空を泳ぐ鳥

 月が傾き艦の足元灯が消える夜。

 星が瞬き漂流者達の寝顔を見守る夜。


 僕達は二人で部屋に戻った。

 蝶番の壊れかけたのドアをくぐり、まず目に映るのは、壁に張り付いたポスター、二人で身長を比べ合った傷の跡。そして、写真立てに飾られた写真が一枚。


 映っているのは、青空を背景にした幼い二人とシゲ爺だ。


 ここは、血の繋がっていない僕達家族が寄り添い暮らす小さな家だった。


 久しぶりに寝転がった自分のベッドの上で、僕は天井を見つめた。老朽化の影響はこんなところにも。かさぶたのように重なった錆びが層を作り、悲しげな顔のような模様を作っている。

 しばらくして、どこへ行っていたのか、顔をほんのりと赤らめたシゲ爺が帰ってきた。懐国日に独特の匂いをまとっていることに気付いた僕達は思わず目を見合わせた。シゲ爺はアルコールを飲まないはずだったからだ。


 いつもより上機嫌なシゲ爺と、僕達は他愛もない話をした。昨日の食堂のメニューの話、今日の天気の話。いつも通り優しげな口調のシゲ爺を前に、僕は喉の奥に物が詰まったような気持ちになり上手く言葉が返せない。


「――シゲ爺は、下の世界に帰りたいと思う?」


 いつの間にか話は過去に遡り、幼い頃に動力室に忍び込んだ時の思い出を回想している途中、ティアが脈絡もなくシゲ爺にそう言った。

 僕は、自問自答するように小さく頷くしわくちゃの顔をただ眺めていた。


「ワシは、この雲の上で天国を待つつもりだ」


 肘掛椅子に腰掛けて、シゲ爺はそう言って両手を組みながら笑う。それが最後の言葉だった。


 シゲ爺は椅子から立ち上がると、よたよたとした足取りでソファに寝転がる。いつもみたいにクッションを枕に、片手をぶらりと下げて。やがて控えめないびきが聞こえ始めた。


 おやすみなさいと、声をかけ合って電気を消す。

 僕はしばらくの間、ジッと輪郭だけになった天井を睨みながら、これまでのことと、これからのことを考えていた。


 物音がしたのでふと横を見れば、大きなリュックをかついだティアの影がおぼろげに浮かんでいた。僕もゆっくり身体を起こし、同じくベッド下から自分のリュックを引っ張り出す。


 小さな声で”外に出てるね”と言う声に、返事を返してから部屋を見渡すと、ドアの隙間から入り込んだ一筋の明かりが、奥の壁に貼ってある一枚の絵を僕に見せた。


 それは窓のない部屋で暮らす僕達の気が紛れるようにと、幼い頃にシゲ爺が描いてくれた青空の絵だった。僕は寝息を立てて横になっているシゲ爺の背中に目をやり、壁からその絵をそっと剥がして、くるくると丸めてリュックにしまう。


 身寄りのない、赤の他人の子を育ててくれた命の恩人。その恩人から受けた無償の愛を、最も残酷な形で裏切ろうとする僕達は、どうしても面と向かって告白することが出来なかった時のために手紙を書いていた。


 僕は黙ってポケットからその手紙の入った封筒を取り出すと、そっと床に置いてからドアを閉めた。


 ――しらゆり艦の通路のあちこちには、懐国日を祝う大人達がアルコールと油で腹を満たし、赤子のように眠っていた。それらをひょいと跨ぎながら僕達は堂々と歩く。

 

 普段ならば、この時間に未成年が出歩いているだけで制服組が飛んでくるところだ。しかし今日に限っては暗黙の了解ってやつが働いていて、大人に交じった幼い顔つきの寝顔もちらほらと見えた。


 これまで懐国日の夜のことを、皆がアルコールで馬鹿になってしまう哀れな時間だと感じ、部屋にこもっていた僕は、今日初めてまだ見たことのない祖国に感謝した。


 人気のない食堂を横目に、立入禁止の連絡通路をそっと歩いてたどり着いた整備室の中。バチンバチンとスイッチを入れると、ぼんやりとしたオレンジの照明に照らされ、長方形の空力車が露わになる。


 僕は機体後部のレバーをぐいっと上げて、トランクを開けた。すると直後に、何かが中から雪崩れ落ちてきた。


「いてて……」


 僕に覆い被さってきたのは、両手で抱えるくらいに大きな麻袋だった。落ちた衝撃で開いたのだろう。様々な種類の缶詰や、今朝使いきったはずの合成肉のチューブが中から飛び出ている。


