第9話 冷戦

 冬の間はお休みだった定例ツーリングは春先に再開された。行き先は高原の教会。これまた女子受けしそうなコースだが、実際は300m程度のヒルクライムを含む往復50キロなので集まったのは常連ばかりだった。川沿いのサイクリングコースを途中で降りて山に向かう。林道の交通量はさして多くなく、大半を占める中級者には難しくなかった。しかし栞は違う。約半年ぶりのサイクリングだ。ハンドサインすら忘れかけている。

 谷川沿いに道は緩々ゆるゆると上ってゆく。


「パッパー、最後まで坂なのお?」


 栞がやや息を切らしながら聞いた。


「平らな所もあるよ。ヤバかったら休憩するから叫べよ。道は知ってるから全然大丈夫」

「はーいっ、じゃ、休憩!」

「え?もうかい?じゃさ、次のカーブ曲がるまでは頑張れ」


 カーブを曲がるとバスの離合用に広くなっている場所があった。左門はショップの兄ちゃんに事情を話し停車した。栞も一緒に降りる。ビアンキを横にして栞は座込んだ。


「あー、なんでみんな平気なの。足、だるう」

「はは。これ位なら栞もすぐ上れるようになるよ。ちょっと足にこれ塗っとけ」

左門は鎮痛消炎ローションを取り出した。

「うっわー、結構きくー」

「な。一回塗ると何キロかは誤魔化されるんだよ」

「うん塗り続けないと帰れなーい」

「はいはい、じゃ栞が持っとけ。ここからは二人で走るんだからペース落として、ローギアでのんびり行こう」

「うん、ありがと」


 二人はインナーローのカメさんペースで走り始めた。そうか、これならそれほどきつくない。栞も残り数キロを走破して高原の教会に辿り着いた。

広い緑の広場にベンチや東屋も点在し公園のようになっている。教会の隣にはカフェまであった。参加メンバーはカフェでお昼にしているようだ。左門と栞もカフェに向かいかけたのだが、途中で手を振りながら由良がやって来た。


「ニッシー、栞ちゃん、お昼一緒にどう?」

左門がはにかみながら

「はい、そこで食べようかと思って」

「私、お弁当作って来たんだ。一人じゃ淋しいから三人分」

「えー、それはそれは恐縮です」

「あそこの東屋行こ。屋根あるし、春先だけどレディーは日焼けには気をつけないとね、栞ちゃん」

「は・はい」

 いきなり振られ、栞も焦った。何をどう返していいか判らない。


 左門は由良のお弁当を前に緊張気味だ。なかなか凝ったお弁当で、栞もびっくりした。由良さんこれ持って坂を走って来たんだ。負けているのは体力だけじゃない。


「ニッシーってさ、栞ちゃんのお弁当、毎日作ってんの?」

「ええ、まあ」

「ふーん。偉いねえ仕事しながらで。私、作ってあげよっか?」

「え?」

「ニッシーのと栞ちゃんのと、毎日届けてもいいんだけど」


 由良はさらっと凄い事を言っている。左門は完全に掌で転がされている様相だ。が、左門自身は不快と思っていない。栞はちょっと焦った。これって家族のピンチなんじゃない?佳那さん、どうしたらいい?左門は催眠術にかかったように答えた。

「はあ、そんな有難いこと、本当にいいんですか?」


 栞は仰天した。何だよ。パパ何言ってんだよ。思わず栞は食べかけのウィンナーをそのまま飲み込んだ。

うっ、苦しい・・・喉、詰まった…。喉を押さえた栞に左門も我に返った。


「おい、栞、何やってんだよ。大丈夫か!さ、水飲んで」

左門が背中をさする。そして由良の方に顔を上げて言った。

「あの、山室さん、折角なんですけど、どうも喉を通らないみたいで」

由良はちょっと苦い顔をした。

「栞ちゃんは大人の味はまだまだみたいねえ」

 くそっ。栞は残りのウィンナーを噛みちぎった。


 その様子を見ながら由良がふと漏らした。

「もう忌中明けよね、ニッシーも」

「1年過ぎましたからね」

「このまま一人なの?」

「え?いや流石さすがにまだそんな事考えたこともなくて」

「ふうん、まあ、正式じゃなくてもいいんじゃないの?」

「いや、栞もいるからそうもいかないですよ」

「そうかしら。子連れなんてよくある話だし、私も産んでも精々一人だもん」


 ちょっと待って。何よこの会話。栞は何も言えない自分が呪わしかった。再びパパが由良さんの術中にはまりかけてる。何とか這い出して!

しかしそもそも左門は由良に悪い感じを持っていない。寧ろ逆かも知れない。栞は危機感を覚えた。由良さんは悪い人じゃない。本物の美人だしスポーツウーマンだしお弁当だって美味しい。あたしには歯が立たない大人だ。でもやっぱヤダ。だってお母さんと同じ匂いがするもん。


『えーっとあと10分で出発しまーす。準備して下さいねー』


 ショップのインストラクターがやって来て、蟻地獄のように吸い込まれつつあったその場の空気はあっけらかんと入替った。助かった。佳那さん有難う。栞は訳も分からず感謝した。


 復路は下り基調だ。栞も苦労せずみんなについて行けた。由良も軽快に飛ばしている。早春の自然を駈けるその姿はまるで映画のシーンのようだ。このまま放っておけばパパはあの中に巻き取られるかも知れない。やはり闇夜の闘いだ。栞は覚悟とともにケイデンスを上げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る