とある旅館の娘

 少女――菊水華恋は百年を越える歴史を持つ旅館、菊水の一人娘として生を受けた。


 父達郎は旅館の経営者。母の愛佳は接客と達郎のサポート。祖父の謙二は厨房で料理長として、それぞれが旅館のために毎日忙しなく働いていた。


 そのためあまり構ってもらえなかったが、それでも華恋は家族のことが大好きだった。


「ねえあなた。将来、この旅館はやはり華恋に任せるべきではありませんか?」


「そうだな。そうしてくれると嬉しいが、もし華恋にやりたいことができたなら、父親としては旅館のことは気にせず好きなように生きてほしいな」


 時折そんな会話をする両親だったが当時の華恋は幼かったため、会話の内容を半分も理解できなかった。しかし、両親が自分を大切にしてくれてることだけは伝わった。


 そんな幸せな家庭に悲劇が起きたのは、華恋が八歳の時のことだった。


 達郎が死んでしまったのだ。死因は飲酒運転をしていた乗用車に轢かれての交通事故。


 当時の華恋は初めて身近な人間の死を体験したため、たくさん泣いた。葬式の最中でさえ、人目も憚らず大声をあげて泣き続けた。


 そんな華恋につられて葬儀の場で何人かの人が泣きはしたが、愛佳が泣くことは決してなかった。ただただ何かに耐えるように拳を作り、前を見据えた。


 そしてその日を境に愛佳は変わった。


 夫であると同時に旅館の経営者でもあった達郎が突然死んでしまったため、急遽愛佳が女将を務めることになった。


 まず最初に取りかかったのは、年々客足が途絶えつつある旅館の建て直し。達郎が存命のことよりの問題であったこれを、愛佳はたったの二年で全盛期にまで持ち直した。


 亡き夫の代わりと言わんばかりの働きは、身内である華恋や謙二だけではなく従業員も心配してしまうほどの重労働だった。


 そして、その働きは旅館の経営だけに留まらない。旅館存続のための跡継ぎとして、華恋の育成を始めたのだ。


 家にいる間は食事、風呂、睡眠以外の時間は旅館の手伝いや跡継ぎとしての勉学に当てられた。


 自由時間など存在しないそれは、大人すら根を上げるほどのもの。とてもではないが幼い少女が耐えられるようなものではない。


 しかし華恋は耐えた。耐えれてしまったのだ。


 別に華恋は特別な人間ではない。年相応の普通の少女だ。一つだけ違う点があるとすれば、それは母の気持ちを理解していたこと。


 愛佳が自分に厳しくするのは、亡き父の旅館を守るためだと。それを理解してたからこそ、華恋は頑張れた。華恋も愛佳と同じ気持ちだったから。


 ただ一つ問題があったとすれば、それは華恋が頑張ったのはあくまで両親のため。決してではなかったこと。


 そうして旅館で修行を続けていた華恋に転機が訪れたのは、十三歳の冬のことだった。


「華恋、話があります」


 いつも通り学校から帰って旅館の手伝いをしていた華恋に、愛佳が声をかけてきた。普段は仕事が忙しく、旅館内ですれ違っても会話をしない愛佳にしては珍しいことだった。


「どうしたの、お母さん?」


「あなたは、数日前から近くのロシア人小学校周辺を不審者が徘徊している件は知っていますね?」


「う、うん、学校でも先生が注意するようにって言ってたけど……それがどうしたの?」


 愛佳が話すのは基本的に旅館に関することだけ。それ以外のことを話すことは滅多にないため、華恋は軽く驚いていた。


「実は数日前から当旅館に宿泊されてる菱川様が、その不審者の可能性があります」


 菱川という名前に、華恋は覚えがあった。旅館に来る客にしては珍しい一人の、それも若い客だったため頭に残っていたのだ。


「……冗談だよね?」


「私がそんなくだらない冗談を言う人間に見えますか?」


 愛佳の人となりを知る者ならこの質問にはNOと答えるだろう。


「華恋、あなたにはこの菱川さんが不審者であるかどうかを調査してほしいのです」


「それ、どうしても私がしなくちゃいけないの?」


 そもそも実の娘をそんな変質者かもしれない人間のところに送り出すのは、一人の母親としてどうかと思う華恋だった。


「菱川様は私が見たところ、あなたと年は近そうです。同年代の少女相手ならば彼も気が緩むでしょう。隙を突いて彼が不審者だという証拠を掴んできなさい。そして旅館から追い出すのです」


