コール・マイ・ネーム

龍斗

 そのベルを鳴らせ

 コウジは虫歯に詰まったご飯粒を下の先でなんと掻き出そうとしている。朝食は母が朝作ってくれたオニギリと昨夜の残り物の味噌汁。味噌汁はいい具合に煮詰まっていてポーチド・エッグ入り。それに付け合わせのソーセージ。ソーセージは油で炒めたヤツじゃなくてボイルしたもの。コウジは油で炒めたウインナーが好きじゃ無い。ボイルしたウインナーにマスタードを添えて。噛むと、甘い肉汁が口の中で弾ける、ウインナーはやっぱりこうじゃないとね。

 それはそうと、四月になっちやったなぁ、見上げる空は春霞。晴れているような、曇っているような。これからの一年に思いを馳せるコウジの心をそのまま写したらこんな感じだ。

 今日は始業式。三年生。高校受験。

 

 いつもと同じ通学路を猫背気味でトツトツと歩く。ガードレールの向こう側に流れる小川からサラサラと心地よい音が聞こえてくる。傍の土手で聴いていれば春の日差しとのコラボレーションで心地よく眠れそうである。

 そう、学校が嫌いなわけじゃ無いんだ。

 コウジは改めて自分に言い聞かせてみる。教室に入ってしまえば、いつもと同じ日常が始まる。それに身を任せれば良いだけだ。ただ新学期なんだよなぁ。

 今日は気分が重い。

 クラス替えがその原因だ。

 コウジは部活に、生徒会に、学習にと中学校生活をエンジョイしている、所謂「陽キャ」ではない。教室の片隅で図書館から借りてきた小説や図鑑を読んでいたい。そうでなければ数少ない友達とアニメやゲーム、サブカルチャーの話をしていたい。そんなコウジだから、今回編成されたクラスに、共通の話題を語れる友達がいるか、もしくは自分をそっとして置いてくれるクラスであるのか、が重要になってくるのだ。


 「おはよ。相変わらず猫背!もっと背筋伸ばしなよ!」

少しハスキーな声。背中を平手打ち。

 「いって!うっせぇな。余計なお世話だっての。お前みたいにシャキシャキできねぇっての!」

 コウジの言葉にも、三井マリアは動ずることは無い。日々の合気道の稽古で培われた精神はそこらの男子よりタフだ。

 「てかさぁ、クラスどうなるのかなぁ。この前の立志式で、ようやくクラスがまとまったのに。そこでクラスがえって虚しく無い?」

 「さすがクラス委員、言うことが違うなぁ」キッ!と言う効果音が聴こえそうなマリアの視線が刺さる。

 言い過ぎた…その後悔の表情が浮かんだであろう自分の顔を、三分咲きの桜並木の方を見るふりをしてごまかした。中にはまだ蕾もちらほら残っている。

 「別に。私はクラス委員としてやるべきことをやっただけ。自発的にみんながまとまったんじゃない。しかしさぁ、あんたのその喋り方、最近余計にこじらせてない?この前、おばさん言ってたよ。親の揚げ足を取って困るって」

 どうせ近所のスーパーマーケットか帰宅途中に母にあったに違いない。母はマリア以外にも保育園のときから知っている友人に家でのコウジの様子をペラペラ喋っているのだ。どうせ、赤ちゃんの時から小学校に上がるまでゴロゴロ一緒に寝てたり、ギャーギャー騒いでた仲じゃないの。今更隠すことなんて無いでしょ、と言うのが母の口ぐせだ。

 コウジだって保育園の時からの友人たちが嫌いじゃ無い。むしろ、妙な連帯感と言うか、馴れ合いのようなものが今のコウジを支えているのだから。


 小学校低学年までは、クラスに保育園からの仲間がいるかどうか、クラスがえのたびに心配になった。やっぱり保育園からの顔見知りがいると幾分か気が楽になった。

 マリアもそうだが、ユイやタケシ、それにガミがいてくれれば。マリアやユイは、そういつも一緒にいるわけではないけど、何かと頼りになる女子である。そういえばナツもだな。

 小学校の6年間のうち、この仲間が全員揃うことはなかったけど、すくなくとも毎年この中の誰かひとりは同じクラスになることができた。

 

 コウジの中学校の生徒たちは周辺の2つの小学校区からやってくる。生徒数は500名ほど。その年によって異なるが大体の数は変わらない。ちょっと前まで、生徒数が1000人近いマンモス校だったらしい。おかげで、今は使用していない教室があちこちにある。

 13歳から15歳。そろそろ子供から大人の世界に足を踏み入れる年代だ。私服で登校していた小学生から制服登校の中学生への移行によって子供たちは「いかに自分の個性をアピールするか」に執着しだす。その結果が、ヘアスタイルや、イキがった行動へと繋がり、時々、教師との揉め事に繋がってゆく。

 それに自分がいかにクラスや部活動でイニシアチブを取れるか、と言うことも重要になってくる。

運動能力が高いか、学習能力が高いか、見てくれが良いか、面白いキャラクターを演じられるか。そして、目障りな教師たちの前でいかに粗野に振る舞えるか。 これら、いずれかの条件を満たしたものが、クラスや部活動でイニシアチブをとる事ができるのである。


 「ナツ来るかな?」

 「え?」

 「ナツ、小山ナツ」


  風が吹いた。


三分咲きの桜がその風に逆らえず、散ってゆく。散った花びらはコウジたちの顔や肩に張り付いた。鼻に抜ける桜餅の匂い。

 「ナツ、学校来てないよね?多分2年の2学期の終わりぐらいから。修学旅行にも来てなかった」コウジの頭の中に少し下を向いて気弱に微笑むナツの顔が、不意に浮かび上がった。ナツ。そうだった。ヤツを学校で見かけなくなってどれくらい経つのかー

 おお、揃って登校かい?お似合いじゃん!後ろから走ってきたガミがおどけて、コウジの髪の毛を軽く引っ張る。

 「バカガミ!なんであんたはそう単純なの?気楽で羨ましいわぁ。おまけに彼女までいるしねぇ」

 ガミ、坂上タツヤはコウジより背は低いが、その童顔も相まってカッコ可愛いキャラで通っている。すずめ保育園卒園生の中でもそこそこモテる。

 「ああ?てか、俺、ちゃんとコクられてねーもん。なぁコウジ?」そうか、ガミには彼女がいるのか、何人かいるガミの取り巻きの誰かだ。知らんけど。

 「さすがバスケ部、モテるじゃんか」

 ねぇ!とマリアもハスキーな声でダメ押しする。その音量は傍を通過したマフラーを改造したヤンキー仕様の軽自動車と同じくらいの大きさだった。

 「まぁ、なんだ、その…てか、お前らどうなのよ?お似合いだぜ、マジで」

 「それマジで言ってんの?お前…」「いい加減にしろッ!バカガミっ!」

 マリアの蹴りがガミの背中に、コウジのツッコミがガミの頭に炸裂した。


                ※


 ねぇ、チエ?今日どうする?タツヤ部活でしょ?今日も帰り待つの?

 サキは鏡を見ながら薄いリップをひいていた。

確かにタツヤは背が低いし、縮毛の猫っ毛だし顔の造形も愛嬌はあるもののカッコ良いって方じゃない。あえて陽気に振る舞おうとして空回りしてることもあるし、それを良くバカにもされている。


 タツヤはきっと無理をしているんだ、とチエは思う。

 いつか観たバスケの動画で小さければ高く跳べ、と言った日本人NBAプレイヤーがいたけど、タツヤはその言葉通りに高く跳ぶ。小さな背を深く沈めて一気に飛び上がるその姿を見ているだけで胸がすうっとする。

 とにかくこの人は、バスケがやりたいんだなぁ、と思う。

背が小さくても。

バスケが背の高い人間だけのスポーツでは無いことを証明してやりたいのだ。


 チエはそんなタツヤが大好きだ。

 身体的に恵まれたワケじゃ無いタツヤが、バスケットボールというスポーツにこだわり、時にはスタンドプレーを指摘されてもボールに食らいついてゆく姿にたまらなく惹かれる。だから、チエはタツヤを「ガミ」なんてふざけたアダ名で呼びたくない。タツヤはタツヤなんだ。

 「今日は行かない。オーディションがあるの」

 「え?そうなんだ?受かりそうなの?」

 「さぁ?どうだろ?塾のイメージキャラクターだからね、見た目で落とされちゃうかも」

 この間のオーディションはインターネットで商品を展開しているアパレルブランドのイメージキャラクターだった。これは大したことなかった。チエのような中学生ばなれしたルックスの女の子は、向こうも喉がから手が出るほど起用したい素材で、チエはそのことは容易に推測できた。だから、いつもの私服で、いつものメイクでその事務所を訪ねて行ったら、最初に対応した女性に、すぐ撮影できるか?と言われそのままテストショットを撮って、愛想が良いけどチャラい男に帰りには込み入った契約書の束が入ったピンクの封筒を渡され、ご両親の承諾をもらって、次に来る時はついてもらって来てね、と言われた。

 両親は仕事で忙しいから来れないかもしれない、代わりに大学生の兄ではダメか?と質問すると、向こうがへぇ…大学生ねぇ、と言うので、兄の大学の名前を告げると相手は二つ返事で快諾した。大人ってやっぱりバカだ。


 そして今、そのアパレルブランドのホームページにはチエがいる。

 「今度も大丈夫だよ、多分」

 「そうだと良いけど。だから、今日は行かないの」甘やかさないの。好きでも。

 「おっとなぁ!さすがチエだね」そんなヨイショいらないし。サキは、正直ウザい。でも、友達、かな。いちおう。

 今日は始業式だ。何となく帰りそこねて、教室に残っているチエたち以外の生徒は早々に帰ってしまった。今頃昼ごはんを食べているか、バスで30分ほどの繁華街に繰り出しているハズ。

 「帰ろっか?私3時に事務所に行かなきゃなんないんだ。サキは?」

 「さぁ…ケータイで暇なヤツでも捕まえるわぁ」

 春霞の空は曇りなのか晴れなのか曖昧に生暖かくてチエをイラつかせる。夜には雨も降りだすらしいし。


 アキラのお迎えは行かなきゃね。


 「え?誰のお迎え?」

 「いや、いいの。さっ、行くよ。早くご飯行こ!お腹ペコペコだし」

 タツヤのもう一つ好きなところ。多分、私だけしか知らないんだ。

 それにしても、あの場所は何だろう?「最低限の利用費で、子供達の居場所を」って何?偽善の匂いしかしないじゃん。それに…?

 

 あーもう本ッ当にイラつく。


 チエは、サキと校門を出るとちょっとだけ、体育館を振り返った。校門の桜の木でよく見えなかったけど、ゴールを決めたタツヤのカン高い声が聴こえた様な気がして。


                ※

  斉木、ちょっと良いか?

 生徒会室は旧校舎の北側の一階、いちばん日の当たらない場所にあった。

 なぜ、こんなカビ臭い隅っこで自分たちは活動しなければならないのだろう。もっと日当たりの良い教室は空いてるのに。

 他の生徒会メンバーも口には出さないが、そう思っている。学習や部活に追われる中で、教師と生徒のパイプ役として割に合わない活動も多い。

 それでも。

 斉木タケシは、この学校の前時代の遺物の様な校則のいくつかを変えてきた。

 例えば、通学用の靴。白の無地のスニーカーなんて、今時探す方が難しい。ワンポイントやスニーカー本体と同じ様な白のラインがあしらってあるモノがほとんどだ。

 その校則を「華美な装飾の無いスニーカーなら可」、にすることができた。

 頭髪だって、生まれつきの縮毛であれば、縮毛地矯正をしなくても良くなった。「お前のおかげで助かったぜ」自称、校内でもっともいけてる天パイケメン、ガミもこれには大喜びだった。

 勿論、それらの校則改正はタケシだけの力で変えられたワケじゃ無いが、タケシが先頭に立つ生徒会で、過半数以上の校生徒の署名が集まった。

 高身長、高成績、スポーツもソツなくこなせて、ルックスもイケてるタケシが、生徒会長だったからだ。おまけに喋らせると弁も立つ。その割に抜けている所もある。要するに、愛されキャラのポジションなのだ。

 校内で素行の悪い生徒でさえ頼りにしているようなところもある。


 生徒会室の移転をまた訴えてみよう。


 この前もその話を重田に切り出したのだが、体良くごまかされてしまった。生徒会室の移転を打診していたのだが、気がつけば、授業内容を質問している自分がいた。お人好しにも程がある。自分でも呆れてしまう。

 「ここじゃダメなんですか?」うん、まぁちょっとな…職員室、行こうか。

 学年主任を勤めている社会の教師の重田は、タケシの返事を待つまでもなくスタスタと廊下を歩いていく。

 「どうだ?志望校は?A高狙うんだろ?」

 「正直、まだ決めていません。福城のスーパー特進クラスでも良いかな、って感じで…」

 「そうか。あそこだったらお前の成績だったら大丈夫だろ。学費全面免除はオイシイよなぁ」

 そんなことじゃ無い。私立のF学園は決められた学習プログラム以外にも、タケシの興味を引くカリキュラムをたくさんやっている。タケシはコンピュータープログラミングを整った環境で学びたいのだ。それは古色蒼然とした歴史ある朝日ヶ丘高校よりも断然魅力的にタケシには映った。

 なぜ大人は伝統や格式ばかりにこだわるのだろう?

 伝統や格式を重んじるのは、確かに大事だけど、時代は常に変わってゆく。タケシは「古き良き風習」を尊重する姿勢が、あまり好きじゃ無い。


 職員室は閑散としていた。開け放った窓からは、運動部の掛け声が春の風に運乗って聞こえてくる。ここは、こんなに暖かいじゃ無いか、理不尽だ。教師の姿はまばらだった。皆部活動指導に出ているのだろう。

 話ってのはな…不登校の生徒たちについてなんだが…

 不登校…。

 いつの間にか、校内でも見かけなくなった生徒がいる。同じクラスの生徒ももちろんいた。表向きは体調不良と言うことになっているけど。

 勿論、タケシは全部を把握している訳では無いけれど、今日の始業式でも、三学期まで見かけた生徒が、ちらほらいなかったような気がした。

 「確かに、今日も欠席している生徒がポツポツいましたね」

 「だろう?まぁ欠席理由は、それぞれあるワケだけど、なぁ…」

 おせーぞ、バカ!回り込めぇ!サッカー部の顧問の怒号は、叱ると言うより気合い入れのためだ。タケシはイラつきを覚えた。

 気合いを入れる為に叱咤激励するなら、他に言い方があるハズだ、バカは無いだろう?そんな教師の言葉にも敏感に反応してしまう。

 「そこでな、不登校の事を学校だよりにも書くんだが…まぁオレが、なんだけど…それだけじゃなくて、生徒会通信でも呼びかけが欲しいんだよ」

 分かってた。不登校の話が出た時点で分かってはいたけど。

 「分かりました。実は、不登校の生徒の中には幼なじみもいるんです。まずは行動、ですね」

 重田は安心したように微笑んでいる。重田にとってもタケシは頼りになる存在なのだ。

 そうか…教師だけで何とかなる問題じゃないんだ。

 根が素直で単純なタケシは、もう不登校の生徒たちの事を考えていた。

 「愚直」と言われても、困っている生徒がいるのなら自分ができる事をする。それが、タケシだった。

 タケシの事をウザいと陰口を叩く生徒もいる。それを気にもかけないのがタケシの良いところだ。

 

 校内には「そよ風ルーム」と言う教室に入ることができない生徒たちの為の部屋がある。対象となる生徒以外がその教室に行く為には、教師の付き添いがいる。というか、もともとそこに一般の生徒が入室する事はできない。その教室を窓から覗く事も禁止されているくらいだ。

 ナツ。小山ナツはあの中にいるのだろうか?

 タケシは職員室を一礼して出ると、ESS部の部室へ向かった。そこには、やはり保育園の時からの幼なじみがいる。


              ※


 「ねぇ、何組になった?」

 「5組。マリアは?」

 「私は1組よ。階段から遠いのよね、あのクラス。あ、あとコウジが一緒」

 「ふぅん。こっちの5組は一人。ま、良いんだけどね。あ、あとチエがいたか…これも関係無いけど」

 店内には低音のビートを強調したKポップが流れている。

 私は苦手だけど、例えばチエやサキ、と言ったか、チエにいつもくっついているケバい子たちだったら、好きなのかもしれない。いつか休みの日に見かけた時は、思いっきり韓国メイクだったったっけ。

 午後のハンバーガーショップは、いつも喧騒に溢れている。

 仕事中のサラリーマンやOL。大学生。高校生。マリアは高校生たちの軽やかさに憧れる。私もいつかああなるのかな?

 タブレット端末を見せて何かの説明をしている女性のいかにもビジネスライクな横文字が羅列する説明を、鼻にかかった声で喋る声がウザい。相手は大学生くらいの頼りなさげな男性だった。

 アヤシイ勧誘なのかな?あの人、騙されているのかもしれない。

 もちろん、二人の間に割って入る事など出来ないのだけど。

 「この前、保育園行った。夏休みに少しお手伝いしようと思って」

 「あー、ハイハイ、園長先生ね」マリアの茶化した態度に、矢島ユイは臆面もなく、そうねー。と答える。

 「彼氏にしたいとか、付き合いたいとかそんなんじゃないけどね…やっぱり、ああいう男の人って良いなぁと思うわ」

 何?その喋り方、何で同い年でここまで違うのよ、とマリアは思う。

 ユイが大人っぽいのは、今に始まった事じゃない。

 すずめ保育園の時からそうだったのだ。

 目立つ事はないけど、決められた事はキッチリできる。それを自慢する事も無くて、いつもは一人で本を読んでいる事が多かった。お外で遊ぼうか?と保育士が声をかけると、うん。と行って必ずマリアのところへやって来た。

  マリアちゃん、ユイも混ぜて。その言葉のウラには、仕方なく来たの、って感じが漂っていた事に、幼いマリアは気がついていた。

 一度、なぜ自分のところにに必ず来るのかを尋ねた事がある。


 ーマリアちゃんなら、ぜったい、いいよ、って言ってくれるでしょ?だから。


 ユイは、幼い頃からこうなのだ。でも、その頼られ方が、幼いマリアは嫌いではなかった。多分、ユイには自分が居心地の良い場所や人を見つけ出す持って生まれた才能があるんだわ。

 そんなユイが、唐突に園長先生の事を好きだと打ち明けたことがあった。まだ二人が保育園に通っていた頃の話だ。

 「園長先生、だあい好き。ユイ、いつかね、プロポーズするんだ」

 「そうなんだ」マリアは驚きながらそう答えるしかなかった。

 小学校になると、流石にプロポーズする、とは言わなくなったが、あんな男性が理想だ、とずって言っている。

 そういえば、と話を切ってユイは氷が溶けて薄くなったコーラをズッとすする。その意外に大きな音にマリアは周りを見回した。この癖、直んないわねこのコ。頓着がないって言うかなんて言うか…

 「今日、タケシが部室に来た」

 ユイはESS部の副部長をやっている。まぁ、お似合いだ。私なんか合気道なんだから。道場に週三回は通っていて、下手な男子よりもタフだもんね…

 「え?今日部活やったの?」

 「いんや。今年度の打ち合わせしてたの。ほら、3年いなくなるからさ」

 次期部長だもんね、とマリアが言うと。ユイは、私以外誰もなりたがるワケ無いじゃん、と澄まし顔で言う。まぁ貧乏クジだね。

 「それはどうでもいいんだけどさ、なんの事だったと思う?」

 「さぁ?」

 部費の事?それとも何かの大会に出て欲しいとか?

 「具体的に言うと小山ナツの事、だと思う」

 「具体的にって?」

 小山ナツの事は、今日の朝、コウジ達と話したばかりだった。タイミング良すぎ。

 「なんかさ、不登校の問題で生徒会で動く事になったみたいで」

 「うん」

 「それをなんで私に相談するのか、って思ったのよ」

 「確かに」

 「よくよく話を聴いてみると、どうも遠回しに小山ナツのこと尋ねてるっぽいのね」

 「ほう…」

 生徒会が不登校のことで動く。つまり、学校側もこの問題を職員室と言う密室で対応するだけでは無くて、とりあえず個人情報は秘したまま、と言っても場合によっては一部解禁して取り組む事にしたらしい。

 現生徒会のメンバーはタケシを中心に、そこそこの人望がある。学校はそこを利用しようとしているのだ、とマリアは思った。ま、そう単純じゃないかもだけど。

 「ねぇマリア、小山ナツって今どうしてるの?『そよ風』にいるの?」

 「え?どうだろ…いるのかな…だってナツ最後に見たの、確か去年の修学旅行の時だよ」

 「私は、その後も見たかも。確か…2年の三学期の終業式前かな…」

 修学旅行は1月。マリアは物憂げな顔で、新幹線の座席に座っていたナツをお覚えている。ナツはいつから、あんな風になったんだっけ。

 「そのうちマリアのとこにも来るわよ、タケシ」

 「そんなゾンビみたく言わんでも…」

 オレンジジュースはもうオレンジジュースであることをやめて、薄いオレンジ色の氷水になっている。フライドポテトも冷えて油がまわってしまっていて、口に含むと嫌な味がした。どうしてハンバーガーショップのメニューは、時間の流れにこうもアッサリと敗北してしまうのか。まぁ時間の流れに敗北しないポテトも気持ち悪いけど。

「とにかく、一度集まろうか。タケシだけにいいカッコさせたくないし」

 マリアは、口の中で弄んでいた氷のカケラを吹き出しそうになる。

 アンタらしいわ。

 ユイは端末を操作し始めた。


               ※


 使い込まれた寸胴鍋におたまを突っ込んでかき混ぜると、玉ねぎ、人参、じゃがいも、それにホロホロになった牛肉と豚肉がスープの中で踊る。

 ナツは、そのスープにローリエの乾燥した葉っぱを四枚放り込む。硬く乾燥した白っぽい葉っぱは、スープの中ですぐに芳香を放ちはじめる。


 幸せの匂いだ。

 

 ナツは、水分を吸い込み濃い緑色に変わったスープの中に沈んでゆくローリエをじっとみつめる。

 床は黒光りする板張り。ここの床は毎日ナツ自身がしっかりと拭きあげている。白い漆喰の壁に埋め込まれた柱もこれもまた、黒光りしている。建物自体が古いのだ。1940年代に建てられたのだ、とコバさんがいつか話してくれた。

 「今はこんなんだけど、当時は最新だったのよ。あ、最新って言うか当時の標準と言うか。とにかくキレイだったんだから」

 「今でもキレイですよ、この建物。コバさん、しっかり手入れしてると思います」

 「ありがと。褒めてくれるのナッちゃんぐらいだよ。連れ合い…あ、旦那のことね。あの人はここに寄り付きもしなかったから。わたしの家が借家持っていて、その家賃で収入を得てたってのが気に食わなかったみたいでね、モーレツ社員だったの。でも過労死、っていうの?あんな死に方しちゃって。全く…」

 コバさん、小林ミキヨさんの旦那さんは、残業が続いた挙句自分の事務机で眠るように死んでいたそうだ。疲労からの心筋梗塞と診断された。

 「私がケンカしてでも仕事辞めさせてりゃ良かった、って未だに思うの…婿養子だったからって張り切りすぎだよねぇ、全く…」

 台所の裏木戸は開けてあった。そこからわずかな風に乗って、庭にある小さな桜の木の花びらが入ってくる。黒い床の上に桜色のコラージュ。

 「今日のカレー15人分で足りますかね?」

 「さぁねぇ…なっちゃんはどう思う?」

 「増えるんじゃないでしょうか?ここのこと、あちこちで噂になってますから、あ、もちろん良い噂だけど」

 「そうだと良いけど。この前も小学校の校長先生が来たよ。ありがとうございます、小林さんのおかげで、放課後のこどもたちの居場所ができましたってね。そりゃ、嬉しいけどさ、本来ならこんなところ無くても良いって、わたしは思っているんだけどねぇ」

 コバさんは、ナツの湯呑みにお茶を注いでくれる。先ほど食べた大福餅の甘ったるさを緑茶の渋みが中和してゆく。ナツは軽く口中に緑茶を含み、舌を洗うように動かしてみた。カテキンってすごい。

 ここが無かったら、困ります。

 「あ…ごめんよ。なっちゃんがこうして来てくれる事に感謝しなきゃいけないね。軽率でした」ごめんね、とコバさんはもう一言すまなそうに誤った。

 「大丈夫です。コバさんの本音が聴けて良かったです。何気ない態度とか何気ない言葉で言われるよりも、本音を言われた方が安心します。あの、父から連絡とか…?」

 「そうかい?ありがとうね。お父さん?ああ、この前、買い出しの時に会ったよ、よろしくお願いします、って言うから、こちらが助かっていますって言っといたわ」

 ナツは残りのお茶を飲み干す。湯呑みの底に溜まっていた茶の葉のクズが渋くて美味しかった。

「さぁ、そろそろ第一陣が来る頃だね。なっちゃん、台所終わったら、学習室に顔出してね」

 コバさんは、椅子から立ち上がると学習室やトイレの清掃を始めるはずだ。ナツは、カレーの仕上げに取り掛かる。

 今はここ「コバさんのこども食堂」がナツの居場所だ。


               ※


あらっ!まぁまぁ!久しぶりの顔ぶれじゃないの、とコウジの母親は嬉しそうだ。

何せ「すずめ保育園」の出身者が4人も集っているのだから。

今日までは、学期始めで短縮授業だ。

コウジママに会いたいな、というマリアの提案で、コウジの家に集まることになった。

 「ごぶさたしてます!全然おかわりありませんね」

 「何お世辞言ってんの!タケシくんこそ。生徒会長は違うわぁ、やっぱり」

 「いや、本当です!おばさん、変わらないです」

 おばさんって…褒めているのか馬鹿にしているのかわかんねぇだろうが。まあ、タケシのことだ。何も考えて無いんだろうけど。

 コウジは頭を抱えた。横を見るとマリアも「あちゃぁ」という顔をしている。

 こんなところが浮世離れしているというか。明らかに同世代のコウジたちとズレている。

 笑いながら、大きな体を折り曲げて、コウジの母親と笑いあっている。それでも、スーパーの試供品を配っている販売員のようなあざとさが無いのだ。タケシ、何なんだお前は。

 「てか、ぅお久しぶりでぃス!おじゃましまぁす!うわ、変わんねぇ!ってオレはこの前来たけどな。コウジ、マンガの続き読ませてくれよ」

 「バカガミっ!あ、バカだよね昔から、ね?コウジママ」

 「マリアちゃん!その見た目が泣いちゃうよ。もっと、しおらしくしてなきゃあ。彼氏も出来ないわよ」

 「いーの!私、合気道一筋だから。彼氏なんかいたら植芝先生に合わせる顔が無いわ」

 「植芝先生?」

 ああ、またマリアのマニアックなな合気道話が始まった。植芝先生というのは現代合気道の祖と言われる植芝盛平という達人の事だ。コウジは頼みもしないのに延々とその偉業を話された事があったのだ。

 「とにかく上がろうぜ、お母さん、みんなのお茶、よろしくね」

 いらないよ、ここにある。とユイは2リットルサイズのペットボトルの飲み物とプラスチックのコップが入った、スーパーの袋を掲げる。ソツの無いユイらしい。

 「あーあるわ。いらないわ。さぁ、みんな上がった、上がった」

 ガミ、マリア、ユイの順で2階のコウジの部屋へ上がってゆく。最後にユイが二人の運動靴をキチンと揃えていた。

 タケシとコウジの母は先ほどのノリのまま、消費税の増税に対する近隣スーパーの動向を話していたのを、コウジが無理やり中断して、タケシを2階へ押し上げた。

 「じゃあ、また後ほどでーす!」だからタケシ、お前は何者だ?


 「いや、考えてみてくれ。もし、このまま消費税が増税されると、みんなが大好きな商店街のコロッケパンや、メンチカツサンド、ハンバーガーが、値上がりするじゃあないか。僕たちの小遣い、ひいてはみんなの生活にも大きな影響がある。と、言うことは…」

 「待って」

 ユイはコップに、炭酸飲料を注ぎながらユイがタケシを遮った。ガミは注がれたカップをいち早く掴み取り一気にノドに流し込む。かーッ!うめぇ!マリアはガミを睨みつける。当のガミは全くお構いなしだ。

 「何だい?ユイ?」

 「あのね、私が何のため皆んなをここに集めたと思ってるの?」

 もう一杯くれ、とカップを差し出したガミに無言で、ペットボトルを差し出す。あ、手酌ですね、ハイハイ…

 「それは、不登校の生徒たちの問題をみんなと考えるためだ。特に小山ナツは、僕たちと同じ保育園からの友達じゃ無いか」

 「じゃあそこで何故、消費税増税の話が出てくるのかな?その説明はしなくて良いから」ユイはきっぱり言い切った。

 これがユイなのだ。

 コウジは思う。今のタケシにユイのような整然さが加わったなら、最強の生徒会長になるのに。しかし、それはそれで完璧すぎて嫌味のような気もするが。

 「うん。そうだった。つい熱くなりすぎてしまった。すまない」

 素直すぎ。マリアは呆れてため息をつく。

 「で、何なの?不登校の問題?それ、タケシが言い出しっぺなワケ?」

 タケシは、生徒会担当の教師である重田から、その問題を生徒会を通じて全校生徒で考えて欲しい旨、打診されたこと。そして、その相談をユイに持ちかけた事を説明し始めた。

 タケシは生徒会長モードに入ると、問題の内容を理路整然と理解しやすい言葉で説明する。語彙力の豊富さと、それをしっかり理解して、わかりやすい言葉で伝える能力。そして何よりも声が心地よい。先ほど母と話していた、少し鼻にかかった甲高い声はなりを潜めて、年齢には不相応とも聴こえる低音に切り替わる。コウジには到底真似できない芸当だ。

 「と、言うわけなんだ。みんなの意見を訊かせて欲しい」

 ユイは、ズッと音をさせてカップのお茶を飲み干した。マリアは、両手にカップを包むように持ち、正座した膝の上に置いて俯いている。

 コウジは棚にディスプレイしてあるロボットのプラモデル見ている。何ができる?せいぜいカタチ通りの啓発プリントでも作って全校生徒に配るか?

