世界一嫌なポイントカード【なずみのホラー便 第15弾】

なずみ智子

世界一嫌なポイントカード

「ちょっと待ってくださぁぁい! そこのあなたぁぁ!!」


 帰宅途中の会社員ジュリは、自分の背中を追いかけてきているであろう、その”相当に切羽詰まった声”に思わず足を止め、振り返ってしまった。

 今の時刻は午後6時前後であり、外は道ですれ違う人々の顔を互いに認識できる明るさであるということ、そしてジュリの背中を追いかけてきたその声の主が自分と同性である女性の声――それもジュリの母ぐらいの年齢であるだろう明らかな中年女性の声だと予測できたことが、ジュリが足を思わず止めてしまった原因であった。


 振り返ったジュリの瞳に映ったのは、声から予測できた通りの中年女性であった。

 それも、緊張感よりも生活感が99%を占めているかのような風貌の中年女性、いわゆる”おばちゃん”であった。


 日頃の運動不足がたたっているのか、それとも中年ともなると全力疾走は相当に体に応えるのか、おばちゃんは呆気に取られたままのジュリの前でゼエゼエと肩を上下させていた。


「よ、よかったぁ……本当に立ち止まってくれて……」

 苦し気に息継ぎをしながら、おばちゃんは顔を上げた。

 夕暮れの中でもほうれい線とゴルゴ線がはっきりと見える顔の中にある、おばちゃんの瞳はなぜか潤んでおり、今にも泣き出しそうであった。


「?」と一歩だけ後ずさってしまったジュリに、おばちゃんはグイグイグイッと身を真正面から寄せてきた。


「はいっ! これ! あなたにあげる!!」

 おばちゃんがジュリへ向かってズイッと突き出した右手には、黒っぽいカードが――銀行のキャッシュカードやお店のポイントカードぐらいの大きさのカードが握られていた。


「え……?」

「これ、ポイントカードなの! あなたにあげる!」

「いえ……いらないです」

「いいから、あげる! これ、もらって!!」

「だから、いただくわけには……」

「私のことなんて気にしなくていいから、もらって! いいから、もらって!!!」


 人の話を聞かないというよりも、会話が全く噛み合っていない。

 そのうえ、よっぽど切羽詰まっているのか、目に滲んでいる涙の分量をますます増やしていっているかのごときおばちゃんは、ズイズイズイッとジュリにカードを押し付けてきた。


「お願いよ! あなたがこのカードをもらってくれるだけでいいから! それだけでいいから!」

 おばちゃんのその声は、もうすぐ泣き声へと切り替わりそうであった。


「……どこのお店のポイントカードか分からないのにいただくわけには……そもそもポイントカードを他人へ譲渡すること自体いけないことだと……」

「”このカードに限っては”いいのよ! 私だって全く知らない人に道で譲渡されたんだから!! 持っているうちに”このカードの効能”は分かるから!!!」

「??? ……いや、でも……」

「早く手に取って! これをもらって!!」


 迫り来るおばちゃんに後ずさり続けていたジュリであったが、ついにおばちゃんの尋常ならざるパワーに気圧され、カードを手に取ってしまった。

 その瞬間、おばちゃんの顔に安堵の表情が――まるで相当に厄介な”何か”より開放されたかのような表情がパアアアッと広がっていったがジュリにははっきりと分かった。

 しかも、おばちゃんはもうカードから手を離してしまっていた。

 カードは今、ジュリの手の内にしっかりとある。


「ありがとう……本当にありがとう……どこの誰だか知らないけど、一生恩に着るからね! それじゃあね!!」

 ジュリにカードを強引に押しつけたおばちゃんは、生活感溢れる中年女性のテンプレ的な体格からは想像できないほど素早く身をバッと翻し、脱兎のごとく駆けていった。



 ※※※



「何だったんだろ……あのおばちゃん……」


 1人で暮らすマンションにて、美容のために粗食で夕飯を済ませたジュリの手元に、カードはまだあった。

 おばちゃんにこれを押し付けられた後、そのまま少し離れたところにある交番まで歩いて届けようかと思ったが、ジュリはそれをしなかった。

 店舗名すら印字されていないこのカードは、どこかのお店のショップカードなどでは絶対にない。

 誰かがふざけて作ったチャチなプラスチック製のカード――交番に届けるまでもないであろうし、警察官にとっても余計な仕事を増やしてしまうだけのオモチャであることは明白であったのだから。