「そういうのは警察に頼むべきなんじゃ……」


「未だに変質者の一人も捕まえられない警察などアテになりません。旅館の問題は、我々旅館の関係者のみで対処します」


 冷たく言い捨てて、愛佳はその場を後にした。


「はあ……」


 多少身の危険を感じるが仕方ない。そう考えて華恋は件の菱川様が泊まる部屋に歩き出した。……いつでも通報できるよう、スマホを片手に。


 五分も歩かない内に目的の部屋の前へ着いた。


「よし……」


 覚悟を決め、部屋のドアを開けて中に入る。するとそこには、


「ンホオオオオオオオオ! ロシアンJSヤベええええええええ!」


 デジカメに視線を落として奇声をあげる真性の変態ロリコンがいた。


「…………」


 この場面をスマホで録画するだけで、目の前の人物が噂の不審者であることが証明できるのではないだろうか? などと考えたがやめた。


 華恋の直感が、目の前の少年を下手に刺激すると何をしでかすか分からないと警鐘を鳴らしていたのだ。


 何とか穏便に済まして帰ってもらうことを密かに決意する華恋。


「あの……お客様?」


「誰だッ!? ……って何だ、従業員の人か。何か用ですか? 俺は見ての通り忙しいんですけど?」


 ふてぶてしい態度を取る変態に軽い殺意を覚える華恋。しかし本来の目的を果たすために抑える。


「実はお客様にお話したいことがありまして。最近近くのロシア人小学校周辺を不審者が徘徊――」


「悪気はなかったんです!」


「へ……」


 ポカンとした表情になる華恋。だがその反応も無理はないだろう。


 何せ、何の脈絡もなく目の前で変態がいきなり土下座をしたのだから。


「ただちょっと資料にロシアンJSの写真が欲しかったんです! 別に趣味のJS写真集めのためにロシアンJSの写真が欲しかったとかそういうこともまったく考えてなくて、純粋に執筆のために必要だったんです!」


「お、お客様、とりあえず頭を上げてください!」


 訊いてもないことまでペラペラと喋る変態に、華恋はただただ戸惑う。


「証拠だってありますよ! ちょっと待っててください!」


 華恋に言われて頭は上げたが、変態は落ち着くことなく近くにあった大きめのショルダーバッグから三冊の本を取り出して華恋に見せる。


 タイトルは『JSは最高だぜ!』。どんな内容か、読まずとも分かってしまう華恋。


「実は俺、この本の作者なんです! ロシアンJSの写真も新刊を書くための資料に必要だったんです! だから……だから通報しないでください! お願いします!」


「わ、分かりました! 分かりましたから離れてください!」


 凄まじい剣幕で迫る透を押し返しながら、華恋は必死に叫ぶ。しかし透の耳に華恋の懇願が届くことはない。


「これあげますから読んでください! そうすれば俺の身の潔白を証明できます!」


 半ば強引に本を渡された。華恋は本を読む習慣はないので返そうとしたが必死の形相の透に何も言えず、その日はそこで部屋を出た。


 次の日になると透は旅館を出ていた。通報されることを恐れてか、元々帰る予定だったのかは分からないが、もう変態の相手をする必要はないことを考えて華恋は安堵する。


 だが同時に透に本を返す機会を失ってしまった。


 あまり本を読まない華恋としては無用の長物だが、かと言って人からもらったものを捨てるのも忍びない。


 結局せっかくもらったのだから一度くらいは目を通そうということで落ち着いた。


 華恋は基本的に忙しい身なので自由時間は少ない。そのため、まともに本を読むことができるのは就寝前の僅かな時間。


「はあ……」


 重たい溜め息が華恋の口から漏れる。一度は覚悟したが、タイトルから内容がロクでもないと分かるものを読むのは、実際にその時になると躊躇してしまう。もし変な夢を見たら最悪だ。


「早く読んで寝よう……」


 いつまでも悩んでいても仕方ない。華恋は覚悟を決めて『JSは最高だぜ!』一巻に手を伸ばした。






 ――結論から言うと、JS太郎著作『JSは最高だぜ!』は酷い作品だった。


 華恋があまりラノベに親しみがないというのも原因の一つだったのかもしれないが、それにしたって見るに耐えない作品だ。


 タイトル通り、JSに関しては事細かく書かれていたがそれ以外はおざなりな、どこまで行っても自己満足でしかない内容。読む者を楽しませるという気遣いは皆無だ。


 お世辞にも面白いとは言えない作品。そのはずなのに、


「止められない……!」


 読むことをやめられない。ページをめくる手を止められない。


 くだらない内容なのになぜ? という疑問が華恋の頭をもたげる。だが理由は、一巻を読み終えると共に理解できた。


「凄い……」


 自己満足な内容。他人に共感を求めるような真似をしてない、どこまでも自己のためだけに書いた作品。


 つまらない作品ではあったが、そこには確かなが込められていた。独りよがりを突き詰めて生まれた熱だ。


 亡き父と旅館の女将を務める母のために旅館で働く華恋が触れたことのないものだ。


 誰のためでもない自己のためだからこそ、華恋の心を揺さぶった。華恋は、今の自分では作ることのできない熱に惹かれてしまったのだ。


 自分もこんな風になりたいと願ってしまう。母が知れば断固として反対すると知りながらも、もうこの想いは止められない。


 華恋は時間の許す限り、透からもらった本を読み続けた。何度も何度も、一字一句に至るまで暗記できるほどに。


 ――そんな少女が作家を目指すようになるのは、必然だったと言えるだろう。

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