#3

 汚れた絨毯。欠けだらけの彫像。かつて、宿泊施設であったことの名残。 


 その場所で2人を包囲する憎悪の群は、徐々にせばまりつつあった。血を滴らせながらも、目を爛々と光らせて、彼らは前に進んでくる。雑多な火器を構えて。


 対する天使はじっと動かない。抵抗もしない。ただじっと、彼らを見ている。そして彼らには、その意味が分かりかねた。

 今ここで天使の翼をむしり取って這い蹲らせ、その尊厳をけがし尽くすことができるという思いに――彼らはむしばまれていたからだ。


 息は荒く、何人かは笑みを浮かべてさえいた。


「どんな気持ちだ……これから殺されるんだぜ、お前ら……」

「よくも俺たちの仲間を、無数に……」

「そのキレイな顔を、歪めてから死なせてやる……」


 だが、しかし。

 2人はまるで動じない。足下に血が垂れても、まるで。

 ――片方が、言った。


「それらの発言は否定する」


 ……彼等の足が、止まる。

 どういうことかと、問おうとしたが、その前に答えがでた。


「天使は――どこにでも居るからだ」



 猛烈な風が起きて彼らは顔を手で覆った。

 次の瞬間――天使の後方で、ガラスが割れた。まっすぐに光の帯が差し込んで、目がくらむ。そのせいで彼らは視認するのが遅れてしまった。


 ……割れた硝子の破片とともに、その1人は舞い降りてきた。翼を広げて。


 もう1人の天使が、空から降って、飛び込んできた。


 着地。

 破片が周囲に飛び散る。

 彼らは唖然として固まった。

 もう1人の天使が舞い降りた。彼らの中心、負傷した2人の前方に。

 黒い髪、コート。2人よりも、ずっと美しい白い羽。

 時間が、ほんの一瞬だけ、止まった。


 シンと冷える空気。帯のように割れたガラス窓から差し込んできて、退色した絨毯を照らす光。きらきらと粒子をばらまく破片。その中心で、ゆっくりと羽を畳む天使。長く、一筋の息を吐く。沈黙、静寂……。


 『彼女』は……2人を見た。彼女には見分けがつく。だから、負傷した『彼女』に、小さく言った。


「……下がっていろ」


 ……うなずきが、かえってきた。

 それだけで、十分だった。

 ――天使が、前方を見て。


「……う」


 時間が、元に戻るーー。


「撃てえええええええええ!!!!!」


 まず、複数の射撃音が同時に聞こえた。しかし彼女は冷静に、両腕を左右に広げた。幅広の袖口から滑り出すように、黒光りするガジェットが出現して、彼女の手の甲に装着される。装飾を施された十字架の如きもの。四方の先端に銃口が備わっている。

 彼女は周囲を見た。弾丸。マズルフラッシュ。散らばっている。錯乱している。だが、たやすい。彼女たちの『メソッド』にかかれば――。


 銃撃が殺到する中を、彼女は流水のように舞って体をくねらせた。すると射撃音と残響と激しい明滅だけがそこに残り、彼女にはいっさい攻撃が当たらない。すべて回避されていく。地面にうがたれる穴。

 だが抵抗者たちが驚愕することはない、その暇はない。なぜならすでに、彼女は両腕の十字架を彼らに向けて――。


「ぐああああああああ!!!!」


 放っていたからだ。その銃撃を。

 四方に向いた銃口はすべて、まるで意図したかのように取り囲んだ彼らに命中していく。火線は確実に彼女に殺到しているのに、打ち抜かれているのは自分たちだ。

 だが、その驚異を口にする余裕はない。まるで。


 天使は――包囲する彼らの中心で、舞った。十字架の砲火が閃いて、コンクリートの焼けるにおいと煙の中で、攻撃者達が次々と倒れていく。それは『銃撃戦』などではなかった。彼らが対峙しているのは人間ではなく天使なのだ。


「このっ、畜生、畜生」


 なぜだ。先程までは追いつめていたのに。その思いが、上階の者達を焦らせた。ばたばたと倒れていく仲間達の中心で踊る天使。そこへ、ロケットランチャー、ライフル。おのおのの凶器が向けられ、放たれる。


 ……爆発、硝煙。仲間を巻き込む心配はない。すでに皆殺されている、分かっている。轟音とともに、黒い煙が吹き抜けの階下を覆う。一瞬、もしや、と思った、しかし――。


 天使の姿が、


「……あ、」


 みえない、


「……」


 彼女は。

 上階へと、飛び込んでいた。


 すでに煙からは抜け出していた。羽根のかけらが空間を舞った。両腕の十字架が、淡いエメラルド色の障壁を描いていたが――着地した瞬間にそれは消えた。


 目の前には呆然とする射撃者達。そんな彼らを、彼女は無慈悲に射殺した。先程までと同じように。


「このおおおお!!!!」


 いかなる方法を使ってか、二階に降り立った彼女。そこに続けて、叫びながら突っ込んでくる者。力が抜けて覆い被さる死骸を無造作に払いのけると、彼女のすぐそこにまで刃先が迫っていた。

 ――分析。

 結果は容易だった。


 確実に当たるはずだった。その刃が、一見して子供のようにさえ見える華奢な体に深々と食い込むはずだった。

 しかし――彼女は水だった。

 正確に言えば、流水のごとく攻撃の軌道を呼んで、その斬撃をかわしただけだった。


「なっ……」


「……」


 男の懐に彼女はいた。その顔が、近くにあった。直ぐに腕を戻しても、ナイフが彼女に当たることはない。それはわかっている。一瞬が無限大に引き延ばされる。その中で。彼は彼女を見た。

 琥珀色の瞳。微塵も揺らぐことのない凪。

 男は、抵抗できなかった。


 ――まもなく。

 十字架の下部からせり出した刃部があっさりと男の心臓を刺し貫くと、彼女は崩れかかるその体を払いのけて、十字架を振るい血を飛ばした。

 ――残心。

 だが。


「こ、ろす……かた、きを……」


 彼は吹き抜けの二階で背を向けている天使に狙いを付けていた。自分の命が長くないことは分かっていたが、やるしかなかった。倒れた仲間から取った銃を構えて、痛みで混濁する意識の中で構える。そして、引き金を引く――。


「くたばれ……っ!!」


 彼女は知っていた、気付いていた。

 瞬時に、十字架のそれぞれの銃身が展開。中心に据えられた鈍色のフレームを介して変形。銃口が順番に接続され、十字架は一つの長大なライフルへと変形する……振り返る。


 髪が揺れる。

 彼女は、撃った。


 飛来した銃弾は当たらなかった。首をわずかにそらすと、後方の壁面に突き刺さってうずもれた。

 ――絶望する暇もなく。

 男は、額を貫かれて死んだ。


「……」


 手をおろすと、それに呼応してライフルが変形し、再び両の十字架に戻った。袖の中に滑り込み、収納される。

 彼女は周囲を見て、死骸の数を数えた。

 それから手すりの下をのぞき込んで、そこに横たわる無数の死と、広がる血の海を眺めた。

 もう、誰も感情を逆立てながら彼女に襲ってこない。


「……」


 長い息を吐いてから、ささくれ立った階段をゆっくりと降りた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る