唯一人の歌姫

四万一千

唯一人の歌姫

 淡い光が差し込む日だった。薄い衣と皮膚の間に滑り込む風が心地よい。山々の表情が分かるほど見晴らしがよく、地表に生える草木は風に吹かれるままだ。高台から望む景色は、今日も格別だった。


 小高い丘の上から鈴の音が鳴り響く。その音は次の鈴の音と連なり、連なりは一つのたゆたう曲線として混ざり合った。それは、いまや彼女だけが奏でられる旋律――歌であった。少女が歌い終わると周囲の空気に漂う余韻がそよ風のように儚く溶けていく。


 山稜に一つの影が落ちた。長い尻尾に大きな翼を持った一つの生物のもの。それは巨大な〈竜〉の姿だった。〈竜〉はその翼を力強く羽ばたかせた。大きく広げられた翼は、先端は薄くも胴体に接する根は隆々とした筋肉を宿している。羽ばたき一つでその巨体を上空に持ち上げ、次の羽ばたきで滑空の速度を上げた。その姿が段々と少女に近づいてくる。それを見上げる少女に怯える様子はなく、親しみを込めるように目を薄くした。対する〈竜〉の目も同族を見つけたような安堵を込めた柔らかいものに変わる。

 巨体が少女の傍らに着地した。その衝撃は音となり風となり地をも震わせた。少女は乱れた前髪を丁寧に右手で直しながら、手が届く位置まで駆け寄る。


「お帰りなさい、おじい様」


 少女の呼びかけに対し〈竜〉はグルルと厳かに鳴き声を返す。

〈竜〉の名はアイギス・アンヴィー。彼の姿は人間と異なれど、正真正銘、彼女の祖父であった。


 少女の名はメル・アンヴィー。息を呑むほど透き通る白い肌を持ち、美しい銀髪をなびかせる人間の姿であった。若々しさと僅かな幼さを残した十代後半の外見をしている。全体的に儚さを漂わせる彼女の見た目であったが、青い瞳だけは、覗き込むものを吸い寄せるほど凛とした存在感を放っていた。



 *** ***



 アイギスの背に乗ったメルが村へ帰ると、多くの村人が親しみを込めた声を掛けてくる。ただしその声の多くが言葉ではなく、ガルルだとかグオオといった多種多様な鳴き声であり、その声が意味する詳細はメルに伝わらなかった。ただ、その鳴き声が挨拶だというニュアンスは伝わってくる。そんな大人たちとは対称的に、ヒトを思わせる面影を残した――幼い子どもだけが、たどたどしくも言葉で挨拶をしてくる。メルは、子ども大人分け隔てなく村人の皆に言葉で返事をした。村人たちは皆メルの言葉を理解したように、にこやかな笑みを浮かべたり頷きを返すのだった。


 メルにとってはそれが日常の挨拶だった。大人へと育ちヒトとは異なる姿へ成長した村人の挨拶が、ヒトの言葉として発声されることはない。彼らは口腔の形状がヒトと異なるため、言葉を発音することができなくなっていた。また、彼らの姿は様々で、馬のような姿の者、蛇のような姿の者など、そこに一貫性は見られない。それぞれが発する鳴き声も、その姿と同じように様々だった。けれど皆、同一の種族――ヒトであることは確かだった。



 *** ***



 村人たちと別れたメルとアイギスが家に着く。家はアイギスの身体に合わせ、村の中でも一際大きな造りとなっていた。家の中の多くは広々とした空間と調度品で満ちており、メルが使うものはアイギスのものと比べればひどくこじんまりとした設備に見えた。

 アイギスは家に着くなり彼の仕事場としている奥の部屋に引っ込み、メルは二人分の紅茶を淹れ始める。二人分といってもアイギスは巨体の通りメルとは比較にならない量を口にするため、その内訳のほとんどはアイギスのものであった。祖父の腹を満たす量をつくるため、調理器具の大きさはメルの身体には不釣り合いな程大きい。そのように大きな調理器具を日常的に扱うことはメルの華奢な体躯では重労働であったが、その過程はどこか彼女に満足感を与えるものだった。祖父や他の村人のようにヒトならざる姿へ成長せずとも役に立つことが出来る、その実感を持たせてくれた。

