二.フェリオヴァード


 月光の薄明かりと夜闇が溶けあう森の中、岩陰に息を殺して身を潜めながら、ルティリスは傍らのロッシェに身体を寄せる。枯れ葉を踏みしだく足音と湿り気のある焦げ臭さがすぐ傍まで近づいていた。

 ロッシェの視線は、岩の向こうに釘付けになっている。うずくまった自分の頭よりも高い岩に阻まれ、その向こうに何がいるのかルティリスには見えないけれど。


 不意にロッシェが身じろいだ。一瞬向けられた彼の瞳を見、ルティリスも直感的に立ち上がった。ぎらりと光る三日月型の剣が、いつの間にかロッシェの右手に握られている。


「川へ逃げろ」


 指示は短く、切迫していた。同時に背中を押され、ルティリスはうなずいて身を翻す。一呼吸分遅らせてロッシェが自分を追うのを、足音で確かめる。密度を増す火の匂いと、強い翼が茂みを散らす音に心拍数が跳ね上がった。

 背後でロッシェが舌打ちし、足を止めたのが解る。思わずスピードを緩めて振り返ってしまったルティリスは、飛び込んできた光景にすくみ上がって立ち尽くした。


 三日月刀シミターを構えるロッシェと対峙たいじした、巨大な獣。それは、炎の色をしたグリフォンだった。

 金鷲の頭と緋獅子の体躯たいく、金に輝く大きな翼。きんいろの瞳が静かな怒りを宿して、自分を睨み据えている。


『娘、その鍵を返せ』


 獣が発した言葉は鼓膜ではなく脳裏に直接響いた。鋭い爪をきだした前足を一歩踏み出し、それにされるかのようにロッシェが後退あとずさる。その威圧感にすくんだまま、それでもルティリスはふるふると否定の意で首を振った。

 獣の目が、炎を映して鈍く輝く。そして、ゆるりと翼を持ち上げた。

 ロッシェが再度舌打ちし、前身を低く構えた獣に斬りかかる。獣は前足で払うように剣を受け流し、跳躍してロッシェに飛びかかった。血の匂いが散り、獣の唸り声が闇を震わせる。


「ルティリス、鍵を渡すんだ」


 喉を噛み裂かんと迫るくちばしを剣の腹で弾き、獅子の前足を受け止めて押し返す。振り返る余裕もないロッシェの言葉に、ルティリスは動揺の余りどうしていいか解らなかった。

 だってこの鍵は誰にも渡しちゃいけない大切なモノだと、そう言って託されたものなのだ。


「フェリオヴァード、僕に話させてくれ」

『邪魔だ、貴様が退け』


 うなり声に言葉が混じり、呼応するように空気の温度が上昇した。剣を媒介ばいかいに獣と押し合うロッシェの額に、汗が浮き上がり、目に流れ落ちて視界を妨げる。


「ルティリス、早く!」


 叱咤しったするようなロッシェの声をかき消すように、パン、パンと響く破裂音。獣の周囲で空気が揺らめき、熱風が駆け抜けて枯れ葉が舞った。ロッシェが思いきって剣を引き、鋭い爪をギリギリでかわして間合いを取る。


「ロッシェさん」


 手を伸ばせば届く距離、自分をかばって立つ背中に、ルティリスは何と声を掛けて良いかが解らなかった。

 彼の後ろ姿に大きな外傷は見当たらないが、生々しい血の匂いは自分からのものではない。最悪の予測が恐怖心に火を付け、首に下げた鍵へと無意識に手が動く。


「あれは、聖地の守護獣だよ。君が何を持っているのか僕は知らないけど、炎の幻獣王フェリオヴァードが来るくらいだから、それは聖地から奪われたものだってことかな」


 張り詰めた声でロッシェがささやいた。じりじりと距離を詰める獣と間合いを取るように後退しながら、ルティリスを庇うように左手をかざしている。焦げた袖と、手の甲には火傷のあと


