後編

 半世紀ぶりに出会う事となった「浅野」こと浅野治郎は、ずいぶんと格好のいい老人だった。

 私の服と違い派手派手しさはまるでなく、それでいてむやみやたらに枯れている訳でもない。

 六十九歳、いや七十歳と言う年月にふさわしい風格を漂わせている。



 その浅野治郎と言う男性の前では、私は「鈴木」なのだろう。半世紀ほどの間に一体何をしていたかなど関係なく、私は彼にとって「鈴木さん」なのだ。


「ではそう呼ばせていただきますよ鈴木さん。それでコーヒーは」

「一応飲みますがあまり詳しくはないので」


 私よりずっと若くそういう文化に精通しているはずの次男からもこういうチェーン店での注文はまるで暗号だと嘆いていたのを聞かされた時には大笑いした。

 後でその話を二十歳になる孫娘にしたら叔父さんってやっぱりおじさんなんだよねと笑っていた。

 そんな話を聞くと何がおばあさんは若いよだとまた揚げ足取りをしてやりたくなる。


 実際、一応飲むと簡単には言ってみたもののそれこそ年に二、三度のレベルであり、どんな豆がいいのかすらまるでわからない。


「すみません、この店で一番人気の商品は何ですか。それを一番売れているサイズでふたつ頂けますか」


 なるほど、合理的な注文だ。一番売れているメニューならばよほど私たちの味覚がずれていない限り間違いはない。もちろん年齢的な問題はあるにせよ、よほどの事がなければとんでもない物が来るはずもない。


 聞けば聞くほどお説ごもっともであり、半世紀ぶりの対面の一発目としてはなんとも絶妙である。


「浅野さんはどこでそんな」

「まあおいおい話すといたしましょう」


 この機転の利きそうな老紳士とのおしゃべりとコーヒーを楽しみにしながらまるで読めないメニューを見つめる私の目は、たぶんここ数年で一番きれいだったはずだ。








「それで三人のお子さんに七人のお孫さんですか……私は子どもも孫も一人だけですよ」

「別にいいと思いますけど」

「結婚が遅くなってしまいましてねえ、三十でやっと結婚した物ですから」


 三十歳の時、自分は末っ子のおしめを換えていたと言ったらどんな顔をするだろうか。あえて黙っておいていざとなったらぶつけてやろうかなと思っていると、コーヒーが運ばれて来た。


 一応運ばれて来る間までに他のテーブルを見てだいたいの形はわかっていたつもりだったが、全く見慣れないカップの形状に思わず言葉を失ってしまった。


「まあとりあえず飲んでみましょう」


 ストローが刺さっている手前紛れもなくコーヒーが入っているのだろうがとなんとなく戸惑っていると、浅野さんはためらいもなく飲んだ。


 まさに店に対する信頼を現す行為であり、まさに大人の男性の行動だ。これならば安心してついて来られると言う物だ。


「浅野さんはこの店にはよく来られるんですか」

「今日が二度目ですよ、まあ一度目は八年前だからほぼ初めてみたいな物ですけどね」

「その時はなぜ」

「息子がちょっと振られてしまった時分でね、なぐさめてやろうと思って親子で入ったんですよ。ああ私は肝臓がちょっと悪くて息子は下戸だったもんでこんな店に入りまして、まあ幸いな事に三年前にいい女性を見つける事ができましてね、それでその女性と籍を入れましてねえ」

「へえ……」


 子どもの失恋など、私は全く経験していない。長男も次男も初めて惚れた相手と交際期間の長短の差こそあったがそのまんま籍を入れてしまったし、長女は一度だけ失恋したと言っていたが小学校の時の担任教師が相手のそれを数えるのは屁理屈だろう。

 その点においては、私は浅野さんより人生経験が少ないと言う事になる。

 自分としてはそういう深い意味を込めたつもりで吐いたため息の後に口に吸いこんだコーヒーは、予想の範囲より少しだけ苦くなかった。


「それでお仕事は何を」

「今はもう無職ですよ、まあそれまでは何べんも転勤を繰り返すしがないサラリーマンでしたがね。やっとひとところに落ち着けたのは四十代になってからです。最終的に部長にまでなれましたけどまあ全体的に言えばうだつの上がらない男でしたね、そのせいで結婚も相当に遅れまして」