 4月とはいえ、西日の差し込む六畳間に育ち盛りの中学生が四人も集えば、それなりに室温は上がる。マリアとユイのシャンプーの香りが息苦しくもあった。

 「まぁ、アレだな。オレたちにとってみればさ、まずナツだろ?ナツが出てくれば第一ミッションクリアだろ?」ガミだけが、ポテトスナックをパリパリ食べながら言う。

 「そうだろうか?ガミ。問題はそんな簡単じゃ無いと思わないか?」

 ガミは、オーバーリアクションで眉をひそめつつ、タケシを睨もうとしたが、その前にマリアと視線が合ってしまい、所在無く視線をそらした。そして。

 「いや…それじゃ、どうすんのよ?プリントでも作って配るくらいしかなくね?生徒会としてはどうなんだよ?」

 マリアはガミを睨む。

 「実は…僕もガミと同じ事を考えているんだよ。と言うか、正攻法で行くとなると、それしか無い」

 コウジ、マリア、ガミの3人は一斉にタケシを見た。はぁ?アンタがそれで、どーすんのよ?ユイだけがタケシを見ずに、ズッ、とカップのお茶をすすっている。

 「だからさ…」

 やはりタケシはそれだけじゃ無いようだ。

「だから、まずは、何人かで『そよ風』に行ってみないか?あの教室は、みんなも知っていると思うけど、僕たち一般の生徒は入室できない。僕と…そうだな…コウジの二人でいきたい」

 おいおいおいおい。どう言う事だ?何でオレが巻き込まれてんのよ。

 「タケシ、なんでコウジなの?ユイの方が適任じゃない?」マリア、よくぞ訊いてくれた。その通りだと思うぞ。

 「うん。それなんだけど、最初はユイかマリアに頼もうと思ってた。けど…」

 マリアは「へ?」という顔でタケシを見る。

 「男子と女子、と言うのが引っかかってさ。それに、コウジはアニメやマンガにも詳しいだろ?」そこか。確かにあそこにはそんな生徒も居そうではあるけど。単純っちゃ単純だぞタケシ。

 なんでオレが… 

 コウジは立ち上がって、部屋のドアを開けた。ようやく窓から入った風が廊下に吹き抜ける。少し温度が下がった気がする。

 「生徒会でまず動くべきだろ?」

 「いや。生徒会は、その後で良いんだ。僕とコウジが動いたあとでね、それに生徒会メンバーだけで行くと、向こうも身構えちゃうだろ?その点、少人数の方がみんなも安心すると思うんだ。コウジはその筋ではそれなりに有名なんだろ?噂は聞いてるよ」

 コウジは何だか、自分の私生活を見透かされているような気がした。しかし、タケシの言う事にも一里あるとは思う。自分だってひょっとしたら、あそこにいたかも知れないのだ。

 コウジも実は、不登校になりかけた事があった。その時は、自分が好きだったマンガの原作者がいわれのないパクリ疑惑で世間を騒がせた事があって、その時に何故かその作品を好きだ、と公言していたコウジを含めた数人が槍玉に挙げられたのだ。


ーパクリマンガを読んでいるヤツの気が知れない。

ーひょっとしたら、もっとヤバいマンガとかも読んでんじゃね?ヲタって怖いよなぁ…


 コウジは今でもあの時の事を思い出すと、胸がつかえるような嫌な気分になる。

 あの時、休みながらでも何とか学校に行けたのは、今ここに集ったメンバーのおかげだ。表立って庇ってくれたガミ。コウジはそのせいで喧嘩に巻き込まれるハメになったのだが。

 マリアも、陰口を叩いていた女子たちと大立ち回りを演じそうになった。

 ユイは、授業中に「うるさい。バカじゃないの」と言い放ちスタスタと教室を出て行った。

 端末掲示板で、理路整然とした文章でもって誹謗中傷していたヤツらを叩きのめした。

 それに槍玉に上がったメンバーの中には、ナツもいた。ナツもコウジと同じマンガの読者だった。


 ナツか…


 コウジは、タケシが他のメンバーに『そよ風』を訪問する人間が、何故コウジであるべきなのか、について熱弁を振るっている。

 コウジは、自分の勉強机の椅子に座り、ガミはコウジのベッドに横になっていて、そのベッドにタケシが座っている。ベッドの横、ガミの頭の横にマリア、その対面にユイ。真ん中には炭酸飲料のペットボトルとコウジの母が用意したクッキーやスナック菓子を盛った容器が置いてある。小学校の時も似たような事があったような。その時は何で集まったんだっけ?そしてナツも居たはずなんだ。


 少しづつ日が長くなり、夕方6時とはいえ、まだ明るい。開け放たれた窓から、近所の小学生の声が飛び込んで来る。

 中学に入って2年が過ぎた。その間にコウジたちには分からない悩みを抱えて、学校に行けない、行かない。あるいは登校しても『そよ風』にしか入れない子供たちがいる。みんな目を背けている現実が、自分が通う中学校にある。

「タケシ、それでいつにすんの?『そよ風』」


                 ※


 数日後、コウジはタケシと職員室に重田を訪ねた。

 「中山、お前もどうだ?生徒会?斉木が一緒だったら、お前も心強いんじゃ無いか」

 良く言うよ、とコウジは愛想笑いで返した。愛想笑いをできるようになった自分に嫌悪しながら。

 「先生。で、どんな感じ何ですか?『そよ風』入れそうなんですか?」

 機転を効かせたタケシが、素早く話題を変えてくれた。さすがだ、タケシ。

 「それなんだが…川村先生から直接お前たちと話したい、って言われてなぁ」

 川村というのは、コウジたちの学年の英語の教師だ。それはそうですね、とタケシはわけ知り顔で頷く。

 「え?なんで、川村先生なの?」

 「え?コウジ知らなかった?川村先生、『そよかぜ』の担任だよ」コウジにとっては初耳だった。もともと英語は得意では無いコウジである。川村にはあまり良い印象は無い。勿論、向こうもあまり良く思って無いだろう。

 あ、川村先生こっちこっち。重田が職員室に入ってきた川村を呼ぶ。川村の表情は固い。やはり、あまり乗り気では無いのだろうか。

 こんにちわ、と好感度たっぷりの笑顔で挨拶するタケシにつられて、コウジも頭をぺこりと頭を下げる。

 「こんにちわ。斉木くんはともかく、なぜ中山くんが?」

 「僕が声をかけました。理由は…」タケシの言葉を川村は左手をあげて遮った。なんだ?感じワリぃな。

 「面談室で話しましょう。良いですね?重田先生?」重田は、ああ、そうですね、ここではね、と焦り気味で答える。なんだ?この川村の気に入りません全開のオーラ。コウジは早くも、タケシに付き合った事を後悔し始めていた。

 

 面談室は生徒会室の隣、にある。常時使う部屋で無い分、無機的な雰囲気だ。

 ずっと以前、コウジたちの親の世代、まだ教師たちが今より生徒に威圧感をきかせていた時代は、この場所は教師にたてついたり、風紀違反をした生徒を男子はボウズ、女子は前髪パッツンにされた挙句、終日閉じ込めて漢字の書き取りや、英単語の書き取りをやらせていた、という事だ。勿論、今の学校にその時代を知る教師はいない。子供の反抗心を、教師の支配力で強引に封じていた時代だったのだろう。

 「流石にちょっと寒いわね。暖房入れましょう」川村はリモコンを操作してエアコンをの電源をオンにする。永い眠りから息を吹き返した年代物のエアコンは冷たい空気を吐き出し始めた。暖気が出るまでどのくらいかかるのだろう。おまけに、コウジはその風がモロに当たる場所に座らされた。

 川村は、まず斉木くん、と不機嫌な声でタケシに呼びかけた。

 「はい」タケシは笑顔70パーセントカットで返事をする。

 「『そよ風ルーム』がどんな場所か、あなたなりに説明してみて。出来るだけ簡単な言葉を使ってね」川村は、まずタケシの語彙力を封殺する作戦に出た。バーカ。タケシナメんなよ。

 「そうですね…学校生活に於いて、友達や先生とコミュニケーションを取ることが難しい、または取ることができない生徒が、まず、登校して落ち着ける場所が、『そよかぜルーム』だと思います」

 おお、なんて簡潔で明快な答えだ。ザマァ見ろ、川村。コウジは終始、川村越しにエアコンを見ていたが、さすがに目が乾いてきて、親指と人差し指で両目を抑えた。

 「先生、風向きを変えてもらえますか?コウジが辛そうなので」おお、タケシ心の友よ。

 川村は、リモコンを操作して風向きを足元に向けた。最初からそうしてろ、バーカ。

 「さすがね。斉木くん。英語だけじゃなくて国語もA判定なだけあるわね。その通り。あの教室はシェルターみたいなモノなのよ。あの子たちにとってはね。中学校が義務教育である以上、まず、出席することが第一歩。その為の場所よ」

 タケシは真剣な顔で頷く。コウジもつられて頷く。

 「重田先生から今回の事を打診された時、正直呆れた。ようやくですか、ってね。そもそも、生徒会を使おうってのが、引っかかったのよ。あなたには悪いけど、生徒会をダシに使ってるみたいで。それに、今更って思ったのよ。

 『そよかぜ』ができて2年目になるけど、それまで腫れ物に扱うようにしていてさ、多分、教育委員会から、つつかれた途端この有様。もし、教育委員会からつつかれなかったら、まだ放置していたハズ。ホント呆れてモノも言えないわ」何だ?この川村の迫力は?とコウジは思った。生徒相手にマジになってんじゃねぇよ…

 「そうだったんですね…」タケシが、川村に押し負けしているように見えた。普通ならどんな教師とも対等かそれ以上に渡り合うハズのタケシが。

 川村は自分で望んで『そよかぜルーム』の担任を申し出た、とも訊いている。

 「でも、重田先生も僕らに頼るしかなかったんだと思います」オレ、出る幕なし。いらないじゃん、オレ。

 「もちろん、重田先生は責めてない。むしろ同情しちゃうわよ。『そよかぜルーム』を運営するに当たっては、教育委員会から諸々の補助を受けているの」

 「その報告が甘かった?って事ですかね…」やった。一言喋れた。でも最後の方はかなり小声になってしまったけど。

 「恐らくね。でも、重田先生はその事を私には話さないのよ。ストレートに言えば良いのにね。パワハラが怖いのねきっと」

 なんかこの人、マリアみたいに見えてきたぞ。格闘技、好きだったりして。

 「ふむ。先生の思いは分かりました」出た。タケシ、お前本当に何者だ?ふむ、ってなんだ?ふむ、って。

 「それでも僕たちは、あの教室から出ることができない皆んなをサポートしなきゃいけないと思うんです。

 もし…もし、なんですけど、あえて僕たちと交わらずにあそこに居たい。つまり…これは、ちょっと酷い言い方ですけど、やりたい事が別にあって、出席日数稼ぎの為に、あそこにいるって生徒は。それはそれで良いと思うんです。明確にやりたい事が見えている生徒なら。でも、そんな生徒がいるんでしょうか?みんな将来なんて想像できていない、と思うんです」

 川村は黙ってタケシの話に耳を傾けている。 

 「僕だって、コウジだってみんな不安なんです。学校ではそれを上手くごまかしているけど。一人になって落ち込む時もあると思うんです。

 『そよかぜルーム』の生徒だって同じですよね?その不安を隠しきれないだけで、むしろ素直なのかもしれない。それに…もう言っちゃいますけど、いじめが原因で、あそこから出られない生徒もいますよね?それは絶対よくないです」

 「いじめの事は、ぶっちゃけオモテに出して良いと思います。個人名はもちろん出さなくても良いけど、どんな内容でどんないじめを受けたか、って事は…実際僕も不登校になりかけたし…」

 「そうだったの?中山くん?」川村は驚いてコウジを見ている。いじめの事を自分の口で大人に話したのは初めてだ。両親にさえ喋っていない。

 「その時にタケシや他の仲間が助けてくれました。僕が今回、タケシに付き合ったのはその事があるからなんです。なんか、偽善者みたいで嫌だけど…」

 川村はパイプ椅子から立ち上がって、小さな冷蔵庫に歩いてゆく。

 これ、ナイショにね、というと冷蔵庫から缶ジュースを取り出して、タケシとコウジに前に置いた。

 「あなたたちの気持ちは分かりました」


 私の弟もいろいろあってね。


 その声を聞いてコウジが川村の方を見る。川村は手帳を開いて、内容を確認していた。


                ※


  こんな時間まで、とガミは思う。3月とはいえ、まだ日が暮れると寒い。

 部活で高揚した身体が徐々に冷えてくる。

 去年の中総体以降、つまり三年生がコートから姿を消してから、ガミの扱いは劇的に変わった。三年はガミの事を使い勝手の良いサブプレイヤーとしか扱わなかった。それは、顧問も堂島も同じ。ガミは、素早く動いて相手を撹乱する事がで来ても、点に結びつくシュート力が弱かった。

 相手からボールを奪うのはそんなに難しい事じゃない。ガミは得意の俊足でボールキープした相手プレイヤーに追いつくと、左右にブロッキングして進路を断つ。相手のイラだちが頂点に達した時の隙、相手がガミに気をそらした、その時にカットする。瞬間の見極め能力は相手チームでさえ賞賛するほどだ。

 ドリブルも速い。右に左にクロスオーバードリブルをキメて、ゴールに走り込む。


 だけど。


 ゴールぎわに走り込んだ時、三年の視線が刺さる。

 パスを出せ、速く出せ!どうせお前は跳べねぇんだから!


 瞬時にガミの身体は硬直してしまう。

 練習なら。三年生がいない練習ならば、迷いなくゴールへ向かって飛び上がれるのに。

 その三年生がいなくなった途端、ガミは呪縛から解き放たれた。

 ゴール下での決断力が、確実に速くなった。練習であろうが試合であろうが。躊躇なく跳ぶ事ができるようになった。ジャンプの高さも少しづつだが上がって来ている。ガミが部活を楽しめるようになったのは、そこからかも知れない。


 それにしても冷えるな。もう三月だってのに。昼間はあんなに暑かったじゃんか。

 ガミは路地を曲がって、住宅地の奥まったところにある、年季の入った一軒家のベルを押す。

 はぁい、と明るい声がして引き戸が開いた。今日の晩ご飯はカレーだったらしい。

 「こんばんわ。いつもスンマセン。アキラ、今日も来てますか?」

 「ハイ、お疲れさん!今日も来てるよ。アキラちゃぁん!兄ちゃん来たよぉ!」

 コバさんはいつもこのテンションだ。自分の子供がいないのが信じられないくらいに子供たちとの付き合いが上手い。

 「兄ちゃん、お帰り!今日もバスケ頑張った?」

 「もっちろんよ!今度の試合、見に来いよ。バッチリ活躍すっからさ」

 アキラちゃん、カバン持ってきて。忘れ物、しないようにね。コバさんが声をかけると、アキラは、はぁい、と快活な返事をしてカバンを取りに行く。奥ではまだ子供の声が聴こえている。時刻はもう午後7時になろうとしているのに他の子ども達の親は何をしているのだろう。

 「じゃ、これ、今日の分です」アキラは5百円玉をコバさんに渡す。

 「はい。どうもね。今日はおやつは、おせんべ。晩ご飯はカレーだよ」

 「コバさん、マジでこんだけでやっていけてるんですか?ここ」

 コバさんは、やはり元気に笑いながら、大丈夫だよ、ちゃーんと足りてるよ、と言う。

 「区からの補助もあるし、商店街のお店がいろんな物を寄付してくれてるしね。場合によっちゃ余ることもあるから」

 「そうなんですね。それはスゲェなぁ」世の中は捨てたモンじゃ無いってか、じゃ、ウチの家はどうなってんだよ、ってハナシだけど…

 「じゃあね、コバさん!お世話になりました!」アキラは玄関の上がりかまちに腰掛けて、靴を履いている。この靴も買い直さなきゃ。

 「ハイ!またね。宿題はもう終わった?」

 「うん!あとは帰って時間割してお風呂入って寝るだけ!」

 「うん。上出来!また明日ね」

 引き戸を閉める時に、一瞬コバさんでは無い声が聞こえた気がした。大人が他にいるのかな?ボランティア?てか、大人の声にしちゃ若かったような…

 ガミはしゃがんで、アキラのジャンパーのチャックを閉めてやる。

 しゃがんだガミの後ろから、ふっと甘い香りがガミの鼻をくすぐった。

 「お疲れ。優しいじゃん」

 同じ学校の女子がそこに立っていた。


 「お?おお?しらいぃ?」確か白井チエとかいうコだ。よくバスケの練習を他の女子と見ている。ガミは、どうせ誰かの彼女だろう、とタカを括っていたから、ほぼ眼中にはなかった。

 「兄ちゃん、だれ?」アキラが興味シンシンでチエを見上げている。そう、チエの身長は、ガミよりもほんの少しだが高い。

 「同じ中学の女子だよ」

 「ふぅん…」ガミは。小学校二年生の感性だ、と思う。

 「こんばんわ。アキラくん。白井チエ。チエちゃん、って呼んで」

 大人びた外見と比較して、思ったより優しい声だった。

 「んで、何の用事だ?てか、早く帰んなきゃ…こんなところ誰かに見つかったら、ややこしい事になるじゃんよ」

 時間は7時過ぎている。自分とアキラだけならまだしも、チエと一緒だと、最悪「部停」いわゆる部活動停止になり、目も当てられない事になる。

 じゃ、行こっか。チエはアキラに手を差し出す。アキラはしばらくガミの顔を見ていたが、チエがアキラの右手をそっと握って、にっこりと笑いかけた。

 おお?どう言う事だ?何が何が起こっているんだ?

 「アキラのお兄ちゃん優しいね」

 「うん。優しいよ。必ずお迎えに来てくれるんだ」

 「そうなんだ?その上、カッコいいんだよ。バスケもね、すごく上手なの」

 「そうなの?チエちゃん見た事あるの?良いなぁ…僕、最近お兄ちゃんがバスケするところ見て無いんだ」カッコ良いって?オレが…

 「そうなのね。よし、今度チエと見に行こうか?」ほんと?アキラは、はしゃいで飛び跳ねている。

 ガミはそのあとをトボトボと歩く。彼は一体何が起こっているのか全くわからなかった。面識程度しかなかった女子がいきなり暗がりから現れ、自分の弟と仲良さげに話している。これ、シュールって言うのか?コウジやタケシだったそう言うのか?

 コウジとアキラの家、と言っても古い市営団地だが、その前まで来ると、チエはアキラの手を離した。バイバイ、またね。

 「今度、バスケね!絶対だよ!」アキラは飛び跳ねながら階段を登ってゆき、踊り場で何回もチエに手を振った。

 「さ、タツヤも帰りなよ。私も帰ろっと」

 「あ、お前オレのことタツヤって…」

 「何で?タツヤでしょ?江上タツヤ」

 「いや…みんなガミって呼ぶからさ…タツヤって呼ぶの親ぐらいだし…」

 「タツヤはタツヤじゃん!ガミとかダサいよ。少なくとも私はタツヤって呼ぶ」

 はぁ?何だこのオンナは?

 「いや、し、白井?どう言う事なんだよ?いきなりなんなんだ?」

 「うへへ、ストーカーしてたの。タツヤのこと…」

 「う、嘘っ?お前、こえーよそれ!目的はなんなんだよ」声が上ずっちゃったじゃねぇかよ!

 「バッカじゃ無い、んな事あるワケ無いじゃん。てかさ、タツヤ彼女いないでしょ?」

 またいきなりそれですか?

 「私じゃダメかな?あんたの事ずっと見てたんだけど…」


 付き合いたいんだけど、タツヤと。


 オレ、告られてんのか?告られてんな、これ…

 「いきなりだなオイ…」

 「ま、考えといてよ。あ、そうアキラのお迎え、今度から私も行くね」

 「いや、それはマジぃよ…お迎えは家族で、って決まりがあるんだ」

 ふぅん、とチエはすらりとした人差し指を形の良い顎に当てて、トントンと軽く叩いている。

 「そこは、タケシが口添えしてよ。彼女です、とかさ」彼女て…

 「えぇ?あ…うーん…どうなんだろ…なんか今色々うるさいからなぁ…」確かに最近は、児童に関連した犯罪が増えている。しかし、チエにそんな雰囲気が微塵も無い、と言うことは、鈍感なガミにも分かった。

 「私がアキラを先に迎えに行く。タツヤは目一杯部活やって、その後で私たちに合流すれば良いじゃん」

 確かにチエの提案は魅力的ではあった。今はアキラのお迎えがあるから、全員がまだ片付けをしているのに、断りを言いつつ先に帰っているガミである。

 「考えといてよ。何なら私、あのおばちゃんに学生証とかキチンと見せるし、タツヤが委任状?って言うの?書いてみても良いんじゃ無い?」

 じゃ、また明日!と言うとチエは去っていった。


 それが、一ヶ月ほど前である。結局、ガミは迷った挙句、「コバさんの子ども食堂」の責任者であるコバさんに許可を取り付け、アキラのお迎えはチエに頼むことになった。

 アキラはチエがとても気にいったようだ。そして、タツヤも。


               ※


 とにかく、『そよ風ルーム』をコウジとタケシが訪問できる事になった。

 川村は、学校長や教育委員会そのほかにも、『そよ風ルーム』を支援している地域団体に話をつけてくれたのである。その中には「すずめ保育園」の現在の園長である、結城園長も含まれていた。


 タケシが一度挨拶に保育園に行こう、と言うのでコウジも付き合う事にした。土曜日の午後の事である。

 いずれ行かなくてはいけないのだし、コウジ自身も保育園へ行ってみたかった。最後に保育園を訪れたのは、コウジたちが中学校に入学した日だったから、あれから2年近くの月日が流れた、と言う事になる。

 「なぁ、ユイにも声かけるべきだったかな?」

 「いいんじゃね?別に。あいつの事だから、ときどき会いに行ってるかも知れないし」

 ユイが園長先生に憧れている、と言うのはコウジたちの代の卒園生の間では、そこそこ知られていた。

 「しかし、ユイも変わってるよな?」いや、お前が言うか?タケシよ。

 「まぁな。でも、憧れ、だろ?あくまで、恋愛感情とは少し違うんじゃねぇの?」

 「そうだろうか?多分デートしたい、とかそう言うリアルな話じゃ無いだろうけど…」そりゃ、そうだろう。ユイもそこまでバカじゃ無い。

 あれだけ、咲き誇っていた桜の花も、もうほとんど散った。『すずめ保育園』は、コウジたちの中学校から、15分ほど歩いたところにある。やはり、桜の並木を歩いてゆく。もっとも、桜の花は散ってしまっているが。

 「コウジ、実は」

 「なに?」

 「ユイを好きだった事があってさ。小学校の頃なんだけど」

 「へぇ。で、告白したの?」

 「うん。好きです、って告白したら、知ってたって言われた」

 一事が万事、この調子のタケシである。おそらくユイへの気持ちが、日々の行動からダダ漏れだったのだろう。

 「で?」

 「私、具体的に何したら良いの?って訊かれたから」

 「うん」

 「僕も分からないけど、とにかく気持ちを伝えたかった、って言った」やはり、タケシ。

 「おいおい。そこはデートしようとか何とか言うべきだろう?タケシらしいよなぁ、ホント」

 「僕も後でそう思った。でも、とっさにその…デートの事が頭に浮かばなかった」

 おそらくユイの事だ。いつも通りの表情で、いつも通りのテンションで、タケシの言葉を受け止めたのだろう。

 「どうせ、ユイも、ありがとう。でも、好きな人いるから、とか言われたんだろ?」

 よく分かるな、とタケシは驚いた。分からいでか。ユイはそう言う女子なのだ。

 「今はどうなんだ?ユイのこと?」

 タケシは、しばらく黙って考えていた。ははーん、まだ未練があるな、お前。

 「今でもユイは素敵だ、と思う。でも、あの頃の好きと言う気持ちじゃ無い気がする。何と言うか…理想だな、ユイは。そう、あんな風に生きてみたい、って言う理想だよ」

 ユイのすっきりとした鼻のラインと理知的なおでこ。そして、澄んだ眼差し。コウジは、タケシの気持ちが少し分かった気がした。少し。

 桜並木を外れ、住宅街に続く坂道を登ってゆく。その途中にあるのが、コウジとタケシが幼少期を過ごした場所、「すずめ保育園」だ。


                 ※


 タケシとコウジは正面の門を通り、園舎の正面玄関のインターフォンのボタンを押した。

 「お電話してた斉木です」

 あー、いらっしゃーい!と言う声がして、ウィィィン…と電気錠が解錠された。最近は防犯上の問題もあって、警備もそれなりに厳重になっているらしい。コウジがここにいた頃は、暑い時期になると、窓も、この正面玄関も開けっ放しだった。懐かしい匂い、保育園の園舎が持つ独特の匂いが、コウジとタケシの郷愁を誘った。

 「二人とも、大きくなったわねぇ!特にタケちゃん!」コウジでも見上げるタケシである。まぁ、池田先生も驚くわな。

 「コーちゃんも、大きくなって!もう、しっかり少年ねぇ」ハイ、ありがとうございます。タケシほどじゃ無いっす。しかし、みんな母さんと同じ反応だな。やっぱり大人にとって、子供の成長をみるのは楽しみのひとつなのだろう。

 池田先生は、コウジとタケシの4歳児の時の担任だった。怒るとかなり怖いが、いつもは笑顔が絶えない、明るい保母さんだ。あれから10年近く経っている。もう、結婚したのだろうか?まぁ、訊けないけど。

 保育園はお昼寝も終わり、おやつの時間になっていた。今日におやつは手作りドーナツのようだ。甘くて香ばしい匂いが給食室から漂って来る。

 

 さぁ、入って。園長先生、待っているわよ。コウジたちは、職員室の片隅の応接スペースに通された。そこには4歳児クラスの男の子がベソをかいて座っている。

 「そうちゃん、どうした?ああ、擦りむいたのか」

 「うん。りゅうちゃんと鬼ごっこしてたら転んだ」

 「ちゃんとバンソウコ貼ってもらってるじゃない。もう大丈夫だよ?」

 「うん…でも、まだ痛いよ」

 「そう?じゃ、ちょっと立ってごらん?」

 そうちゃん、と呼ばれた男の子は応接ソファーから立ち上がった。

 「どう?痛い?でも、立てたでしょ?ジャンプしてごらん?」

 そうちゃんはぴょこぴょこと可愛くジャンプする。

 よーし、治ってる治ってる。大きな両手でそうちゃんを抱き上げる。身長180センチの視点で、そうちゃんもご満悦だ。園長先生、変わってない。

 「ほら、遊んでおいで。龍太郎が待ってるぞ」

 そうちゃんは、ありがとうございました、とお礼を言って、職員室を出て行った。

 「ひさしぶりだな、二人とも。職場体験で来るかと思っていたのに。当たんなかったか?」

 池田先生に、お茶をください、と言うと結城園長はソファーに座り、コウジたちにも座るよう勧めた。

 「ユイが来たでしょう?あいつ、どんな手を使っても行ってやる、って言ってたから」

 コウジたちの中学校は、中二の秋に地域の受け入れ先に職場体験授業を受けに行く。ちなみにコウジは豆腐工場に、タケシはスーパーに行った。

 「ユイな。来た来た。つーか、ユイはちょくちょく来てるけど」

 「そうなんですか?」あいつ、何しに来てるんだ?

 「うん。環境設定手伝ったりな。あとは…まぁ相談だ、色々と」

 やっぱりユイの考えは読めない。タケシ、仮に付き合ったとしてどうするつもりだったんだよ。

 

 それから、コウジとタケシは今回の経緯を結城園長に話した。

 だいたいは、重田先生から訊いていた通りだな、と言いながら結城園長は冷茶をすすり、ドーナツにかぶりついている。おからを使ったドーナツは、コウジの好物でもある。

 「僕とコウジも、重田先生と川村先生に話をうかがって、大変だな、って思ったんですよ」川村先生ねぇ、と結城園長は言った。

 「何かあるんですか?川村先生…」

 「いや…熱心な先生だろ?まぁお前たちは、彼女の熱心さがウザく感じるんだろうが…」確かに、熱心である事は確かだ。それはこの前呼びだされて十分理解済みだ。

 「お前たち、副園長先生覚えてるか?オレのお袋」

 「前の園長先生ですよね?色々優しくしてもらいました。まだ、お元気何ですか?」

 「うん。元気すぎで困るくらいだよ。未だに週一回、華道だけは教えに来ているよ」副園長先生は、園長先生の母親にあたる。息子に園を引き継いで悠々自適かと思いきや、そうでも無いようだ。華道は年長クラスの必須カリキュラムだった。今も続いてるらしい。

 「川村先生は、副園長先生の教え子だよ。オレより少し年下でな」

 「そうだったんですか?そんな事、全然おっしゃらなかったですよ!」

 「その繋がりで、オレが『そよ風ルーム』に関わっている訳だ。お袋がやる予定だったんだけど、流石にそこまではな…それに、個人情報だから、詳しくは言えないが、あそこにはウチの卒園生がちょこちょこお世話になっているし…」

 「ナツですか?小山ナツ」コウジは思わずナツの事を言ってしまった。

 「コウジ、お前、本人から訊いたのか?それとも、教室に入るところを見たとか?」結城園長は、ちょっとキツい口調になった。個人情報なのだ。

 「あ、いえ…ナツ、最近見ないし…どうしてるのかな?って…みんなで話していたところなんです」

 結城園長は、そうか、と言うと立ち上がって職員室の窓から園庭を眺めた。

 西陽に照らされた園庭には、お迎えに来ている母親と、その周りで遊ぶ園児が駆けまわっている。

 「理由は言えないが、確かにナツはあそこにいる。ただし、最近は学校に登校していないらしい。あ、これは他言無用だぞ。お前たち二人だから教えたんだから」結城園長は、コウジたちに向き直ると、もう一度ソファーに座った。

 「最初にお前たち二人が、『そよ風ルーム』に行く話を、重田先生から出た時に…と言うか、重田先生曰く、校長先生が言い出しっぺらしいけど、とにかくオレは乗り気じゃなかった。確かに、そういう取り組みを実際にやった学校もある。しかし、どこからも芳しい結果報告は上がっていない。一般の生徒が、問題のある生徒と触れ合ったとしても、さしたる結果も出ずにそこで終わってしまう。生徒も、教師も単なる消化イベントとしか捉えられていないんだな、多分」

 コウジもタケシも何も言えなかった。

 こんな園長先生を見るのは初めてだ、と二人は思った。落ち着いた語り口は、二人を卒園児ではなく、今回の計画に携わる、スタッフと認識してくれているみたいだった。

「で、具体的にどうすんだ?」

 タケシは身を乗り出し、コウジの部屋でみんなで話しあった事を話し始めた。


                 ※


 些細なことだ、とは思う。

 大体、保育園の仲間?いつの時代の話だっての?

 アイツらは、例えば中総体の試合の時に、いつも固まって応援している。その妙な連帯感が、チエには滑稽だった。それにムカついた。

 すずめ保育園の卒園生。それがなんだっての?

 たったそれだけで、アイツらは、タツヤといつも一緒にいる。些細な事かもしれない。でもチエは気に入らない。


チエは、小学校の時に父母の離婚でコウジやガミたちの小学校に転校してきた。医療機器メーカーに勤めていた父は看護師で医療コーディネーターだった母と病院で出逢ったそうだ。

「なんの取り柄もないけど、真面目で食いっぱぐれなさそう」だったから、と言う。「それに、見た目も悪く無いでしょ?」

 恐らく母にとって父は、単に子供を得る為のだけのパートナーだったのだ。

 「じゃ、私たちも必要無いんじゃ無い?」チエは母にそう尋ねてみたことがある。すると母は、それは違うわ、と言った。

 「チエもコウも、大事な私の子供よ。私の」

 兄は、消極的で引っ込み思案で消極的な性格だった。でも、成績はいつもトップクラスだったから、将来を期待されもした。事実、現在は地方でトップクラスの大学に入り、その上大学院に進もうとしている。しかも、見た目も悪くない。中学生までは冴えないヤツだ、とチエは見下しているところもあったのだが、成長するに連れて洗練された見た目に変わってきた。仕事にかまけている母に変わって台所にたち、夕食を作っている兄の姿を見ていると、「ふぅん、悪くないじゃん」とチエは思う。

 兄のコウは、父に似たのだろう、とチエは思う。物静かでいつも優しいコウとチエ はケンカしたことが無い。コウはチエより5つ年上だ。


お兄ちゃん、お道具箱、後でチエのクラスまで持ってきて。

 うん。いいよ。

 オヤツのアイスクリーム、お兄ちゃんの分も食べちゃった。

 仕方ないなぁ。

 お兄ちゃんのプラモデル、辞書取ろうとして落として壊ちゃった…

 そう?また直せば良いから。それよりケガしなかったか?

 思えば兄は、チエに対して「兄」としてよりも「父」と振る舞おうとしていたのかも知れない。そして父がいずれ、この家から消える事も、分かっていたのかも知れなかった。


 そして父は家から消えた。母が会社を立ち上げた日だった。他の医療コーディネータを誘い、本格的な医療コーディネートの会社を立ち上げたのだ。


 「今日から、お父さんいないから。でも、会おうと思えばいつでも会えるわ。ただし、お母さんの許可を出した時だけね」

 「離婚でしょ?」チエは、はっきり母に言い放った。兄は困った顔でにダイニングの椅子に座り込んでいる。生活費とかは?

 「心配しないで。ここしばらくは、お父さんの収入よりお母さんの収入の方が多かったの。それに…それにね、お父さんには、他に好きな人がいたみたいなのよ」

 嘘だ。チエはそう思った。母は自分より収入が劣った父を見限った。そう思った。 

 母は前にも増して、家を空けることが多くなった。いつも家にいるのは兄だった。コウは、母が不在の時は必ず家にいる。高校の時は、大学入試に向けて勉強していたし、大学生になったらなったで、いつもPCのモニターとにらめっこしている。


チエ、ちょっと良いかな?

