旅上

 強い風に膨らむ黒いカーネーションが、秋の陽の光に照らされて深紅に光る。物悲しい空気の中に、凛として声が響く。


「ふらんすへ行きたしと思へども 」


 紫の火花が散った。ひばりが弾かれたように立ち上がる。


「ふらんすはあまりに遠し 」


 鮮やかな空色が、ひばりの周りをぱっと舞った。その後を追うように、白色も。タフタの反物がくるくると巻き付き、入院着をすっかり隠してしまう。


「せめては新しき背広をきて」


 ひばりの爪先が緑に染まる。柔らかい緑の匂いが立ち上る。反物がぱっと広がり、部屋中に春の空が広がった。ひばりは慌てて反物を引き寄せる。


「きままなる旅にいでてみん」


 広がった白の生地にかすみ草が咲くように、小さな青花がパッパッとあらわれる。黄色の巻尺が巻き付き、生地に鋏が入れられる。


「汽車が山道をゆくとき」


 前身頃、後ろ身頃、腰でフリルを寄せたスカート。大きな襟、膨らんだ袖に貝のボタン。見えない針が身体に纏わりつく布を繋いでいく。春の風に膨らんだ髪はうねりながら耳隠しに結われる。


「みづいろの窓によりかかりて」


 ぱっと火花が散り、淡い色のカンカン帽が落ちてくる。ひばりはちょっと澄まして襟を直すと、満面の笑顔でワンピースの柄を見、くるくると回った。部屋が真っ白なペンキで塗られる。ドアと窓の青ペンキがてらてらと光る。


「われひとりうれしきことをおもはむ」


 楓の床を若草色の靴が叩く。白い花が咲くようにペンキが広がっていく。窓際に置かれたマンドリン、可愛らしい勉強机の間を縫うように、少し黄味がかって見える春の風が吹きまわる。


「五月の朝のしののめ」


 その風がすっと冷え込み、うす青い霧が部屋の中に満ち満ちる。寒々とした光が部屋に差し込む。朝が来た。


「うら若草のもえいづる心まかせに」


 乙女の声が壁を叩く。居心地の良いアトリエの景色にひびが入り、硝子が割れるように景色が崩れる。



 ──どこまでも広がる草原に、一人の少女が立っている。どこからともなく大勢の少女たちが現れるが、中心の少女は孤独そうにしている。ひばりは少女の周りで笑いさざめく少女たちの中にお姉さん──邪宗門のを見つけ、横を見た。唇を噛んで懐かしそうに少女たちを見つめる邪宗門のがあるがいる。また少女たちの方を見た。黒い髪を踊らせる邪宗門のがあるが笑っている。


「あ、げんとう、か」


 ひばりが納得したようにつぶやくと、孤独そうな少女がくるりとこちらを見た。茶色の髪が少女の顔を隠している。


 いつの間にか、少女の取り巻きたちは消えていた。少女はひばりをじっと見て、


「君は、君だよ」


 大声で言うと、身を翻して遠くの方に走り出した。長く伸びる二本の腕が、一対の翼に変わる。少女はみるみるうちに茶色の小鳥に姿を変えて、飛び立った。雲の中に遊び、力尽きた小鳥は煙になってその姿を消した──。



 色があせて景色が揺らぎ、二人の少女は見つめ合った。ひばりはこの新しいワンピースが、周りの景色と同じように溶けてなくなってしまうのではなかろうかと言うように裾をつまんだ。


「あの女の人が、じゅんじょう、しょうきょくしゅう、の……?」


「そうだよ」


 返事は思わぬところからきた。


 いつの間にか大きく開け放たれた飴色の扉の前に、一人の少女が立っていた。土色の澄んだ瞳に炎を燃やし、大きな口をきゅっと結んだ小麦色の肌の少女は、肩を怒らせて部屋の中に入ってきた。

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