 甘い香りが漂い始めた頃、紅茶を二人のカップに注ぐ。もちろん、メルとアイギスのカップの大きさは全く異なった。匂いを嗅ぎつけたアイギスが奥の部屋から出てきた。食卓に用意した紅茶を二人が口に運ぶ。すると、アイギスがグルルと鳴いた。美味しい、かな――とメルは祖父の感想を推測した。


 二人が紅茶を飲み終えた頃、一人の来客があった。メルが扉を開けると、そこには一人の〈蛇〉がいた。口には木の実をつけた枝を数本咥えている。その身を蛇行させて〈蛇〉が家の中に入ると、アイギスが大きな鉤爪を器用に操り〈蛇〉の口元から枝を受け取った。そして、おもむろに調合を始める。おそらく新薬の開発に勤しんでいるのだろう。

 アイギスは村一番の医師だった。村人からの信頼も厚い。手伝いを申し出てくれる者も多く、薬草などがよく家に運ばれた。アイギス自身も近々、とある素材を入手するために険しい山奥へ出かける用事があるとメルは聞いていた。伝染病に対する薬の開発は、今なお続けられている。



 *** ***



 ヒトがヒトの形を保って大人になれなくなったのは、メル達の世代が生まれる何十年も前からだ。きっかけは流行りの伝染病だった。迅速に猛威を振るう病に対し、人類が打てる手は限られていた。ワクチンによる対抗、それだけが文明を保てなくなる前に人類が打てる唯一の手であった。病に対するワクチンの効用は、概ね良好だった。ただし、副作用が問題だった。ワクチンを投与された人間は、その姿を大きく変えてしまうのだ。性別や年齢、人種に関係なく、全ての人間が変容した。もちろん当時の人々は驚愕した。それまでヒトがヒトとして認識していた姿ではなくなる。容易には受け入れられなかった。あまりに甚大な副作用。しかし、病の脅威は全人類を飲み込もうとする段階まで迫っており、他の薬を開発する暇などなかった。そして人類は、断腸の思いでワクチンを投与し、副作用を受け入れた。いま現在も病の脅威は過ぎ去っていない。生まれた赤子は例外なくワクチンを投与されている。


 メルは以前、聞いたことがある。ヒトの言葉を話すことができない大人たちは、どうやってコミュニケーションをとっているのかと。異形となった大人とメルがやり取りをする際は、紙などに書いた字を介していた。けれど、異形の大人同士ではそのようなやり取りはあまり見られない。アイギスはその答えを紙に書いて教えてくれた。彼の文章を整理すると、どうやらテレパシーと呼ばれるもので情報を交換しているらしい。成長するにつれ――容姿がヒトから離れていくにつれ――テレパシーが段々と使えるようになる。テレパシーを受け取ると、まるで耳で聞いたかのようにヒトの言語が頭の中に響くのだそうだ。幼い子どもは、親からテレパシーを通して言葉を習う。数年で話せなくなるが、自分たちがヒトであることを忘れぬように、親たちは必ず言葉とその発声を子どもに教えた。


 村人たちが使うそのテレパシーとやらを、メルは使えたことがなかった。他の子どもと同じように、赤子の頃にワクチンを投与されたが、彼女だけがヒトの姿のまま成長し、今なお異形へ化していない。ヒトの言葉も話せるままだった。同じ年頃の友人は皆、ヒトならざる姿に成長し言葉を話すことができなくなっていた。



 *** ***



 ある晩、メルは村のはずれに屹立する大木に寄り掛かるように座り、満点の星空を見上げていた。何か悩み事があると彼女はよくそうしていた。


 メルには一つの大きな悩みがあった。

 恋をしたことがない――という年頃らしい悩みだった。


 友人は皆、見た目が異なる種族同士であっても恋愛を楽しめているようであったし、気の早い者は温かい家族をつくれてもいた。

 自分と彼らの違いは何だろうと考えると、真っ先に思い浮かべることが自分の姿だった。皆と違い自分だけがヒトの姿から変わらない。そのためか、皆が使えるテレパシーを自分だけが使えない。村の皆はそんな自分を疎外することなく親しんでくれるが、メルは取り残されたような寂しさを感じていた。