珍しく、コウがチエの部屋に入ってきた。


お父さんに会ったんだ。


チエはベッドに腰掛け、コウはチエの学習机の椅子に座っている。

「え?マジで?本当に会ったの?どこで?」

「お父さんの会社に直接行った。事前に連絡はしておいたけどね」

 兄は冷蔵庫からジュース取り出すと、チエのマグカップに注ぎ、自分は缶ビールを取り出した。兄がアルコールを口にする姿を見たのは初めてだ。

 「お父さん、元気だった?どこに住んでるって?」

 「元気だったよ。隣の市に住んでるらしい。詳しい事は教えられないってさ」

 「ふうん…」

 兄はビールを一気に半分ほど飲んだ。

 「なぁ、チエ。お前、お父さんとお母さんが離婚した理由、分かってるよね?」

 やっぱり、お兄ちゃんも知っていたんだ。チエはうなずいた。

 「お父さんは、自分が情けないからだ、って言うんだ。自分がもう少し出世を目指してガンガン働いていれば良かった、って」

 大きなダイニングテーブル、椅子。ピカピカのシステムキッチン。そのどれだけに父の収入が使われたのだろう。そして、母の収入の割合はどれくらいだったのだろう。

 「お父さんは悪くない。お母さんに利用されたんだ。夫婦でいた方が都合の良いことがたくさんあって、そこをお母さんに利用されたんだ、と俺は思う」

 父の口は重かったが、それでも、もう自分の方にコウもチエも引き取る事は出来ない、法律的にそう言う手続きを取られてしまった、と言うことをコウに告げたと言う。

 だから、お前たちはこれからもお母さんと暮らしなさい。お母さんも、お前たちの事はしっかり見ててくれているから。

 「俺は良いよ。大学を出ればあの家からも出てゆくつもりだから。でも、チエはどうなるんだい?」父はしばらく視線を地面に落としていたが、大丈夫、と言ったらしい。

 「チエも一人でなんとかするだろう。あのコのバイタリティは、お母さん譲りだ。自分でやる、って判断したら、きっと動き出すさ、アグレッシブにね」


 「私も会ってみようかな。お兄ちゃん、一緒に行ってくれるよね?」

 「うん…それが…」父が言うには、職場内に母と通じている人間がいるらしい。

 「誰かは分からないんだけどね…いきなり電話で子供達とは勝手に会わない約束でしょ?って、言われたらしいよ」

 母の実家はあまり裕福ではなかったので、母は高校も大学も自らの努力で無返済の奨学金を勝ち取った、と言う事はチエも知っていた。コウもチエも、母にしてみれば初めて自分で勝ち取ったもの、と思っているのかも知れない。


 だからと言って、これはやりすぎじゃん。自分以外の人間をまるでモノみたいに扱ってさ。

 チエは一時期、父の優しさを逆手に取った母をカッコ良い、とさえ思っていた。しかし、そのすぐあとに母やり口に閉口したのも確かだった。


 お母さん、やりすぎだよ。


チエはそれまで、仕事に邁進する母に憧れもあった。しかし、自分の欲望をあからさまに行使する母を見せつけられて呆然となった。チエもコウもそして父も母にとっては単なる同居人にすぎないのではないか。要るものと要らないもの、と言う線引きで区切られるだけの。

 「とにかく、今お父さんと会うのはよした方がいい。それよりも、チエも今やってることを極めるべきだよ。一刻も早くこの家から出よう。僕も協力はする」


 それからしばらくして、街で偶然サキと撮った写真を端末にあげたところから、チエの運命は動き出した。タウンファッション誌からのアプローチがあった。その写真を紙面に掲載したいと言う。

 反対するかと思っていた母も、ふうん、良いんじゃない。とそれだけだった。しばらくして、発売されたその雑誌の紙面には、母の会社の宣伝がしっかり掲載されていた。チエはそこでまたやりれない気分になった。母に隠し事はできない。少なくともチエのやることに関しては。

 

 空調が中途半端にしか効かない区民体育館のスタンドで、タツヤの幼馴染みたちが応援している。ただ、保育園から一緒だった、ってだけで。


 タツヤは私の彼氏だ。誰にも、渡さない。


               ※


 五月の大型連休が終わった。

 コウジたち三年生の教室は、四階建て校舎の三階にある。窓は全て南西に面していて、午前中はともかく、午後も遅くなると初夏の西陽が容赦無く照りつける。おまけに校庭から風向きによっては砂ぼこりが舞い込んでくる。

 コウジの席は窓際。そろそろ西に傾く日差しがキツくなる5時間目の授業は、社会だった。コウジの好きな歴史である。しかし、給食後の5時間目、睡魔は容赦なくコウジを襲うのだ。

「つまりだな、西南の役が終わって、ようやく明治政府は安定し始めたワケだ…」明治は面白く無いんだよなぁ。新撰組も、もういないし…


 『そよ風ルーム』の件は、あれ以来進展が無い。ネックになっているのは、保護者たちだそうだ。ただでさえ不安定な我が子を特殊な場所に預けているのだ。保護者にしてみれば、右から左に「ハイ、それは良いですね」と片付けられる問題ではない。

 『そよ風』に生徒が通っている保護者たちは、重田の、ひいては校長の提案である生徒会による訪問を、快く思っているグループとそうでないグループに別れているらしい。


 まぁ、当然だよな。


 すずめ保育園を訪問したあと、タケシと別れてからコウジは、改めて『そよ風』にいる生徒たちと保護者の事を思った。もし、自分があの場所にいたとして。そこに、一般の生徒がやって来るとしたら?

 実際、コウジはあの部屋に送られかけた。あの時、タケシやマリアがいなかったら?コウジは確実に『そよ風』いただろう。


 でも、とコウジは思った。


 明るく健全な中学校生活を送るハズだった我が子が、他の子供と違う特殊なクラスで授業を受けているのである。


 親にとっては堪らないだろうな。

 

コウジの母は彼がそんな事態に陥っていた事を知らない。そこは、マリアやタケシたちがうまく立ちまわってくれたおかげである。

 「…板垣退助が自由民権運動を始めるキッカケになった言葉があるんだが…コウジ、分かるか?」

 「あ、えーっと…」コウジは教科書に目を落とすフリをして、隣に座っているマリアの方を見た。マリアは呆れた顔で教科書のある部分を指で指している

 「ひ、広く会議を興して…ば、万機公論に決すべし?ですかね?」お、やるじゃん、正解!と重田はコウジを褒めた。

 「その調子で数学も頑張れよ」一言多いっつーの。そしてマリア、笑うな。

 広く会議を興し、か…確かに不登校の問題に関しては、個人や家族で行き詰まっている以上、他からのサポートってやっぱりいるんだろうな、とコウジは思った。

 確かに問題を解決するのは本人だろう。しかし、解決するための手助けは必要なのだ。その手助けが保護者でうまくできないのならば、自分たちが動いても良いんじゃないか?コウジは勿論のこと、タケシだって中学生にしかすぎない。当たり前だけど板垣退助でもない。

 

 でも。


 僕が、あの時のタケシやマリアやガミになれるかも知れないじゃないか。いや、やるべきだろ?ナツ、お前、そこにいるんだろ?


 「何ボーッとしてんですかねぇ、社会の得意なコウジ君?」

 「うっせ、ちょっと考えごとしてただけだ」

 授業が終わった後、やはりマリアが絡んできた。全く、良いネタを提供してしまったぜ…

 「あ!『そよ風』のことか…」妙に察しが良いところはさすがだ。

 「うん、まぁね。今度は僕の番かな?って思ってさ」コウジはちょっとカッコ良いかな?と思って意識したのだが、マリアは、それを全く聴いていなかかった。恥ずかしい。

 しかも、水色の便箋を広げて何かを読んでいる。手紙だろうか。

 「何読んでんだよ?」

 「うん。これね、ユイがね、くれたんだけどさ…」

 マリアは神妙な顔になっている。

 「放課後、ユイのとこ行こう」

 「え?今日合気道の練習は?」何で僕が心配するか分からないのだが。

 「大丈夫。今日は7時からだから」

 マリアが、こんな顔をする時は、あまり良くない事が起こっている証拠だ。


  あのコだったか…やっぱり


 「え?誰のこと?」

 「ううん。さ、次の授業、次の授業!」


                 ※


 放課後、コウジとマリアはユイのESSの部室にいた。2年生の教室である。

 コウジとマリアが部室に顔を出すと、ユイは二人を誘って廊下に出た。

 昼から雨が降り出したので、運動部が廊下で練習をしている。筋トレの掛け声や階段を登り降りするドタドタという足音が校舎全体に響いている。


 「ねぇ、これってマジ?」マリアは開口一番、ユイに問いかける。

 コウジは相変わらず何の事だか分からない。ここまでくる間に、マリアに何度も尋ねたのだが、マリアは、「あとで」とか「待って」というばかりで取り付くシマも無かった。

 「だから、あの手紙に何が書いてあったんだよ?てか、あれ書いたの…」

 私が書いた。とユイは言った。

 「まぁ、後輩が教えてくれた情報を元に私が書いた」

 「ユイがリサーチしたワケじゃ無いの?」

 「大体、私が白井チエやその周辺のグループと繋がりがあると思う?まぁ、クラスは同じだけどね」

 「それは、無いわね。確かに…」

 「白井チエ?ガミの彼女の?そいつがどうかしたの?」ようやく話の糸口が見えてきたコウジである。

 「正確にいうと、その取り巻きらしいんだけどね」

 「そいつらがどうしたんだよ?」

 「そいつらが、ナツをいじめてたらしい、って話」

 コウジは、ガミと白井チエの話を訊いたあと、校内でそれとなく白井チエを見ていた。

 登校時のやりとりのあと、コウジは白井チエと廊下ですれ違った。中学生ばなれしたルックスとスタイル。校則ギリギリの化粧。目立つ行動と言動。自分とは住む世界が違う住人だ、とコウジは思っている。

 「でも、ナツとガミ…っていうか、オレたちの事はもちろん知ってるんだよな?しかも、ガミの彼女なんだろ?あのコ?」

 その手紙の情報をくれた後輩が教えてくれたんだけど、とユイが言った。

 「白井チエが、その取り巻き使ってナツをいじめたって事らしいんだよね」

 「じゃあ、ナツをいじめたのもチエってこと?そして、その取り巻きがやったっていうの?」

 「その後輩の話だと、そうなるのよね。でも…」

 ユイは窓際に取り付けてある安全バーに形の良いアゴを乗せて校庭を見ている。

 「まぁ、チエもいろいろあるみたいだけどさ」

 コウジとマリアは顔を見合わせた。

 「ガミってさぁ、言葉とかはアレだけど優しいところもあるじゃない?特に弟のアキラとか、凄く可愛がってるじゃん」

 「部活終わってから、コバさんところに迎えに行ってるもんね」

 「そう。あいつ優しいのよ。バカだけど」バカだけど、って…

 「ナツとガミ。あの二人のことで、思い当たることない?」

 またコウジとマリアは顔を見合わせた。


              ※


 そこを何とかなりませんか?

 電話口の相手は、そう簡単に引き下がってはくれない。

 「御社がお困りなのは良くわかります…しかし、こちらもフル稼働でして…」

 今年度初めには施工に掛かれます、っておっしゃったのはそちらでしょう?今年度が始まって、もう一ヶ月が過ぎようとしているんですよ…

 理由は山ほどある。しかし、それを説明して済む話では無いことは先刻承知だ。

 近隣の県を去年の秋に襲った地震。その復旧も遅々として進まないなか、季節は夏を迎えようとしていた。その影響で、小山のいる空調設備の会社は一気に忙しくなった。

 これまで、特に夏場は殺人的な忙しさがやってきていた。一年間の工程も夏場とその直前あたりにピークがくることを予測して組んでいた。

 震災のせいでそれが変わった。

 被災した人々が住む仮設住宅の建設が始まり、小山の会社もそれに従い仮設住宅のエアコンの確保と取り付け作業に追われた。

 最初は、不謹慎ながら降って湧いたような好景気に社員全員、愚痴をこぼしながらも、頑張っていた。ところがー

 まず、資材の調達が滞り始めた。資材調達部もバカでは無いから、ある程度の品薄が起こるのは予想して発注を行っていたはずだった。しかし、被害は甚大で建設予定の仮設住宅はまだまだあるという。資材調達部の予想の斜め上をいく勢いで受注依頼が殺到している。

 そうこうしているうちに、次は人手が確保できなくなった。小山の会社は工事の直営部隊は持っているものの、手がけるのはビルや公共施設などの大型物件にそちらは取られている。仮設住宅などの工事は、外注に出すことになるのだが、その外注業者が捕まらないのだ。もちろん義理人情にも訴えるし、支払金額も上げた。しかし、小山のような会社はゴマンとある。そこで取り合いをしているのだから、いずれこうなる事は、目に見えていたのだ。かなり遠方の他県の業者にまでツテを辿って声をかけたが、限界があった。


 小山が電話の対応を終え、屋外の喫煙スペースに出ると、先客がいた。

 「よう、まだいたのか?」専務だった。

 「ええ、先方がなかなか納得してくれなくて…まぁ仕方が無いんですが…おそらく現地でも相当モメているでしょうね…」

 「ああ、まぁ剣呑らしいな。しかし、無い袖は振れんさ。こんな情勢だ、ウソやごまかしでその場をしのぐより、正直に対応した方が良い。お前さんたちは、キツいだろうが…」

 小山は無言でタバコに火をつけた。

 「もう9時か…子供は良いのか?」

 「ええ、近所の方が見てくれてますから。それに、もう中3ですしね、自分の事は自分でやれますよ。私よりしっかりしているくらいで…」

 「そうか?そりゃ羨ましいよ。ウチの子ときたら生意気ばっかり言いやがって…」

 「確か、野球やられてましたよね?」

 「それだけだ、取り柄は。それでスポーツ推薦取れなきゃ、あのバカに行ける高校無いな…」

 さ、帰るぞ。というと専務は事務所に戻っていった。小山は、お疲れ様です、というと、もう一本のタバコに火をつけた。


 ヨリコが今のナツを見たらどう思うかな?紫煙が不定形に揺れて闇に消えてゆく。

 ヨリコが亡くなってから、もう5年経つ。くも膜下出血で台所で倒れた。最初に発見したのはナツだった。ナツは慌てずに、すぐに救急車を呼んだ。多少の事でも動じない図太さは、ヨリコ譲りだろう。その時の様子をしっかりと話すナツをみて小山はそう思った。それから、ヨリコは息を吹き返す事はなかった。

 ナツが学校を休み始めたのは、中2の終わり頃だったと小山は記憶している。ヨリコが逝ってからちょうど一年経った頃だ。

 前日の疲れが残る重たい身体を布団から無理やり引き剥がすと、ダイニングの椅子にナツがポツンと座っていた。カーテン越しの朝日に浮かび上がった姿は白じろとしてあの時のヨリコのようだった。細くしなやかな指でコーヒーカップを包むように持ち、手元をじっと見つめている

 「具合が悪いので、学校に電話して欲しいんだ」

 ナツの学校では、親が電話しないと欠席は認められない。本人ではダメらしいのだ。

 その日を境にナツは学校を休みがちになった。

 「お前、学校で何かあったのか?」小山の問いかけにも、ごめんなさい、と答えるばかりでらちが明かない。一度、保育園の時からの幼馴染、確かタツヤと言ったかー

が電話をかけてきた。ナツは電話口でボソボソと何かを話していた。小山が耳をすませて聞いていると、大丈夫とか、気にしなくて良いよ、と言う言葉が聞こえてきた。

 そして、その数日後、学校から連絡があり、何時でも構わないので学校に来てくれ、と言われた。小山がナツの中学校を訪れたのは、初めてだった。


 「担任の重田と申します…この度はお忙しい中、すいません」

 今の中学校の教室には、空調機が付いているんだ、と、まず最初に小山は驚いた。小山の会社でも一部の私立の高校の大規模な空調設置工事の入札に参加していたが、最近は中学校にまで配備されているとは思わなかった。

 「クーラーがあるんですね」

 「ああ…そうなんです。最近の猛暑で…こちらも助かってます。まだ全館すべてではないんですが」

重田と名乗ったその教師を初めてみて、小山は自分とほぼ同じ年だな、と思った。実際に話してみると自分と2つしか違わなかった。それにしても若く見えるな。子供相手だとそうなるのだろうか。

 「小山ナツの父です。何分にも親が私だけで至らない事が多くて…」

 教師も丸くなったモンだ。小山が子供の頃とは大違いだ。だからこそ、小山も下手に出る。

 「で、お話と言うのは…」

 「ええ、ナツさんの件です…こちらでも調査を進めました。と、言ってもこのご時勢ですので、なかなか突っ込んだところまでは至らないのですが…」

 ナツの不登校はいじめの可能性が強い、と言う。

 「申し訳ありませんが、個人情報の問題もありまして、いじめに関与しているであろう生徒の名前は申し上げられないのですが…ほぼ間違い無いと思います」

 「ほぼ、と先生がおっしゃられるのは?確定では無い、という事でしょうか?」

 「ええ…私が把握していますのは…ナツさんの交友関係が変わった様に見える、という事なんです…」

 交友関係。思えばナツの交友関係なぞ考えた事も無かった。

 「つまり、普通であればナツさんが、行動を共にする事が無いであろう生徒が、いつもナツさんと一緒にいる事が多いのです。しかも、それまでの友人が近づくと追い払っている様でして…」

 重田は、その子たちがナツにプレッシャーをかけている、と言ったが、要はその生徒たちがいじめている、ということなのだろう。

 「で、学校としてはどの様な対応を?」

 「はい。私どもとしては当該の生徒を呼び出し厳重に注意しましたが…」

 「認めなかったんじゃありませんか?その生徒たちは?」

  おっしゃる通りです…と、重田の眉間にシワが寄る。当たり前だ。いじめた側は認めるワケが無い。

 「ですが、私がいじめているであろう現場を目撃した生徒たち…2名なのですが、その2名は、生徒指導室にて3日間の指導期間を設けて指導授業を行いました」その指導期間を設けるに当たっても、当該の生徒の保護者と揉めたのだが、重田は、その事については伏せておいた。

 「では、その2名以外にもナツをいじめている生徒がいると?」

 「あくまで可能性、と言う事なんですが。しかし、お互いかばい合っている様で未だ確実とは言えません」

 小山は、最初に「何故ナツが?」と思ったが、これまで読んだ本によると、今の子達がいじめるのに特に理由は無い、という。 

 昨日まで仲の良かった友達が、突然シカトする。身に覚えが無いのに嫌がらせが始まる。しばらくするとターゲットが他の子に移る…要するにゲーム感覚でいじめをやっている、という事らしい。

 くだらない。と小山は思った。こんな狭い世界で何をやっているんだ。この重田と言う担任や自分を含め、大人たちは社会と言う荒れ野で、特定する事すらかなわない「何か」に日々いじめられていると言うのに。


 「最近、ご自宅でのナツさんの様子はどうですか?」

 「朝は、私と一緒に起きます。私を見送った後は、学校から頂いたテキストなんかをやっている様です。夕方からは、近所の子供食堂?と言うんですか?そこで小学校の子供たちと過ごしたり、小林さん、そこの食堂のオーナーと言うお立場になるんでしょうか?のお手伝いをしている様です。先生は子ども食堂をご存知ですか?」

 「ええ、一応は…その小林さんも存じ上げてます。月に一度、公民館で地域の定例会がありまして、そこに来られてますね、小林さん」やはり、小山はナツの変化に気がついていない。いや、おそらく上手くナツが隠しているのだ。

 重田は一度スーパーで見かけ挨拶をした、小林の事を思い出していた。「品の良いおばあちゃん」を絵に描いたような女性だ。思った事はしっかり発言するのだが、それが嫌味に聴こえないのは、彼女のもともとの育ちの良さだろう。大体、自宅を不特定多数の子供たちが出入りする子ども食堂として提供してしまうのだから。その人となりが、それだけでもわかるというものだ。


 「先生は、その…小林さんからナツのことはお訊きになられて無いんですね?」

 「ええ、小林さんは個人情報は一切、お話にならないので。もちろん、利用者の小学生や親御さんが希望すれば、教師との仲立ちはされる様ですが…なので、ナツさんの事は、お父さんのお話で初めて知りました」

 先ほどから、小山がチラチラと壁掛けの時計を気にしている。そう思った途端、重田にも背中の辺りに疲労感を感じた。

「すいません。こんな時間までお引き留めしてしまって…」

「いえいえ、先生もお疲れでしょう?ウチの子供の事で、申し訳ありません」

 しかし、最後に重田には、小山に伝えなければならない事があった。 

 「お父さん、ナツさんの事ですが…」

 小山はの表情がこわばる。そろそろ、出席日数の問題が出てくるハズだ。小山は覚悟した。

 「当校には『そよ風ルーム』というクラスがあるのはご存知でしょうか?」

 「いえ…存じあげませんが…」

 「様々な理由で、自分の教室で授業を受けるのが困難な生徒のためのクラスです。一昨年から当校に設置されております。そこに通う事ができれば、とりあえず出席日数の問題はクリアできます。できれば、ナツさんをそこのクラスに移されては…と言うご提案なんですが…お返事は今すぐに、とは申しませんが一週間後くらいに頂けると助かります」言えた。重田は胸を撫で下ろした。取りあえず、言えた。

 「ああ…そうなんですか…そう言うクラスが…分かりました。ナツとも話して、と言うか選択肢は無いですよね?」

 「はぁ…いえ、いまのままでも、卒業はできると思います。救済措置はいくつかありますから。ただ…そうですね…うん…やっぱり、できたら生徒同士の関わりは持って欲しい、私はそう思っています。多感な年代ですので、今までは一般の生徒とも交流は設けて無かったのですが、今年度から、一部の一般生徒との交流を、始めようと考えております…」



雨の昼休みだというのに、この階は閑散としている。理科室、理科準備室、音楽室、音楽準備室。いわゆる特別教室が集まっている階だ。昼休みの喧騒が、かなり遠くから聴こえて来るように感じる。

オマケにこの雨だ。雨はあらゆる音を吸う。校内の喧騒を閉じ込め、建物の中に反復させる。そして、踊り場の上の階はその雨に守られているかのように静かだ。

始業式のあと桜散らしの雨が降って以来、今年の春はすっきりしない天気が続いている。その階へ上がる階段の踊り場で、コウジ、タケシ、ユイ、マリアの4人が集まっていた。ガミは、バスケ部のミーティングとやらでついて来ていない。「ちゃんと後で教えてくれよ、必ずだぞっ!」ガミは未練タラタラで、コウジにそれだけ言い捨てて体育館に走っていった。


「今回中間テスト無いんだって?」

マリアがユイに尋ねている。こいつは年間行事のプリントを見てねーのか?

「そうだね、今年は一学期の中間テストは無いみたいだ」タケシは淀みなく答える。さすがだ。

「て、コトはだよ?期末テストの範囲は…」

「当然、広くなるわね」ユイはにべも無く答える。

「あーどうしよ…3年になっていきなり授業が難しくなんなかったぁ?」

 それは確かにそうだ。いや、そうじゃなくて。

 「タケシ、急ごう。川村のヤツ、切れちゃうぜ」コウジはタケシを急かす。時間は昼休みの間しか無い。それに、あの川村が待っている。この前の勢いから考えれば、遅れれば何を言われるか分からない。

 「そうだね。急ごう。それと、ユイとマリアはここまでにしてくれないか?」

 踊り場には、煮こごったような湿度が漂っている。普段なら、異性を意識させるマリアとユイのシャンプーの甘ったるい香りに、コウジは息がつまりそうになっていた。

 だいたいタケシがオレのウチでこの前の報告会なんて開くから、こいつらまで関係者になってしまった。

 「えーなんで?せめて前まで…」マリア、とユイが言った。

 「ここまでにしようよ。もし、教室の外に川村がいたら、ややこしい事になるよ」

 あ、そっかぁ…そうだよねぇ…

 「じゃ、行ってくる」

 タケシとコウジは最後の階段を登り始めた。


 教室の前にはカラーコーン、と言うのだろうか、工事現場で見かける三角錐が2本とそれをつなぐ黒と黄色のバーで通行止めがしてある。そのバーの真ん中には、


 ここから先へは、先生の許可が無いと入れません。


 と書いた、アクリル板がぶら下がっている。一般の生徒が興味本位で、窓から教室を覗か無いための配慮だ。教室の中の物音は聞こえなかった。

 ここまでは、コウジもタケシも、それ以外の生徒も来たことがあるはずである。

 二人はバーを跨いだ。一瞬、コウジは、これまでバーを跨いだ生徒が、果たして何人いたのか考えた。


 多分、オレたちが最初じゃ無いのかなー


 二人は窓を覗く事無く、通りすぎた。意識していた訳では無いのだが、自分の左側にある窓をスルーしていた

 コウジが扉をノックした。全く意識しなかった。コウジは自分でも驚いたが、タケシは驚いたようだ。

 「どうぞ。入って」

 「失礼します」

 今度はタケシが挨拶をする。

 コウジは、引き戸を開けた。


 「ようこそ。みんな、以前から話していた生徒会長の斉木くんと友達の中山くん」

 川村が教壇に立って二人を紹介する。凛とした声が教室に響く。

 「よろしくお願いします。斉木です」

 「あ、中山です。よろしくお願いします」

 反応は特に無かった。

 生徒たちは思いおもいの場所で、雨の昼休みを過ごしている。その点は、通常の教室とそんなに変わりは無かった。ただ、クラシック音楽の静かなパートのような静寂が部屋全体に漂っていた。何人かの生徒は、じっとコウジとタケシを注視している。2組の女子は小声でおしゃべりをしている。つまり、二人の男子は、少なくとも歓迎はされてはいない。しかし、拒否もされていない。その宙ぶらりんの状況が、この場所でのふたりの立場だった。

 生徒は20名くらいだろう。上司と男子の比率は半々くらい。少しだけど女子が多いような気がする。

 

 昨日、二人はまた川村に呼び出しを受けた。場所は例の面談室である。

 「明日の昼休み、入室の許可が出ました。これに当たっては、『そよ風ルーム』運営委員会で協議を行った結果、最終判断は私に一任する、という形でまとまったの」

 川村はタケシとコウジに、変わるがわる視線を合わせながらしゃべっている。

 ありがとうございます、とタケシは言ったが、コウジは何故、タケシが礼を言わなければならないのか、釈然としなかった。本来なら、重田が言うべきだろ?とコウジは思った。

 「先生、差し支えなければ教えて頂きたいんですが、その運営委員会って『すずめ保育園』の園長先生も入っていらっしゃいますよね?その他にはどんな方々が、いらっしゃるんですか?」コウジは、『すずめ保育園』の園長、つまり結城園長の名前が出た時に、川村の表情が少し固くなったような気がした。気のせいだろうか。

 「そうね、主に地域の方々。校区の役員をされている方とか、PTAの方、それから…そうそう、子ども食堂を運営されている小林さんね」

 『コバさんの子ども食堂』

 コウジもタケシも聞き覚えがあった。親の帰りが遅い子供たちの為に、おやつや食事を用意したりする場所らしい。コウジたちの小学校には放課後の留守家庭クラスもあるのだが、そこが手狭である事と、活動が終了してから帰宅しても、親が不在の子どもたちが主にお世話になっているらしい。

そのコバさんこと、小林さんが自宅を解放して、最低限の利用料金とわずかな援助で運営している、と言う話だ。ちなみに、コウジもタケシも留守家庭にお世話になったクチだが、二人が小学校の頃には、その子ども食堂は無かった。

 「優しそうなおばあさんですよね?小林さん」なんだ、タケシ知ってんのかよ?

 「斉木くん、知ってるの?」

 「ええ、お話をしたことは無いんですが、見かけたことなら何回か。自宅が割と近いので」

 「そうなのね。今度、お会いしたらご挨拶しておいて」わかりました。と。タケシが素直に答えた。


 ここからが本題なんだけど、と川村は、口調を改めた。

 「入室するに当たって、いくつか守って欲しい事があります」

 二人と一人の間に、うっすらとベールが引かれたような気がした。

 そこで、川村が提案した事は、二人にとって、ある程度は予想ができた事ではあった。しかし、改めて教師であり担任である、川村の口らから聴く事によって、コウジは、「やはり、これはかなりの特例なのだ」と思った。

 川村が出した守って欲しい事とは、

 

 ・『そよ風ルーム』に通う生徒の氏名は外部に漏らさない事。

 ・基本的に川村と一緒に居る事。つまり、教壇付近から動かない事。

 ・いじめ、不登校などの言葉に注意する事。質問内容は、事前にまとめておいて、走り書きで良いので、紙に記載して、川村に渡して置く事。

 ・当然ながら、入室できるのはふたりだけ。例外は認めない。

 ・生徒会新聞に掲載する原稿も、もちろん川村および『そよ風ルーム』運営委員会がチエックをする事。


 「まぁ、ほとんど予想済みだったでしょ?特に斉木くん?」はい。とタケシは素直に返事をした。バカにすんな。とコウジは思った。それぐらいオレでも分かってるっての。

 「普通に考えたら当たり前の事かもしれないけど、念の為にね。あの教室で過ごしている生徒たちを守るためだから」

 「確かに先生の言われる通りです。でも」おいおい、何言いだすんだよ…

 タケシの視線は、しっかりと川村を捉えている。

 「でも?」

 「こころのどこかに傷や痛みを抱えているにしても、基本は僕たちと同じだと思うんです。だからといって、いきなりコミュニケーションが取れるなんて思ってはいませんけど…」

 「自然体っつーか、普通で良い様な気がしますね、僕も」コウジは、タケシの言葉を継ぎ、机の上でくんだ両手の親指を、ツンツンと付き合わせた。

 「確かに腫れ物に触る様に接するのもマズイんだけど…正直、今回ばかりは私も分からないのよ、どうするのがベストなのか…」川村の語気から最初の勢いが削がれている。

 「ただ、期待だけはしているの。君たちふたりに。どういうカタチになるにせよ、ね」川島は手にしたボールペンを回しながらポツリと呟いた。


 「みんなも自己紹介できる人はしてね」

 一人の男子生徒が立ち上がった。

 「2年。下中です。あの…斉木センパイ、おひさしぶりです」下中と名乗った生徒はタケシと一緒に生徒会活動をしていた男子だ。

 「ああ、下中。久しぶり。声をかけてくれて嬉しいよ」

 「なんか…その、生徒会、途中で放り出しちゃったみたいで…申し訳ないです」徐々に声が小さくなり、最後はほとんど聞き取る事ができなかった。

 「大丈夫だ。何とかなってるから。もちろん、下中はいつ参加してくれても良いから」待っている、と言わなかったのはさすがタケシだ。

 「あの…1年の三宅です…」小柄な女子だった。

 「中山センパイ…あの、小学校の時にアルバトの大会で…」アルバトというのは通称で正式には『アルカナ・バトル』というトレーディングゲームの事だ。主に小学生の間で、絶大な人気があり、コウジはガミやタケシや他の仲間と共に、近所のゲームショップに通い、ショップ主催の大会に出場していた。

 「私、中山センパイとバトった事があるんですけど…覚えてませんよね…」確かにコウジはこの三宅という1年生を覚えてはいなかった。ただ、男子が圧倒的に多い会場で、何回か女子と試合をした事がある。おそらく、その中の一人だ。

 「そ、そうなんだ?ゴメン…覚えてない…」

 「ですよね。でも、私そこでセンパイに勝っちゃったんです」思い出した。小6の夏休みにちょっと変わったデッキを使う女の子に負けたのだ。

 「思い出した!君、変則呪文デッキを使ってたでしょ?」

 「そうです!でも、そのあとセンパイ、敗者復活戦で勝ち上がって優勝しました」そうなのだ。コウジは三宅に負けた後、敗者復活戦で勝ち上がり、結果優勝した。

 その三宅という女子がキッカケに『アルバト』好きの生徒からコウジの名前が次々と上がった。マジ?中山センパイって、あの神速の破壊者の中山コウジ?

