夢だの愛だの嘯くやつにドロップキックしたい

本陣忠人

夢だの愛だの叫ぶやつにドロップキックしたい

 プルースト効果。


 それは匂いを嗅ぐことで、それに紐付いた特定の記憶や感情が不意に呼び起こされる現象のことを言う。


 具体的な例を挙げれば、夕方の帰宅途中に懐かしい味のするカレーの匂いに遭遇した際なんかに、かつて在りし日の青い少年時代が不随意的に蘇ったりするアレである。大体の人間が胸を抑えて死にたくなる奴ね。


 さて、ここまでクソつまらん引用めいた雑学を披露した理由を推察出来ない方は恐らく理知的で無ければ理性的でも無い人間で―――オマケに言うならば、想像力すら欠如したろくでもない人間であることが予想されるのでここで帰ってくれて結構だ。


 …よし、ああっと…帰ったかな? もう全員帰ったよね? うん、多分。きっとそう。

 合間や空気の繊細な行間を読めないし読み解けない…人間間に存在する高度かつ曖昧な機微を一切かいさない愚鈍なロボット達はここからいなくなったよね?


 よし! そういう訳で、ここに残った物語の前置きすらも認めぬ浅慮な人間性を存分に発揮した面白味皆無な人間以外の―――きっと崇高で最高な、実に人間らしい上に人格者でもある上位何パーセントかの人達に向けて高らかに語るとしよう。


 とある匂いと思い出と。

 それにまつわる物思いの様な小話を―――帰宅途中の僕が駅前で体験したちょっとした出来事を。




* * * * * *




 となると、着目すべき点は二つあるよね。

 一つはその効果が測定されるための原因となった匂いとは何かということ。

 そして、もう一つはそれをぐ事によって呼び起こされたエピソードとは一体どういうものかということ。


 もっともこの二つさえ示してしまえば、この話の成分の七割くらいを締めてしてしまうし、そもそもお話自体に全く意味が無くなってしまうので、ここでは説明しないでおく。敢えてね。アイデンティティやレゾンデートルは大事にしていきたい年頃なのさ。


 前説めいた前置き代わりの与太話はこれくらいにしてそろそろ本筋に入ることとしよう。


 とある日のことだ。その日は晴れていたような気もするし、気の重い長雨があった日かもしれない…いや傘を多分持ってなかった気がするから恐らく晴れていたと思う。暑かったか寒かったは覚えてないが、きっと過ごしやすい日だったはずである。


 とにかく僕は一切価値の見出せない業務に忙殺されて帰宅が平時よりも二時間ばかり遅くなったのだ。おかげで空腹も最高潮であり―――その結界も最寄りの駅に着いた瞬間に決壊して―――とにかく腹を満たそうと改札を出てすぐの所にある牛丼屋に飛び込んだ。


 入り口側の食券機の前に立つとすぐさま店内奥の厨房スペースから様々な匂いが空調に乗って流れてきた。動物的な肉の匂いや豊かなカレーのスパイスの香り…弾ける音から察するにこれは揚げ物だろうか?


 食の香りと客の気配、謎に軽快なBGMなんかを背後に感じながら、空腹に相談しながら食べたいメニューを思案する。


 牛丼屋らしく牛丼か、それともあっさり美味しい豚丼か。或いはうどんや唐揚げなんかもアリだな〜。


 味噌汁をつけるべきだろうか、そんな事を灰色のシナプスを無駄遣いしながらつらつら思う。ヤバい。僕の後ろに客が並んでしまった…早く決めなくては…!!


(とりあえず、定番の牛丼に温玉おんたまでも載っけよう…)


 タッチパネルを操作し、発見するまでの一瞬。僕の目に飛び込んだのは牛丼屋的にどうなのと思うメニュー、日本の国民食とすら言える一品。


 折しも、先程の雑学を紹介する際に登場したインド発イギリス経由のピリリとした辛味が美味しい食べ物。


 カレーライス、である。


 えらく勿体ぶった言い回しになってしまったが、まあカレーが目に入ったというだけのことであるのだけれど、妙に引っ掛かったというのを表現したかった訳だ。


 いささか邪道的であると言えなくもないものの、昨今の牛丼屋界隈では普通に食せるメニューであるカレーライス…。


 所で、僕はカレーが食べたいときはカレー屋さんに行くが諸君らはどうだろうか? 出先でカレーが食べたくなったら僕と同じ行動を採択する人が半分くらいじゃないかな? 後はコンビニかスーパーで購入するくらいだと思う。残りは―――まあ、知らないし想像つかないけど、何か自給自足的に用意するんだろうな。


 カレーについて思いをせつつ席について、食券を店員に渡した。その代わりという訳でも無いだろうが、お冷を受け取る。食券を出すくらいで水が出てくるのだから、ギフトカードなんかを渡したら一体何を貰えるのだろうか? 普通に現金が貰えるんだろうな。


(そう言えば、彼女は牛丼屋ではカレーしか食べなかったっけ…)