 ジュリはテーブルの上に置きっぱなしのカードを手に取った。

 表面は黒一色ではなく、どこか茶色がかった黒であった。しかし、その表面には何らかの文字が、おそらく英語で印刷されているようであった。角度を変えたり、光の加減を調節したら、その文字を読み取れるかもしれなかったが、ジュリはそんなことに時間を割くのすらアホらしかった。

 その理由は、裏面にあった。

 アホか、と口に出して突っ込みたくなるような注意書きが、裏面に並んでいたのだから。



――――――――――――――――――――――――――――――


☆ 本ポイントカードは”引き寄せてためる”効能を持っています。

☆ 携帯時と非携帯時においても、効能の差はありません。

☆ 本ポイントカードに定められた効能期限はありません。

☆ ポイントが上限である999,999ポイントにまで達すると自動的に効能切れとなります。

☆ 本ポイントカードは廃棄ならび焼却不可です。うっかり紛失の形をとって本ポイントカードを廃棄しようとした場合でも、すぐに持ち主の手元に何度でも現れます。

☆ また、本ポイントカードの持ち主が所持中に死亡した場合、本ポイントカードを”ついうっかり”次に手に取ってしまった人物が、新たなる持ち主となります。

☆ 死亡もしくは他人へと譲渡する場合のみ、持ち主は手元より本ポイントカードを手放すことができます。


――――――――――――――――――――――――――――――


 ふざけている。完全にふざけている。

 そのうえ、このポイントカードが一体、何のポイントをためる……もとい”引き寄せてためる”のかすら書いていない。

 もしや、幸運やシンクロニシティを引き寄せてくれるとでもいうのか?

 いや、仮にそうだとしたら、持ち主である者はこのポイントカードを手放そうとするわけがない。あのおばちゃんのように、見ず知らずの通りすがりの者に、強引にも程がある”押し付け”などするわけがない。


「184,184ポイントか……」


 ジュリは思わず、声に出してしまっていた。

 カードの裏面の上部には、丸っこい文字ですでにたまっているポイントが印字されていた。

 語呂合わせをすると「184,184(いやよ、いやよ)」となる。

 本ポイントカードの上限である999,999ポイントの半分にもまだまだ達していない。

 

 その時、タイマーが鳴った。お風呂のお湯がたまったこと知らせるタイマーだ。

 カードをテーブルの上に置いたジュリは、お風呂場へと向かう。

 お湯を止めた後は、洗面所でそのまま服を脱き始めたジュリ。


――今日は変なおばちゃんに絡まれちゃったけど、熱いお湯に入って早く忘れちゃおう。


 全裸になったジュリは、洗面所に買い置きしているバスソルトをウキウキしながら選ぶ。

 爽やかで”清潔な”シトラスのバスソルトを片手に、再びお風呂場に足を踏み入れたジュリは、あの変なおばちゃんや怪しいポイントカードもどきのことなどすでに忘れていた。


 ”両脇と口回り、両膝下の永久脱毛は終わってるけど、やっぱりVIO脱毛もしちゃおうかな”とぼんやりと考えながら、風呂のふたを開けたジュリであったが――


「――きゃあああ!!!」


 ジュリの髪の毛が逆立った。

 正確に言うなら、髪の毛だけじゃない。陰毛も、ジュリの全身の毛がブワッと逆立ったと言えよう。

 なぜなら、湯気立つ浴槽の中にゴキブリがプカプカと浮いていたのだから。

 明らかに成虫サイズのゴキブリが。それも2匹も。


「ひっ! ひいっ!!」


 悪夢のごとき光景は、見紛うことなき現実であった。

 2匹のゴキブリが浴槽の中で死んでいる。

 ガクガクと震える足で後ずさったジュリであったが、この最悪生物の死骸の後始末を自分でしなければならないのだ。

 実家で暮らしていた頃なら、父がブツクサ言いながらも、こいつらを片づけてくれたかもしれないが、1人暮らしの今は自分で全てしなければならない。

 シトラスのバスソルトで、ゆったりリラックス気分の場合じゃない……



※※※



 翌朝。

 ジュリはアラームが鳴る前に、目を覚ましてしまった。

 昨夜のショックがまだ長引いていた。

 一体、どこから、あの2匹のゴキブリは浴槽の中に入り込んだというであろうか?