 え、オレ、そんな名前で呼ばれてたの?いや、知らねーし…

 「コウジ、凄いな!強いとは思っていたけど、有名人じゃないか」いや、お前もそこにはいたじゃん。

 しかし、神速の破壊者って…確かにコウジの組んでいたカードデッキは、いわゆる、「速攻デッキ」と呼ばれる、短時間で矢継ぎ早に攻撃を仕掛けるデッキだった事は確かだ。

 「へぇ…中山君にそんな特技があったのねぇ、…さすが…」さすが、何でしょう?先生?ええ、そうです。僕そっち方面なんです。

教室が一気に活気づいた。コウジの名前は意外なくらいに知れ渡っていて、三宅がコウジと話始めたのをキッカケに『アルバト』をやっていた、もしくは、今もやっている生徒たちの方から、コウジに近づいて来た。


 川島はその光景を見ながら、改めて子供達が持つ可能性を信じてみたくなった。

 最初に重田から、『そよ風ルーム』に一般の生徒を入れてみてはどうか?という提案をした時は、自分の消極的な気持ちが先行していた。しかし、弟の様な生徒を少しでも助けたい、という僅かな望みから、今回の提案を受け入れたのだ。

 そして奇跡は起こった。

 いつもなら、閑散とした静寂が漂う雨の昼休みが、二人の生徒の登場で変わったのである。

 やはり、子供には無限の可能性がある。逆に考えれば失敗したかも知れないけど、今回は少なくとも成功した。しかも、自分には予期せぬカタチで。

 少しでも弟の様な、アツシの様な子を助ける事ができるかも知れない。


 「はーい!もう昼休み終了まで10分前!そろそろ二人も教室に戻って」

 結局、コウジを中心に『アルバト』の話で、『そよ風ルーム』の何人かの生徒とコミュニケーションを取る事ができた。もちろん全員というワケには行かなかったが。特に3年生の何人かの生徒は。二人に絡む事はなかった。

 そろそろ失礼します、とタケシがコウジの肩を叩いた。

 「お、おう、そうだね。じゃ、また」

 「センパイ、また『アルバト』やってください!センパイと対戦したいです」

 三宅がそういうと、お願いします!やりましょう!という声が上がった。

  川島はニコニコしながら、コウジを見ている。タケシも同じだ。

  雨はいつしか上がり、窓の向こうの雲の隙間からは日差しが切れ込むように差し込んでいる。あれは確か「ヤコブの梯子」と言うヤツだ。

「そう言えばさ、ナツ。小山ナツって今日は来て無いのかな?」と、コウジは三宅に訊いてみた。

 「今日は…いないみたいです。そう言えば小山センパイ、最近見て無いなぁ」


                ※


 その部屋からは、大きな河が見えた。

 繁華街を貫く河は目と鼻の先の海に注いでいる。この部屋までは届かないが一階のオープンカフェで寛げば潮の香りが漂ってくる。

 川島は、この時期にしては明らかに効き過ぎている空調に肌寒さを覚えて、一旦は脱いでいた薄手のパーカーをもう一度羽織った。

 前にこの部屋を訪れた時は、まだ寒い季節だった。その時、川村は厚手のブルゾンを着ていた。部屋の空調も暖房だった。

 いつも最初にこの部屋に入るのは、川村だ。それは結城との関係が始まってから、変わる事は無い。

 二人で同時に部屋に入ることは、川島には出来なかった。二人で同時に部屋に入る時は、必ずアルコールが入った状態だった。

 少し夕暮れが遅くなったように思う。窓から見える夕陽が水平線に隠れてしまうまでには、まだ時間があった。爛れたような朱色の光が川岸にひしめくように立っている、低い屋根の家々を染め上げている。


 今回は、どれだけ待たせるつもりなのかしら。


 観る気は無かったが、TVのスイッチを入れた。自宅の部屋にはどう考えても収まりそうに無い大型の薄型液晶TVが画像を映し出す。

 夕方のローカルニュースが放映されていた。その画面に映っていたのは、3年生の白井チエだった。

 「何?このコ、TVにまで出るようになったの?」思わず声が出た。

 チエが芸能活動まがいのことをやっているのは知っていた。職員会議にも、たびたび上がっていたからだ。なんでも中学校始まって以来のことであるらしい。

 画面の中の白井チエは、プロによるメイクを施され、まるで高校生にしか見えない。

 「じゃあ、チエちゃん的には、ここのアイスクリームが最近のイチオシなんだね?特にオススメの味はどれかなぁ、チエちゃん的には」地方発のバラエティ番組で良く見かける、若手芸人がチエに質問している。

 「う〜ん…どうだろ…やっぱり月並みですけど、チョコチップミントですかね?あんまり甘ったるくなくて、この、ミントの刺激が…うん。けっこうクるんですよ。これ好きかもです!」随分と手慣れたものだ、と川島は思う。確かにタレント向きかもしれない。

 母子家庭だと訊く。会社経営をしている母親と大学生の兄との三人で暮らしているらしい。

 お?このコ、レイの学校のコだろ?川島が振り向くと、結城は、川島と逆に着ていたパーカーを無造作脱ぎ捨てている。

 「意外に速かったわね」川島はTVから目をそらさずに、背後の結城に声をかけた。

チエは、その後も若手芸人と一緒に繁華街を食べ歩きしている。衣装も当然制服ではなく、おそらくスタイリストが用意した初夏をイメージしたワンピースだった。

「髪の毛が明るいなぁ…校則違反じゃ無いの?」結城は部屋の冷蔵庫からビールを取り出し、パキッと気持ちの良い音をさせて、のリングプルを開けた。

「あ、ちゃんと買ってきたヤツだから」

「別に。一本くらいだったら良いと思うけど?」

「うーん…いやな、ディスカウントストア…いや、普通のスーパーマーケットでも350ml550円のビールなんて普通いないだろ?これを無神経に飲むヤツは、もともとの感覚が違う人間だよ」結城は冷蔵庫の前にしゃがむ。各種アルコール、ソフトドリンク、おつまみ。

「ここに詰まっているモノの値段、みんなおかしいって」

川島は、見る気の無いTVに釘付けになっていた。

 「そのコ、どうなの?学校で」

 白井チエは、頭髪許可をもらっていたハズだ。特殊な頭髪、主に元々色素が薄かったりして髪の毛が茶色の生徒に関しては、親の承諾があれば許可が出る。ただし、かなり厳しいチェックがあった。

 「まぁ、目立つわね。地方限定とはいえ芸能活動をしているわけだから。芸能活動自体は、校則違反にはならないから。校長が認めた以上、仕方が無いわ」

 私にもちょうだい、と結城から缶ビールを受け取ると川島も飲み始めた。

 また、こんな場所に来てしまった。

 もっと、堂々していれば良いのに、と川島は思う。画面の向こうのチエより自分の方が色々と問われるべきでは無いのか?

 

 どうかな?今度の週末?

 『そよ風ルーム』の運営委員会が終わった後、結城から端末にメッセージが入った。

 運営委員会は二人の男子生徒の訪問が期せずして効果を上げたことを、参加した全員が喜んだ。

 『そよ風ルーム』は悩んでいる生徒の居心地の良い場所だけであってはならないと思います。いずれあの教室から出て、自分のクラスで過ごせるようになることこそ、生徒たちにとって必要な事なんだと思うんです…

 今回、先ほどお話した、二人の男子生徒の訪問が、生徒たちの希望になると思います。私の理想としては、これからも不定期に彼らや他の生徒にも『そよ風ルーム』を訪問させても良いと思います…


 「マホちゃんは、園長先生のところ?」結城の母を川島は未だに「園長先生」と呼ぶ。妻のいない結城にとって母が長女であるマホの母親がわりだ。

 「ああ、そうだよ。最近はナマイキにもお父さんより、おばあちゃんといる方が楽しいって言ってさ。週末はほぼ、お袋のウチにお泊まりなんだ」

 「マホちゃんいくつになったっけ?」

 「三年生。三年生だよ…まったく…」早くもオレから子離れしそうでヒヤヒヤしてる。結城はわざとらしい涙声を言う。

 「まぁ、そのお陰でレイとも会えるんだけどな…」結城は川島の肩に軽く顎を載せる。


 「白井チエは悪く無いと思う。まぁ、個性的だしちょっと派手だけど、しっかり自分を持とうとしていると思うの。その点では他の生徒よりかなりマセてるかもしれないけど」

 そうなのかぁ、と結城はあくび混じりで言う。ベッドは結城と川島の体重を載せて軋みを上げる。ベッドサイドのデジタル時計は19時。結城はおそらくどこかの店に食事の予約を入れているハズだ。窓からは夕陽が差し込んでいて、ちょうど川島の顔に影を作り、彼女の表情は見えない。

 「問題は、彼女を取り巻いている生徒たちね。あの子…白井チエは関心が無いのか、姉御肌って言うの?だから、そんな子たちを、はねつけるような事はしないの。あの子達は、白井チエとつるむことで自分たちも同格だ、と思っているワケ。まぁよくあることだとは思うけどね」

 「それで?」

 「…何人かの生徒が彼女達からいじめを受けた、と告白しているのよ」

 また来週も、必ず観てくださいね!バイバイ!番組はチエの笑顔で終わり、CMに切り替わった。


               ※

 最近、サキたちが、生活指導の教師に注意を受けている回数が増えたと思う。チエは特に指導は受けていないが、そこが逆にもどかしかった。

 しかし、彼女たちはそれを気にしている様子も無い。本当は気にしているのかも知れない。でも、サキはあえて話題にしなかった。

 今日もチエは試供品でもらったコスメを、ハンバガーショップでサキたちに分けた。その帰り道の事である。

 「サキ、あんたまた呼び出し受けてたじゃん」

 二人は、時々立ち寄る児童公園にどちらからともなく立ち寄って、ベンチに座った。チエがアキラを迎えに行くまでには、まだ少し時間があった。

 「え?ああ、重田にね。カオリンとホノノも一緒だったんだけどさ。アイツ本当にウザいのよね」

 夕方の児童公園には、まだ何人かの小学生がいて鬼ごっこに興じていた。

 「ひょっとして、チエも呼び出し受けたの?」

 「いいや。私は大丈夫だけど…あんたたち最近、ちょっとやりすぎじゃ無いの?」

 「はぁ?何で?何が?あたし達は、ちょっと遊んでるだけなんだけど?」

 サキの表情が険しくなる。トゲのある声に何人かの子供がこちらを見たが、すぐに走り去っていった。

 「あんたたち、遊びの範囲を超えて無い?だいたいさ…」

 ウザっ。サキは吐き捨てた。「アンタなに言ってんの?だいたいチエも小山だっけ?アイツがウザいって言ってたじゃん。だから、あたし達でタツヤから遠ざけたんだけど?」

 小山。小山ナツ。確かにアイツは…

 でも、たのんで無い。チエがそう言おうとした時。

 「それにさぁ、毎日刺激があるチエと違って、あたし達ヒマなんだよねぇ」

 そんなこと、知るかよ。

 「平凡な日常にちょっとした刺激をね、ってヤツ。だいたい、やられて悔しけりゃ向かってくればいいんだよ。ま、負け無いけどね」

 自動販売機に灯が灯った。照明が劣化しているのかチラつきが酷い。ろくに点検もしてないのかよ…売るだけ売っといてさ。

 「ま、チエは何もしなくて良いよ!私たち、チエが好きで一緒にいるんだからさ。あ、そうそう、この前食べ歩きのTVよかったよね、今度…」


 …だけじゃん…


 「え?なに?」

 「今度は何が欲しいのよ!またコスメ?イケメンのアドレス?スイーツのタダ券?確かにわたしはそんなに頭もよく無いし、クソ真面目でも無いけど、色々努力してんの!なのに、あんたたちさ、わたしの友達って事を利用してるだけじゃん!」

 いつの間にか子供達の姿は児童公園から消えていた。まだ明るさを少し残した空には、研ぎ澄まされた鎌のような細くて鋭い月が出ている。

 暗がりの中で表情の無い色白のサキの顔がほんのりと浮かんでいた。

 チエは、急に寒気を感じて、サキに背を向けて立ち上がると歩き出した。アキラを迎えに行かなきゃ。


 そーゆーことかよっ!自分だけ良い子になろうってか?フザケンナよっ!アンタがそーゆー事なら、こっちにだって考えがあんだよ!ちょっと目立ってるからって、イイ気になってんじゃねーよ!


 アキラ…アキラ、待ってて。すぐ行くから。タツヤのところに行こうね。

 タツヤ、わたし間違って無いよね?


             ※


 「ハイ!お疲れさま!なっちゃん、今日もありがとうね。そろそろ煮込み料理も暑くなってきたねぇ…明日は、おソーメンにしょうかね?」

 「そうですね。みんなも喜ぶと思います」最後にお迎えはガミの弟のタツヤだった。

 やっぱり玄関口ではあの、白井チエの声が聴こえた。


 今年の五月は例年に比べ雨が多かった。しかも、梅雨を思わせるような濃厚な湿度を伴った雨だ。風薫る爽やかな五月晴れの日は、数えるほどしか無かった。

 コバさんちの台所から雨をみていると、ナツはなぜか気分が落ち着く。それは湿度のせいで、どこからともなく漂ってくる古い家屋独特の匂いを嗅ぐ瞬間であったり、今ではもうあまり見かけない、薄いガラス窓ごしに雨の降るさまを子供達の料理やおやつの下ごしらえしながら、ボンヤリと見ている時間だったりした。

 ナツがこの場所に毎日通うことができる日々のタイムリミットが近づいている事は、ナツ自身がいちばん良く分かっていた。

 ナツは想像してみる。

 この時代が、自分が生まれる少し以前、昭和の時代だったら、自分はどうしていただろう。

 恐らく中卒でも平気で働けていただろうな。どんな職種でも人手が足りなかったと訊く。そんな時代なら中卒でも後ろ指を刺されることなく、働けていたのではないか。

 父は最近、目に見えるところに高校のパンフレットを置くようになった。それは一般の高校のモノもあったし、職業支援を掲げている高校のパンフレットもあった。

 『そよ風ルーム』にも最近顔を出すことが少なくなったナツである。

 仮に登校するにしても、一般の生徒が登校を終え、1時間目の授業が始まる午前9時近くだった。

 四月に入って朝からここに通い出した時、コバさんはナツを受け入れてくれた。そんなある日、コバさんが『そよ風ルーム』にタケシともう一人誰かが、訪問するかも知れない、という話をした。


 その生徒会長の生徒、真面目でとても良い子なんでしょ?なっちゃん知ってる?

 ええ、保育園の頃からの友だちですよ。

 そうかい!その子ともう一人誰かが『そよ風』に来るらしいのよ…


 コバさんが言いたい事が分からないナツでは無かった。そして、それを直接言わないコバさんの胸中も、痛いほどに理解できた。コバさんは、『そよ風ルーム』運営委員会のメンバーの一人であることは、ナツも知っている。

 ここの居心地の良さについつい甘えてしまって、ここに午前中から通っているナツだが、それはコバさんの理解があればこそ、である。恐らく、中学校に色々と気を使っている事は想像できた。ナツは15歳なのだ。

 「コバさん…学校に戻ってみようと思います」

 「無理してない?受験のこともあるだろうけど…無理はしなくて良いのよ?」

 「…無理は…って言うか、無理をそろそろしないと。みんな受験モードになっていくんですから。でも、ここには来ますよ。お手伝いはさせてくださいね」

  コバさんは何も言わず微笑む。

 確かに最近になってこの『子ども食堂』も地域に浸透してきたらしく、利用者が増えている。手伝いのボランティアも増えたのだが、コバさんにとっても、気心が知れたナツがいると、正直楽だった。

 「確かに、なっちゃんが全く来れないって事になると、大弱りだわ。だから、夕方来てくれるかい?配膳と子どもの相手を頼めると、心強いよ」

 分かりました。ナツは言うと帰り支度を始めた。父にもこの事は伝えよう。そして、ガミにも。


                ※


 この夏の中総体でガミは泣いても笑っても引退だ。

 何とかレギュラーに食い込んだ2年の夏休み明けから、早いものでもう一年近くが経つ。その間にどれだけチームに貢献出来たか、ガミ自身には分からない。しかし、自分を慕う後輩は出来た。「センパイ」と呼ばれるのは、やはり気持ちが良い。

 そして、チエだ。

 確かにカワイイとは思っていたが、まさかタレント活動を本格的に始めるとは思わなかった。チエから両親と兄の事は訊いてはいた。自分とは違う意味で、複雑な家庭ではあると思った。


 ガミと弟のアキラとの両親は違う。

 アキラは今の母の連れ子だった。ガミの父親は産業廃棄物の運搬をやっているトラック運転手だ。収入は基本給と歩合だと訊いた事がある。その額は決して高くは無いだろう。ガミの母親は、父の職種と収入にいつもケチをつけていて、その矛先が、ガミに向いた。最初は繰り言を並べ立てていたが、そのうちに、ガミの成績や素行にもケチをつけ始め、手や足が出るようになった。父にはバレないようにしていたようだが、見かねた近所の住人が、父に知らせた。

 今でもガミは覚えている。

 仕事の途中でいきなり4トントラックで家に帰ってきた父は、掃除機の固いホースでガミの背中を殴っていた母に、平手打ちを見舞うと、罵詈雑言を放つ母を、そのまま腕を掴んで家から引きずり出した。

 どれくらいの時間が経ったのか、父は一人で帰ってきた。

 ごめんな、タツヤ…お母さん、いやあの女は2度と戻ってこないから。辛かったよなぁ…ガミの前で父は跪き鼻水を垂らして泣いた。父の涙を見たのはそれが初めてだった。

 そして、アキラと今の母がやって来た。タツヤが小学校5年生の時だ。


 そのゴタゴタの中、コウジたち『すずめ保育園』のみんなは常にガミの味方だった。特にナツは同じ団地の違う棟に住んでいて、いつも側にいてくれた。

 ナツは料理が上手かった。

 ガミの家に遊び来る時、大抵何かお菓子を持って来てくる。それは全てナツの手作りだと聞いた。

 「うンまッ!このホットケーキもナツが作ったのか?」

 「うん…ホットケーキミックスを使って、本に載ってた通りに焼いただけ、なんだけどね…」

 「これうめぇよ!将来ケーキ屋になれるんじゃね?」

 ナツははにかむように笑いながら、そうだと良いんだけどね、と言った。

 

 父が職場で知り合った、という今の母が来た時も、いちばん喜んでくれたのは、ナツだった。

 「よかったじゃない!おめでとう」

 「うー…まぁな…」嬉しさ7割、困惑3割の表情でガミは答える。

 「良さそうな人なんでしょ?それに弟もできるなんて最高じゃないか?」

 「うー…まあな…弟はかわいいよ。とりあえず警戒はしているみたいだけど」

 「最初は仕方ないさ。いくつ下だっけ?」

 「6コだよ。6コ下。びっくりだよなぁ。まぁ、その新しい母親もさ、すげー若いの!親父よりいくつ下なんだろ…」

 「訊いてないの?」

 「バカ!訊けねーっての!ナツは直球150キロだからなぁ、タケシとは違う意味で」

 「うん…確かにタケシとは違うね…てか、だいぶ違うよぉ!」

 夕闇と夜の端境の空にはコウモリが飛び始めていた。団地の公園のジャングルジムの上。小学校の時は外遊びで真っ黒だったガミの肌はは、バスケを初めて徐々に白くなり始めていた。粗野でぶっきらぼうな言葉遣いと、中間服から覗くすらりとした腕は、まだ少年のモノだった。

 帰宅部だったナツは、ガミより背丈はあったが、また同じ様に白かった。

 ナツは小学校の頃、ガミの癖っ毛にふざけて触れた事がある。指に絡まるその感触は室内飼いの小型犬のにこげの様だった。

 中学生になった今でも触れてみたいな、と思う事がある。


  ナツは『そよ風ルーム』にいなかったらしい。出席率もそろそろヤバいかも、とコウジは教えてくれた。

 ガミの部屋の窓からは、ナツがかつて住んでいた棟が見える。ナツは母親が亡くなったあと、近所の戸建に引っ越してしまった。それをキッカケに以前ほどつるむ事はなくなってしまったけど、中学生になって同じクラスになり、また以前の様なつきあいが始まった。

 ナツが学校を休み始めた頃、何度かナツの自宅に電話をした。ガミもナツも携帯端末を持っていないから、固定電話である。

 要領を得ない会話の中で、ガミが理解できたのはナツが何故かいじめのターゲットにされてしまった、という事だ。

 ナツは、差し障りの無い言葉で要点だけを話してくれた。

 よくある事だよ。ガミは気にしないで。会話の途中で、ナツは何度かそう言った。

 「ガミは、部活の事を考えなよ。スポーツ推薦、受けるんでしょ?」

 「ん?ああ…それっきゃねーよ。勉強したくねーし」

 「じゃ、しっかり練習して中総体で結果出さなきゃ」

 「オレはやってんだよ」

 「なら、いいじゃん。こっちはこっちでやるからさ、よくある事だよ。気にしないで」

 「バカ!良いワケ無いだろ?何処の誰にやられてんだよ?何人かいるのか?いるんだったら、後輩連れてくるからさ」

 「だから、それがダメなんだって。問題は絶対起こしちゃダメだよ。それにそんな事したら、ますます登校できなくなるよ…」

 とにかくナツは、自分は元気でいること、『そよ風ルーム』にいること、そして今は無理だけど、必ず会うことを約束した。それが五月の大型連休前の事だった。

 先程まで、引き戸の向こう側からニュース番組らしい低いTVの音と両親の会話が聴こえていたが、静かになっていた。

  たっちゃん、お弁当、とんかつにしとくからね。不意に引き戸の向こう側から母親の声がした。

 「あ?うん。ありがとう」さて、寝るか。てか、もう限界に眠い。

 次はいつナツに電話をしようか…ベッドに倒れこんで睡魔に弄ばれながら、ガミはくせっ毛に絡むナツの指を思い出していた。


                 ※


 うっとおしい雨に包まれた五月後半の気候そのままに、コウジたちの住む地方は梅雨入りした。気温も高く、今年の春休みに全教室に取り付けられたエアコンが、早速稼働する事とになった。ただし、教育委員会からのお達しとかで、気温が28度に達しないと使用できない事になっていたのだが。

 黒板に近い生徒たちは、授業中と言わず休み時間と言わずデジタル表示の温度計を注視し、その表示が28度に達すると、速攻で挙手し「ハイっ!先生!28度になりましたぁ!!」と叫ぶ声が、あちこちの教室に響いた。休み時間で、教師不在の時は、教師ウケの良い生徒がクラスを代表して、職員室に走らされる。コウジのクラスでは、クラス委員を務める松橋という男子が、その大役を担う事が多かった。


 今日の昼休みも松橋が職員室に走っていった数分後、壁のコントローラに薄緑色のランプが点り、天井に取り付けられているエアコンの吹き出し口から、爽やかな冷気が吹き出し始めた。まぁ、起動願いを申し出たのは、他のクラスの生徒かもしれないが。それでもエアコンは動き出した。それと同時に生徒の間では歓声が沸き起こる。

 やれやれ…と、その様子を横目で見ながら、小説のページをめくるコウジである。

 今、コウジが手にしている小説は、最近図書館に入荷した新刊で『井戸の底の魂』という、連作モノのファンタジーで、とても人気があった。同じ書籍が3冊入荷したらしいのだが、コウジはなかなか借りる事ができなかった。それが今日の昼休みに遂に借りる事ができたのである。


 おお、妖精王よ、感謝いたします!遂に我にオーラの剣をお与え下すったのですね! 

 

 その書籍を手にして歓喜に打ち震え、独り言をブツブツと呟くコウジは、側から見れば、ちょっと近寄り難かった。

 ともかく、これで遂にコウジは神秘の井戸の世界に戻る事ができたのである。そしてクーラーまで稼働している。これが奇跡と言わずに何と言うのだ。と、勝手に盛り上がってページをめくり出したその時である。コウジの席の左斜め後方から、女子たちの不穏な声が聴こえた。


 「だいたいさ、ふざけんなっつーんだよ、あのクソチエのヤロー」サキとか言う、コウジには全く縁の無い、ややこしい女子の声だった。本人は小声で話しているつもりだろうが、丸聴こえである。

 「サキ、それってマジなの?」誰だろう?他のクラスの女子か?

 「ああ、マジだよ…チエのヤローさ、あたし達の事、完全に見下してんだよ」

 「ウソ!でもさ、なんかTVとか出るようになってアイツ生意気になったよね?」これまた、違う女子の声だ。どうも三人で白井チエに対して、相当憤慨しているらしい。それにしても、TVに出る事がそんなに生意気なのか?よく分からん…

 「昨日いきなりキレやがってさ、私にケンカ売ったんだよ」

 「えー、信じられないんですけどぉ!アイツ、応援して有名にしてやったの私たちじゃん?」なんなのそれ?君たち、ダチじゃ無いの?あぁ、アレか?嫉妬ってヤツ?やですねぇ、女子の嫉妬。面倒クサい事、この上ないわ…

 「どうする?サキ?分からせてやろっか?アタシたち敵に回すとどうなるか?」え?ちょっとそれって…

 「あたりまえじゃん。やってやるに決まってるっつーの!」あ、それって君たち、何なの?いじめちゃうの…えー…

 コウジに聴く気がなくても三人の不穏な会話は、耳に入ってくる。お陰で、昼休みは小説どころでは無くなってしまったのである。


 おいおいマズいだろ?チエってアレだろ?白井チエ。ガミの彼女だろ?それがいじめのターゲットになろうとしてんの?

 コウジは放課後、独り言を呟きながら、下駄箱に向かう階段を降りていた。白井チエにはほとんど面識は無い。直接の忠告は、できないだろう。

 じゃ、マリアか?いやいや、余計に面倒な事になるのは目に見えている。ユイ?うーん、ほっとけば?とか言いそうだし…のわあッ!

 湿度の高い階段は、結露したのか、誰かの傘から垂れた雫なのか分からないが、濡れており、コウジは思い切り滑ってしまった。

 「いてて…」

 「おい!大丈夫か?コウジ?」滑り落ちた先には偶然にもタケシがいた。

 「あ?タケシ?いてて…考え事してたら滑っちゃったよ…」

 「下から見てた。てか、呼んでたのに気がつかなかったろ?お前」タケシはタケシで、階下から階段を降りるコウジに声をかけていたらしいのだ。当然ながら全く気が付いていないコウジである。

 「あー…そうなの?全く気がつかなかったよ…って、それよかさ、相談したい事があるんだよ!誰もいないところ…あ、そうだ!生徒会室行こうぜ!」いや、誰かいるかもしれないのだが。二人は生徒会室に向かった。コウジの学生ズボンの尻から太ももまではしっかり濡れている。擦り切れた学生ズボンが破れなかっただけ、幸運だった。


 コウジが誰も居ないハズだ、と何の根拠も無しにやってきた生徒会室には先客が居た。マリアとユイである。

 「はぁ?お前ら何でいんの?」

 「はぁ?アンタこそ何でくんのよ?ワケ分かんないし!」切口上で返したのはマリアである。

 「いや、もう下校の時刻だろ?ユイはESSでしょ?マリアは…あ、合気道!合気道じゃん!」当たり前のことだが、マリアの表情が一気に険しくなる。

 「なーに勝手に決めつけてんのよ?私の合気道は七時からなの!いきなり来てバッカじゃ無いの?」

 まぁまぁ、と仲裁に入るタケシと同時に、窓を伝う雨粒を見ていたユイがボソリと見事なイントネーションで口を開いた。シット、ファッキン・ノイジー。

 「え?」ユイの一言は内容はともかく、場に静寂をもたらした。

 「うるさいって言ったの。マリアもマジで相手しないで。ワケ分かんないのはコウジの方でしょ?」でもさ、というマリアの右手に、ユイはそっと左手を重ねた。

 「え、ユイ?な、何?」ソー・クール、ね。落ち着いて。「あー、ビックリしたぁ…ユイ、落ち着けないって、逆に」

 二人の掛け合いを、男子二人は呆気に取られて見ている。いや、こんな事している場合じゃない。もう、マリアとユイにも噛んでもらおう。

 「ちょうど良い…ワケじゃないけど二人も聴いてくれよ。実は…」


 コウジは、さっき教室で図らずも耳にした一部始終を三人に話した。

 「な?マズいだろ?チエって白井チエだろ?ガミの彼女だろ?」

 「確かに穏やかな話じゃないな…。いじめは見逃せない」タケシは神妙な表情だ。良かった。やっぱりタケシだな。その逆に。

 「男子は知らないけど、女子には良くあることよ。いじめやってる仲間の関係が崩れて、その中の誰かが、また標的になる…因果応報」ユイ、やっぱりお前はそうくるか。タケシ、お前コイツと付き合わなくて正解だったな。

 「そうそう。こう言っちゃ何だけど、良い気味だわ。大体、あいつらゲーム感覚でいじめやって…植芝先生の教えが無かったら、ブン殴ってるわよ、確実に」やっぱりそう来るか、マリア。まぁお前らしいよ。

 「ガミは当然この事は知らないんだよね?」タケシはコウジに尋ねた。

 「多分ね。あの三人の会話から察すると、今からやろうぜ、って雰囲気だったから」

 「ガミの事だ。この事を知ったら無茶をやりかねない…」確かにそうだ。コウジはガミの事を考えた。コウジやタケシの前では、チエの事をウザがってに見せてはいるが、自分に好意を持っている人間が傷つけられるのを黙って見ている性格ではない。沈黙が四人の間に流れる。ただでさえ日当たりの悪い生徒会室である。高い湿度も相まって、暗い湖底にいるような重苦しい雰囲気が漂っている。


 ガミには、私から話す。ユイが切り出した。

 「私なら、ガミも落ち着いて話しを訊くと思う。二人で話した事なんて、あんま無いからね。ここにいる四人が知ってるって事を話してみる」

 「ユイ…大丈夫?」

 「大丈夫よ。ガミは、私の事を好きだったことがあるの。小3の時だったかな?みんなでバレンタインとホワイトデーにチョコとかマシュマロ交換したこと、あったでしょ?あの時にね、オレ、絶対ユイに渡したいって、ね…」ユイ、お前モテモテじゃねーか…なぁ、タケシどうよ?