 思い悩んだ末、メルは一つの願いを抱くようになった。

 ――私も、誰かを好きになれますように。


 そう心の中で呟いた後、頬がわずかに熱くなった。少し冷たい夜風を浴びて、冷静になってしまったのかもしれない。

 赤裸々な思いを祈りへと昇華するべく、彼女は歌いだした。それは恋の歌だった。歌声は、あらゆる色が黒に吸い込まれるように、どこまでも高い夜空に溶けていった。



 *** ***



 その歌声が耳に届き、足を止める者がいた。

 歳はメルと同じくらいの青年だった。鷲のような翼と上半身、ライオンに似た下半身を持つ彼の姿は〈グリフォン〉と呼ぶべきものだった。


 彼は、歌声の正体にすぐ気付く。幼い頃から聞いてきた、彼女の声だ。耳を澄まし、声のする方へ足早に近付く。歌声は止まることなく静かな夜に響き続けている。彼女の姿を木陰から捉える。間違いない、彼女の姿だった。

 ヒトならざる姿へ成長する自分たちに比べれば、幼い頃からあまり変化のない彼女の姿を眺める。同時に、幼い頃から抱く自分の気持ちを自覚せずにはいられなかった。彼女は一人でその美しい歌声を奏でている。こちらに気付いた様子はない。

 彼女の傍まで近付きたい衝動に駆られるが、自分の二本の前足がそれを拒む。一歩が踏み出せない。色々な言い訳が、頭の中で渦巻いた。言い訳を一つ思いつくたびに、彼女との距離が遠くなった気がした。

 そうこうしている内に、いつの間にか彼女は歌うことを止めていた。彼女は少しの間、黙って夜空を見上げていたかと思うと、おもむろに立ち上がり歩き出した。今日はもう帰るのだろう、そう考えた瞬間に湧き上がるホッとした感情に、青年は自分の臆病さを嫌というほど痛感させられたのだった。



 *** ***



 翌日〈グリフォン〉の青年はメルの家を訪ねた。昨夜の自分の臆病さにほとほと嫌気がさした自分を奮い立たせ、彼女に会いに来たのだった。

 鋭く尖った嘴には、一凛の花を優しく咥えている。


 彼が扉を何度か叩くと、メルが扉を開けた。

 彼女は綺麗な花に一瞬心を奪われたが、すぐに我に返った。昨日の〈蛇〉の来客と同じように、祖父への届け物だと判断したからだ。しかし、今は祖父がいない。


「ごめんね、レオ。おじい様は外出していて、今はいないの。中で待ってる?」


 レオと呼ばれた〈グリフォン〉の青年がブンブンと首を振る。その仕草を見て、メルはキョトンとする。


「ああ、届け物なら私が預かっておこうか?」


 また、レオが首を振る。そして何かを躊躇うように右の前足で地面を掻くような仕草を繰り返した。彼の来訪の意図が分からず、メルは少し困ったように小首を傾げた。


 レオはよく祖父の手伝いをしにこの家へやってくる。祖父が不在の際は大抵家の中で待っていた。祖父が帰ってくるまでの間、メルが淹れた紅茶をそわそわとした様子で飲むのだった。


 だが今日は家の中に入らず、祖父へ何かを届けにきたわけでもなさそうだ。どうしたのだろうとメルがもう一度首を傾げ、レオの顔を覗き込もうとした。メルと目が合ったレオは、何度か首を振る仕草を挟んで、嘴をメルに近づけた。彼女から花が良く見えるよう、その大きな体躯を窮屈そうにねじらせもした。


「ええと……綺麗な花、ね……」


 花をじっくりと眺めていたメルは、はたと何かに気付いたように、ゆっくりと顔を上げる。少し伏せられたレオの目と、驚きで丸くなった彼女の目が合う。


「もしかして、私に?」


 コクリと大きな頭が頷いた。メルは無意識の内に、口元へ手を当てていた。花の贈り物など、生まれて初めてのことだった。


「ありがとう……うれしい」


 花を受け取ったメルの口から、素直な言葉が零れる。それを聞いたレオは、気恥ずかしそうにわずかに身を震わせた。

 メルは彼に向き合って、更に言葉を紡ごうとした。けれど、彼は突然踵を返して、慌てた様子でどこかへと飛び立ってしまった。


 一人残されたメルは、呆然とした気持ちのまま固まってしまっていたが、程なくして祖父が空から帰ってきたことに気付いた。家の中に入ったアイギスは、一凛の花を大事そうに抱えてどこか宙を見つめる孫に、首を傾げた。



 *** ***



 その日の夜も、メルは村はずれの大木に寄り添って座っていた。

 今日の出来事を思い出す。初めて誰かから花を貰った。レオとの思い出が自然とよみがえる。


 幼い頃はよく一緒に遊んでいたが、彼が言葉を話せなくなるにつれ、段々とお互いに気を遣うようになった。

 祖父の手伝いをする彼を自宅で見かけたり紅茶を差し入れたりすることは度々あったが、幼い頃のように気兼ねなく二人で過ごすことはなかった。


 そんな彼が突然花をくれたのだ。驚くなと言う方が無理だろう。

 実に綺麗な花だった。花は家にあるが、手元にない今でも甘酸っぱい香りを思い出せる。


 レオは何故、私に花をくれたのだろう?

