第5話 感染

「うぁぁぁ……!?」

 崩壊した精神が、泣き叫びそうになった、その瞬間。

 ヴェルムがメイフィを抱きしめた。

「え!?」

 あまりにもあり得ない人物。

 あまりにも意外な行動。

 その意図を考え、戸惑っている間に、精神の崩壊は止められていた。

 そして、気を失いかねないほどの疲労と共に、自分が一人でないことの安心が心を支配する。

「すまない……本当に、すまない……」

 もういいよ、などと言ってみたい。

 私はもう終わりで、もう私でなくなるか死ぬかしかない状況であるにも関わらず。

 この人に、人並みの感情があったという事が、とても嬉しく、とても愛しい。

 長身のヴェルム。

 本気で喧嘩をすれば、おそらく自分が勝つくらいに弱いヴェルム。

 シャムレナいわく「ひょろ長いだけの弱っちい奴」。

 なのに、こんなにも力強くて頼れる存在。

 心が穏やかに、冷静になっていくのが分かる。

 そうだ、自分はもう助からない。

 落ち着いた今なら、それを理解し、そして受け入れることが出来る。

 それならば、もう、自分で決めなければならない。

 あの時の言い争い。

 いや、それにすらならなかった、意見交換。

 結局、この人が正しかったのだと、教えてあげなければならない。

「ヴェルムさん」

「……何だ?」

「私は、醜く生きようとは思いません」

 そう、前に初めてヴェルムと口論した時、彼は「我々は醜く生きるか、気高く死ぬかしか選択できない」と言ったのだ。

 それに対して、メイフィは「自分の出来る範囲で美しく生きる」と答えたのだ。

 だが、そんな選択肢は、存在しなかった。

 今となってはヴェルムが正しかったのだと言える。

「私は、気高く死にます」

 この人は、いつも正しい。

 この人は、いつも間違えない。

 そして、この人には、優しさもある。

「私を、殺してください」

 このまま生きていれば、私がどうなるのか。

 それを知っているこの人は、おそらく私を殺してくれる。

 何の迷いもなく、殺してくれる。

 冷徹な、機械のような人だから?

 いや、違う。

 この人には感情がある。

 この人は頭が切れる。

 だから、分かっているのだ、私がどうなるのか。

 それを哀れだと思ってくれるのだ。

 だから、この人は、必ず私を殺してくれる。

 それを私が望んでいると言っているのだから。

「そうか……」

 いつもの無表情。

 けれど、毎日顔を見ている私なら、分かる。

 この人は今、悲みを感じていると。

 それは、長年一緒にやっているはずのシャムレナでも分からないだろう。

 私よりも長く仕事をしている他の課員でも気付かないだろう。

 私だけが、分かる。

 この人は、私が死ぬのを悲しんでくれているのだ。

 そして、私もまた、悲しい。

 せっかくこの人の事が、こんなにも理解出来たというのに。

「次長……ヴェルムさん」

 最後なのだ。

 次、意識を取り戻した時には、もう私ではないかも知れない。

 だから、上司ではなく、人間として、この上司のことを自分がどう思っていたかを伝えておいたい。

「私は最後にあなたの部下になれたことを幸せに思います」

 糖分は徐々に頭を巡ってきてはいるが、同時に強烈な眠気も襲ってくる。

 意識が少し遠くなっている。

 ああ、もう、駄目だ。

 早く伝えないと。

「ヴェルムさんは、ほんの少しでも感情的になっていいと思います」

 伝え終わったら、このまま気を失い、殺して貰うのだ。

「確かにそれはただの費用コストの無駄遣いになりかねませんけど……でもそれって将来的に返って来るんじゃないかと思います。誰かのために感情的になったら、きっとその人は感謝しますし、一生かかっても何かを返してくれるんじゃないかなって……」

 ああ、もう、この人の表情もぼんやりし始めた。

 これは、疲労なのか呪いなのか、もう分からない。

 とにかく、急速に眠くなっている。

 意識が、保てない。

 もう長々と話をしていられない。

 言いたい事だけを、言おう。

「少なくとも、私は、もし生きていたら、あなたを好きになって、あなたにこれまで受けた恩を全力で──」

 その言葉は、最後まで言えず、私は、眠りに落ちた。

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