君を選ぶ

 選ぶことが得意な人間なんてこの世にいるのだろうか。僕は苦手だ。大の苦手で大の嫌いだ。だけど人生というものには残念ながら選ばなければならないことが山のようにあって、僕はある程度の数の選択に取り組んできた。高校の進路。大学の進路。就職先。自販機で買うのはコーヒーか紅茶か、はたまたオレンジジュースか。今日の朝ごはん、昼ごはん、晩ごはんは何にするか。彼女にいつ告白するか。彼女にいつプロポーズするか。彼女のご両親にいつご挨拶に行くか。挙式は教会式か神前式か。お色直しは何回するか。仕事帰りに奥さんへ買うお土産は何がいいか。誕生日は何を送ろうか。いつだって僕は迷い、惑い、頭を抱え、その場を歩き回り、最後には心身ともに疲れ果てて何かを選択する。本当に疲れてしまうから、できれば選択というものは少ない方がいい。

 それなのに、いつだって選択は突然やってくる。


「奥さんか赤ちゃん、どちらか選んでください」


 そんな言葉を友人から聞かされることになるなんて、一体誰が想像できるだろう。僕と同じ医者であり、大学の同期であり、産婦人科に務める僕の友人。冷静で頭の良い彼なら、僕の奥さんを任せられると思って担当医になってもらった。赤ちゃんがいるとわかった妊娠六週目から、赤ちゃんが産まれるそのときまで、何から何まで任せられると思ったのに、彼は僕と奥さんに選んでくださいと言う。

「どちらかと、言うのは」意味を理解していながらも、僕は質問せずにはいられない。診察室には、僕と僕の奥さん、そして僕の友人と女性の看護師さんが一人。看護師さんが一番悲しそうに目を伏せていた。友人は無表情。僕の隣にいる奥さんの顔は強張っていて、握った手はひどく冷たい。


「今の状態だと、分娩時に、奥さんと赤ちゃんの両方が命の危険に晒される可能性が高いです。その場合、どちらも助けることは出来ません。ですから事前にどちらを助けるか考えておいていただきたいんです」


 淡々と僕の友人は説明を述べる。それが医者の役割だと彼はきちんと分かっている。僕だって彼の立場ならそうするだろう。だけど僕の今の立場は、妊婦の旦那であり、奥さんと赤ちゃんが産まれてくることを楽しみにし続けてきた人間でしかない。


「危険に晒される可能性というのは、どれぐらいなんですか」

「どれぐらいというと」

「何パーセントとか。手術でもあるじゃないですか。何割で成功しますとか」

「可能性が高い、と思っていただければ」

「だから、具体的な数字を教えてほしいんだって」

「数字でひと時の落ち着きと拠り所を得ようとするのはよくない。お前の悪い癖のひとつだ」


 彼の敬語が崩れる。先に崩したのは僕の方だけれど。僕の友人は眉間に皺を寄せ、そっと息を吐いた。


「数字に何の意味がある。起きるときは起きるし、起きないときは起きない」

「医者らしからぬことを言うなよ」

「俺だって―――」


 そこまで言って、友人は僕の奥さんを見やる。強張ったままの顔を見て、逸らさず、真っ直ぐに続きを述べる。


「私は、最大限のことをします。しかし、その日の体調や状況によって、どうしても『もしも』は起こってしまう。奥さんの場合、その『もしも』の可能性が他の妊婦さんより非常に高いです。例え医者が私でなくても、それは変わりません」


 はい、と僕の奥さんは頷いた。目を逸らさずに。僕の手を強く握って。


「今この場で答えを出す必要はもちろんありません。最悪、その『もしも』が起きたときに考えてもらってもいい。ですがその場合、すぐに答えを出さなければ、どちらの命も失われてしまいます」

「はい」

「予定日まで、あと一ヵ月です。あっという間にそのときは来てしまうでしょう」

「はい」

「どうかよく考えてください。冷静になれるチャンスがある、その間に」

「はい」

「おい聞いてんのか」


 友人が僕の頭を手の平で叩く。いつもより勢いが全然なくて、慰められているようでカッと頭が熱くなる。でもすぐ熱さは沈下し、冷たい感覚が全身を覆う。僕の手も、彼女の手もずっと冷たかった。結局僕は一度も、「はい」と言えなかった。


