雨のにおいやら

伊藤大河

雨のにおいやら

 雨のにおいやら、

 衣服についた雨が乾燥しかけ、そうするとねばつくような感じがして、においが立つ。雨のにおいなのか、衣服のにおいなのか、わたしの汗のにおいなのか、正しくはそれらが混淆したにおいなのか、雨のにおいやら、

 あのにおいはどういうことを指すのか。重たるさ、なにか能動的、意欲的であろうとするこころをまちがいなく阻害している。

 それできょうの夏休みのプールには、わたしたちしかいなかった。

 昼ごはんを終えて到着し、陽射しが強く、それで光る、だれもいない水面を見つめると、これは砂漠のようでもあり、渇きを催し、おそらくふたりとも、触りあうことへの距離を測りあった。

 はっきりと性欲を隠し持った同士では、しかし、わりかし、その会話は正気を帯びて、表面上は噛み合う。

「家から着てきたときって、帰りやだよね」「うん、でも着てこないほうが、鬱陶しいからね」「ね」

 学校は「華美なもの、過度の露出のないもの」であれば、あらゆる水着を着を生徒たちに許容している。現在この国で、「学校指定の水着」の存在は急速に減少しているのである。

 とはいえ、生徒の大半は従来とおり、濃紺のワンピース型のを着てきている。「華美なもの」にちがいないから、ビキニを着ることは許されないし、派手な色のワンピース型は中高年を思わせた。それで「ふつう」の人は、縁や脇に加えられたラインの如何によってそれぞれの差異化を図るし、おしゃれを気にしないような人は、ラインなどの入っていない、濃紺一色のものを着てくるし、派手好きな人はフレアやスカートが付いたのを着ていた。

 わたしは思う。さしあたり当面は、濃紺の領野にこそ、夏の強い陽射しがあたり続け、領民たちはその輝きに欣喜し、その大地に接吻し、手を合わせ、御公儀の変わらぬ恩に感謝を捧げ、見上げた先には山が聳える。

「ははあ、立派にお育ちになられて」と、下から大きく持ち上げ、目線が合う。その反動–目線の斥力–で水の中に飛び込まれた。ははあ、濡れる気配を、濡らすことでごまかす気か。

 飛び込む軌跡を、水着の側面にステッチされた白いラインがトレースして、泡が沸く。泡のぶつぶつに鳥肌を催し、たまらずこちらも飛び込んだ。わたしのには何のステッチもない。


 ひとしきり泳ぎ、きゃっきゃと水をかけ合ううち、何を呼び寄せたか、雲が重たるくなる。

 男の太い腕のような、場合によっては、「万軍の主」の到来を予兆させるような雲が、重なり合い、ふたりは絶海に漂流の感を抱いた。

 しぜんと腕同士がふれるようになり、カメラは空を見上げる顔ふたつを上空から映す。そうして、ひそめた眉に水滴が垂れ、眉毛のひとつひとつを縫い、目元、頬へと伝う。これをうっとうしがるうちに、雨脚は退っ引きならない域に至り、「やば」と絶海から丘に上がり、雨足にまともに苛まれつつ、庇のなかに撤退した。

 見学の生徒のためのベンチに腰掛け、惚けて降り様をながめていた。雨におかされた体は惓んでいる。都市の雨はとても汚れているから。湿った空気のなかで、だんだんと体がかわいてくる。水けがとんだあとの雨のべとつきは吐き気を感じるほどにうっとうしく、たちのぼるにおいは、すえたようであり、木製のまろみもあり、意識が遠くなり、急ぎシャワーを浴びなくてはならない、という倫理的要請がなされる。しかし、雨に体をおかされて、身動きがとれない。このまま一生。「地上で動いていた肉なるもの」が「ことごとく生き絶え」るまで。呼吸が徐々に浅くなり、満潮の気があり、かといって苦しくはなく、芯がとろけるようであった。

 と、うつらとしかけたときに、「帰る?」と声がかかり、見上げれば雨はやんでいた。が、雲は重たるいままであった。

 心地はのどかになり、現金にもすぐにシャワーを浴びたくなった。それで、別れてシャワー室に入ろうとして、「なんで入ってきてんの」「雨のにおい」と、髪の毛に鼻を添わせてきた。髪から立ちのぼるこの匂いを、すべて清めてくれるとでもいうのか。体で体を壁に押しやり、白いラインに指を添わせる。すると白いラインに白い指が乳化し、その液面がにわかに泡立ち、すぷすぷすぷとした気体が上がってくる。それを口に含んで捕まえて、相手の口に返してやる。するとどうやら腰が砕けた。

 こんなにたやすくあるべきものか、と訝りもしたが、やはり匂いに神経をやられたかと見え、目が細くとろけて糸を引いている。茶色の糸であり、何かと思えば熱した飴にちがいない。熱気が頬に直に当たる。カラメルのにおいがたち、何かと思えばやはり乾燥した雨のにおいに違いない。その糸を舌でもって少しずつ手繰り寄せ、目玉焼きの黄身にナイフを入れるがごとく、とろけた目まで口に入れようとするところでむずがるので、定型として、舌と舌を重ねた。ぬれたもの同士が重なり合って、そうして、水泳がまだ続いている。