「奥様ってのはどんな方ですか」

「まあ転勤族の私に付き合ってくれるような女性ですからそれはもう活動的で、私なども休日の半分は旅行で費やしてましたよ。まあその反動かわからないですけど一人息子は家で過ごすのが好きな子になってしまいましてね」


 長男と次男はあまり体が丈夫でないせいか積極的に外に出る事はしなかったが、それでも家に籠る事を好む子どもではなかった。

 むしろ適当に自分の体の弱さを呪いながら、自分なりに背伸びして必死に外に出ては痛い目に遭っていた。性別の違いもあるだろうが長女の方が家の中で過ごしている事多かった気もする。


「にしてもおいしいコーヒーですね、なるほど流行るはずですよ。もし今二十歳だったならば毎週通っていたかもしれませんね」

「男の方はいいですよね、一人でも絵になりそうで。女だと気取り屋にしか見えなさそうでこんな機会でもなければとても行けそうになくって」

「仮にも今日は土曜日なんですから、ああいう……おっと失礼、私も二十歳であればああいうことをしているかもしれませんね」


 なんとなく窓側に目を転じてみると、ノートパソコンを開きスーツを身に纏いながらコーヒーをすすりキーボードを叩いている青年がいた。

 土曜日だと言うのになぜまたこんな所にいるのだろうか。仕事ならば会社か家ですればいいのに、そこまでここのコーヒーが気に入ったのか。

 どこか土曜日正午付近と言うゆったりと時を過ごすべき時間帯にふさわしくない様に思えて来る。


「まあね、実はさっきのあの注文方法もインターネットで見た物でしてね。私と同い年ぐらいの方が体験なさったエピソードをちょいと拝借いたしましてね」


 うちにはパソコンなどと言う物はないし、それをどうこうするための回線とやらも、何より私たち自身にその気がない。

 その前に長男と長女は家を出てしまったし、次男の時は出始めたばかりでまださほど耳目を集める存在でもなかった。それが十数年であっという間に私たちの年代にまで浸透してくる物だからまあ技術の進歩と言う物は恐ろしい。


「危ない危ないとかよく言いますけど、うまく使えば実に便利ですわね」

「まあ何だってそれは同じでしょう、お互い年寄りとは言えまだ使えそうなものは取り込んで行こうじゃありませんか」

「ずいぶんと活動的なんですねえ、私はあなたのせいで家に閉じこもりな人間になってしまいましたがね」


 高揚している人間に向かってずいぶんと恨みがましいセリフだったが、それを言う権利が私にはあるつもりだった。








 忍ぶれど色に出にけり我が恋は物や思うと人の問うまでとか言う百人一首でもあるまいが、どうもいつの間にかその気持ちが顔に出てしまっていたらしい。


 自分が親になってみると三人でも手一杯だと言うのに、五人兄弟の四番目と言うさほど注目を浴びない様なと言うか実際さほど愛された記憶のないポジションだったのに、まったく親と言う奴はこちらの事を案外正確に見ている物だ。


 中学校時代の私の学業成績はそれほど悪くはなかった。

 だがそれはあくまでもクラスの中での話であり、学内全体で見るとむしろ平均より下だったらしい。なんでそんなたまたま出来の悪いクラスに入ってしまったのかと言う事については完全に運の問題だろう。

 現在のように不登校でも起こさない限り高校なんてほぼ全員行く物だと言う訳でもない時代、それなりに勉強しなければ高校に入れる物でもなかった。

 既に長兄が独立していたとは言え家計うんぬんと言う問題もあったし、何より学費が安い高校に受かるのは私の成績では無理だった。そう、無理だったのだ。


「お前、高校に行きたくないのか」


 中学二年生の年末に、妙に切羽詰まった声で父親にそう迫られた。来年高校を卒業してすぐ嫁ぐ事が決まっている姉の分と、やはり再来年に高校を卒業してこの町を離れていくことが決まっている次兄の分のお金がかからなくなるのにそれでもお金の問題と言うのは尽きない物なのか、その時は不思議で仕方がなかった。

