少女の夢

「……それで、ご用は?」


 娘はガラスの器のふちから薄青い目を覗かせた。


「あら、会いに来ただけよ」

「……そう」


 伏せられた目からその表情を窺うことは難しい。烏の乙女は優雅にカップを傾けた。


「美味しいわよ、ひばりちゃんもおあがりなさいな」


 雲雀は肩を揺らすと恐る恐る赤い茶を口に含んだ。その顔がきゅっとゆがむ。


「……お食べ」


 その様子を見ていたのか、薔薇のもののけはどこからか氷のような砂糖菓子を取り出した。


「相変らず、想像力の素晴らしいことね」


 砂糖菓子を一つつまんだひばりが首をかしげた。


「そう、ぞうりょく?」


 匂いを嗅ぎ、光に透かすなどして砂糖の結晶を舌の上に乗せたひばりは幸せそうに笑う。乙女はその唇にもう一つ砂糖菓子を押し込んだ。


「……想像力じゃない」


 薔薇のもののけは不機嫌そうに菓子をつまんだ。


「私は、夢を見ているだけ」


 砂糖菓子がガリリと砕けた。藤の花が一つ落ちる。娘はぐいと手を出し、紫のかけらを掴み取った。


「──手のきずからは みどりの花がこぼれおちる。私の……」


 袖が揺れ、花の香りが立ちのぼる。手の甲がうっすら赤くなる。手首の赤いあざがざわりと揺れる。


「わたしのやはらかな手のすがたは」


 娘は手を開いた。ばらばらと金平糖が零れ落ちる。水音を立てて赤い茶の中に滑り込んだ金平糖は融けずに、茶の中に蓮のような鮮やかな姿の花を咲かせた。娘がくるりと盃を回すと、花もそれを追うようにゆるりと回る。白蓮は炎の照り映るみずの中に沈めど、その清らかさを保っているように見える。娘は皿の上の砂糖菓子を一つつまんで茶の中に落とすと、一口含んで満足げな笑みを見せた。


「夢を、見ているの」


 ひばりは妙に納得したように繰り返した。自分の手を机の上に置いて、固く握ってみる。


「──ますぐなるもの地面に生え、」


その手がほの赤く透けることも、産毛が揺れることもない。烏の乙女もそれをまねるように手を出した。


「──いと紅き林檎の実をば……きゃっ!」


 手のうちから赤い閃光が漏れ、髪を留めていた銀細工がぱちりと弾けた。かけらが飛び散り、植木鉢を二つと花瓶を一つ貫く。温室の壁に当たって跳ね返った真珠の球がころころ転がった。


「……先生は、力みすぎる」


 はらはらと零れ落ちる髪の毛を撫でつけながら、乙女は微苦笑をした。


「そうね。……あの銀細工のイメージは、若菜姉から頂いたものだったのに」

「……若菜の先生はまだ、生きてる」

「そうだけれど……あの人にイメージを頂いたとき、とっても緊張したのよ。私はまだ来たばかりだったし、若菜姉の詩人はこれの詩人が尊敬してらっしゃった方だし、若菜姉もお洒落な方だし」


 夢見るように『邪宗門』の表紙を撫でる烏の乙女。薔薇のもののけはふいと目をそらして、目に涙を溜めるひばりを見やった。


「……その色は『月に吠える』の色じゃないの」


 冬の訪れを告げるようなやわらかい紅茶色の生地を指し、娘は言った。ひばりの顔が凍りつく。不思議そうに口を開こうとする娘を遮るように、烏の乙女は明るく言った。


「そうだわ、林檎ちゃん。この前作っていた香水は完成したの?」


 着地点を見失った言葉はシャボン玉のようにふわふわと漂うようだった。温室の上に雲が流れ、部屋の中が暗くなる。娘の持つ器の花が不気味に光って色を失った顔を照らし出した。


「まさか」


 目を見開いた薔薇のもののけは息を吐くように言った。


「……詩情が、ないの。詩壇の寵児に?」

「ここに詩壇はないわ」


 薔薇のもののけは反駁しようと口を開きかけたが、烏の乙女の強い眼差しを受けて口を閉じた。


 温室の中はしんと静まり返って、少女たちが深呼吸を繰り返す音がやけに大きく聞こえる。


 乾いた笑い声が反響した。青白い顔に貼り付けたような笑いを浮かべたひばりは、机の上の何もない一点をじっと見つめていた。


「あは、やっぱり、わたし、綺麗になりたいなんて……思うべきじゃなかったんだ」


 自嘲するひばりの顔が歪む。この本がすべて悪いのだ、とでもというように指が真っ白くなるほど『月に吠える』を握っている。烏の乙女はその指に手を添えた。


「本は大切に扱わなければ、ね」

「……でも」

「その本は私たちにとってとても大切なものなの」


「……引き裂いてみれば」


 娘はそのやり取りを一瞥し、冷たく言い放った。いつの間にか彼女の体には緑の蔦が巻き付き、しゅうしゅうと唸っている。ひばりは怯えたような顔をしたが、きっと唇を結び、指の三本ほどしか入らない本を無理やり広げようとした。


 ギギギギギ、骨が軋む音がする。髪がバラバラと落ち、頬が裂ける。服に無数の黒い点が浮かんだと思えばだんだん大きくなり、無数の活字になる。セピアの布地が活字に分解されていく。


 ──らんすへ行きたし──空より青いのがいい──あまりに──いや、白い地に空が──せめては新しい──大きな袖が──みづいろの──ドレープが寄っていたら──みづ──み──みづい──しののめ──め──しのの──のめ──


 ベレー帽がわたに変わる。セピア色から小花が浮く。ひばりはぼろぼろと涙を流しながらさらに本を開こうとした。指から血が流れ、活字に分解される。落ちた髪が活字に分解される。少女たちの視界が活字に埋めつくされる。生気のない、活字の流れが渦になり、花を巻き込み、紅く染まる。血の匂い、活字の匂い、そして……死の匂い。煙の匂いが活字を焦がす。ひばりの口から劈くような叫び声。痛みに漏らす声ではない。それは、詩人の叫び声だった。苦悩の叫び、恐怖の叫び、背徳、反抗、音楽、恋情、そして……孤独の叫び。


「お止め!」


 烏の乙女の声、打擲音。本が落ちる音。それを追いかけるように、活字が少女の身体を編み上げた。傷が消える。黒いインクの染みは消え、元通りの古風な小花柄に戻る。落ちた髪も戻り、その上には何事もなかったかのように帽子がのっている。活字に痛めつけられた藤は逆さまに落ち、折れた茎は立ち上がり、倒れた花瓶、割れた植木鉢も巻き戻しでもしたように美しく戻っていく。外は風が強いようで、また温室の中は明るく照らされた。


 少女は呆然と紅葉の形に紅くなった頬を撫で、へたりと座り込んだ。烏の乙女は倒れるように椅子に座ると、震える手で冷めてしまった紅茶を取った。


「……分かったでしょう……私たちは、夢でできてる」


 薔薇のもののけは両手で包んだ透明な器を、ひらりと落とした。

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