 あの後、ゴム手袋をしたうえ、何重にもしたビニール袋ごしにゴキブリたちをお湯の中から掬いあげたが、あいつらの感触はまだジュリの手に残っていた。

 お湯を抜いた後、浴槽をゴシゴシゴシゴシとあり得ないほどの量の洗剤を使って5回近く磨いたも、再びお湯をためて湯舟に浸かる気にはなれず、シャワーで済ませたのだ。

 ジュリは病的な潔癖症ではないが、部屋も会社の自身のデスク回りもこまめに掃除&整理整頓し、もちろん自分自身の体や衣類の手入れも怠っていない、身綺麗な今時の若い娘だ。

 だからこそ、ジュリの身綺麗なOLライフにおいては異分子でしかない、昨晩のあいつらは本当に悪夢であって欲しかった。



 まだ薄暗い部屋のベッドで、ゴロンと寝返りを打ったジュリ。

「!!!」

 ジュリの足先に――それも素足に”何か”が触れたのだ。  

 明らかに動いている”何か”が!

 カサカサと音を立てて動いている”何か”が!

 

「ひぎゃっ!!!」


 飛び跳ねるように布団からから身を翻し、慌てて部屋の電気をつけたジュリの目に飛び込んできたのは、予測通り”悪夢の新章”であった。

 またしても、ゴキブリだ。

 ゴキブリがベッドに入り込んでいた。

 今度は1匹だけだ。だが、昨晩の2匹よりもツヤツヤと黒光りする羽根の持ち主であり、まるまると太っている。

 そのうえ、生きている。

 白いシーツの上を、得意気にシャカシャカと這いまわっている。


 一番分厚いファッション雑誌で、ジュリは3匹目を叩き潰した。

 ゴキブリの死骸も、体液が付着したファッション雑誌をも白いシーツごとくるみ込んでゴミ袋へと入れた。

 早朝から迷惑だと思ったが、布団カバー一式を洗濯機へと放り込んだ。

 そして、半泣きで足を洗った。ボディソープをたっぷりと染み込ませたスポンジで、皮膚が擦り剝けるのではないかというほどに。


 朝から――いや、昨日の夜から本当に最悪だ。

 髪を含め、全身を清めたかったジュリであるも、髪まで洗って乾かしていたら、絶対に会社に遅刻してしまう。

 あいつらに与えられた精神的ショックは甚だしいも、こんな理由で会社に遅刻は社会人としてあり得ない。





 勤務している”食品会社”においても普段通り、仕事をしているつもりであるジュリであったが、気が付くと”あいつら”のことを考えてしまっていた。

 今のマンションには、ジュリが新卒で今の会社で働き始めてから2年以上暮らしているが、日頃のこまめな掃除もあってか遭遇したことなど1度もなかったというのに。

 ジュリは使った食器はその日のうちに洗っているし、生ゴミに限らず、ゴミを溜め込むことなく定められた日にきちんと出している。

 となると、同じマンションの住人の部屋がゴキブリの発生源となっているのか?

 住人の誰かが、腐った食べ物を部屋の中に放置したままであったり、足の踏み場もないほどのゴミ袋に埋もれて暮らしているであろうか?


――帰りに絶対にバル〇ン買って帰ろう。


 ジュリはデスクの一番下の引き出しを開けた。

 この会社には、ロッカーなるものは設置されていない。コート等をかけるハンガーラックはフロアの隅にあるも、通勤カバンは各自で管理といった方針だ。

 ジュリは先輩である女性社員たちと同様、デスクの一番下の引き出しに通勤カバンを収納していた。

 カバンを膝の上に置いたジュリは、スマホを取り出そうとする。ダウンロードしているメモアプリに「バル〇ン忘れるな」と打ち込むために。



「!!!」


 カバンの中から、何やら”カサカサと”音がしていることにジュリは気づいた!

 しかも、今日の朝にも聞いた”あの音”が!!


「きゃあ!!!」


 悲鳴とともにカバンを放り投げたジュリ。

 床に散らばったスマホやらお財布やら化粧ポーチやらと一緒に、ジュリのカバンより這い出てきたのは、やっぱりゴキブリであった。


「え? 何?」

「どうした!?」


 ジュリのデスクの近くに同僚たちが集まってくる。

 その中には仕事ができるうえ、顔良し、性格良し、おまけに独身で、ジュリが密かに憧れている男性社員、タヤマ先輩の姿もあった。


「あ、”あっちの方から”ゴキブリがやってきて……私、ビックリしてカバン落としちゃって……!」


 咄嗟に嘘をついてしまったジュリ。

 憧れのタヤマ先輩の前だからか? いや、タヤマ先輩の前でなくとも、ジュリはきっと嘘をついてしまっていたであろう。

 カバンからゴキブリが出てくる女=”間違いなく汚部屋に住んでいる女”という結論に、誰もが帰結するに違いないのだから。不潔なことはドン引きされるだけでなく、絶対に嫌われてしまうであろう。