 いざその立場になってみるとなるほどと思わなかった訳でもないが、それでも何を焦っていたのかと思ってしまった。


「だったらうんと勉強しろ!」


 兄さんたち全員行ってるから行きたいですと言ったら今度はものすごい剣幕で吠えられた。なんか大きな出費でもあったのかと思い母にこっそり聞いてみたが、首を横に振るだけだった。

 姉の嫁入り道具とかそんなにお金がかかる物なのか、自分がいずれ来るその時の為に今からお金を節約しておけと言う話なのか、その時はまったくわからなかった。


 そんな中学時代同級生であった浅野治郎と言う人間の評判は、どうにもわかりにくかった。

 成績はよくも悪くも目立つ所がなく、授業態度も良くはないが悪いとも言えない。

 三年間無遅刻の上に宿題を忘れる事はなかったが、褒められる事と言えばそれぐらいだった。

 教室でもいつも誰かと話をする事はなく隅っこにいるだけで、課外授業などでもさほど活発ではなかった。

「え、何……?」

 たまに話しかけてもそれ以上の事は何も言わないし、話を広げようにもあまりついて来ようとしない。

 だが時に目を見開くとやたらに眼光が鋭く、普段から口数が少ない事と相まってどこか恐れられていた風があった。


 そしてそんな彼を、私は好いていた。一応他にも競争相手がいたらしいが、その事についての記憶はもうない。


 なぜ好いていたのかと聞かれても、合理的な説明はできなかった。


 今から思うと、真面目さと過剰なほどの家族愛が取り柄の父親、私が七歳の時に家族のために家を出て汗水垂らして金を稼いでいた八つ上の長兄、父の真面目さと母の器量を受け継いだ優等生な二つ上の次兄。


 そんな良くも悪くも面白みのない男性ばかりだったせいでまったく異質な存在である浅野に魅かれたのだろうと言う説明ができるが、その時はなんとなくでしかなかった。


 単純な荒くれ者とも違う、どこか不思議な男性。これまで触れた事のない存在に対する興味と好奇心。それが感情の正体だと気づくまでには既にすべてが終わっていた。

 そしてそれが恋愛と呼べるかどうか、実に疑わしい物だった。

「さあ……」

 母親と言う先輩女性に聞いてみても首を傾げ腕を組むだけだった。

 だからそれは、おそらく世間でいう恋愛とは全然違う物なのだろう。元々口数が少ない上に表情を変える事も少なかっただけに、その少ない変化が大きく響くのかもしれない。


 もしかしたら私には小さな変化を鋭敏に見抜く素質があったのではないかと少しうぬぼれていた。実際そんな素質がなければ延々半世紀花ばかり眺めて楽しむ事もできなかっただろう、女の子らしいとか言う単純な個性で片付けられる話でもあるまい。

 と言うか、自分がそんな子であったからこそ浅野に興味を抱いたのだろう。普段まるで面白い事を言わない浅野が何かするだけで私はなんとなく面白かったし、もっともっとと思えるようになった。






 そんな浅野治郎には、一学期の頃からいろいろ奇妙な噂が付きまとっていた。無口なのは学校内だけでそれ以外ではものすごくおしゃべりだとか、細そうに見えて実はものすごく力があるとか、まあわからないでもない物や荒唐無稽な物まで様々な噂があった。


 そしてそのほとんどを浅野は否定も肯定もせず、ただ聞き流していた。


「たかが中学生を何だと思ってるんだろうね、自分たちだって中学生なのにさ」



 すぐ前の席の男子からその事について問いかけられた浅野はフッと軽く笑った。その笑みは私にとっては魅力的なそれだったがその男子にはどこか狂気に満ちた物に見えていたらしく、浅野から目を離した彼の顔は少し青くなっていた。

 浅野に関する奇妙な噂に対しても、その噂通りに行動する浅野の姿を思い浮かべて楽しむ事が出来た。年齢相応に適当に夢見がちであり、良くも悪くも自由だった。


 それが九月中頃、同級生のやたら口数の多い女子からあなた好きな人いるんでしょと唐突に言われた。私がどうしてそうなるのと言うと、最近休み時間とかにぼさっとしている事が多いからと言われた。


