君のパンツを食べたい

成井露丸

君のパンツを食べたい

 紅色に染まった放課後の教室。窓際の水沢くんは夕日に目を細めながら囁いた。優しそうで端正な顔に爽やかな微笑を浮かべながら。


「君のパンツを食べたい――」


 ――えっ?


 彼の背中からくれないの西日が差し込み、後光として彼の輪郭を染め上げる。教室の窓から見下ろせる京都の街を背景に甘く囁いた水沢くん。目に入るのは真っ赤に染まる東山に差す落日の赤紅あかべに。古都の趣ある穏やかな光の中で机に座る王子様の微笑みが私へと向けられていた。


 高校二年生の私たちは、放課後に二人っきりの教室で一つ離れた窓際の机の上に座り、向き合っている。そんなシチュエーションで放たれた彼からの衝撃的なワンフレーズだった。耳を疑う。


 廊下の向こう側、グラウンドからは部活動に勤しむ青春の喧騒が聞こえる。それでも校舎の中はしんとして静かだった。開いた窓から吹き込む涼やかな秋風に身を委ねながら、さっきまで私たちは他愛もない世間話に興じていたのだ。そんな時に、水沢くんが切り出してきた。「一ノ瀬さん、あのさ――」って。

 一陣の秋風が京の街から吹き上げて、彼のワンフレーズが私の言語的思考を奪い去った。聞こえたけど、聞こえなかった。水沢くんが何を言ったのか分からなかった。いや、分かるのだけれど。


 夏休み前の修学旅行から文化祭、これまでの経緯もあったから、ついに水沢くんが愛の告白をしてくれるのかな? なんて、ちょっと期待が膨らんでいた。その「一ノ瀬さん――」って声掛けに誘われるように、視界は動いて、街の景色から制服姿の男の子へと瞳に飛び込む映像は変化していた。もしかしたら、私の両目は期待の涙で潤んでさえいたのかもしれない。

 それなのに、王子様から投げかけられたのは、衝撃的なワンフレーズだったのだ。


 ――なんだか思っていた言葉と違うよ!


 出てきた言葉は愛の告白じゃなくて、パンツに関する告白で、「僕は変態です」と何ら変わらない告白だった。


 ――そもそもパンツは食べるものじゃないし。


 常識過ぎてわざわざ確認するのも変な気がするが。パンツを食べたら間違いなく変態だ。ていうか、そもそもパンツは食べられないと思う。食べるまで行かなくても、女の子のパンツを貰いたがる時点で、その男の子は変態だ。その前に、女の子に向かって「君のパンツを――」とか言ってる時点で、すでに変態かもしれない。つまり、水沢くんは変態だ。とにかく、いろいろと変態すぎて、もはや何がどうおかしくて、どう指摘したら良いのかさえ分からない。

 水沢くん、頭が良いから、時々よくわからないことを言うけれど、このワンフレーズは明らかに一線を超えていた。どうして突然、水沢くんはそんな一線を超えちゃおうとするのだろうか。


 そのワンフレーズが私の純粋な聞き間違えであったことを切に願おう。私としては、これからも高校生活を通して水沢くんと青春恋愛物語を続けて行きたいのだ。

 もし「君のパンツを食べたい」というのが、私の聞き間違いではなかったら、水沢くんは『少し変』から、『ド変態』に大進化を遂げてしまう。「君のパンツを食べたい」という言葉にはそれくらいの破壊力があるのだ。


「……水沢くん。私の聞き間違いだったら悪いから、念のためにもう一度聞きたいんだけど? 今、――何て言ったの?」

「あれ? 聞こえなかった?」

「ええと……、きっとね、聞こえなかったわけじゃないんだけどね。多分、聞こえてはいたんだとは思う。うん。でも、なんだか突拍子もない言葉だったから……。日本語の聞き間違いだったら、いいなぁ~、なんて」

 遠慮がちに、上目遣いに、私は水沢くんの表情を覗き込む。

「そうかな?」

 水沢くんはキョトンとした顔で、小首を傾げた。

「そうなの」

 私はコクリと一つ頷く。


 水沢くんは「そっかぁ」と呟くと、二つ前の机に腰掛けながら教室の窓から見える西日に目を細めた。白い肌、栗色の髪。それらが、秋の色にほんのりと赤く染まる。

 その赤味が差した頬が、私にキャンプファイヤーの炎に照らされた水沢くんの横顔を思い出させる。陽の落ちた暗闇の中で、紅い光を受ける彼の綺麗で純粋な横顔を、私は眺めていた。その熱い炎に照らされて、水沢くんは私にとっての特別な男の子に変わり始めたのだ。


