第1話痛みに耳をふさぐ

あの頃、私は息を押し殺して生きてきた。気づかれないように、目にとまらないように、もう、怒られないように。それだけを考えながら家で生活していた。そっと息を吐く

 「おい、」父親の声に、びくっと肩をふるわせる。次の瞬間、

がしゃあんっ!

私の息を遮るように、存在を否定するようにたたき壊す音が響く。

 ああ、また…すうっとまわりから光が消え、心の奥に自分の意識を閉じ込める。よし、

「ーーーー!ーーーー!」

大丈夫…大丈夫…見ても、聞いても、見てない、聞いてない…

 私はずっと浴びせられる怒鳴り声や破壊音に心を殺して対処し続けた。できるだけ心にとめないように。真面目に受け取ると心が壊れてしまう。ぼんやりと心を沈めた。そして心の片隅には冷静な自分を置いた。ああ、あとちょっとかな…まだ…怒鳴ってるかな…今日はたくさん飲んだのね…

冷静に事実を淡々と受け止める「自分」を代わりに置いておき、傷ついてしまう「心」には聞かせないように奥に置いた。


 「なんにもできねえガキがっ」びくっ

いけない、「心」に触れてしまう。もっと心を沈めるんだ…奥に…奥に…しまい込む。できるだけ怒鳴り声を雑音のように頭から流していく。しばらくそのままでいると、静かになる。今度こそ安心のため息をつく。

私はずっとこうだった。この家で生きていくすべとして、呼吸法として心と自分を使い分けていた。けれどいっぱいいっぱいだった。いつおぼれるかもわからない。いっそおぼれてしまった方が楽なのかもしれない。けれど、力を抜いて諦めてしまったとき自分がどうなるかの方が心配だった。事実を受け止めたら本当に心が壊れてしまうかもしれない。私にとっては、諦める、という方がずっとつらい決断だった。少なくとも今の状態ならなんとか本当の心を守っていられる。

家で心を殺すたびにおびえた。このまま心がない人間になってしまったんじゃ無いかって。誰かに優しくできたり、物語に感動したり楽しく笑ったりするたびに安心した。

まだ…私の心はここにある。奥にしまい込むたびにどこかになくしたんじゃないかとびくついて、見つけて安心する。その繰り返しだった。


 家に一度帰ると外に出ることは許されなかった。-父親曰くガキが勝手をするな、ということらしい-だからせめて家に帰る時間をできるだけ遅らせた。怪しまれないギリギリまで帰らないように。掃除当番や日直がある日を楽しみした。逆に、早い日程の日は時間をもてあましてしまう。友達や友達の親に外で関わって家の事情を知られることは避けていた。友達と遊ぶことを制限されたり父親に知られるリスクがあったから。だから時間をもてあましたときは、いつも家のふたつ向こうの路地の駄菓子屋でお菓子とたこ焼きを買って、ーーお小遣いはもらえなかったがたまに渡されるごはん代をやりくりして自由に使えるお金を貯めていた。ーーさらに向こうの路地の公園で食べて時間をつぶした。人通りが少なくて過ごしやすくて、私のちょっとした居場所になった。節約のため公園のお水を飲んで、静かなところで宿題をしたり図書室で借りた本を読んだりした。自分の時間があるというだけで癒やしになった。


そこで私は、運命の出会いをする。一生の宝物となるあのこと、出会うことになる。


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