クルミという少女

 チナツが言っていた、『玄関に置いておいたちょうどいい物』とは、アキラの家から持ち出してきていた木刀だった。





 それなら俺に一言、断っておけと言いたくもなかったが、確かにクルミが護身用に持つにはナイフよりはずっと適した物だったので、文句はない。それをずるずると引きずって歩くクルミと共に、クルミの家を出た。





クルミは、なるべく通りを避けて歩いているようだった。どうやら追っ手はないようだったが、用心に越したことはないということだろう。





路地は狭いが、家々はほとんどが石造りの一階建てだったから、空はよく見えた。





 だが、チナツが言っていたとおり、空は冬の曇り空のように一面うっすらと濁っていて、どこにも青い空は見えない。





 アキラは、自分が持つことにした肩掛け鞄の中から、丸めて入れられていた地図を取りだして見てみた。





 国はおおよそ円形。中央に城があり、高い城壁を挟んで、その周りを街が取り囲んでいる。街の外は大小の池が散らばる池沼地帯で、その外をさらにもう一周の城壁が、ぐるりと大きく取り囲んでいる。





 ――ビショップのいる教会……つまり司教区の方に歩いてるはずだから……今はこの辺りか。





 そう思いつつふと目を上げると、すれ違うところだった老婆と目が合う。だが、すぐにサッと目を逸らされる。すれ違う人はまばらにいるが、こちらを見る目がどこか冷たく、敵意を孕んでいるように見えるのは気のせいだろうか……。





 ――クルミちゃんが木刀を持っているせいか、それとも見慣れない人間がいるせいか、それとも……。





「クルミちゃん、危ないっ!」





 咄嗟に、アキラは後ろからクルミの肩を掴み、引き寄せる。





 クルミはやや驚いたような顔で、





「なんでしょうか」


「そこに水溜まりが! 危ないから俺――じゃなくて私の背中に!」


「意味が解りません。これくらい、避けて通ればなんの問題ありません」


「いや、ダメだよ。水溜まりの周りは濡れてるから、石畳が滑るかもしれない!」





 と、アキラは半ば無理矢理クルミをお姫様抱っこして、水溜まりを通り過ぎたところで石畳へ下ろす。





「ふぅ……もう大丈――っ! いや、注意して! そこの石畳が剥がれてる!」


「それがどうかしましたか」


「もしかしたら、足を引っかけて転んでしまうかもしれない。もしくは、変な虫が急に出て来て足を噛まれるかも!」





 言って、アキラはクルミがその窪みに近づくことがないようガードしながら、そこを通り過ぎる。





 安心して息をつくと、クルミは不思議そうな顔で訊いてくる。





「あなたはなぜ私を気遣うのですか? 仮に私が転んだところで、あなたにとってなんの損があるのでしょうか?」


「何を言ってるんだ? 損とか得とか、そんなことじゃない。君は小さな女の子だ。小さな女の子は世界の宝なんだから、何よりも大事にされないとダメなんだよ」


「私は宝などではありません。どうか私のことなどお気になさらず、私はあなたの奴隷なのですから」


「奴隷……? 気のせいじゃなければ、それ、さっきも言ってた気がするけど……」





はい、とクルミは無表情で頷く。





「私は既にあなたの所有物です。あなたのために食事を作る人間であり、あなたのために掃除をする人間であり、あなたのために荷物を持つ人間であり、あなたの欲望の捌け口です。ですから、どうぞ私をお好きなようにお使いください」





