タンフウは冷淡にそれを語る

「……終わった」


 思わず口から呟きが漏れる。

 長く深い息を吐き出して、タンフウは机の上に突っ伏した。ただし出来上がったばかりの論文は、慎重に脇に避けるのは忘れない。


 彼は、ここしばらくかかり切りになっていた研究報告を、つい今し方まとめ終えたところだった。後は装丁を整え、提出すれば終了だ。

 研究報告を仕上げたのは、タンフウが三番目だった。ツヅキとセイジュは、まだ追い込みをかけているところだ。

 まだ仮登録であるユーシュは、正式なキュシャよりは簡易な報告書で構わないため、既に終えている。

 そしてユーシュを含めても、一番早く仕上げてしまったショウセツは、昼間から悠々と読書に勤しみながら居間でお茶をしていた。見ている限りでは、遊んでいる時間も長かったと思うのにと、どこか釈然としないタンフウである。


 なんの気はなしに、彼らの姿を思い浮かべてから。

 タンフウははっとして、今更のように口を引き結び、身を起こした。




 季節は秋から冬に移り変わっていた。四季の移ろいがあるヒズリア王国の中でも、国境沿いの山中にある彼らのギルドは、季節の到来が街より一足早い。森の木々は既に色づき終え、葉を散らしている。


 朝夕の冷え込みが身に堪え始めた頃から、史学会の面々は、昼間はほとんど天文連合に居座るようになった。

 石造りの天文台は、しんと寒さを伝える。しかし急拵えの低予算で作られた史学会と違って、すきま風は吹き込んで来ないのだ。それに暖炉に火を入れさえすれば、かえって室内は満遍なく暖かい。


 夜は勿論、昼もそのままでは手がかじかむ気温になり、耐えかねたショウセツとセイジュは、史料を抱えて天文連合に転がり込んできた。

 幸いにして、かつては十数人のキュシャを抱えていた天文連合に、空き部屋は沢山ある。その内の一つを根城にし、彼らは昼間も天文連合に居座るに至ったのである。

 普段は昼夜を問わず適当な時間に寝起きしていた彼らだが、この時期ばかりは生活を改めた。夜に作業をするのでは効率が悪すぎるのだ。今や、昼間は天文連合で論文を書き、夜になると史学会に帰るという生活を送っている。


 この生活で一番わりをくっているのは、彼らの史料を探して二つのギルドを行き来するサンである。それでも彼女は、二人が昼に働き夜に眠るまっとうな生活を送れているためか、かえって満足そうだった。午前に配達の仕事をこなした後で、午後はサンもまた天文連合に常駐している。

 初めの頃は、長居することへ躊躇する気持ちがあったようだが、今だけだからと天文連合の面々にも諭され、割り切ったようだ。



 日中は別々に作業しているとはいえ、六人が生活を共にする時間は事実上、倍に増えた。

 騒がしくなってきた暮らしに、自ずと慣れ始めている自分に気がつき、タンフウは心の奥底で焦りを覚える。


 史学会の彼らのことを、疎んじているわけではない。

 昼と夜の二回提供されるようになった食事には助けられているし、食料や薪にかかる金や手間はきちんと按分あんぶんしている。慣れ合っているようでも、ショウセツは現実的な部分をきちんと線引きして対応したので、不満はなかった。

