世界の創造を

黒い影を中心として、地面は既に【ボトム】の黒い沼に覆い尽くされている。


だから僕と花さんは、宙空に浮かぶ【ダウン】の足場を踏みながら影に向かって駆けてゆく。小春はメルトを守る役目に集中しているため、僕たちを黒い影に導く【ダウン】の足場は小春ではなく、僕が作ったものだ。


影に近付くにつれて、眼下に広がる黒い沼の動きが活発になる。


「――来ます」


花さんが小さく告げる。


次の瞬間、沼から噴出する【ボトム】が弧を描いて僕たちを襲撃した。


「――わっ!」

「足場、頼みますね。出しすぎくらいで」


そう告げると、花さんは【ダウン】の足場を乗り継ぎながら、ピストルの形を作った両手を交差させた。そして指先に宿した【チャーム】の輝きを光線にして、四方八方に放つ。襲いかかって来た波はずたずたに切り裂かれて沼に落下していく。沼はと蠢いた。


僕はダメ押しのつもりで、二周りほど大きめの【チャーム】の光弾を生成して沼に打ち込む。【ボトム】の黒は弾け、その場所だけ地面が顕になった。


「両属性【フレーバー】、便利ですね」

「効いてるのかどうか」

「少しでも効かせるには、やっぱりを狙いましょう」


【ボトム】の侵食を弾き返しながら【ダウン】の足場を渡ってゆく僕らの眼前に、次第に黒い人影が見えてくる。


トン、と軽い音を立てて花さんは影に飛び込んでいく。瞬時、彼女は身体の周囲に無数の【チャーム】の光球を生成して、それを影の頭部と思われる箇所に向けて一直線に打ち出す。


連続して打ち込まれる【チャーム】の光弾は、鈍い水音とともに人影の形を崩壊させた。


――が、花さんの身体はそのまま沼に向かって落下していく。


慌てて僕は彼女の進路上に【ダウン】の足場を形成してやる。花さんはそれが予めわかっていたかのように、自然な流れで足場を蹴って跳躍した。彼女がストンと僕の隣に帰ってきたときには、僕の心臓は早鐘のように脈動していた。


「あっぶな……めちゃくちゃですよ」

「これくらいじゃないと」


花さんの攻撃によって爆散された黒い影はやはり、ゆるゆると元の形を取り戻していく。


その様子を見て、僕はひとつの着想に至る。


「――内側から攻撃できないかな」

「内側から?」

「はい。花さんはできるだけ大きな【チャーム】を打ち込んでください」

「それだけ?」

「あとは僕が」


それを聞いて、花さんの瞳には理解の色が浮かぶ。いたずらっぽく笑うと、両手を挙げて頭上に巨大な【チャーム】の光球を作った。その光は夜の闇を照らし尽くすかに思われた。


「――じゃ、行きます」


質量を取り戻した沼の中心部に向かって、花さんはその光を打ち下ろす。僕はその光を追って跳躍すると――【チャーム】の光球を黒いで包む。【ボトム】のフレーバーを纏わせたのだ。


その黒球は思ったとおり、影にと飲み込まれてしまう。


それを目視して――僕は【ボトム】を解除した。


――爆発。


影の体内に取り込まれた【チャーム】は、その中心部で破壊の力を開放したのだった。これまでとは比べ物にならないほどの轟音が鳴り響き、【ボトム】が吹き飛ばされて地面が露出する。


【ボトム】が消え去った地上に、沼から切り離された黒い人影が立っている。


僕は、そこに降り立った。


影はゆらと揺れると、父親の声を使って無感情な音を漏らした。


「どこまでも無駄なことを。人の時間を長く生きすぎたか」

「長期的に見ると……無駄かも知れない。世界の【完結】は、未来永劫、果てのない先まで見れば避けられない事かも知れない。でも」

「……」

「いずれなるからという理由で何もしないのは、どうせいつか死ぬからと、自ら生を放棄することと同じだ」


最後はそこに至ることが避けられないのだとしても。抵抗することに、何か、かけがえのないものが宿り得る。それが何かはわからないけれど。


僕は右手に【ボトム】の闇をまとわせる。それは人影と同じ、夜の闇より暗い色。


「……もうよい。私が消えようと、お前が消えようと、六郷われわれの完結は止まらぬ」


六郷の【完結】は、死という過程を飛ばして結果だけをもたらす。そこに何の意味がある?……何もない。価値も目的も意味もなく、ひとの眼前にただ静寂の無をぶちまける。


死ぬのが怖いのではない。肉体の破壊は、無という結果に至るための過程に過ぎない。


僕は【ボトム】を帯びた右手で、僕よりも一回り背の高い、人影の胸部を貫く。僕の腕は当然のようにと影を貫通する。


――【ボトム】と僕の自我が一体化していく。


それは一度、先生を飲み込んだときに経験したことだ。である僕が、この影と同一存在であるのならば。【完結】に至る力を持つのであれば。こうして同化した上で、世界の【完結】を否定すればいい。