「そりゃ……いいや何でもない」

 じゃあ誰だって言うのよと聞いたら、彼女は直に口に出しこそはしなかったが明らかにわかっているのよと言わんばかりの素振りでちらちらと教室の隅に視線を向けながら私からそそくさと離れた。




 そしてちょうどその時辺りから、私と浅野が付き合っているのではないかという噂が立ち始めた。

 何をもって付き合い始めと言うのか、この年になってもその事についてはわかっていない。お互いがそう認識して初めてそう言えるのではないかと言う身も蓋もない理屈を持ち出すつもりはないが、どこの誰がなぜそんな噂話を持ち出したのか。

「ふーん、それで何か?」

 浅野は例によって例のごとくの調子で聞き流し、私もなんとなく同じ調子で答えた。面倒くさいと言うより、自分でもイエスかノーかわかっていなかった手前なんとも言いようがなかっただけだった。

 そのせいかいつの間にか既定事実となり、まるで意識しない内に私たちは恋人同士になっていた。




 そんな私たちに、デートなんて言う概念はまるでなかった。それらしい会話さえもほとんどなかった。もちろん、手紙の交換などもしていない。

 と言うか、教室以外でまともな会話などしていない。そんなカップルが他にあるのならば、是非ともこの残り短い人生の中で一度でもいいからお目にかかりたい。


 世論の期待に応えるような事は何も起きないまま、かと言って自然消滅と言う事にもならないでなんとなく続いていた。

 その間に私が知る事ができたのは、彼が一人っ子であり父親が大都市の企業に勤めるべく単身赴任と言う形で家を離れており家にめったに帰って来る事はないと言う、その気になって調べればすぐわかる情報だけだった。

 そして私が浅野に暴露した情報もまた、自分が五人兄弟の四番目だという事ぐらいだ。




 もちろん、この「交際」は両親にも伝わった。両親も兄姉も根掘り葉掘り私に聞いて来たが、その度に私はありのままの事情を話しては疑われ、そして私と同じようになんとなくあきらめた表情になって話は終わってしまう。

 浅野と言うのが一体どんな存在なのか私や同じ中学に籍を置いていた弟ですらわかってなかった物を、両親や兄姉がわかるはずもなかった。







 そんな全く奇形染みた「交際」が終わりを告げるきっかけになったのは、いつもの妙な噂だった。




 十一月の下旬ごろ浅野が年上の女性が主を務める家に行き、何らかの荷物を受け取って来たと言う噂が流れ出し、そしていつものように浅野は否定しなかった。



 その事を知った私の父が、私を特段どなりつけるような事はしなかった。



 だが内心では相当に慌てふためいていたのだろう。いくら時代が時代であったにせよそのような不貞な人間、ではないとしても既に相手が決まっている可能性がある人間に娘をやるなんぞとんでもないと言う理屈なのだろうが、だからと言って頭ごなしにダメだと言うのでなくどうやって調べたのかは知らないが、私を浅野が進むであろう高校とは別に学校に行かせようとするなどなんとも陰湿な話だ。


 ただ貞操観念だけではない何が、父を怯えさせていたのだろうか。その答えを、その時から十八年前に父が亡くなるまで聞くことはできなかった。


 そんな父の緩やかかつ力強い誘導に従い高校受験のための勉強で中学三年生と言う期間を費やし見事学費が安い学校に入学を果たした私が、父親の目論見通り浅野治郎と言う存在を忘れて学業と花嫁修業に専念しながら十七歳の誕生日を迎えたある日、自分と今の亭主の家族以外からもらう事はないであろうと思っていた私の所に思わぬ贈り物が届いて来た。

 その贈り物に父も母も弟も、取り分け父は素直に喜び好んでその贈り物を私のために使った。














「あれ、浅野さんですよね」


 実家から徒歩二十分の所に家があった茶道の先生の名前で送られて来た、十七歳の誕生日祝い。

 その中身を見た時、おそらく私だけがすっかり忘れ去られていたはずだった浅野治郎と言う人間を思い出していた。


「十七歳の誕生日おめでとうございます。すでに縁談もまとまっていると言うお話でこれからいろいろ大変な事もあると思いますが、その時もし私からの贈り物が役立つのであれば幸いです。今後ともあなたのご多幸をお祈り申し上げます」