「どうしてこんなものが?」


「分からない、でも……」


 袋の中に収まった黒くて丸いGPSを見た僕は、今目の前で起きていることの意味を、混乱する頭で一つに繋いだ。


「……気づいてたんだ、全部知ってたんだ」


 フジさんもタツキおばさんも、今日僕たちがすることに気づいていたのだ。一体どうして、僕とティアはその事実を前にしばらく呆然とした。


「ふふ」


「あはは」


 驚きの表情はやがて脱力に変わる。孤独な逃避行のつもりが、思わぬ後押しを受けたことで何かが吹っ切れ、さっきまでの思い詰めたような表情はどこかへ行ってしまった。ティアの目元には一筋の涙が見える。不安と後ろめたさを押し隠していた緊張が解けてしまったのだろう。


 僕は甲板へ出るハッチのレバーを上げてから空力車のコックピットへと登り、ティアの手を引いた。

 背後ではガシャンと大きな音を立てながら、甲板へ出るハッチがゆっくりと開き出す。涼しい夜風が整備室に流れ込んで気持ちが良い。


 懐国記念日とはいえ、制服組だって全く仕事をしない訳じゃない。深夜に許可もなく甲板ハッチが開くという事態になれば、流石に誰かが駆けつけるだろう。


 僕は操縦桿を握り、ふと動きを止めた。速度計のパネルに差し込まれた紙片を見つけたからだ。


 ドゥンドゥンと小気味よい音を立てている空力車の上で、四つ折りにされた紙片を開くと、そこには見慣れたシゲ爺の筆致でいくつかの数字が並んでいた。

 ああ、やっぱり。シゲ爺もこのことを知っていたのだ。


 僕は、紙の上に書かれた数字の意味を良く知っていた。

 数字の下、何度も書き直したと思われる文字の痕跡が残る紙の中央には、力強い言葉が一文書かれていた。


『旅の無事を祈る、長生きしろ』


 その文字が目に飛び込んだ途端、感情は抑えられなかった。何にこの思いをぶつけるべきなのか、僕は鼻たれ顔を隠す様に、自分の髪を両の手でくしゃくしゃとかき回す。勝手で無謀な行動を起こそうとする僕達に、なぜこんなにも優しい言葉を残せるのだろうか。なぜ許すことが出来るのだろうか。


 その時整備室の入り口が大きな音と共に開き、赤ら顔の制服組が一人現れるのが見えた。片手に警棒を持ち、ここまで走ってきたのだろう。はあはあと肩で息をしている。


 それを認めてから、僕は紙片を丁寧に四つ折りに戻してしまった。


 操縦桿を握り直し、前にゆっくり傾けると静かにお尻が浮き上がる。背後でティアが小さく息を呑むのが分かった。地面から二メートル程浮き上がった時点で思い出したように下を見ると、ぽかんと口を開けた制服組の男と目があった。


 深夜に空力車を無断で飛ばす者に、かける言葉が思いつかないのだろう。宙に浮かんだこいつに、一体一人で何をどうすれば良いのか、途方に暮れている様子だった。結局咎めることを諦めたのか、ため息をついた男は、ゆっくりと口を開く。その口元にはうっすらと微笑みすら浮かんでいた。まるで降参だ、とでも言うように。


「お前達、どこに行くつもりだ」


「未来へ」


 小さく手を上げて男に旅立ちを告げ、両方のペダルを足で踏む。

 風防がゆっくりと閉まり、氷の上を滑るような滑らかさで空力車は動き出した。

 日中に洗濯物を干していた甲板は今夜滑走路になり、夜空に一羽の鉄の鳥が飛び立った。


 生まれて初めてしらゆり艦を離れた僕達は、一面の雲の海に向かって一直線に高度を下げていく。


 まん丸のお月様だけが僕達二人のことを見ていた。


 やがて目の前が真っ白になり、雲の中を溺れるように進む空力車は苦しそうに何度も身体を揺らして喘いだ。


 ガタガタと揺れる操縦桿を必死に抑えていると、スッと突然視界が開ける。

 真っ暗な下の世界に出た僕たちは、雲を身に纏いながら、星が地平線の輪郭をなぞるのを見た。


 どこまでも静かな世界の中、規則正しい内燃機関の音だけが響いていた。


 北緯35度21分38.261秒。

 東経138度43分38.515秒。

 旧海抜3775.63メートル。


 僕はGPSに順番に数値を打ち込む。

 それは、祖国で最も特別な山に向かう道しるべだ。


 ピピッと小さな音がして、行き先が決まる。

 それを合図に、ゆっくりと海に触れないギリギリにまで高度を下げた。

 生まれて初めて間近で見る一面真っ暗な海面は、星の光を反射するもう一つの宇宙のよう。

 雲の切れ間から差し込む月明かりがその宇宙を揺らす波を露わにし、光の粒が跳ね回る海を前に、しばし操縦も忘れて見とれてしまった。


「綺麗」


 後ろから、小さな声が聞こえた。

 綺麗だと、僕も思った。

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空を泳ぐ鳥 ロッキン神経痛 @rockinsink2

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