妹がわたしのところに来てくれる

夕日の白が、痛いほどに瞳を射し貫いている。白塗りの太陽の断末魔を遮って、ユリと水仙、ふたつの黒い影が地面に墜落する。接地の刹那、白い光が強く輝いて、六郷家の庭土は轟音を立てて爆散した。


白い光は【アップ】の打撃によるものか、【チャーム】の光球によるものか――その答えは、土埃の中から立ち上がる人物の姿が教えてくれた。


「……」


百合崎花はゆっくりと立ち上がると、髪をかきあげて、ふぅ、と息をつく。土に伏せて微動だにしない身体は、上等なスーツを土と血で汚した水仙のものだ。


フレーバーを用いた戦闘における鉄則は、防御の要でありサポート性能の高い【ダウン】を先に潰すことである。実際に小春アザレアは過去の戦闘においても、常に敵からの攻撃を一身に受け続けていた。何があってもこと。それが、守り手の矜持であった。


ひるがえって、防御を任せられる小春が健在であれば、水仙が自分自身で身を守ろうとする意識がわずかに弱くなる。ユリがあえて【ダウン】を先に潰すという定石を避け混戦を続けていたのは、最も戦闘に長けており、最も経験が豊富で、ユリに迫る速度を誇り、そして何より場をリードする能力を有する水仙を先に仕留めるための布石であった。


小春の黒い瞳は水仙ではなく、姉の表情に向けられている。ギリ、と制服のスカートを握りしめて、


「お姉ちゃん……また、そうやって」

「だって、おもしろくないから」


瞬間、小春の眼に焦るような――今にも泣き出しそうな感情が浮かんだかと思うと、すぐに怒りで覆い隠された。それは仲間を倒されたこと自体に対するものではなく、姉を止められない己の無力への苛立ちに感じられた。


ユリは二人を牽制するように、軽く地面を蹴って距離を取る。ゆらゆらと生み出された光球たちは、それら自体が意思を持つように、一定の間隔を開けて空間に鎮座する。彼女は数の減らされた「パンくず」を再び展開し始めていた。


戦闘続行、ということだ。


「六郷さん」


その呼びかけには底冷えするような冷酷が含まれていた。ピクリ、と夜介の身体が震える。


「あなたもあなたです。その【ボトム】の黒い波……確かに強力ですけど、馬鹿の一つ覚えみたいにずーっとそればかりだと――、ね」

「それは……」

「ゲーム風に言えば……新しい武器をゲットしたら、戦術も相性も二の次でひたすら【たたかう】を連打しちゃうタイプ、ですかね」


ニコニコと笑みを浮かべているが、夜介に向けられるその言葉には今や彼女の深淵が見え隠れしていた。あまりに暗い輝きの中に、一体、何を投げ込めば届くというのだろうか。


海の中。立ち泳ぎしながら底の見えない海溝を覗き込んでいるような錯覚を覚え始めた夜介に、そっと小春の声が届く。


「……夜介、聞いて」


夜介は、眼球だけ動かして小春を確認する。彼女は目線をユリから離さずに、夜介のすぐ隣まで接近していた。


ユリは遠巻きに二人を眺めている。その表情には、最大の脅威である水仙を制圧したあとの余裕が見て取れた。あるいは、次に妹がどう動こうとするのか、楽しみにしているようにも見える。