 「それが根拠?大丈夫かなぁ…」

 「タケシとコウジじゃ、落ち着いて話を訊くとは思えないし。マリアも無理でしょ?白井チエ、苦手だもんね?」

 「うん…まぁね。話す事は話すんだけど…だって、あの子その、これからいじめてやろうって三人以外だと私ぐらいしか相手にしないんだもん」クラス委員だしね?とユイが言うと、まあね、とマリアは返したが、その言葉には覇気が無い。

 「あの三人は、チエのルックスだったりステータスを利用しているだけじゃ無いかな?友達のフリしてさ」やっぱりな、マリアには分かってたのか。さすが女子だな。

 「マリア、オレが言う前から、さっき言ってた事、分かってたの?」

 「丸わかりよ。チエがあの子たちに、化粧品のサンプルとか、なんかヘンなキャラクターのストラップとかあげてたの見た事あるもん。それにあのチエに金魚のフンみたいに、付きまとっていれば、目立てるからね。安っぽいったらありゃしない」

 マリアのテンションが上がってきた。生徒会室の空気が徐々に変わってゆく。

 あとは、それぞれがどう動くかだ。

 「タケシ、あとはどうすれば良い?」コウジが言うと、女子二人もタケシに注目する。

 「そうだな…」稲妻が一瞬光った。壁に取り付けられたスピーカーからは、下校を促す放送が流れている。


                 ※


 降り続く雨は、深夜になっても止む気配を見せない。

  ナツを送り出したあと、コバさんは浴室に入り、浴槽にお湯をはる。昭和の雰囲気が漂うこの家で、脱衣場と浴室は、真新しい。

 懇意にしている建具屋の2代目が去年リフォームしてくれた。それまでも脱衣場の床の一部を張り替えたり、浴室にヒビが見つかったり、給湯器が故障したりとチョコチョコとしたトラブルがあったのだが、モルタルの浴槽のタイルが剥がれ落ちた時点で「コバさん、ここ、そろそろやりかえないと。風呂に穴ァ空いちゃうかもしれんぜ」と言うので、とりあえず浴室と脱衣場のリフォームをを決断したのである。

 「リフォームったって、高いんでしょ?そんなお金、ウチには…」2代目はグローブの様な分厚い職人の手をあげて、コバさんの言葉を遮ると、「そこは心配ねェって。まぁ、タダって訳にゃイカンけどよ、ついこの間、バスルームのリニューアルの仕事にキャンセルが出ちまってね、部材が余ってる。それを使えばかなり安くイケるぜ。何せ梱包解いちまってるから、返品もきかねェし、新古品ってワケだ」

 「そうなの?そりゃ助かるけど…手間賃がいるでしょ?それに、アレだよ、その部材とやらがウチに都合よく合わないでしょ?そうなると加工しなきゃならないだろうに…」

 「そこはオレが全部やっから!まぁ、仕事の合間にやるから時間は少し頂くけどよ、オレの手間賃なんてたかが知れてるからさ…」

 結局、最初の解体やハツリ仕事を業者に任せて、あとは本当に2代目が全部やった。しかも、仕事の合間と言っても午前中はほぼ毎日作業に入り、日曜日は、終日作業に入ったのである。そして、十日ほどでリフォームを終了させた。

 「ありがとう。アンタ、本当に良い職人になったねぇ。親父さん生きてたら手放しで褒めるわよ」散々、両親に心配をかけた2代目である。それはコバさんも良く知っていた。親父さんとケンカして、行き場のない2代目を、しばらく居候させてやった事もあるコバさんだ。

 「どうかな?これでも親父だったら、ケチつけるかも知れねェよ」2代目は照れ臭そうに、鼻の頭をポリポリかいている。

 「それにコバさんの頑張り見てたらよォ…やりたくなるってか…やんなきゃなって…ともかくよ、この家の面倒はこれからもオレがしっかり見っから」

 リフォーム前までは、水とお湯の混合水栓をひねりながら、お湯加減を調節していたのだが、今は壁面についたコントローラーのボタンを押せば、勝手に良い加減のお湯を、しかも指定した量だけはってくれるのである。

 「全く便利な時代になったモンだよ」吐出口から勢いよく出たお湯が浴槽を満たしてゆく。


 あの子のこころは満たすの為に、あたしは何をしてあげれば良いのか…

 

 湯量を示すセンサーの緑色の光が一つづつ点ってゆくのを、コバさんはボンヤリと見つめている。


 ここで働かせて下さい。

 コバさんが、玄関の前を掃き掃除していると、薄曇りの空の下に、制服を着た中学生が立っていた。春と呼ぶにはまだ早い、3月の初旬の事である。

 「どうしたの?藪から棒に…藤が丘中の生徒さんでしょう?」

 「はい。でも、学校にはあまり行ってないんです…その…『そよ風ルーム』って、ご存知ですか?」

 「もちろん知ってますよ。あたしは、あそこの…関係者だから」コバさんは、少し戸惑ったが、正直に自分の立場を述べた。隠してはいけない気がした。

 「そうなんですね…」その中学生は、視線をアスファルトに落とした。明らかに戸惑っている。

 「まぁ、ここじゃなんだから、こっちにお上りなさい」その中学生は、おずおずと、と言う言葉がピッタリの動作でコバさんに続いて靴をきちんと揃えて上がってきた。

 「そこに座ってて」中学生は、子供たちが書いた落書きや、小さなキズが沢山のついた座卓の傍に正座で座った。

 「足、崩して良いのよ。気楽にしてね」

 「いえ。こっちの方が落ち着くので」そうなの?、とコバさんは言うとを、急須からお茶を注いだ。子供達が使うプラスチックのコップに注いだ。陶器のの湯呑みもあるのだが、この中学生にはこっちの方が良い、と思った。

 「子供たちと一緒のもので悪いんだけど。せっかくのお客さんなのにね」

 「いえ、ありがとうございます。いただきます」

 さっき上がりがまちで、靴をきちんと揃えたことといい、正座といい、言葉遣いといい、きちんと躾られた子だと、コバさんは思った。

 「中学生なのにしっかりしてるわね。おばさん感動しちゃったよ」

 「そうですか…ありがとうございます」コバさんは、もう少し元気があっても良いんじゃない?と言おうとして、その言葉を飲み込んだ。これもカンである。

 さて、と言うとコバさんはエプロンで手を拭くと、その中学生の前に、自分も正座で座った。

 「ここで働きたいのね?」中学生は、コップのお茶の暖かさを確かめるように両手で包むように握っている。

 「ええ、できれば」その時、初めて中学生は、コバさんの顔を見た。目線を逸らさず、瞳を見つめていた。

 「真剣なのね」はい、と強い声で返事をした。肌が白い綺麗な額をしてるなぁ、とコバさんは思った。眉目秀麗ってこんな顔を言うのかもしれないわ。

 「確かにね、この子ども食堂は人手が足りないのよ。時々、ご近所がお手伝いに入ってくれるんだけど、何せ小学生でしょう?いい子ばかりでは無いから、結構大変なのは確かなの。ここは、子どもたちがお食事を出すだけの場所では無いのね。宿題やる子もいるし、本を読んでる子もいる。でも、おしゃべりをしたい子や、たたかいごっこをやりたい子もいる。ね?分かるでしょ?」コバさんは、お茶を一口飲んだ。

 西日が、濡れ縁から差し込んで来た。夏、この部屋は、結構暑くなるんだろうな。ナツはボンヤリ考えた。部屋の温度が、上がった気がした。

 「まだ、お名前訊いてなかったわね」今度は、コバさんが中学生を見つめる。

 「小山ナツ、と言います。中三です」ナツはコバさんの視線を受け止め、答えた。


                ※


 「チエ、どう言うこと?アンタいじめにあってるの?」

 耳元で母の声が響く。あーうるさい。珍しく机に向かってるのに。

 「重田って生活指導の?先生が電話してきたわ。会議の最中に何度も何度も電話してきて、出たらチエさんのことでお話が、って言うから聞いて見たら、アンタがどうもいじめられてるって言うから」

 「あーそうかもね。揉めてるっちゃ揉めてるわ。でも心配しないで。大丈夫だから。あーそれと仕事のジャマしてごめんねぇ」チエは通話を一方的に切って、マナーモードにして端末をベッドの中に突っ込んだ。くぐもった振動音がデスクライトだけの暗い部屋に響く。

 兄のコウは、まだ帰ってこない。研究室にこもっているのか。友達と飲みに行ったのか。卒業を控えた兄は、院生として大学に残れ、と勧められているらしい。母も当然それを勧めている。


 「チエはどう思う?院に進むか、就職するか?」ある夜、机に向かっていると、珍しくコウが部屋に入って来た。暖簾をくぐる様に、チエの部屋に入ってくる。おそらく身長は180センチを超えている。チエも女子の中では背が高い方だ。これは二人で父親譲りだろう、と以前話した事もある。

 「アニキの事だからどうせ、もう決めてるんでしょ?」

 「いや、今回は決めていないよ」コウからは微かにタバコの匂いがした。おー、とうとうタバコ吸うんだ。

 「大学院、行けば良いじゃん。あの人から学費むしり取ってやれば?てか、あの人も望んでるんでしょ?進学」

 「それが面白くない。何で母さんの期待に答える必要がある?僕は一刻も早くこの家を出たいんだ。院に進むと…」

 「出て行けなくなる、でしょ?」

 「学費もまた必要になるしね。特待生が狙えるほど成績も良くない。かと行って奨学金は問題外だ。あの人が出すってきかないだろうね」

 「じゃ、卒業だ。就職試験は?」コウが口にした企業は、誰でも知っている玩具メーカーだった。実は、内々定がもう出てはいるんだ。

 「やったじゃん!ずっと行きたいって言ってたところでしょ?」コウが作ったプラモデルが何度か雑誌に載っていた。それが功を奏したらしい。

 「でもプラモデルの部署に配属されるとは限らないよ。全く関係ない部署に回されるかもしれない」

 「でもさ、就職の方が良くない?あの人から逃げられるんだからさ。羨ましいなぁ…」

 母の期待が兄にかかっているのは、チエにも十分わかっている。優しい兄を父の様にしたくないのだろう。もし、できるのならとことん学習能力を極めさせたいのだ。


 私は何にも期待されていない。


 じゃあね。話聞いてくれてありがとう。もう少し考えてみるよ。

 「うん。アニキの好きにすれば良いんじゃない。あとは、あの人を利用するか、しないかだね」

 コウはどちらを選ぶのだろう。どちらににしても、コウが幸せならば、それで良い、とチエは思う。

 私にはルックス以外、なーんにも無い。


 ケンカをした翌日から、サキたちの嫌がらせが始まった。

 朝登校すると、黒板にはタツヤと自分のありもしない下ネタが、書きなぐられていた。

 椅子の上にバラまかれた画鋲。

 机の上には仏花。

 昼休みが終わると、給食の残飯が机の中に入っている。ビニールに入れてあるだけ、まだマシだ。

 授業を受けていると、どこからともなく消しゴムが飛んできた。


 もう、いいや。


 「せんせー、仕事があるんで帰りまーす!」チエは、普段なら絶対やらない挙手をして物理の教師のに告げた。

 「あら?先生何にも訊いて無いけど…重田先生には報告してますか?」

 「いえー、忘れてましたぁ。すいませぇん」そう言うとチエはもう立ち上がっていた。

 「ちょっと待ちなさい。重田先生に…」

 どーせチャラいカッコして小銭稼いでくるんでしょぉ。

 サキの声だ。それまでもピンと張り詰めていた教室の空気がさらに増す。

 チエは、振り向くとサキを睨みつけた。

 「なぁにぃ。ちょっと怖いんだけどぉ」サキがその言葉を言い終わらないうちに、チエの平手がサキの頬を捉えた。風船が割れたような音が教室に響く。サキはあっけに取られていたが、すぐに「てめぇ!ブッ殺す!!」と言い放ち立ち上がろうとした。チエは立ち上がろうとするサキの肩を押す。サキはその手を捉える。

 「あなたたち、いい加減に…」

 

 「いい加減にして。うるさい」教師の言葉を遮ったのはユイだった。


             ※


 「マジか?それ?」体育館は、ドアと窓は全て解放してあった。梅雨の香りを含んだ風が吹き抜けている。

 ガミの柔らかい髪の毛からは汗が滴っている。

 「けっこう騒がしかったんだけど。ガミ、気がつかなかったの?」ユイはスカートのポケットから取り出したゴムで、髪を束ねながら喋っている。暑い。もう、ショートにしちゃおっかな。

 「うん。寝てた」ヘアゴムを咥えるユイの舌が一瞬見えた。

 「そんなことだと思ったよ」

 ユイは、帰りのホームルームが終わると、ESSの部室に行き、ちょっと体育館行ってくるから、と2年生に告げると、ガミのところへ向かった。

 運動部は、中総体に向けて追い込みの練習が始まっている。ユイたちもスピーチコンテストが控えている。これらが終われば、ユイやガミたち3年生は、部活動引退である。

 「しかし、なんでサキなんだろ?あの二人いっつも、つるんでたのに…」ガミは首にかけていたタオルで、頭をゴシゴシと拭く。女性のシャンプーの香りが漂った。

 「アンタ、女もののシャンプー使ってんのね?」

 「ほら、オレって猫っ毛じゃん?いーんだよこれ、ハリとコシが出てさ」ガミは指に髪を巻きつけてみせる。その仕草を見た時にユイは、チエの気持ちを少し理解できたような気がした。

 「そう?分からないけど」ガミは、コケる仕草を大げさにやってみせた。いや、こんなコトやってる場合じゃ無かった。チエだよ、なんで、こんな事になったんだ?

 「で、チエは帰っちゃったの?」

 「さぁ…私はチエを重田のところに連れてっただけ。それからあとの事は知らない」

 おそらく重田の事だ、そのままチエを解放したに違いない。

 「ねぇ、ガミ。チエとサキ達って本当に友達だと思う?まぁ、友達って定義は人それぞれだけど」

ユイの後れ毛が、風に揺れる。ガミはユイの顔を見る。黒目がちの瞳の先には、いっぱいに青葉が茂った桜の樹があった。後れ毛と同じ風がその葉を揺らす。

 「どうかな…よく分かんないけど、チエってあいつらが喋っているのを、一方的に聞いてるだけ、って感じが時どきするかも…」

 ガミは、体育館の入り口、コンクリの階段に腰掛けた。ヒンヤリとした冷たさが尻から染みてくる。当然、トレーニングパンツの太ももの付け根の部分は汗でびしょ濡れだ。ユイは一段下の階段に足をかけ、立ったままだ。ガミを見下ろす形になる。

 「私もそう思う。サキはチエに寄生して化粧品とか、放送局のノベルティグッズとかを貰ってるだけだね、多分。チエはそんなサキでも友達だと思って黙って担じゃ無いかな?」

 「ユイ、その現場見たのかよ?」

 「まぁね、あんだけ堂々とやってりゃ目に付くわよ」

 ユイの話を聴いていて、ガミの胸の奥から得体の知れない苛立ちが湧いて来るのを感じた。


 オレは?オレはチエにどう接していたんだろう?


 ガミは部活、チエは芸能活動で忙しい毎日を縫って、デートしていた。しかも、チエはアキラのお迎えにまで行ってくれていて。

 良く考えてみると、オレが話していたのは、バスケのことや、アキラのことばかりだった。チエは大きな瞳を輝かせながら、その話に相づちをうったり、笑いながら耳を傾けくれていたのだ。

 なのにオレは…


 「オレ行く…」

 「バカ。アンタが行ってどうするの?」

 「いや、オレ彼氏だし!こんな時に側にいられるはオレしか!」

 ユイはじっとガミを見つめたあと、大きくため息をついた。

 「なぁ、そうだろ?ユイ?オレが行かなきゃいけねぇだろ?」

 「それでチエが喜ぶと思う?中総体前のこの大事な時に練習抜け出してさぁ。チエが観たいのはアンタがコートで駆け回る姿でしょうが」ガミは不意を突かれて、思わず口ごもる。い、いや…でもさ、オレが!

 「私が何とかする。乗りかかった船だし。もともとサキたち好きじゃないし。それに…」

 「それに?」

 「アンタの彼女じゃん」


                ※


 「おっしゃっている意味が…良く分かり兼ねるんですが…」

 職員会議室、とネームプレートには書いてあった。職員室のちょうど隣の部屋である。以前もこの部屋で重田とはなした。今回は、川村という女性教諭が一緒である。


  お仕事中、申し訳ありません。中学校の重田でございます。今、お時間よろしいでしょうか…。

 重田からの電話があったのは、午後の会議が終わった直後だった。小山の会社の状況は相変わらずだ。以前より、ほんの少し資材の購入がスムーズになっただけで、相変わらずどこの現場も厳しい状況は変わらない。


 不毛な会議だった。

 現場から上がってくる報告は、最前線で奔走している担当者の愚痴である。最近は、若干質を落としても、海外の部品製作メーカーにも発注をしている。すると今度は部品の不具合が多発した。基盤のハンダつけや旋盤での加工が甘いのである、そんなことは分かりきっていた。足元をみる中間業者は値段をふっかけるのは当たり前、それでいて品質は低下しているのだから話にならない。

 運送もいい加減で、横浜に着く品物が、平気で北九州の門司や京都の舞鶴に着く。平時なら、イヤミの一つで済む事件何のだが、今回は状況は違う。

 どこの現場もイキリ立っているのだ。

 部品の到着が遅れれば、それだけ工事に遅延が発生する。小山としては、それは無視できない。現場からのクレームが小山に上がり、上からの責任の追求は小山に下る。

 そこにきて重田の電話である。

 勿論、ナツのことに違いは無い。わかっていた。

 小山は、ナツより先に出勤する。朝食こそ一緒に取るものの、小山が出勤する時、ナツはまだTシャツに短パン、要するに寝起きの出で立ちだ。その格好で、ナツは朝食を作ってくれる。最近は、連日の子ども食堂通いでレパートリーが増えたらしく、味噌汁の具も毎日代わり、バランスを考慮した食事が出てくる。生活力は身についているのだ。それは、いい。

 しかし、ナツはまだ中学生だ。本来なら、毎日学校に通い、受験の準備も始めなければならない。

 小山は、ナツにそのことを尋ねると学校には、と言うか『そよ風ルーム』には通っていると言う。しかし、毎日では無い様だ。それでも卒業は出来る、と言う。

 ある時、小山は差し向かいで朝食を食べながら、ナツに尋ねた事がある。

 高校はどうするのか、と。ナツは働く、と即答した。飲食の道に進みたい、と。その為には、高校に通うよりどこかに弟子入りして、キャリアを積みたいと言うのだ。

 「それは高校を卒業してからでも良いだろう?何なら、調理に特化した学科がある高校に通っても良いんだし…」

 「それも考えたけど…学校と言う場所には、もう行きたく無いんだ」

 「そんなに友達と会うのが嫌なのか?保育園からの友達もいるだろう?ほら、タツヤくん、だったか…」

 ナツがタツヤと最後に言葉を交わしたのはひと月ほど前である。それ以降は会話は勿論、会った事も無い。弟のアキラには、ほぼ毎日会っているのだが。

 「…うん。今は会いたく無いかな…タツヤだけじゃ無くて、すずめのみんなにもね」

 こんな時、ヨリコだったらどんな事を話すのだろう。

 小山は、常にそんな事を考えた。母親と言う存在を意識して小山はナツと向かい合ってきたつもりだ。そして、今回も。


 しかしー


 今、目の前にいるナツは以前のナツとは違う。それは、成長に伴うモノだろうと、それまで小山は思っていた。だが、目の前にいるナツの話を訊いてやる事が出来るのは、自分では無くヨリコで無くてはならないのでは無いか、と思えてくる。

 元から、優しくおとなしい子だった。

 小山とやるキャッチボールよりも、ヨリコに本を読んでもらうのが好きだった。

 「お父さん、そろそろ出ないと」ナツが、自分の食器を片付けながら、柔らかい声で小山を急かした。


 「それは、本人が…ナツが自分から?」小山は教師二人にからかわれているのか、と思った。

 失礼します、と女性教諭が職員会議室に入ってきた。二十代後半ぐらいだろうか?

 「初めてお目にかかります『そよ風ルーム』の担任をしております、川島と申します」落ち着いた声でその女性教諭は自己紹介をした。

 二対一じゃ無いか。営業でも2、3名で押しかけてイニシアチブを取る。

 「ナツさんから…その…カミングアウトを聞いたのが、川島先生です」

 若い割には、胆力のある目をしているな、と小山は思った。それに声も澄んでよく通る。そうでなければ、『そよ風ルーム』の担任なぞ出来る無いだろうな。

 「どう言う状況だったのでしょうか?」それを受け小山もしっかりと川島の目を見て話した。

 「昨日の放課後でした。ナツさんが、話たい事がある、と言うので、ここ…ちょうど、今お父様が座られている席にナツさんが座りました」小山は、右手で自分が座っている椅子のパイプを掴んだ。

 「生徒が個人的に私に相談すると言うのは、『そよ風ルーム』では珍しく無いんです。色々な問題を抱えている子たちのクラスですから」

 「そうなんですね。先生は信頼されているワケだ」川島の表情は崩れない。かわいげが無いな、少しは照れるなりすれば良いだろうに。

 「だと、思っています。少なくともあのクラスの子たちは、私を信頼してくれていると思いたいです」

 「で、ナツはなんと?」

 「先生、今お話できますか?」

 職員会議室のエアコンがカビ臭い空気をかき回している。重田も、小山も無言だった。部屋に響いているのは、川島の凛とした声だけだ。


      ※


「なんとなくおかしいな、と思ったのは小学校5年生の時です。体育の時間に男子の友達と着替えるのが、恥ずかしい、と思っている自分に気が付いたんです」


「そのうち夏になってプールの授業の頃になると、男子のアソコ…股間を見るのが恥ずかしくなって…もちろん、5年生になると隠して着替えている子も増えたんですけど、おちゃらけたヤツが、ワザと隠さずにはしゃぎながら着替えてました。それが嫌でたまらないんです。自分も同じものを持っているのに…人前で裸になるのものが、すごく恥ずかしくなったんです」


「みんな、卒業する事に対して、喜んだり悲しんだり色々な気持ちがあったと思うんです。でも、僕には…そんな余裕はありませんでした。

 とにかく中学校に進学するのが怖かった。

この先、自分がどうやって友達と接してゆけば良いのか分からなくなりました。

本格的に中学校での生活が始まると、体育の時間はもちろん、普通でも男子を意識するようになりました」


「最初に、トランスジェンダーのことについて、調べたのは中2に進級した時でした。インターネットを見ていたら「性的不一致」というワードが目にとまったんです。

最初は何のことか分からなかったんですが、調べていくうちに、自分と当てはまると所があって…その時は怖いというより、自分が何者なのか、それ知りたい気持ちでいっぱいでした。それで納得しました」


自分は見た目は男子だけど、こころは女子なんだ。


「要約させて頂くと、この様な感じになります」

川島はノートから、顔を上げた。

小山は、表面上は落ち着いているように見えたが、表情は固い。

「ちなみに…このノートに書いてあることは、リアルタイムに書き取ったことでは、ありません。そんな事をすればナツさんに不信感を与えてしまいますから。これは私がナツさんの話をお聴きして、思い出しながら書き起こしたものです」

 無力なモノだ。小山は思った。

 「結局、大人って何ができるんですかね」

 

                 ※


 「あんた、塾は何時からなの?」

 コウジは帰宅してからも珍しく何もせずベッドで横になっていた。

 「早く買い物に行ってきて!カレーにしようと思ったら、人参が無いのよ。あと牛乳もね、お願い」階下から母親の声が響く。そうか、今日はカレーか。

 「わーったよ。行くから待ってて」

 「あんた、さっきも同じこと言ったじゃない!いい加減にしなさい」 

 ノロノロとベッドから起き上がって、デニムのハーフパンツに足を通す。大した事はやってないのに、どうしてこんなにも身体が重いのだろう。

 一学期の中間テストも終わった。相変わらず理数系は酷い。最初の計算問題も基本的な出題以外は、全く理解できなかった。証明をはじめとした文章問題に関しては、式は間違っていない。でも、計算がほとんどできていないはずだ。文章を読み込んで、セオリーに則した式をたてる事はできても、解法が今ひとつ分からない。式と計算、別々に配点されていたのだろうか?

 「そこにお金、置いてあるから人参と…お釣りでおやつを一つ買ってきていいわよ。ただし、買い食いはダメだからね」ハイハイ。

 「あ、それと寄り道はしないで。アンタの人参が遅れたらカレー無しだからね」

 今のコウジにとって、そんな事はどうでもよかった。

 「あのさ、人参って入れなくてもカレー、出来なくない?」

 「バカな事言わないで、速く行きなさい!人参の入ってないカレーなんて、あり得ないでしょ?お豆腐が入ってない味噌汁と同じじゃない。そんなモン誰が食べるの?とにかく早く行ってきて!」いや、豆腐が入っていない味噌汁は成立するだろ?じゃがいもの味噌汁には豆腐は入っていない。それを母に言おうと思ったが。余計に問題がややこしくなりそうだったので、止めといた。


 歩きながら、コウジはまた白井チエの事を考えた。

 美人が怒ると怖い。例えば、ユイがそうだ。

 ユイに関して言えば、コウジが保育園から知っているから、かなりフレンドリーではある。しかし、周りから聴こえてくるユイの噂。

 頭が良くて、何でもそつなくこなしてしまうのだが、何を考えているか分からない、美人だけど。気の利いた言葉で例えるなら、「ミステリアス」ということになるのだろう。だけど、白井チエは「コケティッシュ」ということになるのだろうか?

 だいたいコケティッシュって何だっけ?


 コウジは、父から譲り受けたロードバイクにまたがる。以前は父が通勤で使用していたモノだ。そこそこに年季が入っているが、ちゃんとしたブランド品である。

 自宅の前の路地を右折しすると、軽い下り坂だ。その坂を下って広い通りに出る。目的のスーパーまでは、その道をゆけば良いのだが、途中の路地を通ればショートカットできる。ただし、若干の上り坂ではある

 「運動不足解消しますかねぇ…」コウジは路地を折れた。

 ゆるい坂道をギアを切り替えて登ってゆく。風が、ねっとりとした湿度を帯びてコウジにまとわりつき、汗を誘発させる。明らかに夏の予兆を感じる。中学3年生になって、もう2ヶ月が過ぎようとしていた。速ぇよ。

 坂を登ってゆくと、ガミの住んでいる団地が見えてくる。コウジの住んでいる地区よりも、この辺りは古くから住んでいる住民が多い。ガミの団地だってそうだし、見るからに風格のある戸建ての住宅も多い。

 ガミの住んでいる団地を頂点として、道はゆるい下り坂になる。ここを降りきってしばらく走れば、スーパーはもうすぐそこだ。

 団地に隣接した児童公園を通り過ぎようとした時、中学校の制服の女子のが、滑り台の上に体育座りで座っている。コウジは思わず自転車を止める。

 白井チエだった。


                 ※


 「白井?」

 滑り台の上の人影がコウジの方を向く。やはり白井チエだった。

 「だれ?」棘のある声だ。

 「あ…中山だけど…じゃ!」コウジはバツが悪くなり、ペダルを踏み込もうとした。「待ってよ」白井チエは滑り台を滑り降りてくる。コウジが見ている一瞬、白い脚が膝のちょっと上まで見えていた。

 「アンタこの辺なの?」コウジはしどろもどろになりながら、母に頼まれた買い物の件をはなした。

 「いやさ、まったくイヤになっちゃうよ。メンドくせーっての」

 「いや、答えになってないし。この辺に住んでんの?って訊いてんの」

 美人が凄むと怖い。

 「あ?あ、そうね…うん。チャリで20分くらいかな?」

 「で、買い物頼まれたんだ?それじゃ、あっちの道の方がチャリだと楽じゃん?」これがマリアだったら、なんてこと無いんだけど。何だよ、白井チエの威圧感。

 「いやさ、母さんから買い物頼まれてさ、マルユーに行く途中。ほら、ここショートカットできるから…」

 「あ、そう。じゃ、タツヤんトコに来たんじゃ無いんだ?」タツヤ?ああ、ガミのことね。

 それから、白井チエは、ガミの弟のアキラをこども食堂に迎えに行って、今送り届けたこと。そして、今は部活帰りのガミを待っていることを伝えた。

 「確かに中総体、もう目の前だしさ、気合い入ってるのは分かるんだけど、もう7時過ぎてんじゃん?いつもならもう帰ってくるんだけどなぁ…」

 コウジはチエの言葉に二人の間にある、何か甘くるしいものを感んじた。それは、同じ中3の自分には、処理に困る感情だ。

 「あの…こんなこと尋ねるのは、アレだと思うんだけど…昼間の…」ああ、あれ?チエは近くにあるベンチ座った。

 「大したことないよ。てか、アンタと話すなんて、私、そーとー参ってるのかな…」え?それはどうゆう…


 「私、アンタたち嫌いだったんだよね」そんなこと、言われなくても分かっていたけど。

 チエが、今日ケンカしていたサキたちと組んで、自分やマリア、ユイやタケシに行ってきた事をコウジは忘ない。

 タケシが生徒会を代表して発言する時に、決まって茶化す。

 文化祭の時に、ユイがESSの企画でスピーチする時もそうだ。

 コウジだって、何度も「ヲタはキモい」と言われたか。

 そして。

 ナツに対して言ったことは絶対忘れ無い。

 キモいんだよ。タツヤから離れろよ。お前、タツヤの事、変な目で見てただろッ!  

 自分は、確かにからかわれても仕方がない、とも思う。一人で本を読んでいる事が多いし。特に三年になってからは、その傾向が強くなったと思う。

 あの『そよ風ルーム』の一件以来、ウワサを聞きつけた一年生や二年生がコウジの事を尋ねてくる事が時々あった。カードゲームの事やアニメやマンガの事を話に来るのだ。彼らが訪ねて来ると、コウジはそそくさと廊下に出る。迷惑だなぁと思う反面、兄弟のいないコウジにとっては、嬉しくもあった。

 確かに、廊下でいわゆるヲタ話をするのは興味のない連中から見れば、ちょっと引く光景ではある。しかし、コウジは自分が彼らの拠り所になれば、とも思っていた。

 「オレはさ、確かにヲタだしキモがられても仕方が無いとは思うけど…他のみんなは違うだろ?」

 「違わない。と言うか、違わないと思っていた。アンタたち、いっつもつるんでんじゃん。タツヤと」

 「そう見えるだけだろ?大体みんなは色々忙しくて、小山が言うほどつるんでないっての」全く思い込みの強い女だ、とコウジは思った。本当にタツヤの事しか見えていないのだろうか?

 公園の木々の茂みから、気の早い夜の虫の声が聞こえはじめた。今、何時だろう。オレは、買い物を頼まれているのに。

 「そうだよね…そこは謝るよ。私たちもやり過ぎたかも知れない…」

 ずいぶんヘタレた事を言うじゃないか、と言ってやりたくなった。結局、何が原因かは知らないが、小山チエは何故自分の居場所を潰してしまったのだろう。

 群れてるヤツらなんてそんなもんだよ。とコウジは思った。一人になると、こんなヲタにでも声をかけてしまうんだ。

 「ナツにも酷い事言ってたよね」

 白井チエを追い込むつもりは無かった。でも、ナツの事が口をついて出てしまった。多分、というが絶対、コイツのせいでナツは、登校できなくなったに違いないのだ。


 チエの表情が変わった。


 それまで、チラチラと顔をコウジの方を向けて話していたのだが、ナツの名前が出た途端、下を向いて、顔を上げなくなった。初夏の夜のとばりがそこだけ濃い。


 アイツは…アイツは違うだろ…


 「え?何だよ?」

 「小山は、ちょっと違うだろ…なんか変だよ、アイツ…」

 「何が変だよ?アイツもオレらの友達なんだぜ。確かに家は近所だし、仲は良かったけど…何が変なんだよ?」

 チエの雰囲気がおかしい。とまどいと嫌悪が入り混じっている、と言えば良いのか。とにかくこんな雰囲気の女子と言うか、同級生は見た事が無い。

 「アイツは変なんだよ…タツヤに対して…なんであんな目でタツヤを見れるんだよ…おかしいよ…アイツ絶対おかしいって。だから、アイツだけは、絶対タツヤに近づけたく無かった。だから徹底的にやった。二度とタツヤに近づけ無いように」

 チエは俯いていた。ロングヘアがその表情を隠している。

 「あの…オレ行くわ」チエは無言で俯いたままだ。視線の先には外灯の薄黄色い光の輪がある。石畳の隙間の暗い影から、小さな虫が這い出て来るのが見えた。


                ※


 「この前の夕方、小山チエに会った」全員の視線がコウジに集まる。

 コウジの部屋である。

 今日はコウジがタケシ、ユイ、マリアを呼び出した。ユイに関してはマリアに呼び出してもらったのだが。ガミは相変わらず部活である。と言うか、今回の話題に関しては、ガミを呼ぶワケにはいかない。ナツに事もあったので、コウジは最後まで迷ったのだが、やはり声をかけなかった。


 季節は6月に入った。5月後半の天候のぐずつきは、そのままに梅雨入りした。ただでさえ高い湿度に加えて、五人の中学生の身体から発する熱気もあって、コウジは今年初めて、この部屋のクーラーを稼働させた。あー涼しい。コウジ、気が利くじゃん。マリアは下敷きをうちわがわりにして、パタパタとあおぎながら、珍しくコウジをほめた。

 「タダでさえ暑いのに、この部屋に五人はキツいだろ?」

 「確かにありがたいけど、おばさんに怒られないか?」さすがタケシ。だけど、気を利かせすぎだぞ。

 「まぁ、大丈夫じゃね?エアコン無しじゃ、気分悪くなっちゃうって」家主であるコウジは全く気にしていない。

 「確かにありがたいわね。あとで、おばさんにお礼言わなきゃ」ユイ。お前も気ィ回しすぎ。

 「で、何?チエに会ったの?どこでさ?」マリアは、一つに束ねた髪を持ち上げて、うなじの汗を、青いタオルで押さえている。本当は、ショートヘアにしたいらしいが、親に止められているらしい。確かにこれでショートヘアになってしまうと、女の子らしさが、完全になくなってしまう、と言う理由で許可が出ないらしい。

 余計なお世話だっての。ホント、嫌になっちゃうわよ


 「三丁目の公園で。白井チエは滑り台の上にいたんだ」

 それから、コウジはこの前の白井チエとの突然の邂逅を四人にはなした。

 母から頼まれた買い物の途中で彼女にあったこと。会話も初めて交わしたこと。

仲間うちでの揉め事のこと。そして、ガミのこととナツのこと…

 コウジはあの日の事を思い出していた。

 なぜ自分はあそこで足を止めてしまったのか。

 おかげで、人参を買って帰るのが遅れてしまい、母親からこっぴどく怒られてしまい、オマケに人参なしのカレーを食べるハメになってしまったのだが。それに塾にも遅刻するというオマケまでついた。人参の無いカレーは、お気に入りの声優が出ないアニメみたいだった。


 中学に入ったばかりの頃の事である。

 違う小学校から来た白井チエを初めて見た時、コウジは衝撃を受けた。

 綺麗だった。

 とてもつい最近まで自分と同じ小学生だったと理解できなかった。

 それまでも、女子を意識したことはあった。だが、チエは比較対象にはならなかった。

 例えるなら。

 コウジがいつも見ているアニメのキャラクターが、現実に現れた、といえば、いちばん近いかもしれない。彼女は高潔そして聡明、孤高。多分いや絶対そうだ。

 しかし、現実は違っていた。まぁ、そんなモンだ。ヲタの妄想なんてグズグズの豆腐のように脆い。そして儚い。

 それからも校内で、コウジは白井チエを見ていた。もちろん、遠くから。今になって良く考えてみれば、単純に怪しいヤツである。

 その彼女が、どんな理由かは知らないが仲間とケンカをして、こころ傷つき佇んでいたのである。夕暮れに。一人で。


 「まぁ、わかりやすいっちゃ、わかりやすいわね。要は仲間割れして、しかも一人でハブられちゃったってワケだ」マリアがざっくりと切り捨てた。確かにそうなのだろう。同じ学年の女子は、皆ザマアミロと思っているに違いない。それは容易に想像できた。「どーせほっとけば、すぐに元通りになるって」マリアは、スナック菓子をボリボリと頬張っている。マリア、お前には悩みなんて無縁だろうなぁ、とコウジは思ったが、口には出さなかった。出せば面倒なことになるのは目に見えている。