 多少、休憩時間に息抜きすることがあっても、彼らは腐ってもキュシャである。働くときは働き、互いの存在が邪魔になることも、それが原因で研究が滞ることもなかった。

 けれども。



 ――……少しだけ。近く、なりすぎている。



 タンフウはぐっと顔をしかめ、眉間に皺を寄せる。

 それはなにも、史学会の人々だけではない。天文連合の二人についてもそうだった。


 ユーシュとだけは別だったが、これまでの天文連合には、もう少し距離感があった。

 決して仲が悪かったわけではない。だが彼ら三人の間には、見えない壁のような、一定の間合いがあったのだ。

 サンたちが、ここにやってきた時までは。




 物思いに沈み始めていたタンフウは、不意に響いたノックの音に我に返る。

 応じて扉を開けると、そこに立っていたのはサンだった。


「買い出しに行くけれど、何か必要なものはある?」

「ありがとう。じゃあ、インクをお願いしようかな」

「それなら、なくなる前に急いだ方がいいね」

「いや、急がなくて大丈夫だ。僕は今、終わったから」


 さり気なくも解放感の滲んだ言葉に、サンはぱっと表情を和らげた。


「お疲れさま! これであと、二人だね」

「ようやく、だけどな。もう期限は目の前だ。ツヅキはともかくセイジュは大丈夫なのか」

「あんまり大丈夫じゃないね。そのうちセツに泣きつくと思うよ」


 苦笑いしてから、サンは次に目を輝かせる。


「さっき、セツと話してたの。これが終わったら、皆で打ち上げをしようって。提出直後にどうせ飲みに行くんでしょうけど、それとは別に。

 しばらく先になってしまうけれど、春になったら皆でお花見をしない? 今年は三人だけで行ったんだけど、うってつけの場所があるの。とっても綺麗なのよ」


 先ほどまで渦巻いていた思考が、脳裏をかすめる。

 しかし喉まで出掛かった反射的な拒絶の言葉を、彼は無理矢理に押し込めた。


「……そうだね。いいんじゃないかな」


 これくらいは、なんでもない。

 これくらいは、大丈夫だろう。

 自分自身にそう言い聞かせ、タンフウは抑えた声で答えた。


「約束よ。沢山、美味しいもの作るから」


 タンフウの肯定の言葉を受け、サンは朗らかに笑った。


「じゃあ、行ってくるね。装丁に必要なものは大丈夫?」

「それは一通り揃ってるから問題ないよ」

「分かった。下でセツが休んでるから、一緒にお茶してくるといいよ」

「ああ。片づけたら、そうさせてもらうよ」


 言いながら、タンフウは乱雑に広がった資料や紙の山をかき集めた。その拍子に机の上から、ひらりと一通の手紙が舞い落ちる。


 それは、数日前に彼宛に届いた手紙だった。


 気付いて、タンフウはひゅっと息を飲む。

 隠しておくべきだった。けれどもここ数日は気が回らず、今は気が抜けていたのだ。

 慌てて彼は、床に落ちた手紙を乱暴に掴み上げた。傍目にも分かる、不自然な動きだった。


「……ごめんなさい。見るつもりはなかったのだけれど」


 懸念していた声が降り、タンフウは青ざめて顔を上げた。硬い表情で、サンは彼の手に握られた手紙をじっと凝視する。


 手紙に押された封蝋ふうろう

 そこに刻まれた紋章は、切り裂かれた花を背に、猛き鳥が羽を広げる姿が模されたものだ。


「それは、ジェイ家の紋章よね」


 確信に満ちたサンの言葉に、いよいよタンフウは、息が詰まる。




 ジェイ家。

 それは裏社会を取り仕切るとされる、闇の一族の名だ。


 要人の暗殺から、禁止された物品の売買など、表には出せない、王国に巣くうあらゆる闇の部分に関与しているとされている。

 噂には尾びれがついて様々なものが流布しており、どこまでが本当なのかは誰も分からない。建国当時から裏で王家を牛耳ぎゅうじっている『影の王家』なのだという話から、巷をにぎわす怪盗の正体が彼らなのだという話まで、話題は事欠かなかった。


 タンフウに届いた手紙には、そのジェイ家の紋章が刻まれていた。

 彼らの噂話を囁くだけの一般人であれば、普通はそれを知る由はない。彼らは闇に生きる一族。一切合切は表に出ない。知るはずがないのだ。

 だが、王国の表舞台に立つ立場の人間は、タンフウが危ぶんだとおり、知識として知るものであったようだった。


「前に届けた時にも気にはなっていたの。個人宛のものだからと、その時は黙っていたのだけれど。

 ……どうしてそこからあなたに手紙が届くのよ」


 ぎり、と彼は歯を食いしばる。

 どう答えたらよいか、咄嗟に言葉が出ずに思案していると、サンは一歩、前に進み出て、静かな声で告げる。


「あの人たちには関わらない方がいい。最近は市井しせいで、義賊みたいに扱われることがあるのも、あまつさえ人気まであるのも知っている。

 けれど彼らは、皆が思っているほど善良な人たちじゃあないのよ」


 タンフウに忠言するのは、史学会の彼女ではない。ツヅキに正体が知れたときと同じように、リーリウム家の者としての顔をしたサンだった。

 それが妙にかんに障って、タンフウは自分でも驚くほど冷ややかに返す。


「君には関係ないだろう」


 手にした手紙を握りつぶし、彼は苛々と言葉を続ける。


「ちょっと彼らに頼んだことがあったんだ。それだけだよ」

「頼むって。一体、何を頼むっていうのよ」

「別に法に触れるような後ろ暗いことじゃない。人探しを頼んだだけだ」

「なら。何も彼らに頼むことはないじゃない。どうしてあの人たちにお願いする必要が」

「うるさいな!」


 案じるように伸ばされたサンの手を、彼はぱしりと振り払う。


「何も、知らないくせに」


 すっと、背筋が芯から冷えたような心地がして、タンフウは自分でも無意識のうちにそう言い捨てた。身体の奥底から絞り出されるように放たれたその声は、真冬の凍りつく水を湛えたようなその視線は、いつも穏やかな彼からは想像もつかないほど、冷たい。