 修学旅行が私の青春恋愛物語の序章だった。


 私と水沢くんは偶然、同じ班になって修学旅行先の街を散策した。道に迷ってしまって、班からはぐれて二人だけになってしまったりもしたけれど、街の人達に道を聞きながら、ホテルまでなんとか辿り着くことが出来た。二人だけのドキドキの冒険は忘れられない思い出だ。

 私と水沢くんは偶然、同じペアになって肝試しにも挑戦した。肝試しは想像していたよりもずっと怖くって、私は何度も水沢くんに抱きついてしまった。水沢くんはちょっとビクビクしながらも、終始、おばけについての薀蓄や、驚かせる仕掛けの出来栄えに関する批評を述べていた。でも何だか、水沢くんも本当は怖いのに、怖くないふりをしているみたいで、ちょっと可愛いかった。

 そして、修学旅行のフィナーレ。キャンプファイヤーでは、フォークダンスを一緒に踊った。二人のペアで踊るダンス。あなたの差し出す右手を私は取って、紅の炎に照らされた暗闇の中でステップを踏んだ。海辺の砂浜だったけど、私にとっては王宮の舞踏会。覗き込んだ王子様の瞳は暗闇の中で炎の光を反射して、紅い輝きを揺らしていた。


 修学旅行から帰ってきた時には、それまで私にとって「ちょっと男の子」だった水沢くんは、私にとって「ちょっと男の子」に変わっていた。

 それがこの青春恋愛物語の序章だった。


 ――でも、それが、どうして『パンツ』を食べる話になるのでしょう?


 理解しがたい王子様の大進化に私は頭を捻る。眉間に皺を寄せて腕を組む私に、水沢くんはヒントを投げかけた。


「『なぞなぞ』だね」

「『なぞなぞ』?」

 窓枠に左手を突いて、右手を広げて額に当てながら景色を眺め始めた水沢くん。風景の向こう側に何かの思い出を見ているのだろうか。東山の山沿いにあるこの高校の標高はちょっとだけ高くて、校舎二階の教室からも、歴史と文化に溢れた京都の街が一望できるのだ。


「あっ、文化祭の企画展示のこと?」

「うん」

 私が思い出したように口にすると、水沢くんは振り向いてコクリと頷いた。


 先週終わった高校二年生の文化祭は、私にとって何だか不思議な時間だった。文化祭で多くの生徒達は、所属する部活動の出し物に精を出す。私だってそのつもりでいた。でも、夏休みが終わった時、気付けば私は行き場を失っていた。

 夏の終わりにバレーボール部を辞めた。直接の退部理由は、怪我をしてしまったことだったけれど、他にも色々と思うところはあった。いずれにしても、バレーボール部を退部して、無所属になった私は文化祭企画での行き場を失ったのだ。

 だから、私はクラス企画展示に加わった。クラス企画展示は、私みたいに部活動の出し物に縁の無い生徒たちの受け皿のような存在で、水沢くんも参加することになっていた。水沢くんは、もとより部活というものに属さないので、初めからクラス企画展示の確定メンバーだったのだ。


 そのクラス企画展示のテーマとして私たちが選んだのが『なぞなぞ』だった。日本の様々な『なぞなぞ』を調査して研究するという小学生みたいな企画だ。でも、そんな下らないテーマに私たちは大真面目に取り組んだ。「下らないことを大真面目にやることで、生まれてくる面白さってあるよね?」ってことで。


『パンはパンでも食べられないパンはなに?』


 それは私たちが取り上げた典型的な『なぞなぞ』の一つだった。文化祭の準備期間、二人でそんな『なぞなぞ』を選び出しながら、「下らないね!」って笑い合っていた。きっと、今、水沢くんが言っているのはそのことだ。