 「でも、本当の理由は何だろう?コウジの話から考えても、マリアが言う様に単純な事だとは思えないな」タケシらしい。

 「小山、実はしっかり将来の事を考えてるらしいんだ」

 みんなが一斉にタケシの方を見る。さすが生徒会長だ。情報の出どころは、おそらく重田だろう。

 「みんな、この話は絶対ここだけにしてくれ。僕も重田先生の独り言をたまたま聴いてしまっただけだから」

 先日、タケシが生徒会の引き継ぎの件で、職員室を訪ねた時のことであると言う。重田の周りには他の教師はおらず、一人で何かの書類をパソコンに打ち込んでいたらしい。その時にブツブツと独り言を言っていたらしいのだ。


 いやぁ、参ったな…本当にここからタレント出ちゃうかぁ…まぁ、小山は仕方無いなぁ…今でも半分タレントだしなぁ…まぁ、学力もアレだから芸能コースのあるD校、間違い無い選択だな…


 ユイが、呆れた表情で天井を仰いだ。そして天井に貼ってあるポスターを発見して、コウジを見た。そして、ため息をついた。そこにはお気に入りのアニメのポスターが貼ってあった。好きねぇ…ま、いいけど。コウジは愛想笑いをするしかない。

 「相変わらず無神経って言うか、軽いって言うか…ねぇ?」

 「お、おう。そうね…」ユイ、言いたいのはそれだけか。

 その後も、重田は職員室の入り口にタケシが立っているのにも気がつかず、そのまましばらくブツブツと、小山チエの事を呟いていたらしい。

 「ねぇ、タケシ。訊きたいんだけどさ、そこでそーっとドアを閉めて、出て行こうっていう気は起きなかったのかな?」ユイ、さすがに手厳しいな。

 「うん…思わず聴き入ってしまったよ。これは僕が悪いな。個人情報だし…」てか、タケシお前本気で落ち込むな。誰も本気で責めてないぞ。

 「でもさ、そのおかげで貴重な情報が入ったじゃん!なになに、チエって芸能コースとか行っちゃうの?ここら辺じゃD校しかないじゃん。へぇ…ついにウチの中学校からも芸能人出ちゃうんだ。すごくない?」マリアの感性は、重田と同じだ。お前には絶対、隠し事は話さないからな。というか、それよりも。

 「ナツのことだよ。なんでアイツあんなにナツの事、嫌ってるんだ?そこを考えてくれよ」軌道修正成功。みんな今日集まった意味を考えてくれよ。

 「そうだった!ねぇコウジ、チエそんなにナツのこと嫌ってたの?」

 その時、コウジの部屋のドアが開いた。

 「なんだよ、お前たち。今回もオレは置いてけぼりか?」

 そこには、コウジの母からもらったであろう、麦茶の入ったビールジョッキを手にしたガミが仁王立ちで立っていた。


                ※


 「あれ…なに?」チエの瞳は歩き去ってゆくナツを見ている。

 「あ?あれ?ナツ。小山ナツだよ。保育園から一緒なんだ。器用なヤツでさ、昔から料理とか美味くて、遊びに行くとピザトーストとか作ってくれんのよ。コレがまた美味くてさ…」

 部活の帰り道。ガミの弟のアキラを『コバさんの子ども食堂』から迎えに行き、その後、ガミと待ち合わせて帰る。チエがもっとも幸せな時間だ。

 植物は、夜こそが生命を謳歌させるのだ、とチエは思う。

 現に花を散らした桜の葉が、生命力を全開にして葉っぱを茂らせているではないか。桜並木の下は、桜餅の香りでいっぱいだ。

 それなのに。

 「小山ナツね…間違いなく男子だよね?」

 ガミは、はぁ?お前、夜だからって性別もわかんねーのかよ?と言うと、軽くチエの頭を人差し指で小突いた。

 「男子の格好だっただろう?何言い出すかと思えば…」だってさ!チエはムキになった。

 「だってさ、なんかヘンじゃね?」

 前を歩いていたカップルが、ちらりと後ろを振り返った。川沿いの緩やかな坂道は、遊歩道のようになっている。外灯も一定の距離で設置されていて、この時間はランニングをする者や、カップルが目に付く。

 「はぁ?何言ってんの、お前」

 「だってさ、雰囲気が違うもん。男子の雰囲気じゃないって。タツヤには分からないの?あれは…」

 それ以上言うな。ガミは小さく吐き出した。それが精一杯だった。

 「あいつは…あいつはさぁ…おばさんが亡くなって…その後、親父さんとふたりで一生懸命やってんだよ。親父さん仕事がめちゃくちゃ忙しくてさ、家事やりながら学校通ってんだよ。それに…なんだか最近、悩みがあるみたいでさ…」とにかく、あいつの事、悪く言うな。

 あんなヤツと話して、アンタ何にも感じ無いワケ?と言う言葉を、チエは飲み込んだ。大嫌いなトマトを丸呑みするように。本来出るべき言葉が気道を逆流して、思わず吐き気がした。

 ガミは、少し歩調を速めた。チエといる時間を少しでも短くしようとしている。チエは思わず小走りして、ガミに追いつきガミのシャツを掴んだ。イヤだ。

 「チエ、オレの友達だから好きになってくれ、なんて言わない。でもさ、悪く言うのだけは止めてくれ」

 風が淀んでいた。夜の中で。サラサラと流れる川のせせらぎも、今のチエの耳には全く聴こえてこなかった。

 特にナツはそっとして置いて欲しいんだ。


 「そんなことがあったんだ。青春だねぇ」

 マリアは皿に盛られているビスケットに手を伸ばした。色気より食い気だな、お前。コウジは、こんなマリアにもチエのようになる日が来るとは、到底思えない。

 ガミに、いつもの明るさは無かった。この中の誰もがこんなガミを見たことは無かった。思い出したくも無いことを一気にしゃべり終えたガミは、ユイが手渡したコップから、炭酸飲料を一気に飲み干すと、ふうっと息をついた。

 「チエやサキたちが私たちのことを、ウザがってたのは事実だよね。色々とやられたし」子供っぽいけどね。とマリアの後にユイが追い打ちをかけた。

 「アンタを取られたく無かったのよね。私たちに」ユイは、ビスケットの小袋を対面に座っているガミにほおった。ガミはそれを手に取るが開封はしない。

 「まぁ、チエも悪い人間じゃ無いと思うよ。サキたちに担がれちゃったんだからさ。私は同情しちゃうわ。少しだけどね」

 「僕もユイの意見に賛成だな。たぶん根は素直な人間じゃ無いかな」タケシのスピーチの邪魔も相当していたハズだが。なぜ、そこまで思えるんだ、お前は。

 なぁ、みんなもそろそろわかっているだろ?ガミがポツリと言った。同意を求める、と言うよりは、ガミは自分自身を納得させているように聞こえた。

 「ナツはオレの事が好き、なんだと思う」クーラーの静かな音が、大きく聴こえる。「間違いなく異性としてオレを見ているんだって思う」

 「それ…どう言うことなの?よくわかんない…」

 「トランスジェンダーか…ナツは男子の外見だけど、精神的には女子だってこと?」ユイが尋ねた。ちょっと早口だったのは、落ち着いているように見えて彼女も動揺しているのだろう。

 「難しいことは良く分かんねぇよ…。でも、言葉にすればユイが言った事が正しいかもしれない。ほら、あいつ優しいじゃん?それに見た目もひょろっとしてさ。まぁ、そんなのは関係ないか。オレがちょっと変だな、って思い始めたのは小学校の5年生の時の事でさ」全員の視線がガミに集まる。普段のガミなら照れてしまい、まともに話すらできなくて、ダジャレを飛ばしたり、マリアをからかったりして、状況打破に走るのだが、今回はそんなそぶりさえみせなかった。

 

 「あいつのうち、親父さんと二人暮らしだろ?お母さんなくなっちゃったからさ」

 それはここにいる全員が知っている事だ。全員、親と一緒に通夜か葬儀に参加している。

 「みんなも知っている通り、あいつのウチとオレのウチは近かったろ。同じ団地だったからさ。よく一緒に遊んだよ。あいつ一人っ子だったから、おもちゃやゲームもたくさん持ってたし」そこで、ガミは手に持っていた小袋を開けて、チョコレート味のビスケットを一口食べて、マリアがジョッキに注いだ炭酸飲料を一口飲んだ。

 「6年生の夏休みの時だよ。確か8月だった。7月が終わって本格的な夏休みって感じでさ、その日はバスケの練習も休みで、朝からウダウダやってたんだ。ウチ、共稼ぎだろ?家には誰もいないし、アキラは保育園。オレが朝送って行った。これで一人を満喫できるなって思ったんだけど、これが意外に暇でさ。手間がかかるアキラでも、いた方が退屈しのぎにはなるんだ。宿題のテキストも全くわかんねぇし。チャリに乗ってどっか冷やかしでも行くか、と思ってたらナツから電話がかかってきた。一緒に勉強しないか、ってさ。当然行くって返事した。そうだ!ナツのウチがあったじゃないか!ってね。オレはテキストやプリントを抱えてタケシのウチに行ったんだ」


 8月に入った太陽は容赦無く光の矢を叩きつけていた。アスファルトの道路を直撃すると、光の矢は粉々になって弾け、静まりかえったコンクリートの居住棟に吸い込まれてゆく。建物は否応無く熱を貯め続けるしかない。

 ガミの棟からナツの棟までは歩いて5分とかからない。それでも、ガミの身体からは汗が吹き出した。

 「ヤバいくらいに暑くてさ。夕方のニュースで見たらその日は、その年で最高気温記録してたよ」

 ローマ字でOYAMAと書いてある表札。と言うかネームプレート。玄関の雰囲気は同じでも、ガミの家とはセンスが違う。ナツの父のセンスだなぁ、とガミは思った。

 ブザーを押すとすぐにナツは出てきた。

 「いらっしゃい!暑いね、今日。とにかくあがんなよ」部屋から冷気が流れだして、ガミの汗まみれの身体をやんわりと包んだ。

 「クーラーかよ!?お前しかいないのに」てか、そのカッコ…

 ガミが驚いたのは、ナツの家はナツ一人でもクーラーをつけれる事と、ナツの格好だった。

 おい、エプロンて…

 タンクトップに短パンといういでたちは、ガミと一緒だったが、ガミはエプロンを身に付けていた。家庭科の時に作ったヤツだよ。みんなも作ったろ?オレとナツはドラゴンのシルエットの青いヤツだった。

 「今ちょうど、朝ごはんの洗い物して掃除機かけたんだ。お風呂洗ったら終わるから、ゲームでもして待っててよ」

 夏でも日焼けしにくいナツの白い身体とエプロン。そしてそこから伸びた白いまっすぐな脚。なんか妙な感じだったよ…

 「でもオレ、それを口に出せなかった。これは絶対触れちゃイケナイことなんだ、って思った。だってよく考えてみてくれよ?小学生のしかも男子が家庭科の授業で作ったエプロンを家でも使うか?少なくともオレは無理だ。でもナツは、その格好を苦もなく家事やってるんだ。これはバカにしちゃいけない、触れちゃいけないって思ったんだ」

 ガミはそそくさとテレビの前に座りゲームを始めた。するとナツは、お盆にのせたマドレーヌとオレンジジュースをゲームに興じているガミの横にそっと置いたという。オレはてっきり袋に入ったスナック菓子かなんかだと思ったのに、マドレーヌだぜ?

 「いいじゃない?それのどこがイケナイのよ?」

 「話は最後まで訊けって。それでナツはこう言ったんだ。昨日の夜、焼いてみたんだ。ガミに食べてもらえるなんて嬉しいな。ってさ…」


 ガミの違和感を置き去りに、その日のナツはとても自然に見えたと言う。むしろ学校で見るよりもイキイキとして見えた。ゲームをやりながら、マドレーヌを作る過程を、楽しそうに話してくれたのが印象に残っている。5階の窓から見える夏の空は、どこまでも青くて、その夏の終わりは来ないように思えた。

 「まぁ、違和感って言ってもそれだけなんだけどね…あ、それと…ほら、友達同士で軽く叩きあったり、つつき合ったりするだろ?その時のナツの手つきが柔らかかった、と言うか優しかった。この日の事はオレの記憶にいつまでも残ってる」

 ガミの話はとてもリアルだった。

 小学校の最後の夏休みの一日に、ガミが体験した事をその場にいるみんなが感じる事ができた。小学校の最後の夏は誰にとっても特別なハズだ。次の春になったらガラリと変わる生活への不安もまだ浅く、部活動や勉強からもまだ自由でいられた時間だった。


                ※


 端末の設定を変える。サキやホノカの番号とSNSは全てブロックした。削除しても良かったのだが、負けを認めたみたいで嫌だったから残した。自分の今の立場を考えると家族と仕事関係者以外の番号は全て削除するべきなのかもしれない。もちろん、タツヤの番号も。画面にタツヤの番号を表示する。その操作の途中で事務所から着信があった。10日後、テレビの収録があるらしい。

 チエは布団にくるまってベッドの中にいた。

 身体が重力に負けてマットレスに埋まりそう。少し熱があるのかも…最近は学校から帰るたびにこんな感じだ。

 あれ以来教室に入れていない。

 あの事件の翌日、投稿すると校門で重田の止められた。

 白井、面談室で待っていなさいー

 他の生徒への配慮、それからチエのことも考えて、しばらく保健室で授業を受けて欲しい、と言われた。

 「お母さんから訊いている。D高校志望だろ?問題は避けた方が良いから」

 「問題ってなんですか?私が悪いんですか?」

 押し問答だった。母のことだ。とにかく穏便に済ませて欲しい、とでも言ったに違いない。

 バカじゃないの。余計なことばっかり。


 「前々から打診があってたんだけど、いじめ防止の啓発番組。中学生のリアルな声が欲しいんだって。まぁ、リアルって言っても限度はあるんだろうけど…18時にいつもの場所で落ち合って行きましょう。良いわね?」マネージャーの常田ミオのハスキーな声は、冷ややかだが、どこかフランクな

 もともとアイドル志望だった常田は、見た目もチエに引けを取らない。二人で歩いていて、二人でモデルでも、と声をかけられた時が何度かあった。

 いじめ防止?何で今私が?どんな顔して喋れって?

 「あの…そのお話、絶対ですか?」受話器の向こうが一瞬静かになる。低い音で演歌と人々のざわめきが聞こえる。十九時。バーに行くには早い時間だ。居酒屋にでもいるのだろうか。

 「逆に尋ねるけど、それ駄目ってことなの?」今度は、チエが黙りこんだ。向こうには何も聴こえないだろう。聴こえたとしても、チエが今くるまっている布団の生地が擦れ合う音ぐらいだ。

 「ちょうど学校で、てかクラスでいじめがあって。リアルすぎって思っちゃって」

 電話の向こうの向こうのざわめきが、少し大きくなった。

 「そうなの?大変ね…」また二人の間を静寂が埋めた。

 「チエ、今から出てらっしゃい」常田はタクシーに乗ってこい、と言う。場所は、チエたちが遊びに行く繁華街をさらに奥に進んだ場所にある、いわゆる歓楽街にある店だった。店の前まで着けてもらいなさい。そうすれば大丈夫だから。


 身支度して階下へ降りるとキッチンにはコウがいた。しばらく会わない間に髪の毛が伸びて長髪になっている。しかも明るく染まっていた。

 「起きたのかい?」兄も父ではなく母に似ている。この家は本当に母に支配されている。唯一、兄の性格は父譲りだ。チエの記憶に残る父の優しさ。それがコウには残っていた。

 「…てか、そのカッコはそんな雰囲気じゃないね。お出かけかい?」

 「うん…ごめんね。トキちゃんに呼び出されちゃって。タクシーで来いってさ」

 「仕事の打ち合わせかな?常田さんが一緒だったら心配ないね」コウは鍋で何か煮込んでいる。

 「僕もお腹空いちゃってね。ラーメンでも作ろうかと思ってさ」コウは味噌ラーメンの袋をヒラヒラと振った。そう言えばキッチンに味噌の香ばしい匂いが漂っている。

 「美味しそう。食べたかったな」チエは久しぶりに兄と食事を取りたかった。

 「また今度にしよう。腕にヨリをかけるよ」

 「また今度って。兄キ帰ってこないじゃん」チエは微笑みながら言う。私、久しぶりに笑ってるじゃん。コウは別の鍋で煮ていたモヤシを取り出し小皿にのせた。湯気が優しそうな曲線を描いて立ち昇る。

 「そうだね。研究室に泊まりっぱなし。やる事が多いんだ。気がつくと終電が出てしまっていてね。あの人にはともかく、チエには悪いと思っているよ。そう言えば…少し痩せたかい?」コウはブレない。どうあっても母親の呪縛を解放するつもりなのだ。自分は何をしているのだろう…

 「そう?だと嬉しいんだけど…あ、もう行くね」

 気をつけて。コウは、レンジの火を止めて玄関まで送ってくれる。

 「次はいつ会えるのかな?」この人と結婚する人絶対幸せだな、とチエは思う。玄関を開けると吹き込んだ風に、コウの長髪が揺れる。こうして兄と向かい合っていると、兄と言うより従順で献身的なラブラドール・レトリーバーや、コッカー・スパニエルのような大型犬みたいだ。よしよし、早く帰って来るからね。

 「いつも帰ろうとはしているんだよなぁ。ごめんね。そう言えばあの人、大丈夫かい?」

 「さぁ…いっつも一人だもん。ご飯だけは作ってあるんだけどさ。多分、仕事の合間にちゃっちゃっと作ってんだろうけど。その点だけは関心する」

 チエがバッグを肩に掛け直してじゃあ、と言うとコウもじゃあと答える。やりとりがおかしくて二人で吹き出してしまう。外に出ると寡黙なドーベルマンのような漆黒のタクシーが闇の中に鎮座している。


 指定された店までの道はすいていた。ウィークデーであることと、渋滞の時間を過ぎているからだろう。それでも、繁華街が近い道路に差し掛かると、車の流れは止まる。前後もタクシーだった。ただし、白に赤のストライプのタクシーが前で、南国の海岸がラッピングされているタクシーが後ろだった。

 「あー詰まっちゃった。お客さんどうします?ご指定のお店まで歩いて10分くらいだけど…」

 窓の外は酔っ払いや客引きで溢れている。できれば降りたくはない。

 「渋滞、解消しないですよね?」

 「そうねぇ…10分は解消しないと思うよ」まぁ、わかんないけど。と運転手は付け加えた。チエは端末から、常田にショートメールを飛ばした。渋滞。動けません。しばらくすると。分かった。こちらから向かう、と返信があった。常田の返信の速さにはいつも関心する。以前その事を尋ねると、仕事だからね、と答えた。

 「それ、キツくないですか?」

 「キツくない仕事なんて存在しないわ。キツくない仕事はどこかおかしいのよ」

 しばらくすると、常田がチエの座っている座席の窓をノックした。

 「悪いわね、こんな時間に。お母さんは?」常田は運転手に千円札5枚を渡して、お釣り、大丈夫ですから、と言った。渋滞で動けない事を考えての事だろう。

 「母はいませんよ。多分、お仕事」

 「だとは思った。ま、お母さんにはあとで連絡しましょう」

 チエは車外に出た。サラリーマンに客引き、その間を縫うように泳ぐ鮮やかなホステス。

 「さぁ、行きましょ」通りすがりの男たちの視線が刺さる。チエと常田にむき出しの欲望が刺さってくる。

 「無視無視。さっさと歩いて」5分ほど歩いて、路地に入ると年季の入った木のドアの前で、常田が足を止めた。ここよ。入りましょう。

 バーカウンターとテーブル席が二つほどのこじんまりとした店だ。カラオケは無い。絵に描いたような大人の店だわ。

 「いらっしゃい。じゃなくてお帰り、か」

 スキンヘッド。見た目はゴツい。目つきも鋭い。全身から夜の世界の住人の雰囲気が漂っている。この人、昼間は何をしているんだろう?

 「あからさまに怪しんでるねぇ。君のお母さんならユル・ブリンナーみたいって喜んだかも知れないけど」あー、そのコのお母さんユル・ブリンナーとかわかんないと思うわ。古い映画とか観ないもん。ね、チエ?

 「さてと、お母さんの許可も取ったし、今夜はじっくり…」

 「じっくり…何?」常田はじっとチエを見つめている。表情よりもチエの中のある部分に焦点を合わせているような気がする。

 「ま、いいわ。とりあえず好きなもの頼んで、あ、アルコールはやめときましょう。匂いが残るし」

 常田はチエをカウンターの端、壁際に座らせる。横の席に誰も座れないような配慮だ。彼女はいつも完璧だ。スキと言うものが存在しない。マネージャー以外のどんな仕事でもこなせそうだ、例えば高級クラブのホステスとか。そういえば、サキはそう言う夜の世界に行きたいって言ってたな。

 「じゃ、ジンジャーエールと、マルゲリータ…とオイルサーディン」常田はそれじゃまるでお酒の肴じゃない、と言うと例のマスターは将来が楽しみだ、と微笑んだ。あ、ちょっと優しそうかも。

 出されたマルゲリータはチーズとトマトソースののバランスが神がっていた。チエの拙いボキャブラリーで表現するなら、「マジ神!」ぐらいしかないのだが。それにトッピングされたルッコラも、新鮮な香草特有の少しトゲのある香りが、垂らされたオリーブオイルで適度に抑えられていた。普段のチエなら剥がしてしまうのだが、躊躇なくかぶりつけた。平べったい長方形の缶のまま、火にかけられ、かぼすを添えられたオイルサーディンも、また神がかっていた。かぼすがこんなにオイルと合うなんて。チエはマルゲリータとオイルサーディンを交互に口に入れ、ちょっと刺激が強めのジンジャーエールを含んで華を添えた。がっついちゃってまぁ…そんなにお腹空いてたの?と言う常田の言葉も耳に入らなかった。

 「すごくおいしいです。こんなおいしいの初めて」気気に入っていくれて嬉しいよ、とマスターは顔をほころばせた。

 客が入り、また出てゆく。年齢は様々だが女性が多かった。男性もいるのだが、場違いなチエがいても全く気にすることはない。スピーカーからは、古いロックが流れている。チエはには全くわからないアーティストばかりだったが、どれも耳に心地よかった。チエはジンジャーエールをオーダーする。生姜の風味が舌をピリリと刺激する、少し強めの味だ。

 マルゲリータとオイルサーディンを半分ほど腹に納めたところで、チエはにこやかに微笑みながら食べっぷりを見ていた常田と目があった。

 「中学生だわぁ、お母さんの気分が少し分かるわね」

 「どういう事ですか?」

 「もし、私に子供がいたらこんな感じかなぁってね。母性よ、母性」

 常田は普段、事務的な会話しかしない。もちろん冗談をいうこともある。どこまで本当かわからないが、自分のイタイ恋愛の話をすることもある。

 以前、常田は言った。

  私はあくまでマネージャーだから。私は仕事は、同じ年頃の女の子が憧れるあなたを作ること。もしくはそのサポートをすること。それが私の仕事よ。

 「前言ったことって今も変わってませんか?」

 「いつ?なんか言ったかしら?」

 「私を他の女の子が憧れる存在にするって言いました」ああその事ね。常田はハイボールに少し口をつけた。ふっとウィスキーの香りがチエに届いた。飲めるものなら飲んでみたい、という誘惑がチエのどこからか浮上して消えた。ハイボールの泡が弾けるのが見えた。

 「もちろん、変わってないわ。あなたにはその資格がある、とも思っている」

 「どうしてそう思えるんですか」常田はうーんというとチエのオイルサーディンを一匹、缶からつまむとオイルを垂らさないように口に放り込んだ。頭の無い魚が常田の唇にダイブする。名残が唇を光らせる。

 「そういう事って私が口にした途端、ゴミになっちゃうのよ。あなたを褒める言葉をうまいこと繋げて文章を作ったとしても、言霊としてこの世に生まれた途端、ゴミになる。だから私は言わない。そんなことは、コメンテーターとかに任せるわ。私の守備範囲外なの」

 「別に褒めて欲しいわけじゃ無いけど」チエは言葉を口に出した瞬間、後悔した。何か後味が凄く悪かった。

 「チエ。今、マズイって思ったでしょ?そういうことよ。言わないで良いこともこの世の中にはある、って事を学びなさい」そうして、スツールを回転させてチエを見つめた。

 「あなたは、芸能の世界に選ばれた人間なの。うぬぼれてはいけないけど自信は持ちなさい。そして経験を積みなさい。そうすればあなたは、この世界でひとかどの人間になれるわ」

 

                  ※


 傘を叩く音が激しい。車のフロントガラスは絶えず水の皮膜で覆われていて、ワイパーは全く役に立たなかった。梅雨前線はここしばらく列島にしっかり腰を据えており、動く気配がなかった。

 毎年てんやわんやの4月とその揺り返しの5月が過ぎてようやく落ち着き始めた『すすずめ保育園』である。毎年の事とはいえ、結城も雑務に追われる毎日だった。保育士が各クラスのカリキュラムをこなしている間の結城は便利屋のおじさんである。泣き止まない子供を職員室でなだめながら、書類に目を通し、壊れた設備があれば直せるものは自らなおす。そうこうしていると、膝や肘を擦りむいた園児がやってくる。怪我をした子供の親にその状況を説明する役目も結城が担うこともある。もっともほとんどの親は不問にしてくれるのはありがたかった。

 そんなめまぐるしい毎日がようやく落ち着き始めるのが毎年七月だった。七夕の星まつりも終わり、本格的な夏が訪れて良い季節だが、梅雨明けの気配は無い。

 「ちょっと出てくるわ。2時間くらいで戻るから。あ、小学校から電話があったら、あとで掛け直すって伝えといてください」天気さえよければ、歩いて行ける距離である。車で片道5分の距離だ。

 

 「いらっしゃい。酷い雨ねぇ。ささ、早く」

 「すいません。お時間、大丈夫でした?」

 「ええ、この時間はね。なっちゃんももうすぐ来ると思うわ」

 下駄箱の上には、牛乳パックで作った恐竜やプリンカップで作ったマラカスなんかが置いてある。壁には色とりどりの絵だ。

 「ここも保育園も変わらないでしょ」

 「本当に小林さんには頭が下がります」結城は靴を脱ぎながらコバさんに尋ねる。

 「他にも地域でお手伝いしてくれる方がいらっしゃるのよ。いちばん長い時間いてくれるのは、なっちゃんだけど、喜んでいいやら…」ねぇ、とコバさんは視線を下に落とした。結城がさしてきた傘をつたった雫が小さな水たまりを作ってゆく。

 「明日の天気予報も雨でした。大丈夫かな?水害とか…」

 「本当にね…」

 結城は子供達がここでの大半を過ごす部屋に通された。年季の入った一枚板でしつらえた長テーブル2台繋げて置いてある。結城は手のひらでテーブルの表面を軽く叩いた。立派でしょ?コバさんの手にはお盆に乗せられた赤紫色の綺麗な液体が入った細身のグラスが二つ乗せられている。

 「大したモノですよ。おそらく今じゃ簡単には作れないでしょうね。こんな一枚板のテーブルなんて」

 「あら、これはもともと『すずめ保育園』にあったものなのよ?お母様から訊いて無い?」その話はきかされていない。コバさんが言うお母様とは、結城の母のことで、すずめ保育園の前園長である。

 「それは知らないなぁ…こんなテーブル、あったんですね」結城も、もちろん『すずめ保育園』の卒業生だ。

 「職員室の奥の部屋にね。園長先生…あ、あなたのお母さんね。あそこでお花を教えていたでしょ。あなたも習ったハズだけど…忘れちゃった?」

 「今2階のホールで、母が教えているあれですか?あ、そういえば…」

 園庭からは他の園児の嬌声が聞こえる。自分も一刻も早く帰って遊びたいと言うのに、結城は居残りで花をいけさせられていた。適当に横の女の子を真似たのが、母である園長にバレてやり直しを命じられた。あの時のテーブルだったのか。結城は改めて天板を手で撫でてみる。カビ臭い部屋の臭いが鼻をついた気がした。


 紫蘇ジュースの適度な酸味と抜けるような爽やかな甘さ。結城はおかわりをした。

 「美味いなぁ。小林さんの紫蘇ジュースはやっぱり違いますよ」

  作り方は、保育園のものと同じですよ。もちろん、『すずめ保育園』の紫蘇も自家製だ。どこで差が出るのだろう。やはり作り手が変われば味も変わるんだろうな。

 「ナツには言われたんですか?」雨樋が雨水を飲み込むゴクリゴクリと言う音が大きく聞こえる。今の家屋ではもうほとんど聞く事はできない音だ。

 「やっぱりあなたが来るとは伝えました。それで、来たくなければ今日は休んで良い、と言ってます」コバさんは、ゆっくりと正確にその事を結城に伝えた。「あなたには申し訳ないのだけれど、無駄足になるのかも知れない」

 結城はちょっと困った顔をすると、イテテテ…と言いながら立ち上がった。「どうも膝をやってから、雨の日に長時間座っているのがダメでして」「あら?そうだったの?キッチンにすれば良かったかしら…」結城は、ちょっとフラつきながら立ち上がると笑いながら膝をさすった。

 「いえね、ずっとバスケやってて半月板痛めちゃいまして。それも両方ですよ。さすがに同時では無かったですけど」

 「あらあら、それは大変だったわねぇ…酷いの?」半月板損傷ってヤツですね、と結城が言うと、コバさんは大怪我じゃない、と驚いた。

 「コンタクトスポーツですから、仕方ないんです。まぁ、オレの鍛え方が甘かっただけなんで」あの激痛を想像すると今でも憂鬱になる結城である。しかも、手術後の長くて苦しいリハビリの事を考えると、なおさらの事だ。半月板損傷の後の主なリハビリは大腿筋を主に鍛えるプログラムだ。ごく単純なスクワットやラダー、マシンによるトレーニングをひたすら繰り返して行う。目指すのはアスリートとしての現役復帰なので、その道のりは長く厳しい。

 「結局、傷つかないと分からない事ってあると思うんですよね。多分、ナツは他の奴らより早くそれを体験しているのかもしれません」

 「それであなたは何かを得たの?」まぁ、そうです、結城は答え紫蘇ジュースをもう一杯頼んだ。

 「ナツ自身も自分で乗り越えるしかない。サポートをしてくれる環境は整ってはいますが、やはり最後は自分の力なので」


 古くさい音の呼び鈴が響き、こんにちわ。と言う声が聴こえる。

 「こんにちわ」コバさんも明るく答える。ナツはビニールの買い物を下げていた。「綺麗なトマト、おまけしてもらっちゃいました。試食したら凄く美味しくて」コバさんに頼まれていた食材らしい。

 「水も滴る色男も良いけど、風邪ひいちゃ元も子もないわね。さ、これで拭いて」ありがとうございます、と言うナツの声が結城の耳にも届いた。その声と彼の立てる物音は、結城の知っているそれとは微妙に違っているような気がした。いや、それよりも結城がナツと直接会ったのは何年前の事だっただろうか。

 「こんにちわ…あ、園長先生、お久しぶりです」

 「久しぶり。お前、最近あんまり保育園来ないな。コウジたち、よく来てるんだけどさ…」さ、なっちゃんも座って。あらあら、びしょ濡れ。ちょっとストーブでもつけて服乾かさないと、風邪引いちゃうわよ。結城とナツの間の空気を察して、コバさんは明るく振る舞おうとした。大丈夫ですよ、そんなに濡れてませんよ、そんな事ないわよ!湿気で思ったより濡れてんだから。

 ナツは結城の前に正座で座る。コバさんは石油ヒーターに火を入れる。部屋の温度が上がり、衣服が乾く匂いが漂う。ナツはコバさんの言う通り、そこで思ったより濡れていたトレーナーに気が付いた。

 「実は…そろそろ誰かここに来るんじゃないかと思っていました。でも、園長先生は意外でした。てっきり、中学校の誰かが来ると思っていたから」さすがナツだなぁ。と結城は言った。「お前は昔から感がよかったからなぁ。今でも覚えているよ。お前の天気予報」

 「天気予報?ああ、あれですか?あんなの天気予報でもなんでもないですよ。単なる当てずっぽうです」

 「その割には当たっていた気がしたけどなぁ。明日、雨が降ります、とかさ、もうすぐ雪が降りますとか」

 「湿度とか、温度とか…匂いみたいなモノを感じて、適当に言ってただけですよ」

 「ナツは繊細なんだな。だからそんな事まで分かるんだよ、きっと」

 コバさんは、ナツの買ってきた食材を台所に持ち込み調理を始めた。今日のメニューは、夏野菜を使ったスパゲティだ。ナツは商店街やスーパーを回って新鮮で尚且つ安い食材を調達しくる。なっちゃんは本当に買い物上手だね、とコバさんが褒めると、このあたりの商店では、ナツはそこそこ顔が通っており、もちろんコバさんの事も知っている。そのおかげで安くて新鮮な食材を格安で分けてくれるのだ、と言う。コバさんは蛇口からをわざと勢いよく水を出して、野菜を洗う。シトシトという雨音がその水音と混じる。


 小林さん、お時間ありますか?