 何を言ってるんだ? アキラがポカンとしてしまった瞬間だった。通りの曲がり角からビュンと一人の少年が飛び出してきて、危うくアキラにぶつかりかけた。





 小学校高学年ほどに見える少年はギロリとこちらを睨みつけ、





「危ねえな! どこに突っ立ってんだよ!」


「おい、少年」





 と、アキラは睨み下ろす。





「曲がり角にはちゃんと気をつけなさい。女の子にケガさせたらどうするんだ」


「うるせえ、このブス共が!」


「待て」





 怒鳴って走り去ろうとする少年の、埃っぽい茶色のジャケットをアキラは掴む。





「私にはなんと言おうと構わない。でも、小さい女の子に向かってそんなことは言うものじゃない。謝りなさい」


「なんで俺が謝らなきゃ……! っ、痛ぇな! 放せよ!」





 少年はアキラの手を叩いて振り解き、アキラとクルミを睨みつける。と、その顔にわずかに驚きの色が浮かび、





「お前は……! チッ、なんでお前がここにいるんだよ。さっさとここから消えろ! この疫病神が!」


「すみません」





 言って、逃げるように先ヘと歩み出したクルミの背中に、少年はさらに、





「さっさとこの国から出て行けよ! お前なんか死ん――アダッ!?」


「いい加減にしなさい!」





アキラは少年の頭にゲンコツを落として、





「人にそんなことは言うんじゃない! そういう言葉は、いつか自分に返ってくるぞ!」


「ってえなぁ……! お前も疫病神だ、このブス!」





 唾を散らしながらそう言い捨てて、少年は走り去っていき――先程、アキラが避けて通った水溜まりを踏んでスッ転んだ。





 さあ、行こう。アキラが歩き出すと、クルミが横についてきて、





「放っておいてよいのですか?」


「大丈夫だよ。男は転びながら強くなっていく生き物だから」





 クルミのような可愛い少女を罵倒するような男には、当然、罰が必要だ。というか、一体どうやったらクルミを見て『疫病神』などという言葉が出てくるのだろうか? どう考えても『天使』の間違いだろう。アキラはそう憤りながら、さっさと話題を切り替える。





「ところで、クルミちゃん、君が着てるのはなんていうコーデ? 俺――私はそんなコーデ見たことがないんだけど」


「これはカードに描かれていたものではありません。単なる衣服です」


「え? じゃあ、クルミちゃんは女子力を使えないの?」


「はい」


「でも、チナツさんは君のことを『強い』って言ってたし、それに女子力じゃないなら、あのジャンプは……?」





 家二階分はありそうな城の壁を、人を抱えながらひとっ飛びしたあの身体能力。あれは女子力なんじゃないのか?





 そう気になったが、クルミは嘘も冗談も言っている様子がない。幼い少女を疑って傷つけてはいけないので、話題転換。





「ちなみに、私の『キュートポーン・スターライジングコーデ』には、どんな力があるんだろう?」


「知りません」





 クルミはつと立ち止まり、





「バカで申し訳ありません。どうぞ、どのような罰でもお与えください」


「はっ? ば、罰なんて、そんなことしないよ。っていうか、なんで急にそうなるの? いつも失敗したら、誰かにそんなことされてるの?」


「いいえ。私からはお願いするのですが、誰もやってくれません」


「そりゃそうだよ……」





 思わずホッとしながら再び歩き出し、





「っていうか、なんで罰をお願いするの? クルミちゃんは罰を受けたいの?」


「はい」


「どうして?」


「私が、罰を受けるべき人間だからです」


「それは……どういう意味?」


「解りません。しかし私自身、そう感じるのです。それに学校へ行っていた時には、他の生徒からもよくそう言われました」


「えっ。それって……い、今はどうなの? 今も、毎日そんな……」


「いいえ。それをルークに言ったところ、もう学校へは行かなくていいと言われたので、それ以来、学校には通っていません」


「そ、そうなんだ……」





 ――いつも平然としてるように見えるけど、苦労してるんだな……。





でも、大丈夫。俺が傍にいるうちは、そんな目には絶対遭わせないから。そう決意を固めていると、クルミがそのネコのような目でこちらを見上げ、





「やはり何か罰を与えたいのでは? それなら、どうぞご遠慮なく」





 と、自らが着ている黒いワンピースの裾を持ち上げる。





 危うくパンツが見えそうだったところで、どうにかアキラはその手を止めさせて、





「だ、だから何もしないって! 私がクルミちゃんに罰を与えるなんてことはないから、絶対に!」


「では、なぜ先程から私の太もも辺りを見ているのでしょうか。私の足を打ちたいとお思いになっているのでは?」


「なってない! 私はそんなサドでもロリコンでもないから!」


「サド? ロリコン? それはなんですか?」


「え? あ、いや……い、いいんだよ、そんなことは知らなくて。ただ私は、その……そのワンピース、スカートが短めで寒そうだなって思ってただけだから」


「そうですか。どうぞご心配なく、私は寒さには強いので」


「あ、ああ、そう……?」





 クルミという人間が、まだよく解らない。





 門下生の少女たちのおかげで、小さな女の子との接し方は心得ているつもりだったが、どうやらクルミはそう簡単に行く相手ではないらしい。





 でもとにかく、俺がしっかりして、守ってあげないと。何はともかく、その決意だけはよりいっそう硬くしたアキラであった。

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