「夜介、あの黒いやつ、どこでも出せるの?」

「……たぶん。どうして?」

「お願いがある。まともにやってもお姉ちゃんには勝てないから、だから……」


小春は、夜介に何かを耳打ちする。夜介の表情には、驚き、というよりも、不可解が浮かんだ。


「でも、それじゃ、小春が……」

「かも知れない。でも夜介、お姉ちゃんにやっぱり遠慮してるでしょ。賭けるよ」

「……賭けって、花さんの行動に、ってことじゃないか。本当にうまくいくと?」

「【ダウン】で自分の身は守るから。それに、お姉ちゃんのこと、信じてるし」

「……」

「あれで、けっこう優しいんだよ」


あれで? 百合崎花がやってきたことを間近で見ながらそんなことが言えるこの少女の精神力に、夜介はほとんど目眩がするような心持ちだった。


夜介の無言から何かを感じ取ったのか、小春はと笑ってみせる。その笑顔にはたしかに、百合崎花と百合崎小春、ふたりは姉妹なのだと再確認させられる輝きが宿っていた。


迷いを飲み込んで夜介が小春に頷くと、小春も頷き返す。


二人が会話する間、ユリは、手遊びのようなものだろうか、お手玉のように両手を使いながら【チャーム】の光球をくるくると周回させていた。夜介たちの様子に気が付くと、それを止めて笑いかける。


「あら……相談、おわり?」

「待っててくれたんですか。んですね」

「あはは」


あてこすりのように小春の言葉をそのまま投げかけた夜介に、ユリは屈託なく笑った。


「そんなことないですよ。単純に、こっちの方がおもしろそうだからです」

「そして、花さんのやるべきことだから、ですか」

「ええ」

「やっぱり、小春が言っていた通りです。花さん、あなたは何もわかっていないって」

「……どういうこと?」


ユリは、怪訝そうに眉をひそめる。


――言葉に意味などない。意味も理由も価値すらなくて、勝算もなければ戦略もない。夜介は、必死に考えていた。その場でひたすらに考えて、小春のを成功させる下地を何とか作ろうと、もがいていた。


何を語っても説得できない。

どうあがいても倒せるわけがない。


ハイゼンベルクの地下で行われた戦闘で、夜介の【フレーバー】は彼女に打ち勝つことが出来なかった。過去の百合崎花の戦闘スキルは、確かにメルトの「スピードラーニング」によって夜介の中に流し込まれている。だが結局のところ、それでは彼女と互角になれはしても、超えることはできない。

さらに現在の彼女は思考を光速に加速することで、昨晩よりも格段に性能が向上していると考えていい。


どうあがいても倒せるわけがない――そう、である限りは。


恐ろしく速い彼女の思考は、いまや、恐ろしい速さで結論に達する。ならばではどうか? 投げかけた問いが彼女の光の思考に内省を生み、疑惑を生み、迷いを生んでくれて――判断が、たとえ数刻でも遅れてくれさえすれば。


夜介は、言葉を手繰り寄せる。


「どうして、小春は何度殺されそうになっても、花さんを追いかけるんだと思いますか?」

「小春は、わたしが好きだから」


何の迷いもなくユリはそう答える。そこには照れも強がりも嫌味もなく、ただ事実を告げる温度のみがある。


「じゃあ、花さんは?」

「わたしももちろん、小春が好きよ」

「……だとすれば、やるべきこと、なんてものに囚われちゃだめです」

「やるべきことをやるだけ、ですよ。六郷さん。……わかんないな。そうじゃなきゃ、人生には何にもなくなっちゃうんです」

「あなたはで、自分自身を縛ってる!」


夜介はそう吐き捨てると、ユリに向かって走り出していた。頃合いだろう。夜介はあらん限りの【チャーム】の光弾を生成して撃ち込む。防御はしない。夜介自身が【ダウン】を使って防御してしまうと、からだ。


「ひとつ覚えを指摘されたら、次はそっちチャームですか」


ユリは低く呟くと、身構えることもなく【チャーム】を操り、悠然と夜介の光弾を迎撃する。眼の前に迫りくる、殺し合いというシンプルな答えに縋り付くように。


夜介にできるのは、問いかけという形で一粒の種を投げ込むことだけだった。その後の行動は場を動かすための起爆剤に過ぎない。だが、夜介が投げ込むは、もう一つある。


「――いけ!」


夜介の掛け声とともに、小春の足元の地面から、リバースティック・エフェクトの黒い波が噴出する。その斬撃は小春の身体を切り裂く――ことなく、セーラー服の小さな身体を空中へ――ユリの方へと、投げ飛ばした。


