09

「あ。」


 ビートランドの八階。

 高原さんから使っていいと言われたスタジオを見に行こうと、あたしと聖子はエレベーターで八階まで下りた。

 そして、廊下を歩いてると…千里とすれ違った。

 つい声を出してしまったものの、千里は知らん顔して通り過ぎる。


「何。何が、あ、なの」


 バイト規約を読んでた聖子が、顔を上げる。


「…その、今日花買って帰ろうかなと思って…」


「…本当?」


 聖子は仕方ないけど、疑い深くなってる。

 あたしは、つばをゴクンと飲み込んで。


「…今の」


 って言った。


「何」


「今すれ違ったのが、戸籍上の夫」


 あたしが小さな声で言うと。


「……」


 聖子は、さりげなくゆっくり振り返って。


「ちょっと、本当なの?」


 千里を確認したかと思うと、ものすごい形相であたしに詰め寄った。


「う…うん」


「あれって、TOYSの神 千里かみ ちさとでしょ?」


「…知ってるの?」


「知って…あ、知花、邦楽ロック疎いんだっけ…」


 聖子は額に手を当てて天井を仰いだ。


「学習はしてるんだけど…」


「あのね、TOYSって、今一番の有望株バンドよ?神さんって、その中でも何でもできるすごい人なんだから」


「…そうなんだ…」


 仮にも結婚相手なのに…何も調べず結婚した。

 …ほんと、あたしって。



「これで納得。あの新譜…」


「でも、家にいる時って全然音楽の話しないんだよ?」


「全然?」


「うん。楽器弾いてるのも見たことないし」


「じゃ、仕事に来てガーッと作るのかな。まさに神業ね」


「……」


「…ちなみに、TOYSを聴いたことは?」


「…ない」


「聴いてみなって。神さん見る目変わるから」


「う…ん、でも…」


「でも、何よ」


 あたしは廊下にあるベンチに座って、指をもて遊びながら言った。


「聴くキッカケがないっていうのかな…」


「どうして?CDとかあるんでしょ?」


「わかんない」


「聴くから貸してって言えばいいじゃない」


「千里に?やだな…なんか」


「どうして」


「だって、絶対変な条件つけてきそうなんだもん」


「変な条件?」



 この前、帰るコールがあった時。

 あたしは千里に。


「牛乳買って帰って」


 って、お願いした。

 すると千里は。


『じゃ、今晩やらせろよな』


 って…

 結局あたしは自分で牛乳を買いに行ったのよ。



「どんな条件よ」


 聖子の目は、興味津々で光ってる。


「……」


「…何よ。何なの」


 答えなければ答えないで、何か勘繰ってる風な聖子。

 じりじりと距離を詰めて顔を覗き込んで来る。

 …そうされると…思い出しただけで赤くなる自分がいて。

 そんなあたしを見た聖子は、勝手に答えを出したのか…


「…神さんって、そんな人なのぉ?」


 って、目を大きく開いて体を引いた。


「いや…何も言ってないけど…」


「でも、、でしょ?」


……?」


 あたしが小声で問いかけると、聖子はあたしの耳元に手と唇を寄せて。


「ベッドに誘われる…とかでしょ?」


 囁くような声で言った。


「……」


 遠回しに言われると、余計恥ずかしくて…いや、これはどんなふうに言われても恥ずかしい…!!

 無言のあたしに聖子は目を細めて頷いては、何か一人で呟いてる。


 も…もう…

 この話、終わらせたい…!!



「でも、あんた、すごい人と結婚してんのよ?」


「けど…偽装だし…」


「好きじゃないの?」


「……」


 聖子の問いかけに、黙ってしまった。

 以前ならまさか!!って答えたと思うんだけど…

 最近、少しずつ千里に興味を持ち始めてるみたい。



「…こんなこと聞くのもなんだけど…」


「…何…」


「いくら偽装って言っても…一つ屋根の下だし…その…やっぱり…誘われるがまま…」


 聖子がしどろもどろに言うもんだから、あたしの赤はさらに赤になる。

 …いやっ、違う。

 違うの。

 誘われるがままなんて…してない…!!


「…それでも好きじゃないの?」


 聖子は、あたしの真っ赤な顔を見て言った。


「…わかんない…」


 あたしは赤くなった頬を押えながらそう答える。


「やっぱり気が付いてないだけじゃない?好きなのに」


「でもね…」


「ん?」


「千里、彼女いるみたい…」


 さりげなく、小さく言ってみる。


「なー…」


 誠子は口を開けてあたしを見て。


「なのに結婚したの?」


 って、驚いた口調。


「最近まで知らなかったの…」


「で、神さんはそのことについて、なんて?」


「彼女イコール結婚ってのは違うって…」


「何それ」


「だから、そういう人なんだってば」


「なるほどねえ…ナイフのような人だとは聞いてたけど…」


 聖子が腕組して頷いてる。

 あたしは…

 千里の彼女が瞳さんなのを、聖子に言えずにいた。


 そして…


 その事にモヤモヤしてる自分に…気付かないフリをしていた。

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