***


「赤ちゃんを選ぼう」


 帰宅するや否や、奥さんは僕の手を引っ張ってリビングのテーブルまで連行した。家族会議のときは、いつもテーブルに向かい合わせに座り、オレンジジュースをコップに並々と次ぐ。それをどちらも飲み終わったら、結論にお互い納得したということで会議は終了。いつも僕が飲み終えるのが遅く、彼女は早い。今夜も彼女は意見を述べるや否や、オレンジジュースを一気に飲み干した。


「ちょ、ちょっと待ってよ」

「どうして?」

「どうしてって……」

「あなたも楽しみにしてたよね、赤ちゃん」

「それは、そうだけど」

「じゃあそうしいよう」

「待って待って」


僕はオレンジジュースに一口も付けないまま首を横に振る。


「そんな、すぐに決めなくていいじゃないか。まだ一ヵ月あるんだから」

「あなたはすぐ『まだ何日ある』とか言って、結局直前になるまで選択を迷う。挙式の場所だって、もっと早く予約してれば十パーセントオフだったのに」

「だってどこも素敵だったから」

「結局一番最初に『ここ良さそうだね』ってところになったじゃない」

「挙式と赤ちゃんを比べるのは、どうかと思う」

「同じよ」


 同じよ、と繰り返し彼女は言った。すっかり大きくなったお腹を、労わるようにそっと撫でる。


「選ぶことに変わりはない」

「そう、だけど」

「自分の命が危ないからって、赤ちゃんを見捨てるなんてことできない」

「それは、わかるけど」

「だけど、けどばっかり」

「だって」

「だってもヘチマもない」

「それ久しぶりに聞いた」

「私は迷いたくない」


 彼女はいつだって目を逸らさない。僕がしどろもどろにプロポーズしたときも。指輪の交換で僕の手がぷるぷると震えていたときも。両親へ感謝の手紙を読んだときも。どれだけ涙をぽろぽろ流したって。


「自分と赤ちゃん、どっちの命を選ぶかなんて。そんなの、いつまでも考えたくない。頭がおかしくなりそう。早く決めてしまいたい」


 僕は立ち上がり、彼女の傍に行って抱きしめた。そんなことしか今は選べない自分がしにたいほど嫌になる。ぐずぐずと彼女の鼻水の音がする。彼女の背中をさする。


「どうしてあなたは悩むの」

「どうしてって」

「子どもを諦めるなんて出来ない」

「僕に君を見捨てろって言うのか」

「そんな言い方やめてよ」

「だってそうじゃないか」

「だってしょうがないじゃない」

「なんだよしょうがないって」

「なんでも聞き返さないでよ」

「だって」

「だってばっかり」

「君だってさっき言ったよ」


 その夜は、ずっとそんな感じだった。彼女はオレンジジュースをおかわりして、赤ちゃん以外のこともたくさん言い合った。あのときはああだった、あのときこうしていればよかった。あのときあなたは酷かった。あのとき君は酷かった。酷い。苦しい。悲しい。辛い。

 でも。

 こんなことなら、とは、二人とも決して言わなかった。


「じゃああなたが決めてよ」


三杯目のオレンジジュースを飲み干して、彼女は僕を睨み付けた。


「直前でもいい。もしものときでもいい。あなたが決めて。そんなに悩みたいなら、散々悩んで、あなたが選んでよ」


 僕が選ぶことを嫌いなことを、君がよく知っているくせに。そんなこと、言えるわけがなかった。たった今、彼女がお腹の中で赤ちゃんを守ってくれている。生かしてくれている。ただ傍にいるだけの僕が、その命を選ぶことさえ、本当はおこがましいことなのかもしれない。

 だけど話し合いの間、僕らはテーブルの上で手を握っていた。冷たい手のまま決して話さなかった。


***


 俺なら赤ちゃんを選ぶと、携帯越しに僕の友人は即答した。


「医者のくせにそんなこと言っていいのかよ」

『今お前が話してるのは、お前の友人だよ』


 ずるいなといつも思う。この友人はそうやって何でもスマートにこなすのだ。大学では成績優秀で教授から一目おかれ、勤め先の産婦人科では一番活躍している看護師と結婚。三十歳にして既に二人も子どもがいる。母子と父ともに健康そのものなのだから、今ぐらい、ちょっとくらい、恨めしく思わせてほしい。