 その冷徹な態度に戸惑いながらも、サンはなおも食い下がる。


「心配しているのよ。たとえ手紙の相手が一見いい人なのだとしても。もうこれ以上は関わらない方がいいわ。

 もしまだ人を探す必要があるなら、私が然るべき機関を紹介する。きっと、あなたの力になって」

「僕が」


 強い口調でタンフウは遮る。



「反逆者の息子でもか?」



 サンは、今度こそ黙り込んだ。

 タンフウは口元に自嘲の笑みを浮かべる。普段の会話で浮かべるそれとは似ても似つかない、ひどく哀しげな笑みだった。


「そんなに知りたいなら教えてやるよ。

 僕には。生き別れた妹がいるんだ」


 彼は、握りしめていた手紙を机に放り投げる。


「前にも言っただろう。父母は既に死んでいる。けど、厳密には正確じゃない。

 父は、国家機密を売った反逆者として、国外に逃げた。

 いなくなった父を追うように母も死に、幼かった僕と妹は途方に暮れた。僕はともかく、妹はまだ庇護なしに生きていける年齢じゃなかったからな。

 そんな時、両親の知人を名乗る人が、妹を養女にすると申し出てくれたんだ。妹のことは彼らに任せて、僕はキュシャ養成学校に通った」


 黙り込んだまま、サンは彼の話に耳を傾けている。

 今や、青ざめているのは彼女の方だった。


「けれども数年後。妹を迎えに行った時、既にそこにはいなかった。

 何かに適した人材だったとかで、彼らは妹を、貴族に売り飛ばしたんだ。

 はなから奴らはそのつもりだったらしい。『反逆者の娘』なんていう表で生きにくい存在は、貴族が裏で抱える人材として、うってつけだったんだ」


 タンフウは、感情を込めず、ただ淡々と語った。

 それが余計に、これまで必死に内に押し込めていた、彼の怒りとやるせなさを物語っていた。


「これで分かったか。僕の理由が。僕は、ただ妹を捜していただけだ。

 まっとうな機関への依頼? そんなの、とっくの昔にしていたさ。けど調査費という名目で金だけ巻き上げられて、全部煙に巻かれた。表の機関に頼んでも、僕の依頼なんて握りつぶされる。まともにとりあっちゃくれないんだ。

 こっちは反逆者の息子で、あっちは貴族だ。かなうわけないだろう。僕には他に探す道なんて残されていなかったんだ」


 相手が貴族だ、ということを知ったのすら、ごく最近のことだった。

 ユーシュの仮登録の手続きのために王都に赴いた日。あの時に初めて、彼は妹の売られた先が貴族であることを知ったのだ。

 それもまた、ジェイ家からの情報あってのことだった。でなければタンフウは、妹の居場所どころか、生死すら知らないままだっただろう。妹の養い親だったはずの人間からは、妹が奉公に出たという事実の他、一切を知らされることがなかった。


「あんたたちと僕とは違う。

 僕は生きていくためにキュシャになった。けど、それは経済的な問題だけじゃない。

 キュシャになれば、忌まわしい出自とは関係がなくなるからだ。

 そうでなければこんな仕事、死んでも願い下げだった」


 それでも彼は、出世はできない。

 表向きは家柄が関係ないことになってはいるが、かつてショウセツが語ったように、その出を疎む者は存在する。

 末端でいる分には、確かにキュシャが何者であるかをほとんど誰も気にはしない。

 だが、いかな王立研究ギルドであっても、中枢機関には、どうやってもぬぐい去れない、自力ではどうにもできない『出自』を見つめる目があった。


 だからタンフウは、極力、光の当たらないところを選び続けてきた。欲はないし、わりを食うのはごめんだったからだ。

 そうして彼は、国の端で、山の奥で、物好きと呼ばれるギルドで、研究を続けてきた。

 ただ、静かに密やかに生きていくために。


「……ごめんなさい。そんなつもりじゃ、なかったんだけど」

「謝るなよ。こっちが、悪者になった気分になる」


 口をついて出てしまった言葉と、喋ってしまった事柄に、タンフウはひどく自己嫌悪に陥る。

 虚ろな眼差しで引き出しを開け、中を一瞥するふりをしてから、彼はおざなりにそれを閉めた。


「……インクはまだ一つ、予備があった。やっぱり必要ない。

 出て行ってくれないか」


 彼の言葉に黙って頷き。

 サンは音を立てずに部屋を辞し、扉を閉めた。

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