 性行為と水泳との、この類似性、潜り、息継ぎをする、この繰り返し。ずっと潜っているわけにはいかない。波は寄せて引く。それに合わせて、差し出して、引いてを繰り返すうちに、呼吸がきつくなってくる。

 息をなだめるようにして、水着に覆われたあばらのあたりをなでてやる。そうして安らぎかけたところで、乳房のてっぺんまで人差し指を走らせる。んっ、く、んっ、という声が出るから、舌でふさぐ。調理を、すりつぶしものの仕事をするように、舌で舌をかきまぜながら、水着の上にかすかに浮かぶほどになった乳首に対して、指先で円を描く。指の先で軽くつつけば、波紋が広がる。スクール水着とは、群青の湖であったのか。それをおもしろがって、浮かんだ波紋に、続けざまに別の波紋を合わせると、共振して波紋の形が歪になり、あっ、く、あん、とシャワー室に響きわたった。

「だれか通りかかったらどうするの」「襲われたって言うかな」

 生意気な口は、山村工作隊の手際で、すぐにふさいだ。山のふもとの湖に工作員が潜んでいる。そこは重たるく霧深いのでうってつけの場所であった。樹々のいきれに息を詰めているうちに号令がかかると、装置を起爆させ、地面が割れるようになり、山の樹々が剥がれ落ち、湖の水がひっくり返えるほどかと思われた。そうして潜り込んだ両手の指が、両方の乳頭をはさみ、転がす。合わせた口から息が漏れる。腰のひくつきが止まらない。両手にあふれた乳房がまどろっこしく、これは見ている分には申し分ないのだけど、ひっぱり出し、乳頭に舌をあてた。時に工場労働のように、時に祈りの儀礼のように感じる。相手の声は、おそらくは随分とさわがしいのだろうが、窓の外から遠くの家の火事をながめているうちに、頭はぼうっとしてきて、消防車のサイレンも、家の焼ける音も、大衆のどよめきも、かすんで鳴っている。

 火宅、ということばが浮かぶ。自身の家が燃え盛っていることに気づかず、衆生は戯れに耽っているというが、戯れに耽ればこそ、気は遠くなり、そこから燃え盛るさまも見えてくることもあろう。

 などと、得心のいくうちに、はらのうちがじわりと熱く広がるのを感じ、悟ったはずが、阿呆のきわみで、すっかり炎は内側に燃え移った。


 わたしのなかで白い指が泳いでいる。水泳がまだ続いている。わたしの湖のなかで。白い指が泳いでいるということは、それは沼ではなくて、湖なのだ。静かできれいな湖。わたしの世紀的な性器にダイブしている。バタ足している。白いラインのフロイラインが。

 あるいはその中指に刻まれた指紋の枯山水が脈打って、その真ん中に飛び込む。颯爽と。その乳房の重さが足を引っ張らないの?

 乳のでかい女はそこに重力を有し、男のみならず女の目線も否応なしに引き込み、やがてはそこに自身も引っ張られ、性質にこわばりも示すようにもなるだろうが、あなたはそうではないの? 波乗りをしているかのような、キザのような爽快さで、股間を探っている。あふっ、あっ、情けない声が出て、にやにや笑ってやがる。

  廃城の苔むす岩垣が間断なき霞を生む。

 組み伏して、床に体を押し当てると、また急にとろけたようになる。

 そうして陰核のあろうところに顔を近づけたとき、雨の匂いがした。正体を突き止めた。お前のここが雨を降らせていたのか。それで雨がああいう匂いがするのか。しかし天気をも操るという、その傲慢と強欲を、わたしはいなしてやろう。と、布をめくって、ためらわず、舌を当てた。舌を動かすうちに、向こうも小細工するようで、意識が遠のき、白い明かりがさしてきて、このときはじめて蝉の声が聞こえた。一度聞こえてしまえば、外聞もなく、シャワー室は蝉時雨で満たされた。


 このようすは、はたから見れば滑稽か、それとも何か至福の光景か。しかし勤行めいて、控えめに言って稽古めいて、純化されて透明になり、こすり合わせる陰唇同士は研ぎ澄まされて熱くなり、そのあいだから、白い光がたちのぼり、やがては密雲となり、雨がふたりに降りそそぐ。

 なんてことはない、痙攣に伸ばした腕があたり、シャワーの水があふれでた。しばし無為に浴びる。

 外に出れば、陽は傾いて、一面の蒸し暑さ。


 濡れきった布の上にそのまま制服を着て、その不快感に身じろぎしつつ、少しでも乾くように、遠回りをして帰路につく。

「妊娠すると人がまるくなるんだって。姉ちゃんが言ってた」「え」「でも色っぽくなったのは確かだね」「それはおかしくない? だって、男を引き寄せる必要がもうないんだから」「だから、そういうこだわりがなくなって」「いやあ、不安定になにそうだけどね」

「ねえ、帰ったらなにする?」「ピアノ」「おお。お高いね」「そうね。すぐやめたあなたとちがって」「なにやってんの」「クープランの墓」「知らない。もっと有名なのやんなよ」「有名だから。脳の栄養が乳にいったね」「アヒャヒャ」

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