 赤い目のままの奥さんがようやく寝静まった後、俺は一向に眠気がやって来ず、ベランダに出て友人に電話を掛けた。予期していたのかツーコールで出てくれたから、良い友人を持ったのだと思う。


『奥さんに後悔を背負わせたくないよ』

「後悔?」

『もしこうしていたら無事に生まれたんじゃないかとか、自分に責任があったんじゃないかとか』

「そんなの……」

『考えたってしょうがないことを、人間はどうしても考えてしまう』

「……でも」

『でも?』

「いや、いい」

『なんだよ、言えよ』

「いいって」


 そこで沈黙が流れる。友人が何か訝しんでいるのが伝わってくる。伊達に大学からの付き合いではない。


『……あのさ、一応言っとくけど』

「なんだよ」

『「次また頑張ればいいじゃないか」とか絶対に言うなよ』

「…………」

『奥さんにとっちゃ、今お腹にいる子が、自分の子どもなんだから』

「そんなの」


 怒鳴りそうになるのを必死に堪えた。やっと眠れた彼女を起こすわけにはいかない。息を飲み込んで、胃に収めてから口を開く。


「わかってるよ。当たり前だろ。言うわけ、ないだろ」

『お前は思わず、思わぬ言い方をする癖がある』

「それでも、さすがに言わない」

『プロポーズしたときだってそうだ。そんなこと言うつもりなかったのに「毎日僕にお味噌汁作ってください」とかのたまって、「私にだけ朝ご飯作らせるつもりか」って奥さんに怒られたくせに』

「なんで知ってるんだよ」

『披露宴のときに奥さんからコッソリ教えてもらった』


 事実無根ならいいのだが、残念だから事実そのものだから何も言い返せない。さっきだって、「君を見捨てろって言うのか」なんて言い方をした。自分でも、絶妙に言葉を選び間違えるのは自覚している。どれだけ気をつけていても、無意識にそれらが零れてしまうから、どうすればいいのかわからない。


『一ヵ月はすぐだぞ』


 わかってる、と言えなかった。一ヵ月だろうが一日だろうが一年だろうが、十年だろうが、きっと僕は短いと思うだろう。黙っていると、彼は深く息を吐いた。


『どちらにせよ後悔はするんだ』

「…………」

『今回に限っては、後悔しない選択なんてありえない』

「それは、わかってる」

『俺は、全力で、選択させないように頑張るけど』

「うん」

『もし、させるようになったら、ごめん』


 ううん、と。そんなこと言うなよ、と、言えなかった。

 僕がしぬまでに言えるかどうかもわからなかった。


***


 一ヵ月、と思っていた。約四週間。約三十日間。その間に考えようと。最終の結論を出そうと。

 だけど正確には、二十二日間だった。


「痛い」

「え」

「お腹痛い」


 休日で二人とも家にいたのはまだ運が良い方だった。彼女が二度そう言うと、青い顔をして、まるで倒れるようにテーブルに手をついた。慌てて彼女の身体を支えて椅子に座らせる。


「すぐに車出すから」

「うん」

「すぐ戻ってくるから一人で動かないで」

「わかってるって」


 僕の奥さんは苦く笑った。それが覚悟を決めたような、吹っ切れたような顔にも見えて、僕は奥歯を食いしばる。

 僕の友人がいる病院には車で十五分の場所にある。助手席に座った彼女は、痛みを堪えるように唇を噛んでいた。僕に手が三つあれば彼女のお腹をさすってあげられるのに、僕の手は二つしかないからハンドルを握ることしかできない。


