ナイト・キッコpart4

「な、何をっ!?」





 アキラは面喰らって、しかしすぐに気を取り直して『風の手ウィンディ・ハンズ』を伸ばす。





掴むことはできなくても、どうにか沼の外まで押し出せば――





アキラはそう思ったが、闇を裂く煌めきが、その希望を断った。





 キッコが、その手に生じさせていた剣を振るっていた。『風の手ウィンディ・ハンズ』を、その一刀の下に斬り捨てたのだった。





 ぼちゃん、という重たい水音が暗闇から聞こえてくる。





 キッコは風の中へと、その西洋剣を消しながら、





「これで終わりだね。うん、ここからは新しい一歩だ」





 そう言って、足元のリュックを背負ってカンテラを持つ。





「じゃあ、ありがとね、アキラ。励ましてくれて、嬉しかった。でも、やっぱりボクは行くよ。プリンセスも見たいって言ってた、世界の果てに――って、えっ?」





 アキラは既にキッコの話など聞いていなかった。呪文を唱え、コーデを『キュートビショップ・フローズンオーロラコーデ』に切り替える。





「あ、あの……アキラ? 言っとくけど、沼には入らないほうがいいと思うよ。昔は綺麗だったけど、今はただ泥の沼みたいなものだし、入ったら出られなくなるよ」


「そんなの知るかっ!」





 躊躇などしていられない、アキラは沼に飛び込んだ。





 すると、その瞬間に解る。確かに、これはもはや泥の沼だ。『水氷宮ウォータリィ・パレス』の女子力をもってしても、水がとにかく重くて、上手く操れない。





 それでもどうにか下から上へと水流を起こしながら前へと進み、カケラが落ちたと思われる辺りまで着いて――水流に持ち上げられていたハートのカケラを掴む。しかし、





「うっ……!」





 掴んだ瞬間、底に足を着けてしまったのがいけなかった。足首まで足が泥に呑まれて、抜くことができない。焦って抜こうとするほど、ずぶずぶと引きずり込まれていく。





「君はバカだよ。自分が死んでもいいの?」





 圧縮・固定した空気を踏んでいるのだろうか、宙を歩いてきて、キッコはアキラを見下ろす。





 アキラは口に入る泥水を吐きながら、





「これは、プリンセス、の……命だ! 私の命、より……大事な、ものだ!」


「本当に? 本当に自分の命より大事なの? じゃあ、『それを捨てたら助けてあげる』ってボクが言ったとしても、それを捨てないの?」


「当たり前だ!」


「なら、もうすぐ死んじゃうよ?」


「死なない! 私、は……まだ、死ねない……!」





 自分にはまだ、やることがある。帰りを待ってくれている人がいる。絶対に、ここで死ぬわけにはいかない。





 だが、その思いとは裏腹に、足はどこまでも泥に沈んでいき、口の中は泥の臭いの味で満ちる。溺れて藻掻く姿が美しさとはかけ離れているせいか、『水氷宮ウォータリィ・パレス』がほとんど効力を失っている。





「どうして助けてって言わないの? 君がここで命を懸ける意味なんてないよ。君はこの世界の住人じゃないんだから」


「住んでる世界が、違っても……プリンセスは、私の恩人だ。私はプリンセスに、生かされたんだ……。だから、見捨てるなんて……できない。プリンセスが、助け、を……求め……てる、のに……!」





 自分がこの世界へやってきた時のことを思い出す。あの時、プリンセスは確かにこう言った。『お願い、アキラ……みんなを、助けて……!』と。





 ――私を頼ってくれたプリンセスの期待を裏切るくらいなら、死んだほうがマシだ!





だが、その叫びはもう言葉にはならない。





アキラの口は既に水面下に沈み、やがて視界も黒い水に満たされた。





 せめてハートのカケラだけでも岸へ投げようか。いや、そんなことをしても、また投げ込まれるだけか。





 迷ったが、そうするしかない。アキラは手だけを水面から出して、ハートのカケラを力強く投げ――ようとしたが、その腕をキッコに掴まれた。





 キッコは本当に、自分ごとハートのカケラを沼に沈めるつもりだ。





 ここで何もかも終わるのか……。アキラはそう覚悟したのだが、キッコはアキラの腕を引っ張って、アキラの顔を水面から出させた。





「アキラ……君を信じてもいいのかな」





 困惑しながら激しく咳き込むアキラに、キッコは静かな声で言う。





「ボク、これまでにも何人か神人様を見たことがあるんだ。でも、みんな慌てて自分の世界に帰っていくんだよね。自分の家に帰りたいって、泣きながらさ。でも……君はそうじゃないの? 約束してくれるの? ボクたちを……この世界を見捨てないって、急に帰っちゃったりなんかしないって」


