居なくなる前に

「……はぁ?」


 あまりに唐突な留学の話である。

 もし事前からそれを知っているならば、おそらく夕貴先輩はこんなふうに泣いていないだろうし、だいいち美術部内でも噂になるだろうから俺の耳にも届いていただろう。


 ……ぼっちだから俺に情報が来なかった可能性は浮かんだが。


「ひっ、ひっく……し、渋谷君、わたしにも、誰にも言わないまま一人で決めちゃって……なんで、なんで……うああぁぁぁぁ……」


 すすり泣きながら、夕貴は悲しみとも恨みとも判断のつかない言葉を吐き出す。

 こんな様子の夕貴を見るのは──愛美が死んだ時以来だ。


 つまり。

 夕貴にとって渋谷先輩が手の届かない異国へ留学してしまうという出来事は、愛美の死と同じくらいにショックな出来事、ということなんだろう。


 俺の胸がチクリと痛む。


「……ねえ、夕貴、悲しいのはわかるから……ねえったら」


 美春先輩も、どうしていいのかわからない様子で、おろおろしたままだ。


 しかしそこで、華子が俺の腕から手を放し、一歩、二歩と前へ進んで、椅子に座ったまま泣き顔を隠すようにうつむく夕貴に話しかける。


「片岡先輩は……なんで泣いてるんですか?」


 一瞬、みんなが固まった。もちろん俺も。

 そんな空気など知ったこっちゃないと、華子はさらに続ける。


「渋谷先輩が遠くへ行っちゃうことが悲しいなら、そんなに泣くほど悲しいなら、なんで気持ちを伝えようとしないんですか? 泣いてる暇なんてないですよ」


「結城さん……」


「渋谷先輩が遠くへ行っちゃってから後悔したって、何にもならないんですから。片岡先輩は生きてます、渋谷先輩も生きてます。言葉だって面と向かって伝えられます。今ならまだ間に合うんです」


 さすがに華子も、なぜ夕貴が泣いているか、わかったらしい。

 しかし、その言葉で、なぜか俺の胸の痛みも増した。


 華子の言ったことを少し遅れて理解した美春先輩は。


「そ、そうだよ! 今ならまだ間に合うんだよ、夕貴! ちゃんと渋谷君が留学しちゃう前に、好きですって伝えなくちゃ! だいじょうぶ、きっと渋谷君も夕貴のこと好きだと思うからさ!」


 さらに言葉を追加して夕貴を励ます。


 ──ああ、やっぱりそうなのか。


 もうあきらめたつもりだったのに。

 なんで俺は、こんなにも傷ついてるんだろう。


 なんで俺は、自分の好きな人が俺を愛することなどない、なんて当たり前のことを、ずっと忘れてたんだろう。


 離れた位置でただこぶしを握り締めるだけしかできない俺のことなど、夕貴の意識の中には存在してないんだ。


 ──俺は、夕貴に必要とされていないんだ。


「……夕貴、そうですよ。泣く前に行動しましょう。まだ後悔するには早すぎますから」


 抑揚もなく口から発せられた俺の言葉は、夕貴に届いただろうか。

 だが、精いっぱいの強がりを吐き捨てるだけしかできない俺のほうを見たのは、この場では華子だけだった。


「……これ以上、泣いてる姿を見られたくないとは思いますので、今日のところは俺は帰ります。じゃあ」


 ヤバイ。

 なんで視界がにじむ。

 これほどまでに情けない男だったんだな、俺は。


 俺はそれだけ告げ、美術室の扉を開け、ただひたすらに足早でそこから去る。


 そして校舎の玄関先に到着したとき、後ろからガシッと腕をつかまれた。


「……せんぱい……!!」


 必死な形相の華子だ。


「なに自分だけ先に帰ろうとしてるんですか。わたし心臓が弱いんですから、そんな早足で歩かないでくださいって以前にも……」


 どこかで聞いたセリフとともに、俺の顔を下からのぞき込もうとする華子だが、顔を背け俺は言う。


「……見るな」


「……」


「見るな。来るな。今の俺に、かまうんじゃない」


「せんぱい……」


「かまわないで、くれ……」


 俺は華子の腕をふりほどき、そのまま校舎から出ていく。

 おそらく呆れたのだろう、華子は追いかけてこなかった。


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美術部の天使と小悪魔と ~妹のいない世界で、俺は妹が紡いだ縁に振り回される~ 冷涼富貴 @reiryoufuuki

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