 茶道の先生が出すようにはとても思えない、拙劣な手紙。


 誰かがその名前を借りて出した物である事はすぐわかるはずなのに、なぜか誰もその事を指摘しなかった。


「ああいう人間でしたからね私は、まあ今でもですけど」


 時あたかも東京オリンピックの時期、東洋の魔女と言われた女子バレーボールチームが世界中を騒がせていたが、あるいは私も魔女なのかもしれなかった。そうでなければあれほどまで必死になって遠ざけた人間に未練を抱かれるはずもない。

 それにしてもどうして気が付かなかったのか、それとも気が付いていながらもう過去のことだと軽く見ていたのか。何の面白みもないはずの人間だった私がそんな力を放っていたなんて、亭主に話しても信じてくれないだろう。


 私とは違う高校に入学してからもああいう調子だったらしい浅野さんは、嫌われる事こそ少ないにせよ好かれる事も少なかったようだ。

 当然同性異性を問わず友人も少なく、職場でもそれは変わらなかったらしい。現在よりずっと未婚率の低く、かつ一人っ子であったはずの浅野さんが三十歳まで結婚できなかったのはたぶんそういう事なのだろう。


「鈴木さんはずいぶんと気の利く真面目な人、それが私があなたを気に入った理由だったのかもしれません」

「そんな事を言われたのは本当に初めてですけどね、あははは」


 私自身、そんな風に言われた事は一度もない。

 自分はわがままだと常日頃思っており、ずっと自分の思うがままに行動して来たつもりだった。お世辞と言うにはへたくそすぎるその言葉に思わず私は笑ってしまい、浅野さんまでつられて笑ってしまった。

 すると若い若いと言われていてもやはり年相応に唾液が減っていた喉が容赦なく渇きを訴え出し、これまたお互いほぼ同時にコーヒーをすすった。


「いやいや、最近のコーヒーはずいぶんと持ちがいいんですね」

「最近って言っても以前のコーヒーがどんなだか忘れてしまいましたけどね、まあお互いよくも延々と……ってあらまあまだこんな時間ですか」


 年を取ると話がくどくなると言うのならば、確かに私は若いのだろう。


 ずいぶんと思い出話に明け暮れたつもりでいたのに、時計を見るとまだ十分しか経っていない。その事に気が付いて私が再び笑い出し、浅野さんもまた笑った。




 考えてみればこの半世紀あまり、こんなに突発的な笑いはそうそうなかった。


 夫や子どもたちと話していても、花を眺めていても、友人たちと会っていても、ある意味で期待通りの場所でしか笑わなかったし泣かなかった。

 そしてその事に対してさしたる不満を抱く事もなかった。


「あのスズランは元気ですか」

「ええ、浅野さんの事は忘れても、スズランの事は忘れていませんでしたよ」


 実家の庭に植えていた時も、最初亭主と一緒に借家で鉢植えにしていた時も、今の家と土地を買って庭に植えた時も、いつも中心にいたのはスズランだった。

 他の花がどんなにおろそかになり枯らしてしまった事があったとしても、スズランだけは守って来た。


「それは何よりです。ではそろそろ」

「いえいえまだまだもう少しお話いたしましょうよ」

「あのそういう事ではなくてですね、実はこちらを……」


 そのスズランの送り主である浅野さんとの、これまでになく刺激的で予想しがたい時間がまもなく終わろうとしていた。


 こんな濃密な時間はここ数年一度もなかった、その事を痛感した私が話の終わりを惜しもうとしていると、浅野さんは肩にかけていたカバンから小さな紙の袋を取り出し、やたらときれいなガラスのテーブルの上に置いた。


 セロテープ一枚で止められたそのちっぽけな紙袋は、この時この店の中心になっていた。


「ところで今住んでいる家はどうなさるおつもりで」

「私たちが死んだら取り壊し、土地は売るように長男に申し付けてあります。庭ももう荒れるに任せるつもりです、私一人の道楽ですから。そして認知症に陥った場合は容赦なく老人ホームに放り込み、やはり家や庭については容赦なく売って構わない旨やはり長男に申し付けてありますので」