「予定日はもう少し先なのに」

「赤ちゃんが早く出たがってるのかも」


 世の中というものは理不尽で、通る信号機はすべからく赤だった。思わず舌打ちすると、「そんな怒んないで」と彼女は笑う。「私はまだ大丈夫だから」と。そして、言う。


「決められた?」


 僕はすぐに答えられない。


「それとも、今ここで決める? 『もしも』になったら決める?」


 信号が青になる。車を発進させる。急発進したら彼女の身体が無暗に揺れてしまう。冷静に、そっと。焦らないように。


「ごめん」

「何で謝るの。こんなの、迷って当たり前だし。私みたいな人の方が珍しいだろうし」

「そうじゃなくて」


 ハンドルを強く握る。


「考えたんだ。この二十二日間、ずっと考えた。もしものとき、君を選ぶか、赤ちゃんを選ぶか。どっちの未来も想像した。君だけがいる未来。子どもだけがいる未来」


 気付けば泣きそうになる。彼女の前でだけは泣きたくなった。毎日彼女が寝静まってから、ベランダに出て一人で泣いた。時には友人に電話して付き合ってもらった。


「でも、毎日、僕の中の結論は同じだった」


 病院までに通る最後の信号。赤だから止まる。彼女の方に目を向ける。


「僕は、僕の奥さんを選ぶ。どれだけ君が嫌と言っても」


 彼女の目が見開く。きっと僕はこれから言葉を間違える。彼女を傷つける。それでも、僕は僕の気持ちを伝えずにはいられない。


「君は、子どもを失ったら悲しいだろうけど」


 選ぶということはそういうことだ。比べて、決めることだ。


「僕は、子どもを失っても、君を失っても悲しいんだ」


 彼女の手を握る。選ばなければならないと決めたあの日から、ずっと冷たい手。


「君は、君が死んだら僕が悲しまないと思っているようだけれど」

「そんなこと思ってない」

「思ってないなら、子どもを選ぶなんてどうしてすぐに言えるの」

「それ、は」

「僕の悲しみは考えてくれなかったの」

「赤ちゃんを失ったって悲しいでしょう」

「そうだよ」


 彼女が僕の手を握り返す。思い切り強く。


「どちらの方が悲しいだなんて、そんなの、同じに決まってる。どちちを選んだって悲しい。めちゃくちゃに悲しい。生きているのが難しいくらい。問題なのは、そのとき僕が、一人で悲しむか、君と一緒に悲しむかだ」


 早く病院に着かなければならない。だけど、この気持ちも、ちゃんと彼女に伝えなければならない。


「子どもと一緒に、君がいないことを悲しむことは出来るだろう。でも、僕は『君を失った悲しみ』であって、子どもにとっては『母がいない悲しみ』なんだ。それは一緒じゃないと思う。お互いを思いやることは出来ても、僕と僕たちの子どもの悲しみは、決して同じにならない。何より、子どもが悲しみを理解できるのは数年先だ。その間僕は一人だけで悲しみを抱えなければならない。そんなの、そんなのは」


 その先の言葉をずっと考えていた。間違えたくなかった。だけど、正しい言葉は最後まで見つからなかった。


「そんなのは、僕一人では耐えられない」

「…………」

「一緒に、僕らの子どもを失ったことを悲しんでよ。苦しんでよ。辛いときは一緒に泣いてよ。慰め合おうよ。二人で抱えて、引きずってよ。一人でそんなこと、僕には出来ないよ。でも、だけど、君と一緒なら、きっと耐えられる。君さえいてくれれば、しぬまでずっと。だから」

「……だから?」


 信号が青になる。ぎゅっと彼女の手を握る。


「僕を、選んでください」


 手を離してハンドルに戻す。息を吐いてから発車する。ずず、と鼻水の音が隣から聞こえた。涙を拭ってやれないことがどうしようもなく悔しい。ただ全力で、安全運転で、早く早く病院に着くことを祈りながら、「もしも」を想像しながら、「もしも」じゃない想像をしながら。ハンドルを握り直す。