 中学校で行われた、『そよ風ルーム』の定例会が終わったあと、結城はコバさんを呼び止めた。久しぶりに晴れた空から降り注ぐ太陽は、これからやってくる夏の暑さを誇示するかのようだ。しかし、梅雨明け宣言はまだ出ていなくて、山の端の方には、まだ攻め入る気概まんまんの雨雲が不吉な鈍色の布陣をひいている。

 「どうしました?園長先生」

 「小山ナツの事です。小林さんの所にお世話になっているんですよね?」コバさんは、相変わらず年齢を感じさせない。結城が子ども頃からこのままのコバさんだった。変わった事と言えば白髪が少し増えたくらいだ。その白髪もセンスの良い老猫の和毛思わせる

 「そうね。『子ども食堂』に来てもらっています。さっき会議で報告したとおりよ。とても助かっているの。惜しかったわねぇ…あのコが大人だったら、私の後釜にしたんだけど」まだ14歳だもんね。とコバさんは肩をすくめた。

 「最近、ナツの同級生たちがウチの園によく顔を出すんです。良い子たちですよ。もちろん親御さんがたの教育の賜物ですが…僕らもほんの一時期でもその場面に立ち会う事ができて本当に良かったと思っています」

 部活に励む生徒たちの声を聴きながら結城は、自分のまわりくどい性格をあらためて嫌悪した。少しでも良い答えを相手から引き出す為にはどうしたら良いかと逡巡してしまう。

 「そうなのね…ウチにも来てくれて良いのだけど…さすがにまだまだ敷居が高いのかしら?」

 「そうですね。ナツに気を使っているのだと思います。それで…」

 「あなたが来たいのね?最初からはっきり言いなさい。私に声をかけてきた時からそうじゃ無いかと思っていたわ。あなた、いつからそんなに気を使うようになったのかしらねぇ。あんなに腕白だったのに」

 結局見透かされていたのだ。

 「すいません。やっぱりお見通しですね…近々連絡しておうかがいします。よろしくお願いします」

 「ええ、良いわよ。いつでどうぞ、と言いたいところだけど…なっちゃんには内緒の方が良いのよね?」

 金属バットがジャストミートした鋭い音が校舎の中まで届いた。


 「最近、よくコウジたちが訪ねて来るんだよ。タツヤは部活が忙しくてあまり来れないみたいだけど」

 ナツは、雨にけぶる街灯のような優しい微笑みを浮かべて、結城の話を聞いている。結城はその表情からナツが何を考えているか読みとろうとした。ナツはここに通いながら、同世代の子どもたちが学ぶ事以外の何かを学んだのだろう。

 「そうなんですね。ユイは相変わらずでしょ?園長先生のこと大好きだから。それにしてもコウジは意外だなぁ」タケシに引っ張られたんでしょう?とナツはとても楽しそうに笑った。「まぁ、そんなところだろうな」結城も思わずつられて笑ってしまう。

 「ナツも楽しそうじゃないか。料理の腕前も上がったんだろう?」

 「どうでしょう…もともと家事は嫌いではなかったんですけど、コバさんのおかげで、より難しさを知ることができました。当たり前ですけど、他人に提供する為のサービスと自宅でやる家事とは全く違いましたからね…これを知ることができただけでも本当に良かったと思っています」コバさんが野菜を洗い終わり包丁を使う音が聴こえてきた。小気味良い音がナツと結城のところまで聴こえてくる。夕餉の用意だ、と結城は思った。給食室以外でこの音を聞くことはまず無い。

 「夏野菜のスパゲティですね」

 「今はパスタって言うんだろ?」

 「小林さんの作るのはスパゲティです。パスタほどおしゃれじゃ無いしパスタより家庭的なんです。まぁ、もっとも僕の中では、ですけど…子供たちもそう思ってますよ。多分」

 「俺もその意見に賛成だな」

 そろそろ切りださなければならない。とりあえず次の行動に移れば物事は先に進む。

 「なぁ、ナツ。お前、卒業後の事考えることあるか?」

 一瞬だけ。ほんの一瞬だけナツの頰の筋肉が動いた。結城はナツの言葉を待つ。間合いを測る。

 「ありますよ。考えた事。高校へは進学しません。必要であれば大検を取るつもりです。少なくとも今の僕にとっては高校は必要ではありませんね」

 「そうか。じゃ、良かったら聞かせてくれないか?」

 この先どうするのか。二人の声が重なった。重わず二人とも吹き出してしまう。やっぱりそうなりますよね、とナツが言う。

 「できるなら、このままここで働かせてもらおうと思っています。小林さん次第ですけど。もし、それが叶わないなら…そうですね、他にどこか中卒で働けるところを見つけます。できれば食関連が良いけど…何とかなりますかね?」

 正直、中卒の就職事情は芳しく無い。中卒を求めているのはいわゆる建設現場や内装工などガテン系の現場が多数を占める。もちろん食関連の職業も探せばあるだろう。徒弟制度の世界だ。

 厳しい世界だろうなぁ、と結城は言った。

 「申し訳ないが、俺には詳しい事はよくわらない。でも、厳しい世界だってことは分かる」ナツは視線を落とした。紫蘇ジュースが注がれたグラスを両手で握りしめている。白くしなやかな手だ。

 結城はナツの母親を思い出す。ナツの母親はナツをこの世に送り出してから、子宮を病んだ。もともと虚弱だったナツの母は子供を授かることさえ難しいと言われていたらしい。ナツの父親も母親も、いやナツの親族全てがナツを溺愛した。ナツの両親にとっては奇跡の子だったのだ。ナツの母親は母乳の出も悪かったと訊く。

 「なぁ、ナツ訊いて良いかな?」ナツは手元から顔をあげる。

 「ナツのお母さんってどんなお母さんだった?」

 「お母さん?ですか?」ナツは怪訝な表情を結城に向ける。

 「ああ。ナツが保育園だった頃、俺はまだ見習いでさ、ナツのお母さんのことよく覚えて無いんだ」結城は、大学を出ても就職せずにフラフラしていたところを、前園長、結城の母親から半ば強引に保育の道に引っ張りこまれた。結城がナツと初めて会った頃は、専門学校に通いながらバイトで保育園を手伝っていた。「そうでしたっけ…あ、確かに夕方からしか保育園にいなかったかも」

 「うん。だからさ、ナツのお母さんのこと知らないんだ」

 それからナツは、自分の母親のことを結城に話した。休みも無く働き続けるナツの父親に代わって、ナツの母は家事はもちろんのこと、休みの日にはあちこちに車で遊びに連れて言ってくれたこと、そしてそこには、自分と二人だとナツの間がもたないことを察してガミやコウジたちにも声をかけて、一緒に行動していたこと。

 結城はこんな饒舌なナツを初めて目にしていた。そして、ナツの話を聞けば聴くほど、今のナツの心のなかにあるのは、在りし日の母親だと確信した。ナツは父親とあまり接する機会が無かったのだろか。ナツの父親は、子育てを母親に任せて(もともと身体が丈夫では無いことは承知で)とにかく仕事中心の毎日だったのかも知れない。

 「父が僕たちに少しでも良い暮らしをさせてくれようとしていたのは、とてもよく分かりました。ただ」

 「ただ?」

 「父はもう少し収入を減らしても、母を気遣うべきでした」生意気ですね、とナツは付け加えた。「母がもともと身体があまり丈夫では無いことに、父は気が付いていました。それなのに…」雨の音が少し弱くなってきた。もう止むのかもしれないな、と結城は思った。一時的かもしてれないけど。

 「お母さんみたいになりたいなぁ」


                 ※


 汗が滴る。頭皮から生まれた汗はくせっ毛をべっとりと濡らして体育館のフロアに滴る。応援の声とバスケットシューズの擦過音、ボールが体育館のフローリングを殴打する打撃音が入り混じり、聞こえるはずが無いのにポタリという湿った音がガミの耳には聞こえた気がした。

 いい感じだ。

 ガミは自分に呟く。

 いい感じに高まった感覚がガミの周囲に見えない網を張って、自分の脇を通過するボールを確実に捉えている。試合開始から8分経過。その間にガミは3回のカットを成功させ、そのうちの1回は、カットしたボールを敵陣深くまで持ち込み、あわよくばシュート、というところでディフェンダーに阻まれてボールを奪われた。

 たまたまだ、とガミは思うことにした。たまたま阻まれただけだ。その証拠に見ろ、相手はかなり動揺しているじゃないか。身長差20センチ以上のいかつい顔が焦っていたじゃないか、オレはいい感じだ、やれる。


 「今日のガミ、なんか気合い入ってんなぁ、そう思わねぇ?タケシ。」冷やかし半分で観ているコウジにさえ、その気迫が伝わってくる。タケシは、ふむ、と言っただけで、コートから視線を外さない。タケシらしい。なんにおいても真剣前向き。後ろの席ではマリアが嬌声をあげ、ユイはタケシと同じように真剣にコートを見つめている。そして、その数列後ろのスタンド席には、チエが座っている。あれからチエは保健室に登校している。チエ自身は教室に入ることを望んでいるのだが、やはりサキたちとの一触即発の空気は避け難いらしく、保健室登校になっているらしい。その件で生活指導の重田と一悶着あった時、仲裁したのはユイだった。

 あんたの気持ち分からないでも無いけどさ、あえて傷つく選択はしなくて良いと思う。気に食わないヤツらさのせいであんたが消耗することないじゃん。

 重田と言い争っているチエに彼女はそう言ったらしい。以後、二人の仲は若干の歩み寄りをみせている。あのコが傷つくのは見るに耐えないわ。なんか、ね。もちろんナツのことは引っかかてんだけどね。


 試合は第二クォーターを終了し、インターバルに入った。試合の流れは若干こちら寄り、と言う感じだ。相手の実力は確実に下だが、それゆえにラフプレイながらも果敢に攻めてくる。ガミたちはそれを上手くいなして試合を進めているが、2回ほどヒヤリとする場面があった。一度は相手がヤケクソで放ったスリーポイントシュートだ。結局、そのボールがネットを潜ることは無かったが、放たれた弾道はかなりの精度で、ゴールを狙っていた。もう一つはガミの反則だった。ガミのキープしたボールを奪おうとした選手にはずみとは言え、ガミの肘が相手の顔面を捉えた。ガミのその時の必死の形相が、審判には故意に肘打ちを放ったように見えたらしい。


 「ガミは悪くないよね。むしろアレ反則誘ってるようなプレイだよ」 


 第三クォーターが始まって数分たっていた。コウジの隣に誰かが座った。ふわり、と微かに良い香りがコウジの鼻をうつ。気配は確かに女子のものだった。

 「ナツ?髪のびた?」思わず間抜けな質問をしてしまったコウジである。

 「そうだね。短いのがどうしてもイヤでさ。似合わないかな?」

 「いや、似合ってると思う。イイよ。中性的な感じでさ。あ、てかゴメン」

 「いや、気にしてないよ。もうみんな知ってるんだよね?」

 「ああ…うん」さ、試合に集中しよう。ナツは視線をコートに向けた。コウジは横にいるタケシを見た。一応、今日のことは結城園長を通じてナツに伝えていたらしい。よう、ナツ。良かった。来たんだな、と声をかけた。ナツはタケシの顔を見て微笑んだ。コウジは後ろを振り向く事ができなかった。この突然の登場を女子たち、特にチエはどういう表情で見ているのだろう。

 「実は今日の試合のことは、園長先生からも聴いていたんだけど、ガミからも誘われたんだよね」ナツはコートから視線を外さずに呟いた。


 「おつかれさまでぇす!江上でぇす。お迎えに来ましたぁ」サキたちとの事があってから、チエはガミの弟であるアキラのお迎えをやめている。仕事出ない限り夕方の外出が制限されているらしい。タツヤ、ゴメンね。アキラのお迎え、行けなくなっちゃった。電話でチエからそう告げられた時にガミは、そうなの?仕事?とつとめて明るく尋ねたつもりだった。

 「そう。私D校の芸能コースに進むつもりなのね。それでさ、少しでもキャリア積んでおきたくて…アキラこと、心配なんだけど…大丈夫かな?」

 「ああ、大丈夫だよ。ちょっと遅くなるけどオレが迎えに行くからさ。チエは仕事頑張れよ。まぁ…なんつーか寂しくはなるけど。仕方ないよな」

 チエの耳にはあの時のガミの声が今でも残っていてる。チエは積極的に仕事を入れようとした。ただ、まだキャリアの無いチエに与えられる仕事は限られている。チエの仕事は当然だがマネージャーの常田が管理している。もっと仕事を増やして欲しい、とチエは常田に頼んだ。

 「学校生活が上手くいかないから、仕事に力点を置きたいのは理解できるけど」

 「じゃ、お願いします。正直学校には私の場所は無いので」

 「じゃチエ、水着とかやっちゃう?あと、ちょっと大人っぽいグラビアとか…そうそう、歌を歌わないかって話も来てるんだけど?」

 「それ、意地悪で言ってます?」

 「まさか。どれも本当の話だからね?仕事は選ばなきゃいくらでもあるのよ。でも、あなたはそんなこと望んでないんでしょ?」

 チエの若さを最大限に使えば、仕事はある、という事だろう。それはチエにもわかっていた。チエはアイドルになるつもりは無い。踊りや歌の才能が、自分にあるとは到底思っていない。当然ダンスレッスンやヴォイストレーニングは受けていたが、それはその道で勝負するため、というよりは、基礎訓練のようなものだ。将来、その技術で食べていこうとは全く思いもしていない。常田は中学校を卒業するまで、このペースの活動状態を維持するつもりだ、と言った。

 「今はモデルとバラエティー番組のアシスタント、それぐらいで良いのよ。あなたはまだ学校で学ぶ事が大切だと思う。確かに嫌な事も多いと思うけど」

 月並みな言い方をするわね、と常田は前置きをした。「社会に出れば今とは比べ物にならないくらい辛い事が待っている。今はその準備期間だと思いなさい」

 タツヤは汗を滴らせて、コートを駆け回る。タツヤにとってバスケは何なの?チエはまだタツヤに尋ねたことは無かった。


 「お前、大丈夫なの?」久しぶりに現れたナツにコウジはそんな事しか言えなかった。大丈夫だよ、とナツは答えた。ナツは爽やかな微笑みで、コウジを見ると、その隣にいるタケシにもVサインをした。

 「だいぶ心配かけちゃったみたいだけど。この通り元気」確かにコウジの横に座っているのはナツだった。しかし、かつてナツであったものと他の何かが同居している。コウジはそんな気がした。

 「今日がガミの最後の試合になるかも知れないんでしょ?もっとも、今日勝てば県大会が待ってるんだろうけど」ナツの視線の先には、どう猛なネコ科の哺乳類のようにボールに食らいつくガミがいる。


 時計は11時を指していた。父はまだ帰宅しない。ナツがコバさんのところから帰宅したと同時に電話のベルが鳴った。ナツがちょうど靴を脱ぐタイミングだった。すまない、今日も遅くなりそうだ。飯は食ってくるから先に寝てなさい。電話の向こう側では何かを打ち合わせしている声が聞こえる。

 「お仕事大変だね。昨日も遅かったのに」

 「ああ、色々と立て込んでてな。ナツにも心配かけてるよな?すまない」父は気丈に優しい声で振る舞おうとする。しかし、その声には疲労の色が漂っている。父の残業がかさむのは、6月のこの時期毎年の事だが、今年は九州に震災があったとかで、そのアオリを食らっているらしい。

 「まぁ、仕方が無いさ。現場でも困ってるんだから。オレらも頑張らないと」父は学校に呼び出されたらしい。らしい、というのは父がそのことをナツにはっきり伝えないからだ。余り良い話は聞かされていないだろう、ということは予測できた。

 「僕のことは心配しなくて良いよ。無理をしないでね」父は礼を言うと電話を切った。その直後にまた電話が鳴った。

 ガミだった。

 「よう、何してんだ?」受話器の向こうからバカ笑いが聴こえる。テレビのお笑い番組らしい。ガミのウチらしいな、とナツは思わず嬉しくなってしまう。

 「今、帰ってきたところ」

 「そうなんだ?コバさんところ?大変だなぁ…マジで関心しちゃうよ」

 「何言ってんの。ガミの方こそ部活、追い込みでしょ?大丈夫なの?」

 「ああ、毎日ヘトヘトだよ。おかげでメシは死ぬほど美味いけどさ」ガミの母親の料理は美味い。その上、毎回かなりの量を作る。スーパーで会った時に食費が大変だ、とこぼしているのを聞いたことがある。

 「ガミのお母さんみたいな料理が作りたいな。小学校の遠足の時大人気だったじでしょ?」家庭的、と言う意味ではコバさんも同じだ。何よりも子供が好きなメニューをバランスを考えて作っている。その中には普通なら子供が苦手な野菜などの食材も、もちろん使用しているのだが、不思議と食べ残す子は少ない。子供が苦手な野菜の青臭さやえぐみを上手に消しているのだ。おそらくガミの母親もそんな技術を使っているのだろう。

 「うーん、まぁそうだだったな。ウチの母ちゃんメシだけは確かに美味いわ」

 「変わらないね、ガミは。ホッとした」

 「バーカ!それはこっちのセリフだっての。お前こそ変わってねーよ」二人はひとしきり笑った。

 「でさ…今度の日曜日なんだけど…お前、ヒマ?」

 「うん、日曜日は基本休みだね。どうして?」しばらく沈黙があった。また芸人のバカ笑いが聴こえる。

 「ん…いや、さ…おまえ、久しぶりに試合見に来ねぇ?」

 沈黙が二人の間に流れ出す。

 「いや、今度の日曜の試合で負けるとさ、部活終わっちゃうんだよね、オレ。その、他のヤツらも多分来るんだけど…お前にも見といて欲しいと思ってさ。あ、無理なら良いんだけど…」

 ガミは受話器の向こうのナツを想像する。直接顔を合わせたのはいつ以来だろう。自分は何を言っているのか。オレがナツに何をしてやれたのだろう。自分勝手にもほどがある。テレビからのバカ笑いがムカつく。バカだオレは。

 「いいよ。ってか偉そうだけど…見に行くよ」

 「お?ありがとな。絶対…ってのは言えないけど勝つからな。つか、負けねぇから」

 「そうなると、また見に行かなくちゃだね」ナツがおかしそうに笑いながら言う。ガミは嬉しかった。


 第3クォーターは、拮抗したまま試合が進んだ。もともとチームの力が拮抗していることに加えて、両チームとも負けることを恐れていたから、試合の流れが澱んでいる。オフェンスの選手は意外性を捨て無難に攻めることに終始していたし、ディフェンスの選手はそんな無難な選手を止めれば仕事は終わり、と思っているようだった。10点も無い点差があっちとこっちに動くだけの試合は、子供のシーソー遊びと変わらなかった。

 攻めあぐねてるな、両方とも。負けることにビビってる。タケシがぽそりと呟く。

 そうだね。このままだったらお互いに悔いが残るだろうね。ナツも同じ意見のようだ。


 お前はこれで良いはず無いよな。攻めろ。ビビんないで攻めろよ。

 センターサークル付近で相手のパス回しを見ていたガミがぬるりと動いた。相手は攻撃の起点を作る選手にパスしようと動いているように見える。しかし、ガミの読みは違った。相手も焦れている。意表を突きたいハズだ。だとすれば、マークするのはアイツじゃ無い、直接ブッ込んでくる、絶対に。ガミはそれを見越してポイントゲッターの身長180センチ近い選手の近くにゆるゆると動いた。味方の選手とベンチの空気が変わった。ああ、そうだよ、こんなタルいゲームにこれ以上付き合ってられるか。もう時間が無いんだ。

 相手のチームはそのガミに対してノーマークだった。ガミの身長は160センチちょっと。相手はインターセプターとしてしか認知していない。ガミはインターセプターであり、あくまで得点の起点を作る選手で、間違ってもアタッカーに転じることはない。それに絶対的にシュートの精度は低い。言わばであって果敢にゴールを狙う選手ではなかった。何よりも仕事をこなすことが相手が見たガミというプレイヤーだった。

 ここで負ければ最後だ。ならば、この淀んだ流れを掻きまわそう。もし、この判断が最悪の状況を招いたとしたら、卒業までの数ヶ月、そしりを浴び続ければ良いだけだ。

 たゆたっていた泥水が突然泡立ち沸騰する。堤防を壊し奔流する泥水のになったのはガミだった。ポイントゲッターの右後ろからいきなり現れたガミは、胸もとを狙って放たれたパスをカットし、左脇にいた自軍の選手をフェイントに利用して猛然とドリブルする。24秒だ。中学生でのバスケットボールのルールでは攻め始めてから24秒以内にパスか、シュートをしなければならない。

 敵も味方も何が起ったか分からず、一瞬だが試合が止まった。ガミは駆ける。しかし、ゴール前には我を取り戻したディフェンダーが待ち構えている。しかしガミはあえてパスをすると言う選択を放棄した。オレだ、オレ自身で持って行ってやる。

 しかし、敵の対応も速かった。足の速い選手がガミのマーク張り付いた。ガミは、あえてゴールの右サイドのオープンスペースに飛び込まずに、選手が密集している左サイドに飛び込んだ。相手の選手たちはガミの動きをセーブしようとしているのだが、ボールはガミの手に吸い付いている。ガミの放課後の練習はパスカットからパスという練習ががほとんどを占めていた。しかし、夜の自主練習では徹底的にドリブルとシュートを練習していた。誰にも負けない自身があった。

 ここまでだな。一人の選手がガミのボールをはたき落とそうとした瞬間、ガミはそれをかわすと、そこからシュートを放った。ガミの手から放たれたボールは綺麗な弧を描いてゴールを目指す。弾道を見ていたガミのチームメイトは相手を押しのけ、リングからわずかに逸れようとするボールを右手でタッチした。中指と人差し指の第一関節あたりに触れてリングの外に落ちていった。相手チームの猛然とした反撃が始まる。


                ※


 「なぁ、なんで蝉しぐれって言うんだ?」ガミが耳に人差し指を突っ込んでいる。それじゃキカザルみたいだな、とコウジは言ったがガミの耳には聴こえなかったようだ。

 「降り止まない雨みたいだから」今度は少し大きな声でコウジは答えた。あ、なーるほどね。とガミは答えたが、今度はその声がコウジには届かない。 中天に輝く太陽の力を得て、植物の生命の息吹が充満している。青々とした桜の木々が放つ息吹にむせ返りそうだ。実際、年寄りだったら植物の気にあてられて気分が悪くなってしまうかもしれない。

 7月の終わりまで停滞していた梅雨前線は8月に入ると同時に日本から姿を消した。それは絨毯爆撃をしていた爆撃機がカミカゼ的な何かによって一掃されてしまったようだった。その後には抜けるような青空と、鈍色の壁の向こうで力を蓄えていた太陽が、全てを焼き尽くしそうな光を放つ。夏がやってきた。

 コウジとガミはなるべく桜並木の影のなるべく濃いところに沿って歩く。時折吹き抜ける風に若干の涼を感じるが、午前中のこの時間だけだろうと思われた。太陽が中天に近くけば、風も生ぬるくなりやがて鼻腔を焼くような熱風になるだろう。

 「だいたいさぁ、最低限の学力って何よ?オレ、全くダメなのぉ?」

 「じゃ、スポーツ推薦でいけばいいだろ?あれだけ活躍してればどっかに引っかかるんじゃね?なんで推薦受けないんだよ?」コウジは面倒臭そうに答えた。

 「うん。無いな。絶対無い。てか、狙いたくも無い。もう、バスケ、やりたくないし」ガミは桜の枝の隙間から差し込む光に目を細めながら妙に落ち着いた声で言った。

 「なんだよ、それ。楽して高校行きたいって言ってたクセに」自分の特技を生かせる。直接受験に生かせる特技を持たないコウジにとっては、羨ましい限りだ。

 「なんかさぁ、もうやり切ったって感じなんだよなぁ。」

 コウジはあの瞬間の事を思い出していた。ガミが攻めに転じた途端、会場の空気が変わった。まず観客席が湧きたち、それに気圧されて選手たちが動きが変わった。どちらの選手も気迫むき出しのプレイに変わった。当然ながら試合は荒れたが、コウジたちも大いに楽しんで観戦することができた。地方紙だったが新聞の地域のコーナーにシュートを放つ瞬間のガミの写真まで掲載されるというオマケまでついた。

 あれ、外れてんのにな。やめてくれっての。マジで。ガミは呆れた表情でその紙面を眺めていたが、コウジはよく撮れた写真だ、と思った。まるでバスケ漫画じゃんか。これだからヲタはスポーツマンには叶わないんだよ。


 二人は塾の夏期講習に通っている。コウジがもともと通っていた塾にガミが入塾してきた。ガミはそれまでバスケ一筋だったから、学習らしい学習は中学に入ってまともにやって来なかった。そこまでやらなければ到達しなかった場所。それがあの日のコートだったのかも知れない。そう思うとコウジは素直にガミが凄いと思えた。

 「むかしはよく遊んだよなぁ。ほら、あの堤防のところ。あの落ち込みによく飛び込んだじゃん?」二人が今自転車をこいでいるところは桜並木を抜け市街地に入るあたりだった。コウジたちの中学校の横を流れる川は、ちょうど市街地に入るあたりで、本流である大きな河に流れこんでいる。その昔は梅雨や台風の豪雨でよく氾濫したらしい。亡くなった人もいたと言うことだ。河川敷が広がり、川の中にはガミが指差した砂防堤が見える。その砂防堤から度胸試しと称してガミとタケシはよく飛び込みをやっていた。コウジとナツはもっぱら甲羅干ししながら、いろんなことを話した。今思い出してみると、あの時、ナツは腹ばいで寝転がって胸と腹を隠していた。あの頃からもうナツの中では何かが変わりはじめていたのだろうか。

 「オレ、怖くて飛び込めないのにさ、お前たちが煽るから死ぬ気で飛び込ん出たんだからな」

 「そんな大げさなハナシかぁ?2メートルも無いのに」

 「お前たちがおかしいんだって。怖いぞ普通」

 「今年も来るか?オレ去年も一昨年も来てた。部活のみんなで」ガミは何かを探すように砂防堤の上に視線を向けた。ガミの視線の先にはあの日のチームメイトがいるのだろう。

 「あのさぁ、今考えたらナツはあの頃はもう…」

 不意に一台の青いセダンが二人の横を通りすぎて、数メートル先で止まった。助手席のドアが開いて降りてきたのはほっそりとしたタイトなデニムを履いたナツだった。緑色のTシャツには大きくFREE!!と描いてある。足はサンダルで10本の爪のいくつかにはペティキュアが塗られている。


 「なんだよお前、暑っ!夏なら短パン履けよ。ナツだけにっ!」下らないダジャレをガミが叫ぶ。そのダジャレに微笑みながらナツは手を振りながら小走りで近づいてくる。

 確かに暑いねぇ。微笑みながらナツは黒いリストバンドで額の汗を拭う。

 「イケてんな、お前。良いよ」

 「…おかしいかな?」

 「そういう問題じゃなくて、お前にしかできないカッコじゃん。周りの目なんか気にすること無いんだよ。なぁコウジ?」

 「それ、答えになってないし。似合うよ、ナツ。機動創世記のアンフィみたいだ」ナツはTシャツを引っ張りながら、それ、嬉しいかも、と言った。

 百メートルほど先に止まっている青いセダンは鮮烈な光を気丈にはじき返してアイドリングしている。

 「お父さん?」

 「うん。久しぶりに休みでね、買い物にでも行こうって。二人は塾?」

 「ああ、この暑いのにヒドイ話だろう?まぁ教室はエアコンが寒いくらい効いてるんだけどな」

 「エアコンはともかく、ガミは机についていることが苦痛じゃ無いの?」コウジとガミは顔を見合わせせる。ナツはニコニコと楽しそうに笑っている。「お前、いつからそんな直球投げるようになったんだよ?」

 「ごめんごめん、そんなつもりじゃなかったんだよ。ただ、大変だろうな、って…ね…」コウジは思い切って口を開いた。

 「なぁ、ナツ。本当に高校受験しないのか?」その目線の先はナツではなく、ナツの父が乗っている車を見ている。ナツの父は息子の決断をどう受け止めたのだろう。

 「うん…わたしは進学よりも就職を希望しているんだけど…なかなか、ね…」ナツも父の車を見ている。やはり、思ったより状況は厳しいようだ。3人を青いセダンのアイドリング音がアスファルトの熱に混じって空気を焼く。

 「じゃ、そろそろ行くね。二人とも頑張って!」ナツは父の元に戻っていった。すると、今度はナツの父がドアを開けて降りてきた。

 「コウジ君にタツヤ君、色々とありがとう。他の友達にもよろしく伝えてくれ」そういうと、二人に深々と頭を下げた。コウジとガミもつられて頭を下げる。アスファルトに黒いシミができた。


                 ※


 保育園に夏休みは無い。給食時間がおわって、今はお昼寝の時間である。年長クラスは秋の運動会に向けてのマーチングの練習が始まっていて、2階のホールからは、ユイが作業をしている3歳児のクラスまで、たどたどしい演奏が聴こえくる。そのひびきが、こどもたちの寝息と溶け合い、柔らかなハーモニーとなってユイの周りに漂っている。

 「すずめ保育園」オリジナルのTシャツにジャージのハーフパンツ姿のユイは保育室の壁面に貼り付ける、主に色画用紙を使用した環境設定を作成している。今、飾られている環境設定はゾウやリスが浜辺でスイカわりをしている様子を表現したものだ。ユイが作成しているのは9月の環境設定であり、お月見をする動物とこどもたちを飾り付ける予定だ。

 「ユイちゃん、上手ねぇ。手先が起用ってのもあるけど、これは持って生まれたセンスよね。ピンポン球をお団子に見立てるなんてなかなかのセンスよ」3歳児のは複数担任で、リーダーである長野保育士と二人の保育士の3人で構成されている。それに今はバイトであるユイが加わる。

 「卓球部の友達が、へこんだり汚れちゃったピン球、いらない?っていうからもらって来ちゃいました。ちょっと色つけるとお団子になるな、って思って」

 ユイは、木目が印刷してある食品トレーを組み合わせて三方を作り、その上につや消しのアクリル塗料で色付けをした月見団子を飾り付けている。塗装のさいに揮発した臭いがこどもたちの健康を害するといけないので、塗装作業は自宅で済ませてある。塗料はプラモデルの塗装用のものをコウジに借りた。

 「アクリル塗料?何に使うんだよ?」すずめ保育園の環境設定に使うのだ、というと「まーた園長先生かよ…」と呆れられた。

 「わたしが園長先生の力になれる事って知れてるじゃない?やれることは目一杯やりたいの」コウジはハイハイ、というと自室からちょっと黄味がかったオフホワイトの塗料とつや消し剤と筆洗い用の液体を貸してくれた。

 「気にせず使ってくれていいよ。塗料も筆洗いもまだあるからさ」

 「気前いいわね。値段調べてちゃんと返すよ」妙に気前の良いコウジである。「それ、お徳用をを小分けしたヤツだからさ。最近、塾の課題が忙しくて、まともにプラモ作れてないから揮発する前に使ってもらった方がいいんだよ」

 コウジは中学校に入学して、学習濁に通い始めた。それに、おそまきながらガミも合流したらしい。ガミはスポーツ推薦をあっさり捨てて、一般受験で高校入試を目指す、という。タケシはどうするのだろう?塾に通っている、という話は聞かないが、彼の事だから、しっかり対策を練っているのだろう。ついこの間、電話したマリアも塾、マジでしんどいわーとこぼしていた。ナツは就職を目指すという。コウジの話によると、見た目がすっかり変わっている、という事だ。「なんかオレ、複雑な気分だったよ…」ユイは手にしたピンポン球のお団子を握りしめる。