 ここまで意味の薄い独白ばかりを砂時計の中身の様に積み上げて来たが、ようやっと前述のプルースト効果の一端に僕は触れた訳だ。


 彼女は別段偏食家という訳では無いのだが、考え方が妙に偏っていて、ひねくれている女性だった。

 牛丼屋ではカレーを食し、カレー屋ではポテトやナゲットを好んで食べた。バーガー屋ではサラダとチキン、パスタ屋ではピザを好んで注文した。

 例を挙げようと思えば枚挙に暇がない程であるが、とにかくそういう一風変わった人間性の下に独特な思考と嗜好を持った厄介なであった。


「―――」

「あ、どうも」


 牛丼と温泉たまごが乗ったトレイがテーブルに置かれたので箸を取る。

 僕はと言えば、見ての通りのつまらない凡骨人間なので牛丼屋では牛丼を頼み、カレー屋ではカレーを求める。ついでに言えば、初めて訪れるラーメン屋ではその店のおすすめ定番メニューを注文することにしている。


 余談はあくまで余談なので、思考を更に深く―――より昔に脳のスイッチを切り替えよう。


 思えば別れてから一度も連絡を取ってないし、彼女は元気だろうか? 追い求めていた夢を手に入れたのだろうか?


 一度は彼女の理想に乗った身だけど、彼女の様にはなれなかった。

 夢をいつまで追いかけられる程、僕はピュアには生きられなかったし、社会でその理想を叫び続けて永遠に抵抗活動を実行出来る様な強さも持っていなかった。


 それ故に喧嘩別れの後も連絡出来ないでいる。負い目が勝って、郷愁地味た想いを繋げられずにいる。

 それどころ毎日の仕事と生きる事に必死になって、彼女の事を思い出したのも随分久し振りのことである。


 そんな冷血な上に臆病で弱い人間に今更連絡をする資格なんかも無いけれど。


 自業自得とは言え、流石に気分が落ち込んで来た。怨嗟し連鎖しそうになるネガティブパルスを誤魔化ごまかす様に、喉の中へ牛飯を掻き込んだ。


「…ごちそうさま」


 水を飲み干してから店を後にした僕は駅前の広場に戻る。

 特に理由があった訳じゃないけれど何となく、もう少し彼女の事を考えていたかったし、もう少し頭を冷やしたかったから。


 近代的な広場に全くマッチしていない人造の自然を適当に目の端に入れながら、僕は冷たいベンチに腰を下ろす。


 一度考えてだしてしまえば、随意に止めることが出来ないのが思考の実に厄介な点である。僕の頭は先程から彼女と過ごした思い出なんかに満たされている。どれくらい満たされているかと言えば、男子中高生が女性の胸部に寄せる関心位の割合でおっぱいである…失礼、いっぱいである。


 彼女と初めて出会った春風かぐわしい大学のキャンパス。小柄な彼女の背中にはグレッチが入ったギグバッグがあったこと。

 その後、僕はドラマーとして彼女を背中から見守る事になったし、短パンを脱ぐ季節には男女のパートナーになった。


 彼女は本当に小柄で華奢で、ありふれた言い方なら抱き締めると壊れてしまいそうな危うい不安定さがあった。

 現実としてはそんなことは勿論無かったけれど、そういう何処か退廃的な雰囲気の中に熱く燃える鉄の様な芯を持った女性だった。


「って…?」


 柔肌をさらし、その肌に何もまとわぬ彼女を思い出し鼻の頭を膨らませた僕の顔が不意に上がる。


 これがドラマならそこに偶然たまたま彼女が通りがかったりするのだろうけれど、当然そういうのでは無い。そんな取ってつけたような都合のいい奇跡は僕の身には降りかからない。

 

 僕が顔を上げた原因は視覚効果などの刺激では無くて、嗅覚が反応したこと。風向きが変わり、喫煙者の紫煙が鼻孔に吸い込まれた事に起因する。


 この濃厚で甘ったるい香りはブラックデビル。彼女の愛飲していたオランダの煙草だ。今迄何万回と嗅いだ匂いは間違えようが無い。


 ここで本日二度目のプルースト。

 そのスイーツの様なフレーバーが僕を過去に引き戻す。


 その日、獣のように身体を重ねて愛を確かめた後、彼女は下着の上に僕のジャージを着用し、椅子の上で紫煙をくゆらせてた。


 ビールを一口、煙草を一吸い。彼女は言う。


「私はさ、いい年して夢だの愛だのを賛歌して幇助ほうじょする様な歌詞が大嫌い。お年寄りを騙す悪徳詐欺師より嫌い。ドロップキックしてクロスチョップした後にバックブリーカーをしたくなる」

「知ってるよ」


 不満気に口元で煙草を揺らす彼女は年齢よりも幼く見えて、僕はそれがとても愛おしい存在に感じた。


「だから、私がそんな世界を変えてやる。で腐った業界に殴り込んでやる」


 語気も鼻息も共に荒く、彼女は勢いのままに煙草を灰皿へぐりぐりと押し付けた。

 そして、らしくもなくモジモジとした面持ちで肩に掛かる茶色の襟足をイジる。


「何? トイレ行きたいの?」

「馬鹿死ね違うわよ…その」

「ん? じゃあなん……」


 追加の質問は物理的に塞がれた。発声と共に呼吸も出来なくなる。香るのは彼女のシャンプーと煙草の甘くて苦いアンビバレンツな味。


 幾度も舌を絡めて互いの体液を交換して、やがて僕の肺に空気が戻ってくる。自分勝手で急なキスだったが、彼女は困ったちゃんなのでこういう事は今迄何度もあった、流石にもう慣れたよ。


