの――普通に。そして、幸せに。これまで水槽の中で失ってきた分もぜんぶ。いまから始まるんだから、は背負っちゃだめ」


僕は、花さんが言葉を紡ぎながら、ゆっくりとメルトから【フレーバー】を吸収していることに気が付いた。それは水仙による強制的な強奪とはまったく異なる、優しさと慈しみに満ちたものだった。


「花さん、って……まさか」


僕に視線を向けて、花さんは微笑んだ。


「ええ。六郷家の血筋が必要とされるのは、【トップ】で世界を形作るところまで。ひとたび世界のかたちが定まりさえすれば、最後に足りないフレーバーを補うは誰でもいい」


百合崎花は、穏やかに宣言する。



昔から、わたしは人間より【神】の方が向いてると思ってて。適材適所って奴です。花さんはいたずらっぽくそう続ける。


「世界の仕組み、あるものがそのように在る理由、人々が世界の上に描くもの――わたしはそれが知りたい。わたしは何時いつでもおもしろいものに飢えていて、そのためなら何でもしてきました。でも、六郷家の【完結】は……せっかくの画用紙を黒く塗り潰してしまう。そんなのはごめんです。だから、わたしは――」

「花さん……」

「わたしは、ただそこにあるだけの存在かみとして、世界を見守り続けたい」


すべての決意を乗り越えた彼女に、正面から小春が割り込んだ。


「ちょっと……ちょっと待って!」


小春は必死に想いを伝える。やっと追いついたのに。やっと繋がったと思ったのに。


「あたしと生きてよ、お姉ちゃん!」

「小春は強くて優しいから。もう、わたしから解放されなくちゃだめ」

「そ……そんなの……!」

「小春、わたしの妹でいてくれてありがとう」


それは百合崎小春が、その生涯をかけて求めた言葉だった。


小春の眼から涙がみるみる溢れ――少女は、その場に崩れ落ちる。


花さんは再び僕に目を向けた。


「……六郷さん、もしわたしが間違えたら、あなたがぜんぶ無くしてください」

「【ボトム】を……使って?」


花さんは頷く。


対になるのは創造と消失。


「そして反対に、あなたが血に抗えず、六郷として世界を【完結】させるようなら――わたしがそれを止める」

「もう、僕は誰もいない世界を神に願ったりしない」

「そんなもの願うまでもないですよ、六郷さん」


百合崎花は、確信に満ちた声色で僕に告げた。


「わたしたちは元々、誰もいない世界に住んでいるんです。誰もあなたを傷付けないし、誰もあなたを救わない。あなたは最初から永遠に――頭蓋の中でひとりきり。それを思い出してください」

「そんなふうには……思えないよ」


花さんはくすくすと笑って立ち上がる。その身体は【フレーバー】に――神々しい光に満ちている。


「じゃあ、からあなたにアドバイス。願うだけでなく――を、守り続けてください」


百合崎花はいつものように笑うと、控えめに手を振りながら光の中に消えた。

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