「あ、ああ……約束する……」





 アキラは必死に頷く。助かりたいという一心だったが、嘘ではない。この世界を見捨てる気など、自分には毛頭ない。





「……解った。じゃあ、ボクも君を信じるよ。そして、ボクも君と一緒に戦う。君の力になれるなら、なんだって――」





 カンッ! と、小気味よい音が響いた。





 唐突、黒い何かが飛んできて、キッコの頭を激しく打っていった――らしいが、いったい何が起きたのか。目の前で起きたできごとに、アキラはただ呆然とするしかない。





 呆然としながら、じゃぶじゃぶと水を掻き分けて、こちらの首にしがみついてきたクルミを抱きしめる。





「クルミ……? どうして、ここに……?」





どうやら、クルミがキッコの頭を木刀で引っぱたいたらしい。どうにか状況を理解し始めたアキラを目と鼻の先から睨んで、クルミは怒鳴る。





「あなたは、どうして私を置いて行ったのですかっ!」


「え? そ、それは……具合が悪そうだったから……」


「勝手にどこかへ行ったりしないでください! 私は……私は、あなたが私を置いて行ってしまったのだと……!」





 その目に涙が盛り上がり、それを隠すようにクルミは俯く。





「『傍で見ていて』と、そう私に言ったばかりなのに……」


「ごめん。ごめん、クルミ……」





アキラは強く抱きついてくるクルミに戸惑いながら、今はまずとにかくその気持ちを宥めようとする。





 このままじゃ、ふたり共々沼の底だ。クルミの身体を決して放すまいとしながら慄然としていると、





「痛いよ、クルミ……」





 岸まで吹き飛ばされていたキッコがむくりと起き上がって、側頭部をさすりながら空中をこちらへ歩いてくる。





「ナイトっ……!」





 クルミは憎悪を込めたような目でキッコを睨む。





 しかし、キッコはあくまで緩い微笑を浮かべながら、





「睨まないでよ。さっきも、むしろ助けようとしてたところだったんだから」





 と、アキラが伸ばした手を掴んで引っ張り上げ、岸へと連れて行く。





――助かった……。





 どさりと草の上に腰を下ろして、水から上がってもしがみついて離れようとしないクルミに言う。





「ほら、クルミ。キッコさんに勘違いしたことを謝らないと」


「いやいや、いいんだよ。全く勘違いというわけでもないんだし……それに殴られたおかげで、すっかり目が覚めたような気がするよ。胸が……楽になった気がする」





空全体が、ほんのわずかに白み始めている。キッコは微笑んでそれを見上げながら、





「世界の果てに行くのは……まだ先でいいかな。すぐ傍に私の運命の人がいるはずって、神人様が言ってくれてるんだしね」


「え? いやぁ、あはは……」


「なぜあなたが照れるのですか?」





ギロリと睨まれる。その十歳児とは思えない迫力に思わず狼狽していると、





「っていうか、クルミ……」





 キッコがクルミの顔を覗き込んで、それから小さく息を呑む。





「そうか。君はアキラに会って……!」





 おい、と右手の方角から声が響いてきた。





 見ると、こちらへ向かってくる三人分の明かりが見える。





周囲を捜し回っていたのだろう、チナツは汗だくになりながら傍まで来ると、息を整える暇もなく怒声を張り上げた。





「キッコ! お前というヤツはっ!」


「はいはい、説教はいいよ先生。ボク、ちゃんと戻るからさ」





キッコはリュックを気怠げに背負い直して、冷たくチナツを見やる。





「っていうか、先生にボクを怒る資格なんてあるわけ?」


「…………」





 チナツは硬い表情で、キッコを睨む。





 睨み合い、沈黙する二人。アキラはそれを怪訝に見上げながら、





「ところで、『先生』って……?」


「先生は――ルークは昔、学校の先生もやってたんだよ。まあ、堅苦しすぎて人の弱さとか悩みが理解できないから、生徒みんなから嫌われてたけどね」





 キッコはクルミに木刀を手渡し、門のほうへと歩いていく。





 チナツはルークの背を黙って睨み、無言のままアキラとクルミを引き起こし、歩き出す。





 空気が刺々しい。どうやらキッコとチナツは、かつて先生と生徒という間柄だったらしいが、あまり仲がよくないらしい。