「……でもこれ、預かり物なんです。大切なんです」


 声に涙が混じり、不安と混乱に身体が震える。獣が姿勢を低くし翼を広げ、同時にロッシェが身を翻してルティリスの手を掴んだ。


「川へ……っぐ、」


 矢じりが風を切るのと似た音がし、ロッシェが言葉に詰まって表情を歪める。が、それでも足は止めずルティリスを引っぱって走り出す。

 それほど遠くはない、水が集まり流れる音の方へ、ルティリスもただ必死に走った。当然グリフォンも追ってくるが、振り返って距離を確認している余裕はない。


「ルティリス。その鍵は聖地に返すべきだと、僕は思うよ」


 正論なのかもしれない。でも、うなずけない。彼が力ずくで鍵を取ろうとせず一緒に逃げてくれている事実にすがって、ルティリスはあえて返答を飲み込んだ。

 ざあぁと木々がざわめき、熱風が通り過ぎる。ロッシェが急に立ち止まり、それに引っ張られてルティリスも足を止めた。茂みの向こうから聞こえる、激しい水流の音。長い腕が自分の肩を包むように抱き、血と炎の匂いが鼻をつく。


「伏せろッ」


 不意に頭上に影が踊り、ロッシェが叫んでルティリスを抱き込んだ。勢いよく地面に押し倒されて思わず小さな悲鳴を上げる。自分の上に覆い被さっているのはロッシェの身体で、すぐ鼻先に鋭い爪を生やした獅子の足が見えた。


「離せ……っ」


 苦しげなロッシェの声。そういえば、とルティリスは思い出す。

 幼い頃から、父が繰り返し教え込んでくれた警告。鷲やフクロウという猛禽もうきんは、はるか上空から獲物に目を付け、急降下してその爪に引っかけ攫うのだ。この獣も恐らく空から追跡し、襲ってきたに違いなかった。


梃摺てこずらせおって貴様。覚悟しろ』


 地面にうつぶせルティリスを庇うように抱き込んだ体勢で押さえつけられて、身動きができないロッシェに獣がすごむ。


「鍵は返す、それでいいだろう?」


 ぷつ、と爪が布地を貫通する音が聞こえ、ルティリスを抱く腕が痙攣けいれんした。悲鳴ともうめき声ともつかない声がロッシェの口から漏れる。


『今さら命乞いか。虫のいい話だな』

「鍵は返す、だから見のがしてくれ……ッ、うあああ」


 爪が更に深く食い込んだのだろうか。彼の悲鳴が耳に痛くて、それでも幻獣が恐ろしくて、ルティリスはロッシェの腕の中がたがた震えていた。

 鍵を持っているのは自分で、彼は本当は何も知らず巻き込まれただけなのだ。けれど自分に矛先が向くのが怖くて、言い出すことが出来ない。


『娘も渡せ』

「駄目だ、っ、食べ……あうぁっ」


 獣の前足が動き、布が裂ける音に悲鳴が重なる。余程痛みが激しいのかロッシェは逃れようと身じろぎするも、力では敵わず。身体に感じる圧迫感が増して、獣がさらに力を強めたのだと気づいた。


「頼む、死にたくない、ッ……ああああ」

『騒がしいぞ貴様。黙れ』


 震える声で請うロッシェに獣はつまらなそうに応じ、前足を打ち下ろした。全身を庇われているルティリスは、獣に何をされているのか解らない。それでも、擦過さっか音と鈍い衝撃が何度も彼の体を通し伝わってきて、乱れた息に混じる切れ切れの声がルティリスの耳をかすめる。

 流暢りゅうちょうに人語を話す獣なのに、空回りするロッシェの言葉。まるで、鍵の奪還より狩るという行為に心を奪われているかのように思える。

 今遭遇している現実に猛獣が獲物を引き裂く想像が重なり、そのすべてがただ怖くってルティリスの目に涙があふれた。


所詮しょせん時間稼ぎ以上の意味はなかろう。この大罪、命で償え』


 獣が唸るように言い放ち、うつぶしたロッシェの体に爪を引っかけて仰向けにひっくり返した。腕の中に抱きしめられていたルティリスはそのせいで、獣と真正面から向き合う形になってしまう。


『その首噛み切って、返して貰う』


 怒りに燃えた鷲の瞳に睨み据えられ、ルティリスは声も出せずに身を固くした。途端にロッシェの手のひらがルティリスの目を覆い、彼女を胸に抱き込んだ。


「やめろ、……頼むから少し、時間をくれ」

『与える理由が無い』


 ひゅ、と風を切り裂く音に自分の物ではない血の匂いが散る。ロッシェが息を詰めて悲鳴をかみ殺し、更に強く自分を抱きしめる。視界をふさがれていても迫る殺気が鼓動を乱し、いっそ意識を手放してしまえたらどんなに楽だろうと思った。