 近頃、メルと歳が近い者達が花を贈りあっていることがある。その意味は――。そこまで考えて、メルは抱えた膝に顔を埋めた。少し、頬が熱くなった気がする。

 まさか、レオが私の事を?

 自分は誰かを好きになったことはないけれど、反対に、誰かに好きだと言われたこともなかった。そんなこと、想像できなかったのだ。

 幼い頃のヒトの面影を所々残したレオと、今のレオの二つの姿が克明に目に浮かんだ。

 幼い頃はいつも元気な笑顔を輝かせていた彼だが、今は私の顔を見る度に目線も顔もそらすようになった。テレパシーが使えない私とはコミュニケーションが取りづらいからそのような仕草になってしまうと思っていた。でも、その真意は――。


 それ以上は思考としてまとまらなかった。どうしてよいか分からない。自分がどう思っているのかも分からない。何も、分からなくなってしまった。

 メルは少しでも気持ちが安らげばと一人、歌を口ずさんだ。

 歌声は、今夜も夜空に溶けていく。

 火照った頬が平常に戻りかけた頃、一つの影が隣にやってきた。メルを驚かせないよう、ゆっくりと落ち着いた足取りで現れたのは、〈グリフォン〉の青年、レオだった。

 彼に気づいたメルは歌を止めそうになる。しかし、彼が口にする鳴き声を聞いて思いとどまった。

 彼の鳴き声はひどく不破格好ながらも旋律らしきものを表現しようとしていた。慣れていないのだろう、彼の歌は音程やリズムをしばしば外した。けれどメルの歌と呼応するように、優しく彼女を包み込む声だった。


 メルとレオはお互いを見ることもなく、同じように空を見上げながら、長い間一緒に歌い続けた。

 メルにとってそれは心地よい時間だった。



 *** ***



 それからいくつもの夜が過ぎた。メルとレオは毎日のように一緒に歌を歌った。レオは、中々上手くならない自分の歌に困った表情を作ることもあったが、メルはいつも嬉しそうに彼の歌を聞いていた。



 *** ***



 その日も、いつものように村はずれの大木にレオがやってきた。嘴には一輪の花を咥えている。以前メルに贈ったものと同じ花だった。レオは心に決めていた。今日を特別な日にしようと。だが、どれだけ待ってもメルは現れなかった。いつしか、星空は雲に隠され、雨が降り始めた。レオの胸中に嫌な渦が立ち込め始めた。その時、テレパシーを受け取った。何やら村の中心地が騒がしい。急いで騒ぎの場所へ向かう。


 村の中心に近づくにつれ、村中で交わされるテレパシーの内容が鮮明に把握できた。その内容を聞くたびに、レオは信じられない気持ちになる。


 ――なんだ、この騒ぎは――メルが倒れた――何だって⁉︎ ――アイギスは今どこに――連絡がつかない――。


 どうしようもない焦燥感に包まれながらも、己の翼を大きく広げ、レオは大急ぎでメルの家を訪れた。

 家の前、そこには既に大勢の村人が集っていた。レオは何とかその人込みを掻き分け、家の中に入る。目に飛び込むのは、部屋の端の寝具で苦しそうに横たわるメルだった。

 レオはまだ、何が起きているのか信じられず、覚束ない足取りでメルに近づく。彼女の傍では〈蛇〉の村人が看病に当たっていた。


 ――メルの具合は? ――出来る限りの手は打っているが、このままでは――そんな……――。


〈蛇〉が伝える。メルには伝染病に対抗するワクチンがうまく効かず、メルの身体は今、伝染病に侵されていると。


 レオはメルを恐る恐る見つめる。彼女は大量の汗をかいており、時々苦しそうに呻いた。〈蛇〉が口に咥えた布切れでメルの汗を拭く。ただ、それしかできなかった。レオは、何もできず呆然としていた。



