第12話


 


 ある日――といっても休日なため、僕は遅くまで眠る。いつもならすぐに起きてバイトへ出掛ける時間だけれど、今日は平気。

 なぜなら、今日こそは僕にとって唯一の救いとなる日。



――『学生の日』



 どこの誰がいつ考えたのか、意味すら不明な日であり、今日である意図性も見えない・・・・・・つまりまあ、まったくもって意味分からん日だけれど、それでも学生には休みが与えられる。


 この日をつくった誰かさんと、それを使ってくれるお偉いさんには感謝しかない。


 ぐっすりと眠ったからか、少しだけ気分が良くなった僕は、次第にその意識を浮上させた。

 しかし、それと同時に耳に届く違和感。


――コンコンコンコンコンコン・・・・・・・・・・。


 聞き間違えるはずもない。

 あれは、間違いなく僕の家のまな板と、包丁の音だ。


(何でしょうね?)


 どことなく嫌な予感が脳裏を走った――けれどそれを否定するように、僕は首を左右に振り払う。

 耳を澄ませば、それは隣の家からのような気も――


「ふんふふ~んっ♪」

「…………君、ですか」


 小さく、誰にも聞こえないくらいの声で僕はそう呟いた。

 知っている声。それどころか、最近になって少しだけ僕を困らせている原因の声。


――〝彼女〟の姿が、在った。


 やはり、と思うよりも先に、どこか落ち着いていく僕自身に気がついた。可笑しい、けれどそれを否定するための言葉が見つからなくて。

 

「……? ……あ、おはよう」

「っ。……おはようございます」


 淡く微笑んだ彼女に語り掛けられ、僕は一瞬だけ詰まった。そんな僕を面白そうに笑って、彼女はまた向こうを見る。

 僕が少しだけズれて見ると、美味しそうな鍋が作られていた。


 今も、僕からは見えない何かを切っている音だけがする。


「・・・・・・・・」


 僕は、何も言わずに自分専用、といっても1つしか無い椅子に座って、彼女の後ろ姿をぼーっと眺めた。

 もはや、恒例になっている気がする。


 昨日どころではなく、この一週間はほぼ毎日僕の家に来ていた。それも、部活があるはずなのに僕よりも先に家の中に居て。

 時々、僕は忘れてしまう時がある。夢なんじゃないか、って。


「それにしても、こんなに遅くなるのは初めてだよね? どうしたの?」

「今日が休日だからだよ。君こそ、何で此処に?」

「私が、此処に来たかったから、じゃダメなのかな?」


 ええ、ダメです。そう続く言葉を言おうとして、僕は声が出せなかった。喉から出る寸前で、ぐっっと自分で力を入れて飲み込んでいた。

 なぜ?そう思うよりも先に、僕は言葉を溢す。


「誰かに見られたら、後戻りが出来なくなるよ。

「大丈夫よ」


 一瞬、彼女の声が揺れていた。極々小さく、それでいて欠点の無い彼女の、珍しい出来事。

 思わず、僕が驚いてしまうくらいには珍しかった。


「どうしたんですか?」

「何が?」

「君は今、何かを押し殺すように僕に言いました。君らしくない」


 彼女らしさ、なんて僕には語れないけれど。自然とそう口から出ていた。

 ちょっぴり言ってから後悔したのは内緒で、僕は彼女の顔をそっと窺う。


(?!)


「嬉しいなぁ」


――笑っていた。それも、とびきりの上機嫌で。


 続けて放たれた言葉に、僕はさらなる驚愕を覚えた。何が、何で?彼女の、久しぶりに見たその笑顔。

 偽りの無い、心の底から満たされたときの顔。なぜだか、少しだけ面白い。

 彼女に釣られるように、僕も笑みを浮かべていたんだと思う。


「むっ、どうして君が笑顔になってるの?」

「君こそ、何が嬉しかったんですか?」


 質問に質問で返して―――失敗した。

 

「ふふっ。・・・・・・君が、私を見ててくれてる、ってわかったからね」


 穏やかで、少しだけ頬を赤く染めた言葉だった。けれど、僕には刺激が強くて。


「ぁ・・・・・・・う・・・・・・・・」


 言葉が出なかった。恥ずかしさやら、失態に気付いたことへの怒りだったり。

 とりあえず、なんでも良いからこの酸っぱい感覚をどうにかしてほしい。頭が正常に機能しなくなる。


 彼女の顔を、姿を見ていられなくて、僕は反対側を向いた。そんな僕を見たのか、彼女が少しだけクスリと笑みを溢す。

 けれど、今はその声すらなんだか僕の頭に浸透してきて。


(・・・・・!・・・・・・・・・君の所為ですよ・・・・・・)


 内心で悪態を付く程度しか、僕にできることは無かった。体中が熱い。頭が真っ白になるような感覚で、僕には理解できない。

 けれど、安心できる。止めてほしい、切実に。


 頬が赤くなっているのは気付いていたけれど、今ここで動けば後々からかわれるのは目に見えていたから、僕はそのままでいた。

 せめてもの仕返しに、ムスッとした顔で。後に彼女からその時の表情が良かったと言われた時には布団に潜り込みたくなった。



 僕が何とか平静になれたのは、それから少し経って、彼女がいつもの彼女に戻った頃だった。


「じゃあ、ご飯にしよっ」


 

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