「僕を、なぶり殺す気か」


 泣き出しそうに聞こえる声でロッシェが呟いた。腕を通して伝わってくるのは誰の震えだろう。自分か、それともロッシェなのか。

 二度、三度と殴るように転がされ、視界が回り、耳に届くロッシェの呼吸が段々と弱くなっていく。やがてとうとう頭を抱く腕から力が失われ、不意に視界が開けて光景が目に飛び込んできた。


『貴様の血が、私を酔わせるのだ』


 ぎらぎらと輝くきんいろの瞳。大きな前足をロッシェの肩に掛け覗き込む獣王は、獲物を前に血を求め恍惚こうこつと血に酔う肉食獣の瞳をしている。

 茫然自失ぼうぜんじしつのルティリスに、獣がゆっくり前足を伸ばす。思わず目をつぶった途端、肩に衝撃を感じて身体が軽くなった、と思った瞬間に柔らかな地面へ倒れ込む。

 反射的に跳ね起きて振り返れば、両の前足をロッシェに掛けた獣王と目が合った。彼の左腕は力なく地面に投げ出され、右腕は引き裂かれた袖が血に染まっている。


『貴様らが逃げ隠れるから追跡に数ヶ月を要し、私は腹が減った』


 数ヶ月、なんて話は濡れ衣だ。そう思いはするものの、ルティリスは声も出せず、ロッシェも力なく首を振るしかできない。苦しげに細めた彼の双眸には涙が滲んでいたが、それが恐怖からなのか痛みによるものなのかまでは解らなかった。

 完全に抵抗をやめたロッシェに獣は興味をなくしたのだろう。今度は座り込むルティリスの方へ歩き寄り、前足で地面へ突き倒して鎖骨の辺りを押さえつけた。


『小娘が。一撃で死にたいか、それとも貴様も少しずつ引き裂いてやろうか』

「や、……あぁ、あうぅ」


 肌に触れるか触れないかの位置に当てられた爪が恐ろしく、無我夢中で引きがそうと両手で前足をつかむが、びくともしなかった。ぼろぼろと涙がこぼれ、悲鳴と嗚咽おえつが混じって呼吸が上手くできない。


「やだ、たすけ……っ」


 何が間違っていたんだろう。始まりは何だったんだろう。何をしてしまって自分は、命を奪われるほどの大罪を犯してしまったんだろう。

 心臓を鷲掴みされるような恐怖に震えながら固く目をつぶり、現実を遮断しようとした時――、唐突に、耳覚えのある声が彼女の意識をとらえた。


「そう言えば聖地の宝物庫を番している守護獣は、罪人を食べることが許されている……んだったっけ」


 思わず目を開ける。涙でおぼろな視界、獣の後に影が立つ。

 きら、と闇夜に音もなく銀月がひらめき、鮮血と羽毛が散った。ぼとりと金翼が眼前に落ち、ルティリスは戦慄せんりつする。


「ピィィ――――ッ!」


 甲高い笛のような悲鳴が鼓膜をつんざく。獣が躍り上がるように跳躍し、胸の上から重みが失せた。立ち上がろうにも膝が笑い腰が砕け、思うようにいかない。

 ――と、ぐいと手を掴まれ引き起こされた。咄嗟とっさに見上げその姿を確認し、ルティリスの視界がまたも涙で溶ける。


「川へ走れ!」

「ロッシェさんっ」


 泥と血でまだらな右手に握られた、三日月刀シミター。呼吸は荒く、顔色も悪い。それでも生きていて、立っていて、立ち上がらせてくれた。その現実に泣き出したい衝動が胸をつく。


「翼を切り落とした。今のうちに早く、川へ飛び込め」


 ぐ、と背中を押され無我夢中で走り出す。背後で聞こえるくちばしと剣がぶつかる音に心が乱れるが、今度は振り返らずただ水音の方へと向かって。


「……っ」


 けれど、その流れを見た途端ルティリスの足はすくんでしまった。切り立った崖の下ごうごうと逆巻さかま渓流けいりゅうは、自分の思い描く川の姿とは似ても似つかない。


「ルティリス!」


 足音が響き、ロッシェが駆けて来る。崖端で震える少女を見、激しい流れを確認しても、彼は迷わなかった。右手の剣を放り捨て、ルティリスを抱えて渓流へと身を躍らせた。

 ルティリスは思わず固く目をつぶる。身体を包むロッシェの腕以外まったく覚束おぼつかない恐怖の中、彼が囁いた言葉が聞こえたような気がした。


 精霊たちは絶対に僕を水の中で死なせはしない。

 だから大丈夫だよ。

 と。






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