***


「けっきょ、く」


 「結局」さえまともに言えないほど、僕は泣いていた。今までの人生の中で一番大量泣いている。このまま枯れてしまいそうなほどに。


「けっきょく、どっちも助かったじゃないか」


 友人は僕の頭を思い切り叩いた。「まるで良くないことみたいに言うな」と言われ、僕は口をへの字にする。


「そんなわけないだろ。だったらこんなに泣いてない」

「すげー鼻声」

「『もしも』って言ったくせに」

「『もしも』の可能性の方が高かったのは事実なんだよ。母子ともに何の問題もないのが不思議なくらい」

「ありがとう」

「奥さんが頑張ったんだ」

「そうだけど、お前も頑張ってくれたからありがとう」

「どういたしまして」


 握手を交わすと、待合室の椅子に座っていた僕の隣に友人が座る。泣き止まない僕の背中をさすってくれる。

 病院に着いた後、奥さんは予定通り手術室に入った。帝王切開になることは赤ちゃんが「もしも」になる可能性が高いことがわかった時点で決定されていた。僕はただ待つことしか出来ず、待って、待って、待ち続けて、そうしたら、友人が手術室から出てきた。「二人とも大丈夫」だと言った。大丈夫だよってなんだよって思って、それから、母子ともに「もしも」は起きなかったことを教えられた。奥さんは一般の病室に、赤ちゃんも新生児室に移された。二人の顔を見に行った。奥さんは麻酔でまだ眠っていて、赤ちゃんもすやすや眠っていた。顔がくしゃくしゃで、小さくて、息をしていて、それはもうすこぶる可愛かった。二人のことをそれぞれ十分ぐらい見てから、僕は待合室の椅子に座った。そして今に至る。

 もしもは、起きなかった。二人とも生きている。僕と、一緒にいてくれる。その現実がある。そんなの泣かないわけがない。泣きすぎて目も鼻も頭も痛いけれど、それでも涙は止まらないし鼻水も止まらない。

 でも、と。僕は、つい続けてしまう。


「でも?」

「僕は、『もしも』のときは奥さんを選んだ。奥さんに僕を選ばせた」

「そうだな」

「僕は自分の子どもを殺そうとした」


 友人は至極呆れた顔をした。「お前はそうやって、すぐ変な言葉の選び方をする」


「だってそうじゃないか」

「お前が言わなければ、そういうことにはならない」

「詭弁だそんなの」

「じゃあ『もしも』を教えた俺は、お前に子どもを殺すよう吹っ掛けた男?」

「そういうことじゃなくて」

「わかってるよ」


 僕に「もしも」を教えたことを彼は後悔しないのだろう。彼は最大限自分の出来ることをやってくれた。そのことを責めたいなんて思ってない。僕だって本当はわかっている。わかっていても。


「僕は一生、子どもに負い目を感じて生きていく」

「子どもを選んでいたって、お前は奥さんに負い目を感じるんだろうな」

「考えたってしょうがないことを、人間はどうしても考えてしまう」

「俺の言葉をパクるな」


 ずずっと鼻水をすすり、口で息を吐く。それでもまだ涙は止まらず、ぼろぼろと溢れては零れていく。喉が渇いた。後で自販機に行ったらオレンジジュースを買おうと決める。今日だけはどれにしようか迷うことはないだろう。


「お前、奥さんや子どもに、今みたいなこと言うなよ。それこそ二人にも負い目を感じさせるぞ」

「一生言わない。だから今お前に言ってる」

「今度メシ奢れよ」

「うん」


 きっと。

 僕はずっと、後悔するだろう。奥さんを見るたび、僕たちの子どもを見るたび、選んだことを後悔する。負い目を感じる。悲しくなる。それ以上の幸せを彼女たちは僕にくれるだろう。二人がいれば、僕は誰よりも幸せな人生を送るだろう。それでも僕の後悔が消えるわけではない。それに僕は、これからもきっと新しい後悔をするだろう。間違った言葉を選んでしまうときが来るかもしれない。誰かを傷つけてしまうかもしれない。それはとても、すごく怖いことだ。悲しいことだ。


「だからこそ」

「……どこから繋げての『だからこそ』?」

「僕は、僕の奥さんと子どもを大事にしたい」

「その心は」

「それでも、何があっても何を間違っても、僕は、二人が世界中の何よりも大好きだから」


 頭をぺちりと叩かれた。涙目のまま笑うと、友人も笑ってくれる。この日を忘れずに僕は生きていくだろう。この日を笑って話せるときは来ないだろう。だけど、もし叶うなら、僕がいつかしぬときぐらいは、「今までの人生でよかった」と、言えるような未来を作りたい。そんな漠然としたことを心の底から願いながら、僕は鼻水をすすった。

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