「あったね」

「あった」

 水沢くんが、悪戯っぽく笑って、私もクスリと笑った。


 振り返ってみても、「嗚呼、本当に、なんて下らない調査に、高校二年生の青春を使ってしまったのだろう?」と思ったりもする。でも、お陰様で高校二年生の文化祭はとても楽しかった。

 クラスの企画展示だったけど、実質的なメンバーは私と水沢くん、あと三人ほどの無所属な仲間たちだった。毎日遅くまで、水沢くんたちと一緒にバカ騒ぎするみたいに準備した。修学旅行の後で、ちょっと気になる男の子に変わっていた水沢くんと、あーでもない、こーでもない、と話し合えたし、笑い合えた。休日の図書館へと二人で繰り出して調べものもした。それはデートじゃなかったけれど、デートみたいなもので、ウキウキした。休日だったから着ていく私服に頭を悩ませもしたっけ。

 今度は水沢くんとちゃんとした本当のデートがしたいな。


「で? 食べられないパンはなんでしょう?」

「パンツでしょ?」

「そう、パンツ」


 そう言って、彼は私の顔を見ると、ゆっくりとその視線をスカートまで下ろす。スカートの中にはもちろんパンツ……穿いていますとも!

 私たちの学校の制服は紺色のブレザーにプリーツスカート。結構、普通っぽい。ネクタイは可愛いんだけどね。そんな普通で、野暮ったくさえ見える制服をどう上手く着こなすかっていうのは、この学校の女子生徒がまず向き合わないといけない課題だ。「それに命賭けてるんじゃない?」って女の子もいるけれど、私はそこまでこだわるタイプじゃないし、ちょっと膝丈に短くして可愛くしているくらい。


 そんな私のプリーツスカートの上に水沢くんの視線が止まる。机の上に座る私のスカートの裾からは、二つの肌色の膝小僧が覗く。でも、えっと、スカートの中は見えていないはず。水沢くんの角度からなら。


「……穿いているわよ?」

「そこは、疑ってないよ」

 念の為に、念を押す私に、心外だと言わんばかりに水沢くんは眉を寄せた。


 ――え? どうして、わたし心外がられているの?


 そんな表情をされる方が心外だ。パンツ君にそんな顔をされるのは納得が行かない。


 ――でも、水沢くんだから仕方がないかなぁ……。


 水沢くんは頭が良いし、面白い。でも、思考回路がかなり予測不能なのだ。そこが彼と他の男の子との違うところで、魅力的なところでもあるんだけれど。


 突然「パンツを食べたい」などと滑稽無糖な台詞を口走る少年の前で、私は頬を熱くしながらも溜息をついた。もちろんパンツは穿いているのだが、やっぱり、パンツの話題を出されながら、スカートを見られるのは恥ずかしい。

 というか、そもそも水沢くん。パンツの話をしながら、女の子のスカートを見るのはやめましょう。特に私以外の他の女の子にやったら絶対駄目だよ。


「パンツって食べられないって誰が決めたんだろうね?」

「いや、食べられないでしょ? 布だし」

「布なの? 素材」

「……一般的には」


 私は今日のパンツを思い出す。色はちょっと薄い空色。でも、素材はなんて表現すればいいんだろう? 布とは言ったものの、布っていうとなんだかとても野暮ったくてお洒落じゃない感じがする。ポリエステル? ポリウレタン? よくわかんないよ。そして、なんだか恥ずかしくなる。一般的なパンツの話をしているはずなのに、私がいま穿いているパンツの話みたいになるじゃないか。これはおかしいぞ?


「『君の膵臓を食べたい』って言うのは良いのに、パンツはダメなんだね」

「そだね」

 あたりまえじゃないの。


「『君の膵臓を食べたい』の映画、結構良かったよね?」

「そだね」

 良かった。あの映画はちょっとウルッときてしまった。


「あれ、二人で見た初めての映画だよね?」

「……そだね」

「また、一緒に映画見に行きたいね」

 私はコクリと頷いた。これはデートのお誘いって考えていいのかな?