 *** ***



 メルは高熱にうなされながら、夢を見ていた。それは、幼い頃の記憶を再生したものだった。

 子ども同士で言葉を交わし合っていた頃の記憶。楽しい思い出だった。毎日おしゃべりをして、冗談を言い合ったりして。


 成長した今はもう出来ないことだった。


 もう皆ヒトの言葉を話せなくなっている。メルにはテレパシーが使えない。書いた字を通してのやり取りでは、どこか遠慮して冗談などを書けない自分がいた。

 まだ幼い一回り下の子ども達とは話すことができるが、やはり同い年の友人と話したかった。

 夢の中で、友人たちがどこかへ向かうように歩き始める。メルも一緒に行こうとするが、足の裏が地面と一体となったかのように離れない。友人たちが離れていく。さっきまで一緒に遊んでいたのに――。

 行かないで。

 一人にしないで。

 気付けばメルは泣いていた。子どもの姿のまま、一人は嫌だと泣いていた。


 自分だけがヒトの姿のまま成長すると、幼い頃から祖父に教えられていた。一緒に話すことは出来なくなるが、変わらずお前と仲良しのままだと安心させてくれた。

 けれどメルは寂しかった。

 友人と話せなくなり数年が経つが、今でもまだ話したいと思う。だから、こんな夢を見ているのかもしれない。

 一人になり、泣いている自分。どうしようもなく寂しい自分。


 そんな自分に、後ろから近づく者がいた。

 振り返ると、それは幼い頃のレオだった。

 まだヒトの面影を残した彼は、いつもは騒がしいくらいに元気なのに、照れた表情を少し伏せながら手を後ろに回していた。そして、意を決したように、隠していた手をメルの目の前に差し出す。

 そこには一凛の花があった。

 青年となったレオが、先日贈ってくれた花だ。

 幼い私はびっくりして、涙も止まって目をパチクリとさせていた。


「メル、あげる!」


 レオが照れくさそうな笑みを浮かべる。甘酸っぱい香りがする。あの花の香りだ。メルが戸惑いながら花を受け取ると、レオはもう一度、今度は幼い頃よく見せたように元気な笑顔を咲かせた。



 *** ***



 メルが目覚めると、そこには大勢の村人がいた。自分の家だということはぼんやりと分かるが、何故こんなに集まっているのか分からない。それに、身体に力が入らない。ひどく熱いと思ったら、次の瞬間には震えが止まらなくなるほど寒気がした。


 メルが目を開けたことに気付いた村人たちが、彼女の顔を覗き込む。その中にレオの顔を見つけた。夢の中で見た幼い彼ではなく、立派な〈グリフォン〉へと成長した彼の顔だ。

 メルは夢の内容を覚えていた。そして、彼に申し訳ない気持ちを抱いた。レオから花を贈られた記憶、あれは夢の中だけの出来事ではない。実際にあった出来事だ。どうして忘れていたのだろう。先日の花が初めてではない。もっと、ずっと前にもらっていたのだ。


 ――ごめんね。


 心の中でつぶやく。思いを口にする力はなかった。自分の身体がどんな状態なのか、薄々と分かり始めていた。だからこんなに大勢集まっているのかと、納得もした。明確な恐怖という感情は抱かなかった。ただ、現実が段々と希薄になっていく感覚があった。

 視界が、隅の方から白いもやが掛かったように、段々と狭まってきていた。誰かが手を握ってくれたのが分かったが、それが誰なのか、その手が熱いのか冷たいのかは分からなかった。


 レオが身を乗り出し、メルの隣に近付いた。そして、嘴をメルの顔の前に突き出す。

 そこには、一凛の花があった。

 先日、そして幼い頃にも贈られた、甘酸っぱい香りのする花だ。

 彼は花を何度も彼女の前で小さく揺らす。しかし、彼女にはそれを受け取る力がなかった。それに気付いた彼は、鎮痛な面持ちで、花をメルの胸元に落とした。


 レオが彼女を見つめる。その嘴にはもう何も咥えられていないが、あえぐようにぎこちなく開いたり閉じたりした。

 彼の喉が、苦しそうに、悲しそうに鳴き声をあげる。さらに何度か彼は口を開閉した。

 そして、彼女も聞いたことがない音を鳴らし始めた。最初は小さく。次第に大きく。思いのたけを吐き出すように。何度も。何度も。そして、ついに彼の言葉がメルの耳に届いた。


