二章

6「現×男」

 12月に入ったとおもったら早くも一週間が過ぎていた。月末には発売を控えているゲームがあり、今日も含めてここ最近は終電での帰りが多くなっている。それでも間に合うかどうかは五分五分といったところで、下手したら会社に泊まり込みってこともあるかもしれない。今年は仕事一色で終わりそうなことに気分は重くなる。


 フェンリルと出会ってから私の生活に対するモチベーションが随分と変わった。帰ったら誰かが待ってくれていることに、家賃の関係で駅から遠い自宅までの帰り道も一人暮らしの時より幾分かは足取りが軽い。


 帰る道を半ばほどまで歩いた時だった。妙な視線を感じて立ち止まる。振り返った先、暗がりに微かだが気配がする。最初はただの勘違いだとは思ったが、気配はつかず離れずの距離で私についてきている。それがはっきりと人だとわかってから、私は早足になった。


 ここら辺は住宅街も多く終電帰りの人と同じ方向でも何もおかしくないが、それは私が立ち止まるのに合わせ、身を潜めなければならない理由がない場合に限る。


 自宅までにはまだ距離があり、全力疾走してもインドアの体力じゃ到底もたない。それに誰かがついてきているとわかった途端足が重くなるのはなぜだ。歩いても歩いても、一向に進んでいない気がする。


 とにかく距離を確かめようと立ち止まった瞬間、自分以外の足音がものすごい勢いで近づいてくるのが聞こえ、そのまま何者かに私の身体は押し倒されていた。


 月を背にして私を見下ろす誰かは、頭からすっぽりと被ったフードで顔は見えず男か女なのか、はたまた人間の類いじゃなにのかまったくわからない。

 全身を包む黒の服は完全に闇と同化していて、まるで意思を持った闇が今まさに私に襲いかかろうとしているようだ。


「あっ……かはぁっ……」


 人間本当に怖いものと出会った時は声がでない。身体も首から下が自分のものじゃないかのように、まったく動こうとしてくれない。


 どうして私がこんな目に遭わなきゃならないんだ。運命の女神は意地悪すぎる。そういえば今日は日曜日、休日ぐらい仕事せずに休みたいだろうな。なんて、現実逃避した思考だけはやけに速く回る。


 月明かりに照らされ、手元で光っているものが視界に入った。それが刃物だと認識した途端、否応なく実世界に引き戻された。


「ふ、フェンリルっ……!」


 振り絞り放った叫びよりも速く刃物が私に向かってくる。無理、死んだ。


 ここで死んだらゲームはもう作れない。それは惜しい気もするけど終電帰りもしなくて済むのならありなんじゃないだろうか。次々と蘇ってくる記憶の断片、これが走馬灯ってやつなのか。


「……あれ? 私生きてる?」


 身体をまさぐって確かめるも、どこにも刃物は突き立てられていないし出血もない。私がなぜか生きている理由、目の前に立っていた男の背中が教えてくれる。


 いつの間にか私と襲ってきたやつとの間に入り込み、刃物を持っていた腕をしっかりと受け止めていた。どれぐらいの力で握り込んでいるのか、フードの奥からうめき声を漏らし、強引に男の腕をふりほどき逃げるようにして闇に消えていった。


「危ないところだったね」


 さっきまで緊迫した状況だったはずなのに、まるで何事もなかったかのような優しい声で語りかけてくる。


「あ、ありがとう……ございます……」


 差し出された手を掴んで、ようやく立ち上がることができた。長くスラッとのびた黒髪に、まるで執事を思わせるかの気品に満ちた服装。時折揺れるもう片方の袖は、空っぽだった。


 危ないところを助けてもらっておいてあれだが、私の不信感は拭えない。こんな遅い時間にそんな格好で出歩いている人間を、どうやって受け入れたらいいものか。


「それじゃ、私はこの辺で。本当にありがとうございました」


 私も逃げることにする。


「あの娘は、元気にやってるかい?」

「え……?」


 同僚の知り合いだろうか。私って会社でもそんなに喋るほうじゃないから、こんな人が知り合いの同僚ってのがすぐには思いつかない。私が返答に困っていると、男は反対方向に歩いて行く。


「今日はもう遅い。また今度お邪魔させてもらうことにするよ」


 気になることだけを言い残して男は去って行った。色々と立て込み疲れ切っていたこともあり、その男を呼び止めて問いただすことも面倒くさい。


「私、どこかで会ったことあったっけ?」


 頭の片隅にモヤモヤとしたものだけが残っていた。









「佐々木さん、今日は随分と遅かったですね」

「ま、まぁね……申し訳ないけど晩ご飯いらないや」


 疲労困憊。熱い風呂に入って今日はこのまま寝てしまいたい。


「待ってください!」


 家に上がることを制止され、私は玄関先で靴も脱げずに棒立ちのまま。フェンリルの許しがなかなか下りず、段々とイライラが募ってくる。


「クンクンクン……」

「ちょっと、今度はなにさ?」


 フェンリルはいきなり私の全身を嗅ぎ始める。足下からはじまりそのまま顔のほうに上ってくる。肌にかかる息がこそばゆく変な声が出そうになり、その身体を押しのけるとフェンリルはハッとした表情になった。


「男の匂いがします。浮気ですか!?」

「浮気? なんのこと言ってる、のさ……」

「その反応はやっぱり浮気ですね!? 私というものがありながら……!」


 泣いて怒って詰め寄られて、さっさと寝たいのに玄関先で何をやっているんだ私。


 自分自身にさっきまで起こっていた出来事をざっくりと説明すると、フェンリルの怒りのオーラはますます大きくなってくる。そのまま横をすり抜けていこうとしたのを今度は私が制止する番だ。


「どこいくのさ」

「その悪漢を殺しにいきます」


 フェンリルの下した判決は執行猶予なしの極刑だった。目が本気なのがまた怖い。こうなるからフェンリルには言いたくなかったのに。

 今なおズイズイと進んでいこうとするフェンリルを必死に引き止める。


「また物騒なことを。もうどこにいるかわからないし、私も無事に帰ってこれたわけだしさ。それに殺すのはさすがにあれだしね?」

「佐々木さんがそういうなら……でも今度見つけたときは一発ぶん殴ってやりますからね」


 身内から殺人者を出さずに済み、こうしてようやく一日が終わる。疲れを湯船に溶かしていくと、段々とまぶたが重くなってくる。


「そういえばあの片腕の男……」


 どうしても拭えない既視感。自分の中で何かが引っかかり、フェンリルには片腕の男のことは話さなかった。なんにしろ面倒事はもう懲り懲りだ。

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