小春が地面に隠して足元に展開していた、【ダウン】のが、夜介の【ボトム】による破壊を防いだためだ。マンホールの上に立っていたら、水がすごい勢いで吹き出して飛ばされてしまうような形である。その噴出は垂直ではなく鋭角を描いており、結果、小春の身体は大砲に打ち出されたように、かなりの勢いで宙を舞った。小春は体勢を整えようとして、あわあわと宙を掻く。


ユリは予想外の事態にその瞳を丸くする。


「え?」


夜介は、放物線を描いて飛んでいく小春を目視する。うまくいった。ユリを正面に見据えながら、絶妙な角度と速度であの波を出現させる自信はなかったが、成功したようだった。


と、違和感。夜介は、ユリに向かって飛んでいく小春が剥き出しの生身であることに気が付く。すなわち【ダウン】の盾を、展開していない。


――【ダウン】で自分の身は守るから。


「あいつ、バカな嘘を……!」



◆◆◆◆◆



百合崎花は――ほんの一瞬、躊躇した。


天才は、光の速さで思考した。やるべきことをやることが、真に自身のやるべきことなのか。トートロジーのような無為の思考が、ユリの行動を静止させる。


ゆっくり、ゆっくりと近付いてくる妹の瞳を、ユリはまっすぐに見据える。そうだ。こはるはいつもまっすぐだった。


小春は、わたしのことが好き。それはユリにとって、地球の公転周期のように明らかな事実である。そしてユリ自身にとっても、小春は大好きな妹であることに変わりがない。愛していると言ってもいい。ハイゼンベルクの施設で、小春が死んでも愛していると、そう語った気持ちは嘘じゃない。


いいじゃない。愛して、愛されている。それに何の問題があるの?


それでも、ユリの思考は回り続ける。


――小春はどうしてわたしを愛してくれるのか? 何か一つでも姉らしいこと、したことあったっけ?


彼女は光の速さで過去の記憶を検索した。そこに見つかるのはいつも、小春のまっすぐな喜怒哀楽の表情であった。笑い、怒り、泣き、そして悲しんでいた。妹の悲しみは寂しさから生じていた。小春はいつでもユリのことを見ていた。


そんな彼女を見て、だからこそ、ユリは妹のことを愛しいと思ったのだろうか。


愛情を注がれた相手に愛情を返すことが、だから。


(じゃあ、わたしの感情は……)


ぞくりと身震いする。ユリは、夜の雪原にひとりで立っているような気持ちになる。とても寂しい。そうか、これが、寂しいということか。こんな想いを抱えながら、小春はわたしを求め続けた。


ユリは、自らが妹に無条件に愛されているという事実が、とても深いところで彼女自身を支えていたことを理解する。そして、ユリ自身も他人こはるを愛することができるという自己認識によって、極めて危ういところで精神のバランスを保っていたことを。


いま――ユリが、小春を愛しいと思う気持ち。それがだから生まれたものではないか、という疑念。わたしは妹を、真に愛していないのではないか。真に? そんな証明も推論もできない薄氷の上を、わたしはずっと歩いて来たというのか。それが正しいことだと信じて。


自我形成の根幹においてということを、百合崎花は初めて経験していた。彼女は、まるでぽっかりと黒い穴に飲み込まれていくような気がした。


どうしてあの子が、わたしの妹として生まれたのだろう? わたしのような異常をふつうの姉として愛し続けてくれる、そんな存在が。もちろんそこに理由はない。冷静な思考が光の速さで結論を導き出す。でも、彼女の思考はずっと「どうして?」と自分自身に問いかけ続けていた。