「あイしテル」


 聞き間違いでも、病による幻聴でもない。確かに彼はそう発音した。

 それはレオが血の滲む思いで練習してきたものだった。

 短い言葉。ただ、一言だけ。それだけを伝えたかった。


 今日、花と共にメルに贈ろうとした言葉。

 そしてそれは、視界の多くが白いもやに包まれていたメルにもはっきりと届いた。

 この数年間、ずっと聞きたかった友人の声。その声が形作る言葉。その言葉が意味するもの。

 メルは、視界が少しだけ鮮明になった気がした。声がした方に視線を向ける。


 レオの顔が見える。

 彼の嘴が見える。

 彼の翼が見える。

 彼のヒトではないその姿が、しっかりと見える。


 いつからか祈るようになった願いが、自然と心の中で再生された。


 ――私も、誰かを好きになれますように。


 それが今、叶ったことを、メルは実感した。

 こんなにも彼の事を思っている。こんなにも彼の姿を愛おしいと感じている。こんなにも――こんなにも――。


 メルは返事をしたかった。私も愛してると、レオに伝えたかった。言葉にしたかった。しかし、口を開こうにも唇が震えるばかりで、音になりはしなかった。そして、視界がまた白いもやに包まれ始め、メルの意思に反し目蓋が下りていった。


 メルが目を閉じたことに、集った村人たちはまた騒ぎ右往左往し始めた。


 その荒波を、一つの巨体が割って入ってくる。生傷を身体中につけ、雨に濡れたその姿は〈竜〉のものであった。鋭い鉤爪には、青く輝く鉱石が握られていた。



 *** ***



 彼女が再び目を覚ましたとき、家の中から村人たちは去っていた。メルに気付いたアイギスが近寄り、身体の具合を文章で聞いてきた。ダルさはあるが、それ以外は特に問題はないとメルは言葉で答える。

 アイギスとメルは、文章と言葉でやり取りを続けた。


『メル、首に付けている鉱石を外してはいけないよ』

「どうして、おじい様?」

『その鉱石が、伝染病からお前を守ってくれるからさ』

「この石が……」


 メルの首には、黒い革紐を付けたチョーカーが付けられていた。その中心には、アイギスが持ち帰った鉱石が嵌め込まれている。その鉱石は、メルの瞳と同じように青く輝いていた。


『メル……待たせたね。ワクチンが効かないお前に、ようやく病から守る術を与えてやれた。そしてこの鉱石が、新薬の開発にも役立つかもしれない。研究がまた忙しくなる』


「この石があれば、私の姿もヒトから変わるの?」

『それは、経過を見てみないと分からないな』

「そう……」

『……自分だけ、ヒトの姿のままなのは嫌かい?』

「…………」


 以前までならそうだったのかもしれない。自分も皆のように異形へ成長できれば、テレパシーが使え、文章での煩わしいやり取りをしなくて済む。

 ただ、今はヒトの姿を受け入れられていた。テレパシーが使えないことも。病床の自分にレオが掛けてくれた『言葉』を、今でもはっきりと覚えている。彼の気持ちも、自分の気持ちも、受け入れられていた。


「おじい様」

『何だい、メル?』

「私、この姿が好き。ようやく好きになれたの」

『そうかい……』


 そう返事をしたアイギスは、自分の孫を慈しむように見つめた。周囲との違いに苦しんでいた彼女が、そのように自分を肯定できたことが、アイギスに深い安堵を与えた。


 筆を置こうとしたアイギスの耳に、ひどく歪な旋律が届く。


『おや、あの若者は今日も歌っているようだね。この家からあの木までは結構な距離があるのに、大きな声だ』


 歌声を聞いたメルは、反射的に上半身を起こしていた。間違いない、あの木の傍で何度も聞いた彼の声だった。


『メルが眠っているここ数日、彼は毎日歌っているよ。誰かさんに聞いてほしいようだね』

「レオ……」

『もう少し休んだら、彼に元気な姿を見せておやり』

「はい……おじい様」


 決して上手くはない歌を聞きながら、メルは心が満たされていた。力一杯歌う彼の姿を想像して、微笑ましい気持ちになった。

 元気になったら、あの木の下でまた歌おうと思った。その時は、一人のときにしか口ずさめなかった、恋の歌を彼と一緒に。

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