──果たして。


 同棲を始めてから初めて入る彼女の部屋は、異様なまでに片付いていた。

 それはもう、人が一人この部屋で生活をしているなんて、到底思えないくらいに。


 胸騒ぎがした。


 見える範囲に彼女の私物らしい私物はひとつもない。どころか埃ひとつ、髪の毛ひとつすら見当たらず──まるで、意図してここに居た痕跡ごと消してしまったかのようで。

 じゃあ、掃除機をかけてほしいと言った、あれは一体何を意味しているんだ?


 僕はクローゼットを開け放った。中身は分かり切っていたが、それでもそうせずにはいられなかった。──もちろん、あれだけ収納が足りないと言っていた彼女の服はそこにはなく、空虚だけが詰め込まれていた。



 いつの間に運び出した? ──いや、そんなことはどうでもいい。一体彼女はどこへ消えた? なぜ突然、僕に一言も告げることなく? 一体どうして?



 渦巻くそんな疑問符たちと、目の前に在る非現実的なくらいに小綺麗な部屋だけが、事実だけを雄弁に物語っている。当たり前に存在していたものにパッと手を離されたかのような、そんな現実感のない絶望が、緩やかに僕の首を絞めてゆくのを感じていた。──圧倒的な現実感を伴って事を認識してしまうまでの、執行猶予のように。


 なんで、どうして、と形骸化した疑問が僕の脳内を占拠するが、最早思考力などはたらいておらず、噴き出す厭な汗と早鐘を打つ心臓を、僕はどこか他人事のように眺めていた。ただ、あぁやっぱりね、こうなる気はしてたんだよ──と言うにはもう、あまりにも永遠を確信し過ぎていた。


 また訪れる終わりが怖かった。だから、あれだけ慎重に信じた。二度とあの絶望を味わいたくなくて、何重にも予防線を張って、それでもあの日確信を得たから、彼女が永遠を誓ってくれたから、だから僕はやっとこの幸せに身を委ねた。


 それなのに。


 誤魔化しきれなくなった心に、現実がじわじわと浸透していくのを感じていた。それなのにやはり全てがどこか他人事めいていて、呆然と立ち尽くす僕をもう一人の僕が呆然と見つめているような気分だった。そしてもう一人の僕は、虚ろな目で囁くのだ。──「彼女が去るなんて、そんなことある筈ないだろ。悪い冗談に決まってるじゃないか、帰ってきたら悪趣味だと叱ってやれよ」と。


 ……そうだ。きっとこれはタチの悪い冗談なのだ。そうに決まっている。あぁそうか、きっと彼女の残業は泊まり込みのそれなのだ。そして明日の夜には何事もなかったかのように帰ってきて、あのいたずらっぽい笑顔でこう言うのだ。「ふふ、びっくりした? ごめんね、晃くんのこと、からかってみたくなっちゃった」と。


 だって、そうじゃなきゃおかしい。僕らはお互いにお互いしかいないのだ。彼女が僕のもとから去るだなんて、そんなことがある筈がない。有り得ないのだ。──そうだ、それなら、帰ってくる彼女の為に掃除をしなければ。



 僕は押し入れから掃除機を取り出すと、それを持って彼女の部屋に戻った。コンセントがあるのは部屋の奥なので、その厭に片付いた部屋に踏み込む。


 きっと、彼女はまだ永遠を信じられてないのだ。だから、僕を試したのだ。なんだ、可愛いじゃないか、それなら僕も帰ってきた彼女を「戻ってきてくれるって信じてたよ」と抱きしめてやらなきゃいけないな──。



 ──と。


 彼女の部屋の奥、置かれたシンプルな書き物机に。

 僕は、一枚の白い紙を見つけた。


 ──手紙だった。


 心は虚無で満ちていたのに、いざその手紙を手に取ろうとすると、身体が自分のものではなくなったかよように震えが止まらなかった。何度も紙を取り落とし、皺だらけにしてしまいながら──僕はやっとのことで、手紙を、手に取った。




『晃くん


 ろくな別れの挨拶もせず、突然いなくなってごめんなさい。私物は何も残していないつもりですが、もし何か残っていれば処分してくれて構いません。


 本題から言います。

 ごめんなさい、晃くん。私は、一人で生きてゆくことにしました。


 これから酷いことを書きます。でもそれは、晃くんもそうかもしれないと思ったから書くのです。晃くんには本当に酷いことをしている自覚はありますが、どうか、読んでやってください。


 私はきっと、勘違いをしていました。きっと、晃くんも、勘違いをしています。私は、晃くんの前の彼氏に振られて、彼のことがいつまで経っても忘れられなくて、自分の恋愛感情がどうしようもなく重いものなのだと思いました。晃くんもそう思っていることでしょう。