「素晴らしい事ですね。やはり介護の問題は気になると」

「ええ、ひ孫まで生まれた私にもうそんなにやり残した事もありませんから」

「いいですね」


 素晴らしいと言う言葉とともに、透明なテーブルに置かれた紙袋の中身が少しだけ浅野さんの方に向かってうなずいた。

 しかしそれはそうですよねと言う賛同ではなく、どこかあーあと言うため息を吐いているように見えた。


「我ながら若気の至りと言うにはどうにも情けない物でした、そして今度は年甲斐もなく老醜をさらしてしまっています。まあ老人の最後の頼みと思ってくださいよ」

「ありがとうございます」


 その贈り物がかつてのスズランに近似したそれである事を、私はすでに知っていた。


 浅野さんは最後の最後まで諦めていないのかもしれない、それはそれである意味立派だとも思う。半世紀前から底の見えなかった人間と言うのは、死ぬまで本人を含め誰も底がどこなのかわからないのかもしれない。

 それを恐れたのであれば、なるほど父親はたいした男だと思えて来る。父とも亭主とも全く違う人間である浅野さんに別れを告げながら、私は白い袋を浅野さんが持っているそれの数倍の値段であろうカバンに放り込んだ。








 贈り物はまったく私の予測通りの品物だった。


 一見詳しいのか詳しくないのか、その気があるのかないのかさえもよくわからない贈り物。だがこうして渡された以上、どう使おうと私の自由だ。


「ようお帰り」

「あらあなた、どうしたのその格好」

「いや何、急にふっと思い立ってね、昼飯喰ったらちょっと走ってみようかって」

「脱水症状に気を付けてくださいね」


 亭主はなぜかジャージ姿になっていた。テーブルにはいつかの五輪の模様を収録したDVDが置いてある。あるいはこれを見て義父のように、三年後にやって来る東京オリンピックの聖火ランナーを志してやろうとでも思い立ったとでも言うのか。人の事は言えないが全くどこまでも元気な年寄りだ。


「それにしてもずいぶんと早かったな、話が弾まなかったのか?」

「いいえ、短い時間だけど濃い話ができたつもりよ」


 濃い話といい話が等しい訳ではない。毒にも薬にもならぬ小役人のなれの果てと、庭を愛でる事と服を飾る事以外に道楽を持たない二人の年寄りに、いまさら濃い話など生じようがない。

 だからと言ってその関係を投げ出すには年を取り過ぎているし、何よりその後のリスクを考えられないほどバカでもない。


 そして、この贈り物をすぐ本来の目的通りに使おうとするほどバカでもない。


「ふーん、それが贈り物ねえ。俺にはよくわかんねえけど大事な物なのかい」

「多分ね、でもこんな時期に送って来られてもね、あと早くて三ヶ月ほど待たなきゃ植えられる物じゃないわよ」

「どうしても渡したかったんだろ、まあ遠慮なく受け取っといて良かったんじゃないのか?渡したかったんだろうからさ」


 この贈り物が芽を出し本来の役目である開花と言う使命を果たすのは数ヶ月かかる。その間に何が起こらないとも限らない。

 だが今の所、押しなべてどうという事もない。五十年もの間平穏を保って来た生活がこんな物だけで崩れる物でもあるまい。


「思ったより早く帰って来たから夕飯は私が作るけど…何か食べたい物ある?」

「うーん、レバニラ炒めかな」

「どっちもありませんよ」

「じゃあなるたけ早いうちに頼むぞ」

「まあ何でもいいよと言わなかっただけ上出来ですよ」


 久しぶりに、二人して笑った。なんとなく予想が付いたタイミングではあったが、夫婦一緒に笑う事が出来た。その笑い声を耳にしたスイセンの球根が袋ごところりと転がり、袋をゆがませた。


 全然違う方向を向いていてその事に気付かなかった私がせっかくだから専用の器でも買ってこようとでも思ったのがそれとほぼ同時だったのは、たぶん偶然じゃないはずだ。

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あの時のまんまで @wizard-T

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