何もできなくなることが、何も感じられなくなることが怖い。僕は孤独な世界を望みながら、無を恐れていたのだ。


六郷ぼくたちがそういう存在だとしても……他に生き方はあるだろ」


娘を守るために世界を作り出した、ゆかり姉ちゃんのように。あの人はきっと、死ぬことすら怖くなかったに違いない。


――その時。頭の中にメルトの声が響く。


『――準備、できました。


かつて【ハイゼンベルク】の施設で経験した、メルトの【神の眼】と、脳内に直接語りかけてくる彼女の声。その通信手段が確立されたこと自体が、彼女が十分な【フレーバー】を集めて力を取り戻したことを示していた。


僕は上空にいる花さんを見上げる。二人は顔を見合わせて頷きあう。


「頼む」



◆◆◆◆◆



小春は【ダウン】の黒盾を駆使して、メルトを守り続けていた。メルトはひざまずいて地面に手を当てている。


メルトは目を閉じて、目に見えないものを――【リバース】の残骸を感じ取り、引き寄せ、彼女自身のフレーバーとして同化させていった。もともと平行世界リバースを形作っていたのは、六郷ゆかり、すなわちメルトの母の【トップ】フレーバーであった。だからメルトにとって、この行為は母親の存在した証を世界の隅々から集めることに等しい。


(お母さん……)


これまでずっと触れてきたものを確認するように。繋がりを確かめるように。


ゆっくりと、メルトは六郷ゆかりの残滓を収集した。母が世界中に散布した白黒の世界を、他ならぬ彼女自身を守るために想像した薄皮一枚の世界を、メルトは泣きそうになりながら集めていった。


どれくらいの時間が経過しただろうか。


彼女の手の中には、溢れんばかりの【トップ】の力が満ちていた。


「どう?メルト」小春が尋ねる。

「……うん、あちこちに漂ってた。だいたい、集められたと思う」


小春にそう答えると、長年慣れ親しんできたフレーバーによる「通信」で、メルトは夜介たちに状況を知らせる。


『――準備、できました。

「頼む」夜介が答える。

『はい。――世界の創造を』


次の瞬間、白い光が視界を覆い尽くした。



◆◆◆◆◆



メルトの【トップ】が放つ白い光は、世界の隅々まで広がってゆく。光は、そのまま世界の形を成していた。世界の在り方をコピーして、六郷宗弦の【ボトム】が侵した地表のすべてを、白い光で覆い尽くしていった。


目の前の黒い影が完全に覆い尽くされたことを確認すると、僕と花さんはメルトたちのもとに戻った。


「すっご……」と小春。

「……やったのか?」僕も小春に続けて呟く。


視界を覆う真っ白な光に目を細めながらメルトの隣に身を屈め、彼女の答えを待つ。


だが、メルトは深刻な顔で首を横に振った。


「足りないみたい」

「……足りない?」

「集めた【フレーバー】だけじゃ、足りない」


その言葉には確信と絶望が詰め込まれていた。そして同時に、一握りの覚悟も。


白い世界の中で、メルトは瞳に決意を宿らせる。


「……お母さんと、同じようにしないと」


メルトの呟きは白い空間に落とされた波紋のように広がった。それに呼応するように、メルトの身体がその芯から白光を放ち始める。


――ゆかり姉ちゃんと同じこと。


それはすなわち、メルトがその生命を賭して【トップ】で創造した世界と同化することを意味する。並行世界そのものであり、神に等しい存在となること。だがそれは同時に、メルト自身が一人の人間として――両親からその名を与えられた「比良坂みのり」としての人格を、失うことに他ならなかった。


僕はメルトの考えを理解した瞬間、彼女に向かって手を伸ばしていた。


「待て、何か他に――」


その手が彼女の肩に触れるよりも速く。


花さんがメルトの身体を抱き締めていた。

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