 ですが、違うのです。


 私たちは恋愛感情が重いのではありません。──ただ、一生愛する相手に出会ってしまっただけで、そして、互いにその相手が食い違っていた、それだけのことだったのです。


 晃くんは、初恋の相手が私だと言いましたね。そして、その後他の誰かを好きになることはなかったと。それならば気付かないのは当然のことです。初恋の相手が、陳腐な言い方ですが、運命の相手だったのです。晃くんは、ただのレアケースです。


 私の運命の相手は、恐らく、晃くんの前の彼氏だったのだと思います。そして、高校時代の悪癖で、晃くんでその寂しさを埋めようとしてしまいました。それがどんなに残酷なことか、今なら分かります。本当にごめんなさい。


 でも、だからこそです。私もまた、運命の相手に──元彼に出会ってしまっていたからこそ、このまま晃くんの隣にいるのは、とんでもなく不誠実なことだと思いました。


 元彼の運命の相手は私ではありませんでした。それでも、私は、あんなに晃くんに優しさを貰って尚も、私の運命の相手は、一生一方的に重く重く愛し続けてしまう相手は、元彼なのです。だから私は、数年前の晃くんと同じ選択を──誰も愛さず、誰にも愛されず、一人で、独りで生きてゆく選択を、するのです。


 最後にもう一度、本当にごめんなさい。そして、晃くんに応えられはしないけれど、私を運命の相手としてくれて、一生愛し続けてしまう相手としてくれて、ありがとう。


 どこまでも同類である貴方に、どうか幸あれ。


如月瑠美』





 ──────どうやらこれは、冗談とか、そういう類のものではないらしい。



 そう認識するのと、僕の一切の思考が停止するのと、殆ど同時だった。


 脳が溶けるような感覚に襲われた。

 ああ、防衛本能だな、と、ぼんやり考えた。



 最後に残された理性で、僕は一本の電話をかけた。バイト先に、今日限りで辞めるとの旨を伝えた。理由を問われる前に、僕は電話を切った。

 長くは保たないと分かっていた。



 立っているのが突然とてもしんどいことに感じられて、僕はその場に座り込んだ。


 僅かに残された、彼女の匂いがふわりと香った。


 ────それが、防衛本能を喰い破った。


 ああ、残酷だ。残酷だとも。一度彼女を忘れる為に何年かけたと思った? 不健全なりにもあの処世術を確立するのに、完全に心を閉ざしてしまうのに、一体何年かかったと思った? それをあっさり壊して、あの頃ですら信じなかった永遠を信じさせて、それが、ああ、どんなに残酷なことか彼女は分かっているのか。そして、最後にこんなに誠実であることの残酷さが、彼女を責め立てることすら出来ない残酷さが、分かっているのか。


 どうしてもう一度僕の前に現れた。どうして、せめて信じ切る前に去ってくれなかった。高校時代の悪女っぷりが嘘のようにしおらしい文面も、誠実すぎて胸が痛い言葉たちも、最後の署名に氷川ではなく如月と書くところも、全部、全部、全部────嫌いだ、大嫌いだ永遠に愛している


 何もかもが唐突過ぎたし、そんな素振りは微塵も感じられなかった。それを僕が察知出来るくらい彼女のことを見ていられたなら、或いは彼女は僕で妥協してくれただろうか? 不誠実だろうとなんだろうと、僕のとなりにただ居てくれただろうか? なぁ、どうして代替品でも僕を選んでくれなかった。何が悪かった。心当たりなんてありすぎて分からないんだ、後学の為に教えてくれよ。一生活かされることのない後学の為に。



 なんでだよ。僕は彼女に誠実さなんて求めた覚えは一切合切ありはしないんだ。



 ただ、一緒に居てくれたなら──それだけで、良かったのに。




 どうして。





 彼女がどんな去り方をしたにしろ、彼女を責めることなど出来はしなかったと分かっていた。

 全て許せてしまうことも、分かっていた。


 それは、彼女が、彼女の元彼氏を想ってここを去ったのと、全く同じことなのだから。




 ただ、どうしても一言だけ彼女に言うとしたら──



 ──この痛みをもう一度二度も味わうならば僕と出会ってくれて、二度も僕のもとを一瞬でも幸せな夢を去るのなら見せてくれて、二度目は本当に出会いたくなかったありがとう──。




 それでも、いっそ初めから彼女と出会わなければ良かったとも、唐突に去って酷い奴だとも、微塵も思えない僕は相変わらずどうかしていた。


 そして、ああ、彼女が一人で生きてゆくというのなら、僕も一人で生きてゆこうなどと、彼女とお揃いの苦痛を一生抱くのならこんなに素敵なこともないと、そんなことを考えているのだから──僕は、心の底から、どうかしていた。


 きっと、彼女も僕も、一生どうかしたままなのだろう。そう思った。

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初恋 木染維月 @tomoneko

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