そう察しつつ、アキラの腕を痛いくらい掴んで放さないクルミに囁く。





「クルミ、助けに来てくれてありがとう。嬉しかったよ」


「……はい」


「でも、あの……もう放しても大丈夫だよ? っていうか、歩きにくくない?」


「それくらい、我慢してください」


「我慢って……」


「いやです。絶対放しません。放したら、またすぐどこかに……」


「大丈夫、私はいなくなったりしない。クルミを置いていったりなんてしないよ。今だって、別にいなくなったわけじゃなかったでしょ?」


「……はい」





 頷くが、こちらの腕をギュッと掴むその力は緩まない。





アキラは苦笑ながらしかし、今の自分の言葉は本当だろうかと自問する。自分はずっと、プリンセスが目覚めた後もクルミの傍にいるのだろうか?





 やがて門をくぐり、国内へと戻る。





「私はアキラとクルミを宿へ送る。キッコ、お前はその馬車に乗って、大人しく自分の家に帰れ」





 そうチナツに指示されて、アキラはチナツが乗ってきたらしい、白馬が引いているほうのキャビンへ乗り込もうとする。しかし、





「クルミ?」





 先にクルミを乗せようとすると、クルミがその手前で立ち止まる。それへ乗り込むことを躊躇っているように、何やらもじもじとしている。





「どうした?」





 異変に気がついたように、チナツが尋ねてくる。





 クルミは戸惑ったような表情でこちらを見上げて、





「足が……上がりません」





 え? とアキラが驚いた瞬間、ふっと意識が遠のいたように、クルミが倒れた。





 アキラは咄嗟にその身体を抱き留めて、





「クルミ……? おい、クルミっ!」





 呼びかけるが、反応はない。額を触ると熱はないが、呼吸が少し荒い。





「先生、これってやっぱり……」





 キッコが言うと、チナツは小さく頷き、





「とりあえず、今日は宿屋へ帰って寝させておくのがいいだろう。アキラ、君も早く休め」


「い、いや、それどころじゃありませんよ。こんな急に倒れるなんて……! 早く医者に診てもらわないと!」


「落ち着け。君は君のやるべきことをやれば、それで全て問題ない」





 チナツは冷たすぎるほど冷静に言う。





「それは……クルミは暗霧病ということですか?」





プリンセスが目覚め、この世界が再び希望で満ち溢れれば、それで全てが解決する、ということは、つまりそういうことだろう。アキラが尋ねると、





「おそらく、それに類するものだろう。ともかく、あらゆる災厄はプリンセスが眠られたことを発端にしている。したがって、プリンセスをお目覚めさせることができれば、全てが落着することは必定だ」





チナツは毅然と言う。確かにその通りだ。アキラは頷く。





「……解りました」


「アヤネの持っているハートはまだ抜けていないが、残るはクイーンのみ。しかし容易には行くまい。今は、とにかくしっかり休んでおいてほしい」





 はい、と頷いて、アキラはクルミを抱きかかえてキャビンに乗り込む。すると、クルミが落としていた木刀を、キッコが渡してくれた。





「ところでさ、アキラ。君って、なんだかとてもセクシーだよね」


「は、はい?」


「神人様なだけあってオーラが特別っていうのかな、全然ボクの理想の人とは違うはずなのに、君と話してるとドキドキしてくるよ」


「お前は、こんな時に何を言っている」





 チナツが叱るが、キッコはこちらだけを見つめて、急に真面目な顔になって言う。





「アキラ、ボクは君の力になるからね。準備ができたら、絶対ボクに連絡してよ。絶対、絶対だからね」


「う、うん、ありがとう。必ず連絡する」





 頼りない部分もないではないが、力は確かすぎるほど確かだ。アキラが喜んで頷くと、





「……感謝なんていらないよ。ボクはそんなことをされる資格なんてない人間だから」





 時折見せる寂しげな微笑でそう言って、自らの馬車のほうへと歩いて行く。





 チナツがキャビンに乗りんでアキラの正面側の座席に座ると、馬車は街へ向かって静かに走り出した。


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