 わたし、どうしよっかなぁ。


                ※


 庭園灯に照らされた芝生が今が盛りとばかりに伸びている。そろそろ芝刈りの頃合いだ。明日は芝生の剪定でもしようかな、風呂から上がって、ソファーに座ったユイは庭を眺めながらぼんやりとそんな事を考えている。

 「ユイ、ご飯の用意手伝って」キッチンから母が呼んでいる。香辛料と炒めたエビの香り。今日の夕飯はエビチリらしい。振り向いた先にあるダイニングのテーブルに、チンゲン菜に囲まれたエビチリがもう盛り付けてあった。ユイは食器棚から二人ぶんの食器を出して、テーブルに並べる。ユイの父は単身赴任で地方にいるので、母と二人きりの食卓だ。ユイが配膳をしていると、母がサラダとご飯をトレーからテーブルに並べる。美味しそうね、スタミナつきそう。とユイが言うと母は、でしょう?ちょっと辛口よ、と言った。

 「さぁ、頂きましょう。あ、ビールビール…」母は毎晩、ビールをひと缶だけ飲む。夏はやっぱりこれね。夏って。冬も同じ事言ってるじゃん。ユイも食卓につく。

 「頂きます」ユイは冷えたジャスミンティーをコップに注ぐ。

 「どう?保育園は?」母は、プシュッと小気味良い音をたてて、ビールの缶を開けると細長いグラスに注いだ。黄金色の液体がグラスを満たしてゆき、それに伴ってグラスの表面に水滴が生まれてゆく。

 「楽しいよ。子供たちも可愛いし。まぁ暑いけど」母はグラスに口をつけるといかにも美味しそうに喉を鳴らした。「ひとくちだけいただいて良い?」とユイは母の手からグラスを受け取り、黄金色の液体を少しだけ口に含んで、風呂上がりの喉を潤した。黄金色のそれは苦味と清涼感を伴って喉を駆け下りてゆく。「美味しい。でも苦い」母はエビチリをユイの皿に装いながら、まだユイには早いかな、と言って笑った。

 「でもさ、お母さんもお父さんも飲めるし、わたしもきっと飲むようになるよね?」

 「そうね。そうなったらお父さんが喜ぶわ。ずっとユイと飲みたいって言ってたから」

 「ふーん、そうなんだ?」

 「まぁ父親なら、いつかは娘と、って思うんじゃない?」

 ユイはエビを口に放り込んだ。「今日はちょっと辛めにしてみたの。どう?」確かにいつもよりピリッとした刺激が強い気がする。しかし、それがユイの食欲を刺激する。ご飯がどんどん進む。ヤバいって、太っちゃうよ。

 「ねぇ、お母さん」

 「何?やっぱり辛かった?」

 「それは大丈夫なんだけどさ…お母さん、進路のこときかないね?」

 ああ、そのことね、と母は言うと母もエビをひとくち食べた。

 「うん。良い感じね。夏はこれくらいがちょうど良いわ。そうね、進路か…」次はビールだ。

 「1学期の成績、悪くなかったじゃない?相変わらず理数系はちょっと苦手みたいだけど、それでも平均は超えているし、英語は相変わらずいい感じだし、ユイはどうなの?今の成績をもっと上げたい?」ユイも全く同じ意見だ。ただし、今より成績を上げたいか?尋ねられると、少し迷う。

 「ユイは保育士を目指すんでしょ?それだったら、特に進学校目指さなくても、今の成績でH高から保育短大って感じじゃないの?」

 「それも良いんだけどね、英語をもっと生かしてみたいかな、って…」

 確かに結城園長と同じ保育の道に進むのは、ユイの目標ではある。しかし、最近はそれだけで良いのだろうか、と言う迷いが出てきていた。

 「ESSのネイティブの先生に、英語を生かせる職業を目指したら?って言われた」ユイはジャスミンティーを口に含んだ。油と辛味が口の中からほんの少し消える。

 「へぇ、そうなんだ?じゃ、どうするか早く決めなきゃね。その選択だとH高じゃ、ちょっと物足りないわね…塾に行くかどうかはユイに任せる」

 母はユイを信頼してくれていて、全ての選択をユイに任せてくれている。これがマリアの家だと全く状況は違っていて、色々と親が干渉してくるそうだ。マリアの父はマリアと一緒に合気道をやるくらいに仲が良いのだけど、口出しも多いらしい。それがユイにとっては少し羨ましくもあった。

 お母さんも、もう少し干渉してくれても良いんだけどなぁ。

 部屋に帰って端末を見るとチエからの着信が表示されていた。


 あの教室での一件のあと、チエの方から連絡先を交換してくれ、とユイに言ってきた。ユイはためらう事無く、チエに電話番号とメールアドレスを教えたのである。

 てっきり拒否されると思ってた、とチエはその場で情報を端末に打ち込んだ。

 「それ、ウソだから」ユイは表情を変えずにチエの瞳を見て言った。

 「え?」不意をつかれたチエの大きな瞳がさらに大きくなった。

 「冗談。本物。いつでも連絡してきて良いよ」

 「…たちわるッ」

 「そうね。私、かなり捻くれてると自分でも思うわ。だから、マリアたちともヘンな部分でウマが合うのかもね」

 「そうなんだ?」

 ユイは、チエをESS部室に誘った。もちろん、チエにとっては初めてのことだ。

 「アンタはガミを独占したくて、私たちと敵対した。でも、そう簡単にいかなかった。当のガミがアンタのそこまでの想いになかなか気がつかないどころか、私たちやナツを本気でかばいだした。それでも、自分と別れようとは言わない。

 今は、自分を見限って欲しい気持ちと、別れたくない気持ちがせめぎ合ってる。そうでしょ?」チエは何も言い返すことができない。

 「と、まぁこんな感じでヤなことをズバズバ言っちゃう自分が嫌いなのよ、本当はね」

 「よくわかんないわ、アンタ…」下の名前でいいよ、ユイは言った。

 「まぁ、ナツのことはおいおい話すとして、チエのこともみんなに認めてもらわなくちゃね。チエの気持ちがわからない連中じゃないから」

 「そうなの?ユ…ユイ?」うん。とユイはハッキリとうなずいた。

 チエは、教室を飛び出したあの日から、保健室で過ごしている。本人は教室で過ごしたいらしいのだが、学校側はそれを許さなかった。建前はチエとつるんでいたサキたちが報復に対する配慮なのだが、そこにはチエの母親からの強い依頼があったからだ。チエは抗議したが、母は取り合わなかった。「あなたが今すべきことは、学校には無いでしょう?その先のことを考えなさい。くだらないいじめに付き合う必要がどこにあるの?」チエの学校での格付けは下がった。

 「チエ、あんたは学校での自分の立場って気になる?」

 「あ…どうなのかな?質問で返すけど、ユイは今の私のことどう思ってる?」

 「そうねぇ…ちょっと私と似てるかも」

 「え?そうなの?」チエは思わず聞き返した。

 「私って、みんなと一緒にいてもどこか浮いてるって思わない?」

 「そうかな?仲良さそうに見えるけど…」チエはユイがマリアたちといるところを想像してみる。例えば、タツヤのバスケの試合を見ていても隣にいるマリアとは違う雰囲気があった。

 「マリアもそれはよく知ってる。私は少し浮いてるの」

 クーラーの冷気の唸りが二人の間にたゆたっている。部室のドアが開き、ESS部の後輩たちが入ってきた。先にいたユイとチエに少し驚いたようだったが、二人に会釈して席に着き、ノートを広げた。

 「さて、これでチエと私はいつでも連絡できる中になったワケだ。これから、私もチエにいろんな事を相談すると思うけど、よろしくね」

 「ユイが私に?何を相談するのよ?」

 「まぁ、将来のこととか。色々」

チエとユイ。どこかいびつな二人の間に何かが生まれた。


               ※


 市民図書館の自習室は今日も満員御礼だ。外の蝉時雨も、ここまでは届かない。窓から見える透き通る水をたたえた池が、白い光を自習室内のオフホワイトの壁に反射させている。

 室内では小・中・高・大と様々な年齢層がそれぞれの夏の課題やレポートなどに取り組んでいる。ページをめくる音や、鉛筆を走らせる音と、時折交わされる小さな会話が聴こえる。

その部屋の片隅にタケシがいた。

 傍には終業式の時に配られた課題のテキストと、自分で買い込んだ参考書が積まれている。タケシは学習塾に通うと言う選択肢を捨てた。

 タケシは、ごく短いあいだ学習塾に通った事もあった。中学校に入学したばかりの頃である。しかし、そこでは理解できない事を講師に尋ねる、と言うよりも自分解いた課題が果たしてどれだけ正解しているのか、と言う確認行為が主だった。ある講師は、そんなタケシに対して「正直、お金の無駄かもしれないね。君、僕らが教えるより先に、自分でなぜ不正解に至ったのか、分かってるでしょ?自学で良いと思うな、君は。ここに来るのは時間の無駄だと思うよ」

 自分が、意識せずに他人を傷つけてしまうかも知れない、と初めて思ったのはその時だったような気がする。自分ではそんなつもりは無くても、講師を試しているようなところがタケシにはあったのだ。小学生の高学年の頃から、自分が学習能力がそれなりの位置にあることは、それとなく分かっていたタケシである。無意識な自分の性格に嫌気がさした。それからは意識して大人と接するようになった。まだ、ありのままの自分を出す年齢では無いのだ、そう思って過ごしている。


 そろそろお昼か。タケシは席を立つと図書館の外へ向かった。外に出ると、熱気が体を包み込む。冷房で冷えていた体には、それが心地よかった。池のそばの日陰にあるベンチには誰も座っていない。タケシはそこで昼食をとることにする。母が弁当箱に詰めてくれたのは、大きめおにぎり三つと卵焼き、それに大きめのウインナーだった。おにぎりの中身は多分梅干しである。それとは別にフルーツが入ったプラスチック容器もあった。

 「あ、おいしそー!タケシも居たんだ?」声をかけてきたのはマリアだった。

 「あ、マリアも居たのか。そこ?」と後ろの図書館をタケシは親指で指さす。

 「うん。やっぱねぇ、家じゃ身が入んないのよ、って、ここでも入って無いんだけどさ、家よりはマシね。親もいないし」マリアの家は生花店である。父と母、それと弟と祖父が暮らしていた。タケシも何度かお邪魔したのだが賑やかで明るい家だ。

 「いいじゃないか。多少、賑やかだろうけど活気があってさ」

 「タケシはね、たまに来るから良いのよ!アレがずっと続くんだから。こっちは、たまんないって。私は受験生だってのに!」少しハスキーな声で話すマリアをタケシは、愛らしいと思う。

 「タケシのウチは、静かでしょ?お父さんもお母さんも働いてるし…あ、コウタにいちゃん元気?たまには帰ってくるの?」タケシの父と母は二人で会社を経営している。二つ上の兄のコウタは、地方の高校に特待生として入学したため、寮にいるのだ。

 「コウタにいちゃんは、お盆に帰ってくるんじゃないかな?あそこ、部活も強制だから、結構忙しいみたいだ」

 「ふーん。そうなんだ?しかし、すごいよね、タケシのところはさ、兄弟揃って頭いーんだもん」タケシはそうだね、とも言えずに微笑むしかない。

 「そう言えば、この前、ガミとコウジがナツにあったらしいね?」タケシは話題を変えた。マリアは、そうそう!とタケシの肩を軽くパシパシ叩く。

 「メールきたきた。なんかすごくキレイになってるんだってね?私も会いたいなぁ」マリアの意思の強そうな瞳は、しがらみから自由になったかも知れないナツを見ているのだろう、とタケシは思った。タケシもそんなナツには会ってみたい、と思う。この水面のように今のナツもキラキラしてるに違いない。

 「さて、戻るかな。マリアはどうする?」

 「あ、数学教えてよう!わかんない問題があるんだ」良いよ、と言うとカラになった弁当箱をリュックにしまって立ち上がった。

 中学校最後のそれぞれの夏休みは、止まることなく進んでゆく。


                ※


 夏休みが始まって10日ほどが経ち、8月に入った。

 教師である重田に夏休みは無い。先輩の教師が飲みの席で教えてくれたのだが、以前は教師にも夏休みがあり輪番制で学校に出勤していたのだ、と言う。職員室、果ては教室での教師の喫煙も大目に見られていた頃の話だ。まだまだ荒っぽい時代だったけど、おおらかでもあったんだよなぁ、とその定年を間近に迎えた教師は遠い目をして紫煙を吐き出した。「今年、定年でよかったよ。こんなギスギスした時代じゃあ、オレ絶対寿命縮まるわ」

 時代の変化と共に、学校のあり方も変わってゆく。あの教師が言ったように、学校は一部の生徒を除いて、息苦しい存在以外の何者でも無いのかも知れない。

 「まーオレもそろそろヤバイよなぁ」重田はPCの立ち上げながら呟いた。健康診断の結果も決して人に自慢できる数値ではない。職員室には、平時と同じくらいの教師が出勤している。この中の何人かも重田と同じような健康状態なのだ。

 今、重田が頭を悩ませているのは、夏休み前に行われた『そよ風ルーム』の支援者による会議の報告書の作成である。さて、どうしますかねぇ…


 「今現在で在籍している3年生は5名です。あとは保健室に通っている3年生が2名、登校できない生徒が2名です。在宅の2名以外には進路に関する意思確認ができています」川村の現状説明のあと、話題はその9名の生徒たちとどう接してゆけばよいのか、と言う話題に終始した。進級して4ヶ月、もう卒業まで8ヶ月である。ひと昔まえならいざ知らず、今の時代においてこの8ヶ月の持つ意味は大きい。ここに集まっている全員が、8ヶ月後には9名を笑顔で送り出したい、と言う思いを持っている。

 会議の終わり頃、重田が手をあげた。「あの、最後によろしいでしょうか?」視線が、一斉に重田に注がれる。その雰囲気に若干気圧された重田だが、これだけは話さなければならない、と口を開いた。時間はもう無いのだ。

 「小山ナツのことです。彼は…とあえてここでは「彼」と呼ばせてください。彼が性的な問題を抱えていることは、もうみなさんご承知のことだと思います」全員が頷いたり、重い息を吐く。

 「お父様に最近の彼の近況をうかがいました。彼は最近、少しづつ女子の格好…ファッションと言いますか、それなりの格好をしているそうです。髪を伸ばし、Tシャツやジーンズなどは女性のものを身につけているそうです。お父様は、戸惑いもありながら受け入れている、とおっしゃっていました」重田は、電話での小山の声を思い出していた。重田の質問に対して最初は、口の重かった小山は、ナツの様子をポツリ、ポツリと話ていたのだが、話が進むに連れて言葉の端々から、そんなナツのことを慈しむようなニュアンスに変わっていった。

 母親が逝ってから、ロクに息子と向き合うことすらしないまま、ここまで来てしまった。今回のナツのことも最初は驚きもしたが、受け入れるしかないと決意を固めた。小山は、そう話した。


 「この会議の前に小林さんからもお話をうかがいました。良いですね、小林さん?」コバさんは頷く。お願いします、落ち着いた声に重田は背中を押された気がした。

 「彼は小林さんが開設している、『コバさんのこども食堂』で働いています。ちなみにまかないが労働対価だそうです」コバさんは思わず吹き出しそうになった。

 「大したものは出していませんよ。私と同じものを同じ時間に頂いております」

 「まぁ、そう言うことです。そこでも彼は、ところどころで女子のニュアンスを匂わせるファッションで働いているそうです」ここでコバさんが手をあげる。

 「とてもよく似合っていますよ。初めて私を訪ねて来た時よりも数倍いきいきしています。今のなっちゃんが多分本当のなっちゃんなんでしょう」ごめんなさいね、と言うとコバさんは会釈をした。

 「小林さん、ありがとうございます。このように彼は学校あまり登校しなくても、いきいきと毎日を過ごしています。しかし…」と、重田はここで言葉を区切った。ぬるくなってしまった、ペットボトルのお茶を一口だけ口に含んだ。

 「新学期は必ずやってくるワケです。では、我々はどうするば良いのでしょう?どうやって彼を受け入れれば良いのでしょうか?私は正直なところ、小山ナツさんをどう受け入れれば良いか分からない。ここにいらっしゃる皆さんはどうですか?」

 重田の隣に座っていた川村も立ち上がった。

 「どうか、皆さんのお知恵をお貸しいただけないでしょうか?私たちも連日、この問題…あえて問題と言わせていただきます。に、ついて協議していますが、答えが出ません。どうかお願いします!」午後の強烈な日差しは、教育委員会が設定した空調の規定温度を無視して、室内の温度を上げていく。


                 ※


 「コバさんの子供食堂」から子どもたちの嬌声が消えたのは、19時過ぎだった。最後は、やはりガミの弟のアキラだった。迎えにきたのは、チエである。夏休みに入ってしばらくしてから、やはりこの時間にチエがアキラを迎えにきたことがあった。チエが迎えに来たときに対応してするのは、対応するのはコバさんか、手伝いに来ている年配の女性たちだったが、そのときはコバさんが電話に出ていて対応できなかった。他の年配の女性たちも早く上がってしまい、ナツが対応するしかなかったのである。

 

 こんばんわ。アキラくんいますか?お迎えの白井です。

 チエのよく通る声が玄関から聞こえた。コバさんは電話で聴こえない。電話は区の職員からで、この子ども食堂の助成金についてである。つい最近、ここの利用者や近所の人びとからの嘆願書が区の会議を通ったのかも知れない。受話器を握るコバさんは、チエの声に気がつかない。

 「なっちゃん、チエちゃん来たよ。僕帰るね」

 「うん。じゃ、行こうか」割り切れない気持ちのまま、ナツは台拭きを中断してアキラと玄関に向かう。玄関には白い証明に照らされて、Tシャツにサマーカーディガンを羽織って、スキニーのジーンズを履いた白井チエが立っていた。

 「あ…小山…」チエも戸惑っていた。ここにナツがいることは、とうに知っていた。だが、学校以外の場所で対面するのは初めてである。

 「…ガミの代行だよね?」ナツは言葉を絞りだす。呼吸が早くなる。

 「二人とも同じ中学校だもんね。友だち?」アキラの無邪気な質問に、先に答えたのは、ナツだった。

 「そうだね。友だちじゃないけど、知り合いかな。ガミの彼氏だし…ね?」

 チエは思わず言葉に詰まる。目の前に立っているのは、つい最近まで、自分がかつて勝手に敵視していた人間である。そんなナツにどう対応すれば良いのか。

 「う、うん。クラスも違うしね。私はお仕事で忙しいし…あまり話せないのよ…ね?」チエもまた、硬直した胃袋からその言葉だけを吐き出すことができた。

 アキラは無邪気に外に飛び出してゆく。あ、アキラ待ちなさい。

 「ごくろうさま。早く行ってあげて」ナツはチエを促す。アキラが開けた引き戸の玄関からは、8月の夜の熱を孕んだ夜気がぬっと入ってくる。

 小山、これ、と言ってチエは仕事用の名刺をナツに押し付けた。

 「連絡ちょうだい。いつでも良いから。夜中でも昼間でも。絶対、返信する。それと…」なんかゴメン。最後の言葉をナツが聴いたとき、チエはもう外に飛び出していた。

 ナツはピンクの紙片を見た。よく見ると表面には金銀のラメがあしらってある。

 

 ジョイスター・エンタープライズ 白井 チエ CHIE SHIRAI


 「ゴメンね、ナツちゃん。電話が長引いちゃって」白い玄関照明を背中に受けて立っているナツにコバさんは声をかける。

 「会ったのね…白井さんに…大丈夫だった?」

 「はい。なんとか」そう、とコバさんはナツの肩に手を置いた。

 「何か言われたり…しなかったわよね?アキラちゃんもいたし」

 「はい。大丈夫でした」ナツはとりあえずに返事をしたが、胸の中は穏やかではなかった。戸惑いの原因は記憶の中のチエとのギャップである。以前とは印象が変わっていた。ナツが戸惑うほどに。

 

 いったい、あのコに何があったのだろうか。人はこんな短い間にあそこまで変われるものなのだろうか?

 「さ、なっちゃん、そろそろ帰らなきゃ」コバさんはナツの肩を抱きかかえるようにして、玄関に誘う。ナツの右手のピンクの小さな星が握られていた。


 ナツが家に帰ると父が珍しく早く帰ってきていた。

 「おかえり。毎日大変だな」風呂上がりの父は手酌で缶ビールをグラスに注いでいた。キッチンにビールの香りが漂っている。肴は冷凍の枝豆を解凍したものとスーパーで買ってきたスズキの刺身だった。

 「お父さんこそ、毎日遅かったじゃない。おつかれさま」何か作るね、と言うとナツは冷蔵庫をのぞく。使いかけのじゃがいもがラップに包まれて転がっている。あとはベーコンと使いかけのチーズが入っていた。ナツは最近はコバさんのところでまかないを食べることが多かったし、父は外で済ませて帰ってきていたので、冷蔵庫の中は寂しい状況だ。

 「ベイクドポテトで良い?ベーコン乗っけてチーズをかけられるけど…」

 「すまないな。お前も疲れているだろう?」ううん、これ作ったら、お風呂に入るね、と言うとナツは調理を始めた。とろけたバターとチーズ、そしてベーコンのこおばしい香りが二人の間を満たしてゆく。テレビはプロ野球のニュースから、全国版ニュースに切り替わった。小山はあくびしながらも画面に見入っている。今年の八月に入っての連続猛暑日は、すでに前年を上回っています。明日も朝から厳しい暑さとなりそうです…

 「食べたものはそこに置いてといて。あとで片付けておくから」

 「そうさせてもらうよ。すまないな…もう限界だ…」父は歯磨きをすると、テレビのスイッチを切り、おやすみ、と言い自室に消えた。朝、慌ただしく言葉を交わすことがあっても、夜はすれ違いが多い小山とナツだ。父の食器を片付けながら、少し猫背気味になった父の背中を見送った。


 入浴を終え自室に戻ったナツは、布団を敷くとその上に倒れ込んだ。チエからもらった名刺をもう一度よく見てみた。事務所名とチエの氏名、それに事務所の電話番号とメールアドレスが記載されていて、その裏面にチエの電話番号とメールアドレスがボールペンで書かれている。ナツに渡す直前に、慌てて書き込んだのだろう、文字が跳ね回っていた。その文字を改めて見ていると、ナツのチエに対する想いが視覚や触覚を通して、ナツのこころに染み込んで来る。

 ナツは、端末にチエのアドレスを入力し始めた。


 こんばんわ。いつでも良いから、と言う言葉に甘えてメールします。

さっき、お父さんが寝て、台所の片付けをしてお風呂に入って…って、こんな事を書いても仕方がないよね。とにかく、今ようやく落ち着いた時間です。

 この前、ガミ、あ、白井さんの前ではタツヤなんだよね?から、白井さんの近況を聴きました。大変なことになっているみたいだね。でも…ごめんなさい。正直言うと「ザマァミロ」って思ってしまいました。今、こうやって文章を書いていても、あの時の事は。思い出したくないです。

 文字数制限があるので、ナツはここで一旦文章を送信した。

 

  僕は、と言うか…わたしは、と書きます。私は、いわゆる「性的にマイノリティな存在」です。見た目は男子でも、精神的には女子なのです。これについては、自分でも調べたし、学校でも川村先生と重田先生に相談に乗ってもらって理解できました。わたしが小学生の頃から抱えていた違和感の正体が、ようやく理解できたのです。

 もし、今夜…正確にはもう昨夜と言うことになりますね。白井さんに会うことがなければ、白井さんに打ち明けるつもりはありませんでした。私の中であなたを含めて、あなたと一緒にいた人たちは、とても許す事ができません。

 じゃあ、なぜこんな事を白井さんに書こうと思ったのか、と言うと…

 正直なところ、自分でもよくわかりません。なぜなんだろう…

 今、私の枕元に白井さんがくれた名刺が置かれています。とても可愛い名刺ですね。白井さんが芸能活動をしていることは、何となく知ってはいたけれど、この名刺をもらってようやくその事実を理解できた、という感じです。送信。


 チエちゃんが、ガミの事を本気で好きなんだってことは、凄くわかったから。ガミは本当に可愛くて一生懸命で優しい男の子です。そう、わたしもガミが好きです。それも、女の子として。絶対叶わないって分かっています。でも、好きです。チエちゃんには、そのことが分かっていたんだよね。だから…


 長くなってしまいました。もう寝てるよね?おやすみなさい…



                ※


 堤防のコンクリートが生暖かい。八月の日差しの名残りがコウジとガミの尻から伝わってくる。たゆたう水音と夜の虫の鳴き声が二人を囲んでいる。

 盆休みを挟んでコウジとガミの通う塾の夏期講習は、後半に入って、それまでより遅い時間まで講習が続いている。帰宅する時間は7時を超えることもしばしばだ。受験に備えた夏期講習である。各教科とも講義中に、どんどん問題が出される。それまで塾に通っていたコウジさえついてゆくのがやっとだ。ガミに至っては、本当に知恵熱まで出してしまった。「あの…せんせー…すげー頭が痛い…」講師も最初はガミがふざけていると思って取り合わなかったのだが、トイレから帰ってこないガミが、廊下で座り込んでいるのを見て慌てて近くの病院に連れていった。

 診察した医者はどこも悪く無い、と言い「あえて言うと知恵熱だねぇ…慣れない勉強やって頭がオーバーヒート起こしたんだよ」その日、ガミは早退し、なぜかコウジも付き添いで帰された。「なんかオレ、本当にバカみたいじゃんか。なぁ?」と真剣に悩むガミにコウジは、つい、「まぁ仕方無いよ、慣れないことやってんだからさ」と言ってしまい、さらにガミを落ち込ませてしまったのだが。

 「あの時はマジで参ったぜ。でも、コウジすげぇな…アレずっと続けてたんだろ?尊敬しちゃうよ、マジで」

 「いや、一学期まではそうでもなかったんだよ、夏休みに入ってからだよ、あんなエゲツない課題やり始めたの」

 「そうなんだ…てか、二学期になったらまだヤバくなるんじゃね?オレ、どうしよう…」ガミは黒い川面を見つめる。そうだよなぁ、とコウジは答えてぬるくなったペットボトルの清涼飲料水を飲んだ。

 その時、おーい、何やってんのぉ?と言う声が背後から聞こえた。虫が群がる街灯に照らされて、ゆらゆらと自転車のライトが近づいて来る。 


 「さっさと帰りなよ、この暑いのにぃ」マリアのハスキーな声が聞こえた。

 「お前たちこそこんな時間になにやってんだよ?夜間徘徊だぞ」

 三人も堤防に上がってきた。マリアとユイとタケシだった。

 マリアとタケシは図書館の帰り、ユイはチエのイベントを観覧した帰りだという。

  暗い水面で魚が跳ねた。お!エラアライだ、スズキかな?タケシが暗い水面に躍り出た魚を見つけて言った。

 「スズキ?ああお刺身のね、って、ちょっとユイ!チエのイベントってなによ!?」全員がユイに注目する。当のユイは顔上げて暗い水面を見ていた。頬にかかった髪からもれ落ちた髪の毛が湿度をたっぷり含んだ風にわずかに揺れている。

 「…チエ、頑張ってるわよ。少なくとも私たちの周りにあんな女子はいないわね」全員の目が慣れてきたのだろう、ほのかな街灯の灯に浮かび上がるチエの表情は、とても柔らかだった。

 「ねぇねぇねぇ、いつからそんな関係になったの?あんたたち!」この湿度でも変わることのない、マリアのハスキーな声からは明らかに苛立ちが感じられた。ついこの間まで、ナツを含めたここに集まる仲間たちと明らかに敵対していたのがチエだ。集まった仲間は、ここしばらくの間のユイとチエの間に起こった出来事を知るよしもない。

 「私はチエのナツに対する気持ちがほんの少しだけど、理解できたのよ。あのナツに対する一件はさ、チエの元仲間?が勝手にやっちゃっただけ。チエは、良くも悪くもストレートだからさ。ボソッと言っちゃったことを周りが、ご褒美目当てにやっちゃっただけなの。確かに火付け役はチエかもしれないけど…あとは周りがやりたい放題やっちゃってたのよ。私、あのコと同じクラスじゃん?」全員が頷く。また暗い水面で魚が踊ったが、今度は誰も注目しない。

 「で、私から話しかけたのよ」でた。ユイの行動力。

 「さすがだユイだ。それはユイにしかできないな」うん、タケシ。その直球はお前にしか投げられんよ。コウジとガミは、顔を見合わせて苦笑いをする。その雰囲気に気がつき、振り返ると「?」と言う表情をした。タケシ、最強。

 「で、なんて言ったんだよ?」コウジが促す。

 ユイはESSの部室でのことを話した。自分がそれまでチエに抱えていた思い。そして、自分とチエの共通点。性格。立場。陽光が差し込む教室で。二人で。

 「で、まぁなんとなく友達になったのよ」思い出したようにまた魚が踊る。絶えず夜の虫が鳴き続ける。対岸の町の灯がまたたいていて、生まれて15年近くを経たコウジたちは、夏の夜のしじまで、それぞれが自分と向き合っていた。


                 ※


 小山、遅い時間なのにメールありがとう。

 私もさっき仕事から帰ってきたところです、ってなんかこう書くと社会人みたいだけど。今日は外で収録をしていました。もう、めちゃくちゃ暑かった。そのうち夕方のニュースで流れると思います。


 まずは、きちんと謝らせて下さい。


 ごめんなさい。


 言いわけはしません。私があなたにしたことは、許されることじゃないよね。

 でも…でもって言うか…正直に言うね。小山が怖かった。どう接すれば良いのかわからなかった。タツヤを見つめる小山の視線が私と同じだったから。

 このことをサキたちに話したら大変なことになってしまって。


 私は自分で、小山に対して言うきだった。

 それなのに、あんな事になってしまって。

 私は、あのサキたちをとめて、自分で小山に向かい合うべきでした。

 小山に対するサキたちの態度に私がビビってしまった。そうして、もういいや、これで小山がタツヤから離れてくれればいいや、って…私は最低です。


 私は、もともと友達を作るのが下手でした。いつも浮いてた。

 それは私が、早く一人になって親から離れたい、って言う気持ちがあったからです。クラスの誰よりも早くオトナになんなきゃ、っていつも思ってた。

 今でもその気持ちは、かわらない。私は、早く独立して自分でお金を稼げるように、そうしてそのお金を自分で管理できるようになりたい。

 父を追い出した母親から離れたい。


 小山は学校に来ないで子ども食堂で働いている。実はね、それも羨ましいし、尊敬もしています。

 私たち中学生は、すごく不便な時期を過ごしていると思いませんか?精神的には大人に近い考え方もできる。身体もそれなりに成長している。それなのに、大人であれば、普通に持っているいろんな権利を持つことができません。それは、制度?っていうのかな?今の制度上仕方が無いことなのでしょう。ならば、その中で.自分のやり方をで、大人が決めた制度に、噛み付いていくしかない。


 幸い、私のまわりには、そんな私の思いをサポートしてくれる大人がいます。

 一人は兄、もう一人は私のマネージャーさん。学校では重田…一応、先生って付けとくか、です。みんな私をサポートしてくれています。そのことを考えると、やっぱり私はまだまだ子供なんだよね。


 今、窓を開けてみました。すごいね、夏。こんなに遅い時間なのに熱い空気が一気に部屋に入ってくる。本当に秋がくる、なんて信じられる?

 私は今、1学期の終わりから自分のクラスで授業は受けてません。保健室で授業を、って言うか課題をやっています。サキたちとこじれちゃって。私はやってやる!ってキモチなんだけど、重田…先生に止められているの。でも、このまま卒業ってヤだな。ちゃんと自分のクラスに戻りたいよ。

 あ、それとね、ユイと友達になりました。ユイから声をかけてくれたの。それから、まぁいろいろあって友達になりました。今では時々わたしの仕事を見に来てくれます。正直、ユイも芸能人になれると思うんだけど。キレイだよね、ユイって。


 小山、新学期は学校に出てこない?実はわたしも今は保健室に通っています。サキたちとこじれたままだからです。小山とは、もう一度学校で、きちんと話したい。タツヤのこととか、子ども食堂のこととか。もちろん、将来のことも。


 9月1日、よければみんなと迎えに行きます。


 それでは、おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 


 


 

 



 

 

 


 


 



 

 


 


 

 

 

 




 

 

 

 

 

 

 


               


  

  

 


 




 

 

 


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コール・マイ・ネーム 龍斗 @led777

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