 文化祭の恒例行事、映画研究会の企画する上映会で「君の膵臓を食べたい」が上映された。私たちは二人でそれを観に行ったのだった。

 バレーボール部を抜けたばかりの私は、各部活動がそれぞれにワイワイと盛り上がる空気の中にどうしても飛び込めなくて、お祭りの中で一人うらぶれていた。そんな私に、水沢くんは「映画でも観に行く?」と映画研究会の上映会に誘ってくれた。そして、二人で「君の膵臓を食べたい」を観に行ったのだ。


「『君の膵臓を食べたい』はラブロマンスになれるのに、『君のパンツを食べたい』はラブロマンスになれないっていうのはどうしてなのかな?」

 水沢くんは、まるで哲学的な問いに純粋な思考を走らせるように首を捻った。


「水沢くんが何を言いたいのか、もはや私には全然わかりません」

 私は唇を尖らせる。「そっかぁ」と、水沢くんは残念そうだ。


 いつも水沢くんは変だけど、今日の水沢くんは何故だかいつもの変さに輪をかけて変だと思う。私は机に座ったまま、両足をパタパタと交互に揺らした。


 ――なんだか、調子が狂っちゃったなぁ〜


 ロマンティックなくらいに気持ちのいい秋晴れだし、放課後の教室で二人っきりで、今日こそは何か起きるのかなって思ってたのに。ハッキリ言っちゃえば、水沢くんからの告白を待ちに待っていたのに。


 文化祭が終わって、日常を取り戻した平日。今日の昼休みだって、「水沢くんと最近仲いいよね?」と興味深そうに周りの女の子から探りを入れられた。「そうかなぁ~?」なんてその時はすっとぼけて答えていたけれど、正直に言うと「周囲から見てもそういう風に見えてるんだ〜」って思えてなんだか嬉しかった。


 ――私の思い込みじゃないんだ……、きっと。


 正直なところ、これまでの様子から、きっと、水沢くんも私の事を気にしてくれているのだと思ってはいた。でも、確信はなかった。だから水沢くん自身からの言葉がずっと欲しかったのだ。


「『膵臓を食べたい』っていうのが病気のことと関連しているのはもちろんなんだけどさ。やっぱり、相手の何かを食べるってことは愛情表現と密接に繋がっていると思うんだよね」

「あ、うん。……そういうことなら、なんとなくわかる……かな?」

 なんだか話が真面目っぽい方向に向かいだした。批評家モードの水沢くん。

 でも、まぁ、そういう話なら私もわからなくもない。少なくともパンツを食べる男の子を理解するよりかは容易たやすい。


「あ、わかってくれる? そうそう。女の子とセックスすることも『女の子を食べる』って言うじゃん?」

 嬉々とした水沢くんの声。私は思わず周囲を見回して、教室の出入り口にも目を遣った。


 ――急に、大きな声でセックスとか言わないでっ!


 セックスという言葉を、躊躇なく明瞭な声で口にするので私は慌てる。自分たち二人っきりとはいえ、ここは学校の教室なのだ。男女の間で声に出して、セックス、セックス言っているのが誰かに聞かれたら不味いよ。絶対にこれまでの経緯からも、二人のセックスのことだと思われちゃうじゃん。あれ、何考えてるんだろう、水沢くんとのセックスだなんて、私。

 でも同時に、水沢くんの口から出た「女の子を食べる」という言葉が私の胸に奥を微かにざわつかせる。


 ――水沢くんも女の子を『食べた』こと……あるのかな?


 学校では彼女がいる様子なんてまるで無かった。でも、不思議で読みきれなくて謎の多い水沢くんだ。学校の外で思いもよらない交際関係を持っていないとも限らない。


「でも、異性を『食べる』っていうのは、セック……性交渉の表現に使われるとは思うんだけど、――むしろ、愛情が無いときに、異性を『食べる』って表現になるんじゃないかな?」

 だから、もし、水沢くんが誰かを『食べて』いたとしても、そこにはきっと愛情は無いんだ。異性を食べることは、きっと、本当の愛じゃないから。私は水沢くんに、ただ食べられたいわけじゃない。

 少し口を尖らせながらした拗ねたみたいな反論だった。でも、本当は反論なんかがしたかったわけじゃない。ただ、水沢くんが私の欲しい言葉をくれないで、あっちこっち変なところばかりに話を飛ばしていくので、もどかしかったのだ。