――迷いは、知性が最適解を決められないことで発生する思考のバグだ。


ユリは自身にそう言い聞かせて生きてきた。これまで迷うことのなかった天才は、それ故に、他ならぬ「迷い」という新しい感情の芽生えをうまく処理できなかったのだ。


「……?」


百合崎花は手のひらを見つめて硬直した。彼女にとって【フレーバー】を扱うことは心臓を動かすほどに容易であった。その彼女がいま、自分自身の手のひらの存在に初めて気が付いた赤子のように戸惑っている。迷子になってしまっている。これまでの人生で欠けることのなかった天才は、迷いに、欠落に、不可能に、対処するすべを知らなかった。


いずれ彼女は学ぶだろう。だが、それは今ではない。


その口から、呟きが漏れる。


「あれ?おかしいな……」


そうして、眩しいものを仰ぎ見るように顔を上げる。停止するユリのもとへ、小春の身体が放り投げられてくる。敵意も何もなく、ただ、妹がわたしのところに来てくれる。その途方もない意味を、理由を、価値を、百合崎花は生まれて初めて理解した。


そこでユリが取った行動は、妹に向かって両手を伸ばす、というものだった。その手は【チャーム】の光球を撃ち出そうとしていたのか、それとも妹を抱きとめるためのものだったのか。


真実は、地面から斬り上がる黒に阻まれてわからない。


――夜介によるリバースティック・エフェクトの斬撃が、



◆◆◆◆◆



小春の身体は投げ飛ばされたままの起動を描き、物理法則に従ってユリに思い切りぶつかった。両腕を失った百合崎花は、何の抵抗もなく少女の身体をその肉で受け止める。姉妹は二人、砕けた地面に倒れ込んだ。


攻撃をその身に受けたユリよりも、強く驚愕を浮かべていたのは夜介自身だった。


「僕は、小春を……」


助けようと。……夜介はふらふらと、重なり合って倒れる二人に近付いていく。


ユリはとした表情で夜に近付く空を見上げていたが、ちらと夜介に目を留めて、軽く手を上げようとする。そして今更そこに腕がないことに気が付いたように、困った顔で少し笑った。


「ちょっと、わかんなくなっちゃいました」


彼女は破壊されることでしか止まらないだろうと、頭のどこかでわかっていた。

それでも、夜介は眼の前の現実を、自らのことを否定するように首を振る。


「すみません、花さん……。メルトを連れてきます。それまで我慢してください」

「……我慢、嫌いなんです」


笑顔でありながら、ユリの返答はどこまでも冷たい。


「おもしろくなさそうですから」


周囲に【チャーム】の光球が浮かぶ。これほどの力を、まだ――


「――終わりますね」


と、ユリは自身の頭部に向けて光球を発射した。その白い破壊は彼女自身の生命を――


「だめ」


――彼女自身の生命を粉砕する直前、ユリの光球たちは宙に溶けるように消失する。


【ダウン】によるフレーバーの弱化。ユリの胸にしがみついた小春が、顔をうずめたまま【ダウン】を発動していた。その表情を窺い知ることはできない。


「……小春。邪魔しないで」

「だめ」

「離しなさい。すぐ終わるから」

「……だめ。お姉ちゃんはもう、何も決めちゃダメ」

「何を、言ってるの」


ユリの声が揺らぐ。


「何が天才よ……お姉ちゃん、ほんとバカじゃないの。大事なことなんて、何もわかってないくせに」

「……」

「わかってないくせにどうでもよくなって、勝手に死ぬとかバカじゃないの。教えてあげるから、一緒にいてよ」


百合崎花は、その存在しない手で優しく包み込むように、妹の心臓の音を聞いている。


「ふふ……そっか。なんにもわかんない。可愛いね、小春」

「うるさい」



◆◆◆◆◆



わたしも怪我をすれば血が出るし、誰かに打ち負かされたら傷付くのだし、何か悲しいことがあれば、泣いたりもする。


わたしは小春の体温を感じながら、白い夜空を眺めている。悲しいわけではない。それでも小春の体温と同じくらい暖かな体液が、理由もわからないままに、わたしの瞳から溢れ続けていた。


――ぜんぶわかってしまったと思ったのに、わからないことばっかり。


それは百合崎花の記憶にある限り、初めての涙であった。

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