 普段のジュリの身綺麗ぶりが功を奏してか、ジュリの咄嗟の嘘を疑う同僚はいないようであった。


「大丈夫?」

「スマホやファンデ(ファンデーション)、割れてないといいね」

 と、女性社員たちはジュリの散らばった私物を拾ってくれた。


 そして、タヤマ先輩は丸めた新聞紙を持ってきた。 

「ここは、俺に任せとけ」

 誰にでも優しいだけでなく頼もしくもあるタヤマ先輩は、ジュリがこの24時間の間に遭遇した”4匹目のゴキブリ”を、パァン!という音とともに見事一撃で仕留めた。



※※※


 ”カバンの中にゴキブリ”の日から、1週間近くが経過した。

 ジュリは、スモーク霧のタイプのバ〇サンを焚いたし、ホウ酸団子だって買って部屋の至るところに置いてある。

 それにもかかわらず、あいつらはジュリの前に現れる。

 生きていたこともあれば、すでに死んでいたこともある。1匹だけのことのあれば、なんと3匹連れのトリプル出現であったりしたこともある。

 トイレの床をシャシャッと素早く横切ったこともあったし、台所のシンクにおいて腹を見せて転がっていたこともあった。そのうえ、ジュリのお気に入りのメイクボックスから「やあ☆彡」というように顔を見せたことだってあった。

 メイクボックスも、百貨店に並んでまで買った限定品のコスメセットを初めとする化粧品たちも、完全に使う気は失せてしまった。それらの見た目は何一つとして変わっていない。でも、汚された感じがする。ゴキブリが這いまわったという嫌悪感は消せるわけなどない。


 そのうえ、ジュリがゴキブリに遭遇するのは、家にいる時だけではなかった。

 今までゴキブリが現れたことなどなかった会社のフロアをゴキブリが、凄まじいスピードで生き急いでいるかのように駆け抜けたことが、この1週間でなんと10回近くもあったのだ。

 タヤマ先輩が「どっかにあいつらの巣でも出来てんのか? 早いとこ、業者呼んで駆除した方が良くないか? 特にうちは食品会社だから、これは致命的だろ」と言いながら、その度に丸めた新聞紙を手に”損な役回り”を引き受けてくれていた。


 さらに言うなら、家と会社においてだけではない。

 家に帰りたくないジュリがファミリーレストランで食事をとっていた時も、ジュリの足元をカサカサカサと横切っていった。

 その時は、ジュリの近くのボックス席で食事をとっていた中年女性のグループのうちの1人が、「ちょっと店員さぁん! ここにゴキブリよぉー! いやあぁぁぁぁぁー!!」と、食事をとっていた客全員が口から食べていたものをブッと吹き出しそうなほどの声で叫んだのであった。



 あり得ないほどの遭遇率。

 1日1ゴキブリならぬ、どれほど少なく見積もっても1日10ゴキブリだ。

 家はもはやジュリの安らげる場所ではなくなっていた。正確に言うと、もはやジュリが今生きるこの世界全てが安らげる場所ではなくなっていた。

 でも、まずは家だ。

 このままじゃ、睡眠すらままならない。

 ベッドに横になっているだけで、どこからかカサカサという音が聞こえてくるような気がする。それが真にあいつらが立てている音であるのか、それとも幻聴であるのかすら定かでない。

 だが、もしジュリが目を覚ました時、頬を這いまわっていたゴキブリがついにジュリの口の中へ入り喉の奥にまで落ちていってしまったり、ジュリの素足を伝いパンツの中にまで潜り込むことに成功したゴキブリにアソコを噛まれてしまったりするかもしれないことを想像すると、夜も眠れやしない。



 血が滲むほどに唇を噛みしめたジュリは、スーパーのビニール袋の中より、数本のゴキブリ駆除スプレー超強力タイプを取り出した。


――”1匹残らず駆逐してやる”! 私はあいつらと戦い抜いてやる。


 その決意に”心臓を捧げん”がごときジュリのその横顔は、まさに勇ましい女戦士そのものであった。


 武器を手に一歩踏み出したジュリは、ふとテーブルの上の”あるもの”に目を止めた。

 几帳面なジュリには珍しく、テーブルの上に置きっぱなしであったカード。

 約1週間前の帰宅途中、見知らぬおばちゃんに強引に押し付けられたカード。

 どこか茶色がかった黒であるその表面は、いまやゴキブリの羽根を連想せざるを得ないカード。


――思えば……あのおばちゃんにこのカードを押し付けられてからよね。私の周りにあり得ないほどのゴキブリが現れるのは……


 カードを手に取ったジュリは何気なく、カードの裏面を見た。


「!?!」


 なんと、信じられないことに約1週間前までは確かに「184,184ポイント」が印字されていたはずであるのに、今は「184,291ポイント」が印字されている!

