三.闇纏う雨の森で


 いつの間にか雨が降り出していたらしい。

 ただ流されるまま下流へくだり、水勢がいくぶんか穏やかになったところで岸へと這い上がる。その間ずっとロッシェはルティリスをかばい続け、手を離そうとはしなかった。


 空気を満たす冷えた湿気は、ずぶ濡れの身体からじわじわ熱を奪ってゆく。寒さのせいか恐怖の名残か、小刻みな震えが止まらない。

 いよいよ激しさを増し地面を打ち据える雨水に薄められてゆく鉄の匂いが、ルティリスの恐怖心をあおり立てる。


「ロッシェさん、傷、深いんですか、ロッシェさんっ」


 どうしていいのか解らないまま必死に呼びかければ、肩に回されていた長い腕が痙攣けいれんするように動いた。うぅ、とかすかにうめき声が漏れる。


「……ルティリス、怪我は」


 抑揚よくよう少なに問いかけられて、ルティリスはロッシェの腕の中で首を振った。


「大丈夫です、ロッシェさんが守ってくれたから」

「なら、よかった」


 ため息のように深く息を吐き出し、ロッシェが腕を解く。途端に冷えた雨と湿気が肌を撫で、ルティリスはぶるりと身震いした。


「ロッシェさんの方が、怪我してますよね?」


 夜の森では可視光線が絶えて色を見分けることができない。それでも、生々しい血の臭いはロッシェの体に深い傷があることを示している。

 濡れきった地面に仰向けになっていたロッシェの、閉じられていた両目がゆっくり開く。思ったより生気のある瞳がルティリスを見た。


「平気。……慣れてる」

「でも、早く手当てしないと」


 焦りながら自分のバッグを探してみるが、指が震えてなかなか思うようにいかない。寒さと焦りと不安と申し訳なさがない交ぜになってまたも涙が出てきた。

 ――と、その時。

 自分を見ていたロッシェの双眸に、不意に警戒の光が宿る。

 雨音に混じる足音に気づき振り返ったルティリスの瞳に、真黒な衣服に身を包んだ人の姿が見えた。その顔と背格好には覚えがあって、彼女の狐耳が驚きに跳ね上がる。


「リトさん……?」


 足元にまで届く黒い長衣。丁寧に切りそろえられた漆黒の髪と、つった黒い両眼に、先のとがった耳。それは紛れもなく、自分に鍵を託したリトという名の魔族ジェマだった。

 予想外な人物の登場に一瞬我を失いかけたルティリスだったが、すぐに現状を思い出し彼にすがりつくように叫んだ。


「リトさん、助けてくださいっ」


 必死の表情で訴えるルティリスを彼は黙って見返し、それからおもむろに口を開く。


「正直、それほど期待はしていなかったんだけどね。思わぬ大物おおものを釣り上げてくれたじゃないか、ルティ」

「え? ……どういうことですか」


 それは記憶している彼と同じ顔で、しかし発せられたのは酷く冷たい声で。その齟齬そごが意味するところが何か掴めず、ルティリスは不意に怖くなって無意識に後ずさる。

 ロッシェが上体を起こそうと身じろぎして、傷の痛みに表情を歪めた。それでも視線はまっすぐリトを睨み据える。それに気づいて彼は不快げに眉を寄せた。


「だが、少しばかり詮索せんさくが過ぎたようだね。お察しだろうが、それを聖地に返されると困るんだ」


 ばさりと黒い外衣がひるがえり、耳障みみざわりな金属音が雨音を乱した。すらりと長い抜き身の片刃刀ファルシオンが夜陰に鈍く光を弾く。

 その切っ先をロッシェの眉間に突きつけ、リトは口元に薄い笑みをいて低く囁いた。


「選んでもらおうか。この雨の中で失血死するか、俺に従うか。……どうする?」

「リトさん、どうしてそんな、酷いことを言うんですかっ」


 思わずルティリスが声を上げるが、向けられた視線の冷たさにすくみ上がって口をつぐんでしまった。激しい水音の中、不愉快な沈黙が三人の間に張り詰める。

 ロッシェが、双眸を一度瞬かせてから低く問うた。


「僕が素直に従えば、僕自身や彼女に危害は加えない、と?」

「ああ、そういうことだ」

「それが偽りではない保証はあるのかい」


 両眼に険しい光を宿らせ強い声で畳み掛けたロッシェに、リトは冷笑を向けて言い放つ。


「言葉に気をつけたほうが良くないか? ルティはともかく、俺がお前を助ける義務はないのだから」


 いかにも横柄な言い方に、ルティリスがますます萎縮いしゅくして項垂うなだれる。ロッシェはしばし考え込むように視線をさまよわせていたが、やがて眉間にしわを刻んだ表情でため息をついた。


「らじゃ。……不本意だけど、僕はまだ死にたくないし」

「賢明だな。では、俺と一緒に来てもらおうか」


 ロッシェが疲れたように目を閉じて首肯するのを確認してから、リトは視線をルティリスに向ける。


「勿論、君も来るだろう? ルティ」


 その優しげな笑みの裏側にどんな本意が隠されているのか解らなくて、ルティリスは黙ってうなずく以外にどうしようもなかった。





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