「そっか。じゃあ、僕は『一ノ瀬さんを食べたい』なんて表現を使っちゃダメってことだね?」


 突然の水沢くんの意味深な発言。


 ――あれ、なんだかそのセリフは際どくないかな、水沢くん? 何を表現したいのだろう? その表現を使わなかったら、何て言ってくれるんだろう? もしかして……


 私はキュッと両太腿の間を強く閉じた。


「僕は男の子の原初的な愛情表現と『パンツ』は大いに関わっていると思うんだよね」

「どういうこと?」


 そう言う私の目の前で、よいしょ、と座っていた机から、水沢くんが立ち上がる。

 水沢くんは身長も少し高めで体も細身、嫌味なくスタイルが良い。少し変わり者で部活にも参加していないし、あまりクラスの輪の中心にいることもないので、目立つ存在ではない。ただ、美男子だし、頭も良いので、もし何かの部活に入って活躍でもしていたものなら、女子人気は大変なものになっていただろうと思う。


 ――まぁ、お陰様で私はライバルの存在に悩まされずに済んでいるわけなんですけどね。


 掘り出し物の優良物件というやつかもしれない。彼の不思議な思考についていければの話だけれど。


「えっと。一ノ瀬さんのスカートってめくってもいいの?」

「え? 嫌よ!」

 思わず私はスカートを抑える。小学生じゃないんだから。


「え〜、どうしても?」

 無邪気な子犬のような瞳で水沢くんが首を傾げた。

「どうしても」

 子犬の悪戯を叱る飼い主のように目力めぢからで押し返す。


 なんだか、その可愛い水沢くんの表情に私の堅牢な心の城壁が一瞬、崩れ落ちそうになってしまった。しかし、理性という優秀な門番たちが私の防衛ラインを守りきる。理性って偉い。

 本当のことを言えば、水沢くんになら「ちょっとくらいはイイかな?」って気持ちも無くはないんだけれど、それは、やっぱり、きちんと彼氏彼女として付き合いだしてからの話なのだ。それに、ここ教室だし。誰も居ないけど。

 今日の放課後に、そうなる予定だった。彼氏彼女として付き合い出すための始まりの言葉を貰えるんじゃないかなって。実はちょっとだけ……ううん、とっても期待していたんだけれど。さっき彼から出てきたのは恋愛宣言ではなくて、ただの変態宣言だったのだ。本当に残念であります。


 私も机に手を突いて、お尻を離して教室の床に立つ。机の脚がガタリと音を鳴らして、上靴が木製の床の上に乗るタイミングで私はバランスを失った。水沢くんの方によろける形になって、おっとっと、と姿勢を崩す。

 彼の方へと倒れそうになる私の柔らかな二の腕を、水沢くんが両手で捕まえて支えた。そんなつもりは無かったけれど、彼の胸の中に飛び込んだような格好だ。


「大丈夫?」

「う……うん」

 顔を上げると、距離感。息もかかりそうな距離感だった。

 不用意な接近に、私の頬はその温度を急激に上げる。


 ビックリして私は思わず水沢くんの胸に両手のひらを押し当てて、ぐいっと距離を取った。二歩あとずさる時に、秋の風がまた舞い込んで、局地的な乱気流は私のスカートをはためかせる。

 物音を立てた後の沈黙。秋の静けさが再び教室に立ち込めた。あらためて、自分が水沢くんと教室に二人っきりであること、そういうシチュエーションであることを、まざまざと意識してしまうのだった。

 私たちは少しの間だけ見つめ合う。


「小学生の男の子が女の子のスカートをめくって『パンツ』を見ようとするのってなんでだかわかる?」

 水沢くんはちょっと視線を逸しながら人差し指で頬を掻く。水沢くんが何を聞きたいのかよくわからなくて私は首を傾げる。


「男の子がエッチだからじゃないの? もしくは変態?」

「違うよ」

「じゃあ、何?」

 私は小首を傾げる。そもそも、水沢くんの質問の意図が不明なのだ。


「その女の子のことが好きだからだよ。男の子は好きな女の子の『パンツ』を見たいんだ」

「……そ、そうなんだ」

 思わぬ説明に、私はちょっと戸惑ってしまう。そして、確かにさっき、水沢くんは私のスカートを捲りたいって言ったのだ。それはつまり、そういうことなのだろうか?