 「184,184(いやよ、いやよ)」と語呂合わせをしたことをしっかり覚えているから記憶違いなどではない。今、このカードのポイントは「184,291(いやよ、にくい)」となってしまっているのだ。


――まさか……!


 バラバラであったパズルのピースが、やっと1つに集まり始めた。

 カードを再び表面とひっくり返したジュリは、角度を変え、そこに印字されている文字を読み取ろうとした。しかし、英語らしき”それ”はなかなか読み取れない。

 もしかして、とジュリは部屋の電気を消した。


 真っ暗闇となった部屋の中で、やっとカードの表面に印字されていた文字が蛍光アートのごとく浮かび上がった。

 それもスピード感溢れる斜体で、浮かび上がっていた。

 ”cockroach”(ゴキブリ)と。




※※※ 



 ジュリは今まで、自分のことを聖人にまでは及ばないが、善良な部類に入る人間だと思っていた。

 故意に人に意地悪をしたこともないし、虐めをした経験なんてものもあるわけない。もちろん、犯罪歴など一切ないし、人に迷惑をかけないように生きてきた。TVやネットで悲惨なニュースが流れれば、自分に何ができるわけでもないが心を痛めもしていた。常識もモラルも人並み以上であると自負していた。


 しかし、今のジュリは”例のポイントカード”を手に、自宅より離れた市内を歩き回っていた。

 ”ゴキブリ引き寄せポイントカード”を押し付けることができる”見ず知らずの他人”を探しながら。


――一番いいのは、あのおばちゃん……ううん、あのババアに突き返すことよ。でも、あのババアを探す手掛かりなんてない。それに、二度と会わないであろう他人にカードを押し付けるために、私がこうして自宅から離れた市内を歩き回るしかなくなっていることから推測しても、ババアは私が住んでいるところの市民じゃなかったに違いないわ。これをゴキブリ愛好家やゴキブリの研究者に渡すのも一つの手かもしれない。だが、そんな奇特な人を探す前に、私のHP(ヒットポイント)が、この”ゴキブリ引き寄せポイントカード”に着々と印字されているポイントに反比例するがごとく削り取られていってしまう……



 家族や友人にこんなポイントカードを渡せるわけがない。

 だとしても、情も何もない二度と会わない赤の他人になら渡してもいいのか? 

 自分が今からしようとしていることは迷惑行為、いやもっとキツい表現をするなら他人の肉体を傷つけないまでも自己中心的な通り魔的行為ではないのか?

 自分さえ良ければ、他人なんてどうでもいいのか?


 しかし、もう限界だ。

 このポイントカードは廃棄ならび焼却不可で、うっかり紛失の形をとって本ポイントカードを廃棄しようとしても、すぐに強靭な生命力のゴキブリたちのごとく、自分の手元に何度でも戻ってくるに違いないのだ。

 仮に現時点での保有ポイントが、上限である999,999ポイントまであと10~20ポイント程度なら、ジュリもなんとか我慢しようと、自分一人でこの苦難を背負おうと努めていたであろう。

  

――カードに印字されているポイントは、半分の折り返し地点までも”まだまだ”だわ。このままじゃ、私の人生は”ゴキブリとともにある”ことになってしまう。この世界で生きる99%以上の人が嫌っているであろうゴキブリなんかと、人生をともにしたくなんてない! 私はあいつらなんかと、たった1回しかない人生を駆け抜けたくなんてない!! 



 ジュリが決意し、自身を奮い立たせたそばより、ジュリの足元を2匹のゴキブリがまるでどちらが先に道の端にまで辿り着けるか競い合うように、カサカサカサカサと駆けていった。


 グッと唇を噛みしめたジュリは走った。

 今にも溢れんばかりの涙を堪えてジュリは走った。


 「ちょっと待ってくださぁぁい! そこのあなたぁぁ!!」


 と、あの”押し付けババア”と全く同じ台詞を叫びながら。

 誰でもいいから私の声に足を止めて、振り向いて、そしてこの”世界一嫌なポイントカード”を受け取ってくれたならどこの誰だか知らないけど一生恩に着るから! お願いだから! と切に願いながら……



―――fin―――

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世界一嫌なポイントカード【なずみのホラー便 第15弾】 なずみ智子 @nazumi_tomoko

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