#2

 彼は疾走を続けていた。どこか遠くで銃声と悲鳴が聞こえたが、それさえも置き去りにしなければならず、彼の胸の内は張り裂けそうだった。


 呼吸が乱れて、肺の酸素が消失していく。走る、走る。


「早く逃げろ、あいつらはもう間に合わなかった……もうすぐ俺達のシェルターだ、急げっ!!」


 曲がり角の階段を下りたとき、アサルトライフルを持った仲間達が飛び出してきて、彼にそう言った。黙って首を縦に振り、再び走り出す。彼等は彼の背中を叩いて激励した。もう振り返らなかった。

 

 ――羽が舞い落ちる。

 電線が火花と遊んだ後、黒こげになって垂れ下がり、その後にーー真上から降りてくる。彼等の目の前に。2人の天使が。


「向こうにいたお前達の仲間はすべて排除した。抵抗をやめろ」


 1人が無慈悲に言った。


「……くっそおおおおお!!」


 そして、再びの銃声。悲鳴。


「……っ」


 託された彼の後ろで、倒れていく音がした。それでも、もう前を向くしかなかった。

 見慣れた古い町並み。通りすぎていくだけの今となっては、それは不気味でかび臭い場所としか思えなくなっている。ここは、ここは俺達の町じゃなかったのかーー。


「っうあ、」


 ……勢い余って、彼はその場で転倒する。

 咄嗟に胴体のポケットをかばう。

 激痛……だが、大丈夫だ。まだ、『守られている』。

 彼は顔を上げた。


 そこには打ち捨てられたテレビモニターがあった。もとは電気屋であったはずの場所。主人はとうの昔に『抹消』された。

 画面が点灯する。


「……皆さん」

 映し出されたのは。

 美しい1人の大天使――この町のすべてを支配する存在、『ミカエル』の姿。


「わたしがこの町を、ザイオンを創ったのは、戦乱に病む世界から皆様を保護し、痛みの伴わぬ確かな人生を送っていただくためでした」


 撃つ。

 倒れていく。

 ――ミカエルの忠実なしもべたちが、その力をふるう。

 だが、その透き通るような声は、地面に転がる血や薬莢さえもなかったことにするかのように、どこまでも響いていく。


「しかし。ここは天国ではない。一つの世界を守るには、ひとつの秩序が、法が必要なのです。私は皆さんの命を守るために、同時にそれらを統べている。そのことを、どうかいまいちど……あなたがたに理解していただきたく思うのです」


 ――男は目に涙を浮かべて、再び走り出す。もう聞いていられない。何もかもがむなしく響くだけだ。あの、人間離れした金髪の天使の裏側で、たくさんの者たちが命を落としているというのに……。


「天使はどこにも行きません。あなた達と共にあります。あなた達の呼吸は、私達の息吹です。どうか、恐れないで。この町の与えてくれる幸福に、ただ身をゆだねてください……そうすれば、真の平和が――」


 ミカエルの表情は、かなしみに曇っていた――。



「……」

 天使の1人が、眉をひそめる。冷たい無表情に、僅かながらひびが入る。前方には無数の屍。おびただしい血。

「どうした?」

「いや――……」

 さらに前を見る。セピア色の瓦礫の向こうに、うごめく複数の影。まだ敵はいる。彼は判断を改めた。


「前進する。まだ連中はいる」


 そして、一歩前へ。打ち捨てられた建物のなかへ。


「――……」


 そこで。

 もう1人が、気付いた。

 進んだ足のふもとに。

 ――銀色に光る、鋼線。


「――連中の罠だ、引き返せ、」


 遅かった。

 間もなく仕掛けられていた爆弾は作動して、天使の1人が炎に包まれた。


 ミカエルの映像はそこでとぎれて、あとには静まり返った砂嵐が残るだけ――。


 彼はひざを突いて転倒した。その羽根がどす黒い血に染まり、展開した障壁にはひびが入って半分以上消失していた。


「――無事か」


 駆け寄る、もう1人の天使。


「ぐ、ああああ……っ」


 傷は深かった。黒のコートはずたずたに裂けて、その空隙からみえる肉は無惨に焼け焦げていた。出血は、それ以外の部分の、がれきの礫が刺さったところから起きている。

 ……だが、それ以上に確認すべきことがあった。

 天使は呻くパートナーの半身を抱え起こして、耳に口を近づける。

 それから、聞いた。


「今――どんな気持ちだ」


 もはや、相手は平静を保ってはいなかった。

 鉄面皮は消え去って、剥き出しの苦痛の相があった。だが、深く呼吸をしていくうちに、その『ひび』は消えていく。奇妙なほどあっさりと。


「先程までは……恐怖と苦痛が支配していた。だが今は、規定値に戻りつつあるのを感じる。大丈夫だ」


「闘えるか」


「単体の戦力としては50パーセント以上損耗だ。あてにするな」


「分かった」


 天使が、顔を上げる。

 状況が、変わっていた。



「どうだ、羽根付きども」


 廃墟の影から、男たちが這い出てくる。おのおのに銃を携えながら、その表情にめいいっぱいの憎悪を抱えて。

 天使を、取り囲み始める。


「痛いだろ、苦しいだろ! それが感情だ、それが生きているということだ、お前等はそいつを、俺たちから!!」


 一人の激情にあわせて、一斉に銃を構える。そのまま、負傷した片方を含む天使2人を、ゆっくりと包囲し始める。

 形勢が逆転する。


「……」

 だが。あくまで、天使の側は表情を変えなかった。

 負傷していない一人が、周囲の状況を冷静に検分する。

 それから、耳元に据え付けられた端末に、小さく声を吹き込む。



 古びたアパートメントの屋上に、1人の天使が羽を広げて佇んでいる。


 季節は秋。肌寒い風が吹き込んで、彼女の黒いツインテールを揺らす。

 琥珀のようなその目は、前方の灰色を見ているようだったが、実際は何も見ていなかった。ただ、表情をひとつも変えずに、白い息を吐いただけだ。


 耳元に通信が入る。

 受信すると、それは火急の事態を告げていた。

 彼女は口を開く。


「了解した。お前達はそのまま、心を乱すな。まもなく、私が向かう」


 そして、切断。


 まもなく彼女のシルエットは、その純白の翼を広げて、地上へと落下していった。



 羽根が、ほんの少し、灰の空に舞った。

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