 戸惑う私の前で、水沢くんは細長い手をしなやかに伸ばし、紺色のプリーツスカートの裾をつまんだ。そして、一瞬の静止。


「ちょ……ちょっと! 水沢くん?」

 少し前かがみになった彼の目線が、私と同じ高さになる。また、距離感。


「――君のパンツが見たい」

 その宝石のような黒い瞳には純粋な煌めきが宿っていた。

 私は、男の子にスカートの裾がつままれている非日常と、好きな男の子の近すぎる距離感に、ただ翻弄されている。そして、その言葉の意味に。私は、ただ戸惑いにあらがい、全力で平常心を保とうとすることしか出来なかった。


 ――やっぱり、その言葉の意味は……、そういうことだよね?


 胸の鼓動は高鳴る。

 その瞬間、水沢くんは、微笑を浮かべながらもスカートから手を離した。私の中で少しの期待が、急激に不安に変わる。


「なんてね。僕は、そんな凡庸な言葉を言いたいわけじゃないよ――」

 突然の手のひら返し。

「えっ?」

 私は驚いて、彼の表情を覗き込む。そして、彼は軽やかに一歩下がった。

 肩透かしだ。折角そういう意味かと思ったのに。もし本当に違うなら、それなら……、それなら……、やっぱり、悲しいかもしれない。


 ――どっちなの? どうなの?


 私は上目遣いに水沢くんの顔を覗き込む。

 今となっては、もはや水沢くんに、私のスカートを捲って欲しいし、パンツを見たいと言って欲しい、……のかもしれない。


 ――いやでも、それおかしいよね? 私、何考えてるの!?


 私たちはほんの少しの空隙を挟んで、向かい合って立っている。水沢くんは、じっと私の目を見つめている。さっきから私はと言うと、なんだか恥ずかしくなってきて、彼の瞳を直視できずに、視線をそらし始めていた。


「見るだけじゃ足りないんだよ。パンはパンでも食べられないものを食べたいんだ」


 彼は真剣な表情で切々と訴えるように言葉を紡ぐ。それは、文化祭の追い込みで『なぞなぞ』について調べて企画展示を創り上げようとしていた時、彼が見せていた一生懸命な表情によく似ていた。一緒にクラス企画展示に取り組む中で、格好いいなって思った表情だった。


 ――私はそんな水沢くんのことを好きになったんだ。


「でもパンツは布だよ?」

 私は小さな声で呟く。

「知ってるよ」

 彼の論理はおかしいと思う。頭もおかしいと思う。

 でも、そんな彼のことを好きになっちゃったのが自分なんだと思う。


 なんだかよくわからないけど、こんな告白もあっていいのかなって、私は少しずつ思い始めていた。きっと、こんなにも力強くて衝撃的なワンフレーズで告白される女の子なんて、日本中見渡したって、まず居ないと思うから。

 これが私のオンリーワンな青春恋愛物語なのかもしれない。


 私は諦めたように、「はぁ〜」と息を吐く。心の準備はもう出来た。「どうぞ」と言わんばかりに視線を上げて、上目遣いに水沢くんの両目を見つめる。


 そして、水沢くんはハッキリと言った。

 今度は私の瞳を真っ直ぐに見つめて。


「――君のパンツを食べたい」


 一陣の秋風が二人の間を吹き抜けて、私はコクリと頷いた。今度はもう、聞き間違いなんかじゃないのだから。


 私は紺色のスカートの裾から両手をその中に入れて、腰にかかった下着の両端に親指を掛ける。そして、ゆっくりとそれを下ろし、上履きを穿いたままの右足と左足をゆっくりと交互に引き抜いた。恥ずかしいから広げたりは出来なくて、急いで両手でそれを包み隠す。脱いだばかりで、まだ生暖かい空色のそれを、両手で包んだまま水沢くんの前に、そっと差し出した。とてもじゃないけれど顔は見れない。

 水沢くんは両手を伸ばして、私の手から「ありがとう」と柔らかな空色のそれを受け取る。私は真っ赤な顔で俯いたまま「どういたしまして」と小さく呟いた。


 開け放たれたままの窓から、また秋風が教室に吹き込んでくる。スカートの中にスースーとした落ち着きの無さを感じながらも、心の中は満たされて、私は新しい二人の日々の始まりに胸が熱くなるのを感じていた。


 そして、水沢くんは私のパンツを口元に運んだ。

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