「だから、その時はね―――その…ね?」

「何? トイレの時がどうしたの? やっぱりトイレなの?」

「死ね馬鹿」


 暴言と共に再びのキス。

 ひょっとして彼女はキスをしてからじゃないと喋れない病気なのだろうか? 或いは僕の肺から排出された二酸化炭素を吸収して呼吸しているのだろうか?


 そんな馬鹿な事を考えながら、彼女の言葉を待つ。何やら言いたい事があるらしいし、何も言わずに待っておこう。下手な事を口にするとまた「死ね」とか言われるしな…。


 そして、待つこと数十秒。


「あのね…」

「うん」

「だからね……」

「うん」


 安物のベットに腰を掛ける僕の膝に収まり、そっぽを向いたまま彼女は小さな声を出す。


「私がドロップキックする時は後ろでドラムを叩いてよね」

「うん…いいよ」

「絶対、だからね?」


 若者特有の青く美しい約束を、僕は反故ほごにした。一方的に、彼女を傷付ける形で違えて裏切った。


 空を駆ける夢を諦めて、現実に根を張る事にした。


 その代償に恋人からの信頼と自身の抱いた理想を捨てたのだ。

 ドロップキックをするはずのリングから降りて、つり革を掴んで電車に乗る毎日。

 ドラムでは無くパソコンのキーを叩く日々、回すのはタムでは無く責任逃れの為の稟議書。


 ったく、 だね、全く。


 そんな僕をさて置いて―――彼女は果たして、夢を叶えたのだろうか? くだらぬ大人に制裁の一撃を加えられたのだろうか?


 今となっては、無関係の僕には知るよしすべもないが、本当に身勝手だけど、それでも彼女が折れず曲がらず生きていて。

 傷だらけで歩いたその先に、彼女の理想ゆめを手にしていると良いと思う。




* * * * * *




 などと自分勝手な悲劇と陶酔にみっともなく浸っていたのだが、次の休みにあっさりと彼女の消息を知る事になる。


 休日の名の通り、テレビを見ながら呑気に英気を養っていた僕は液晶越しに彼女の姿を見たんだ。

 CSの音楽専門チャンネル、そのオリジナルプログラムである「今月のイチオシ」的なコーナーで流れたMVで―――そこで彼女はえる様に歌っていた。


 白い背景で演奏する四人の男女。

 良く知る彼女は相変わらずグレッチを掻き乱しながら歌っていて、残りの三人は知らない奴だ。多分大学の軽音サークルの奴では無いな。


 画面の左下には曲の詳細―――MVの監督ディレクターと耳慣れぬグループ名が掲示されていた。どれ一つとして馴染みは無かったが、唯一彼女の痕跡こんせきを感じされるものがあった。


 それが曲名である「ドロップキック」。

 その名に恥じる事は無い暴力的で批判的な歌詞が何だか誇らしく懐かしい。


 色々な感情が湧き出て溢れ出る。

 そんな中で口を付いて出たのはこんな言葉。


「そっか、君は―――愛だの夢だのを賛歌する奴が大嫌いな君は、自身の夢に辿り着いたんだね……。俺は何やってんだろうなぁ…マジでさあ」


 一人暮らし初心者の様に画面に語りかけた所で、一つ気付いたというか…何とも言えぬ引っ掛かりを覚えた。ん? なんだろうか…?


 昔の恋人が歌っている映像をストーカーの様な気持ち悪い目と顔で凝視した結果、すぐに思い当たって得心が行った。なんだよ、ホントに君も大して変わってねぇな…。


「いくらなんでも俺の方がイイ男だろ…」


 白いギターをぶら下げてマイクを掴んだ彼女の後ろでドラムを叩くのは僕に良く似た痩身の男であった。もっとも、演奏技術は天と地程の差があるが、そこに連なる顔の造形は毎日鏡で見る自分の顔にそっくりだ。


 けれど、良く見ると僕の方が全然男前なルックスをしているし、彼女は相変わらず男を見る目が無いようだ。


 口の中で小さな笑いを噛み殺しながら、僕は冷蔵庫にビールを取りに行く。

 プルタブを引いて誰もいなくて何もない虚空に乾杯を捧ぐ。

 

「彼女の未来りそうに幸あれ」


 安い缶ビールを飲み干して僕は再び祈る。

 彼女の成功とは無関係に、僕は明日も現実を生きていかなければならないから。


 僕は僕の前に広がる現実せいかつを―――彼女とは決定的に別れてしまったをこれからも、歩いて行かなければならないから。


 時間の中で消え行く匂いと思い出を物欲しげに、みにくく唇を噛み締めながら見送って、僕はこれからも―――生きて行く。

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