11. 魔女

「瀬那……」


 はかなげに佇む立ち姿も、雨に光る黒髪も、瀬那を強く想起させる。数瞬の間、口を開けて固まっていた亨は、ゆっくりとタイトルプレートに目を移した。


『雨の天女』、作者は……佐路さじ啓太郎けいたろう。聞いたことの無い名前に眉を顰める。


 偶然そう感じただけだろうとも思ったが、人物像の雰囲気は彼女そのものだ。相当な時間、絵の前に立ち止まっていたらしい。人の流れに逆らってじっと見つめる彼へ、背後から声が掛かった。


「その絵が見たかったの?」


 会場を一回りしてきた水原が彼の横に立ち、二人の間から真田が顔を出す。


「この絵は俺でも分かりやすいな。幻想的って言うんだろ?」

「矢賀崎くんの作品に似てるかも。写実にも抽象にも見えて、私は好き」


 中三の時、亨の描いた絵を父が市のコンクールに出品したことがあった。彼は入賞など期待しておらず、親の身贔屓と冷めていたが奨励賞を獲得する。水原が初めて亨の絵を見たのは、この時のこと。彼女は亨の人柄を知るより早く、その作品に惚れ込む。十代にしては大人びたタッチが受賞の理由であり、若い水原の憧れであった。


「この作者、佐路啓太郎って知ってるか?」

「うーん……知らない」


「俺も知らない」と言う真田に、当たり前だと彼女がつっこむ。真田の関心はもっぱらサッカーで、知っている画家の名前などピカソとゴッホくらいだろう。


 気になるなら図録を見てみればという彼女のアドバイスに従い、亨はショップで芳画会の作品一覧を買い求める。大判でフルカラーの図録を買うと財布が空になったが、別に問題は無い。


 もう用事は済んだと亨が宣言し、三人は会場を出る。早速、図録を取り出して中を開けて、『雨の天女』の詳細を得るべくページを繰った。選考理由や作品サイズはどうでもいい。巻末の便覧に制作は昨年、佐路の出身地が真波市ということが記載されており、これは制作経緯を知る手掛かりになる。ここの展覧会でトリを務めていたのは、同郷の出身だからのようだ。


 しかしながら、この街でプロの画家として生きる亨も、佐路啓太郎の名を聞いたことがなかった。既に他所へ引っ越したから、或いは、極端な寡作家なのか。現実に戻った際には、この画家についても調べようと心に強く刻む。


 シャチが見せようとしたものは、佐路の絵に違いあるまい。問題はこの期に及んでもまだ、夢が終わらないことだが――。


「ねえ、まだ時間は大丈夫?」

「ん、他に行きたいところでも?」

「一階でパンケーキ食べようよ」


 そう言えば、この頃はパンケーキ屋が流行っていたなと思い出す。一時の流行のことであり、一年も経てば別のブームに切り替わったものの、この最盛期だけは百貨店の側面入り口にオープンカフェ風の店が設けられていた。本格パンケーキと銘打った、やたらと品数の多いメニューが売り物だ。


 水原は最初からそちらも目当てだったらしく、ちゃっかり割引クーポンまで入手済みで準備万端である。晩飯前にパンケーキとは――と彼は口に出しそうになったものの、その感想も高校生相手には年寄り臭い。

 腹が減ってきたから丁度良いと真田も賛同し、皆で下りのエスカレーターへ乗り込んだ。


 宝飾品の七階、生活雑貨の六階と通過し、徐々に彼らの前後にも客が詰まってくる。急いで歩み下りるサラリーマンもいたため、三人は一列になって片側へ寄った。一番下段に立った亨は水原のスイーツ話を適当に流しつつ、どこか古めかしい売り場を覗く。商品の陳列方法や一押し品のデザインなど、些細な時代の移り変わりを楽しんだ。


 五階、四階と衣料品のフロアで更に混み始め、女性服の三階を過ぎた時だ。特価販売でもあったのか、妙齢の婦人たちが大挙して現れた。人で埋まったエスカレーターが、亨を下階へ運ぶ。


 あと少しで二階に着くというタイミングで、最上段に乗った七十過ぎの買い物客が、小さな呻きを漏らした。脂汗に塗れた右手が、手摺りから滑り落ちる。


 気温の下がったこの日、老いた男性は独りで贈答用の小物を買いに百貨店を訪れた。体調が思わしくなく、外出を控えていた矢先のことで、暑くなる前にと無理を押す。慣れない婦人服売り場の雰囲気も、彼には負担になった。


 やっと緑色のスカーフに決めて購入した老人が下りエスカレーターへ足を乗せた時、笹飾りが傾いで彼の顔の前に飛び出す。これを避けようと、咄嗟に身体を捻ったのが心臓へ負担を掛けた。


 男は狭心症を起こし、力無く崩れ落ちる。倒れた場所は最悪に近い。前にいた女性も足腰の弱った老人で、背中を押されて同じく前方へ倒れた。力は折り重なって、亨たちのいる下段にまで雪崩を打つ。


 真波市東王百貨店、将棋倒し事故、死者二名、負傷者八名。


“何があるか分からないもの”


 事故報道を新聞で読んだ叔母は、亨に携帯を持つように勧めた。


“外で倒れた時なんか、困るわよ。事故に巻き込まれることもあるし”


 危険を察知したのは、キョロキョロと周囲を窺っていた真田だけだった。動くベルトを固く握り、足を踏ん張った彼は、友人二人へ警告を発する。


「避けろ!」


 それは無茶と言うものだ。雪崩は一瞬、総計一トンを軽く超える圧力を逃れる暇は無かった。二階フロアへジャンプ、亨がそれを選ぶと水原を見殺しにしてしまう。


 次の瞬間、彼の逡巡を、客たちの悲鳴を、飛瀑が押し流した。下から上に遡る、道理に外れた幻影の滝が。


 亨以外には見えなくとも、幻は質量を持ち、降り落ちる人々を上へと吹き飛ばす。亨もすぐに滝の正体に気づいた。シャチだ。

 跳ね登る緑の巨体が、煌めく飛沫の奔流を生む。倒れていた客は次々と三階に押し戻され、亨たち三人は無事に下まで到着した。


 エスカレーターの端で踵を引っ掛けてしまった亨は、たたらを踏んで二階フロアに後退あとずさる。彼と同様にバランスを崩した水原を支えながら、エスカレーターで跳ねるシャチを見上げた。


 空中で彼の方へ回頭したシャチは、刹那の間、動きを止める。そこらかしこに設置されたハロゲン灯が、緑の身体を透過して乱反射していた。


 灯台以来、長かった役目を果たしてシャチが粉々に砕け散ると、光が雪の如く舞って亨の世界を明らめる。

 全てを白く、無垢の狭間へ。百貨店の陰影は消え、両手に感じていた水原の重みも失せた。


 シャチは二度、彼を助けた。三度かもしれない。しかし、と彼は考えを推し進める。これは本当に起きたことなのだろうか。それとも、過去を材料にした単なる夢想なのか。


 思考は次第に輪郭をぼやかせて、深い眠りが取って代わる。この後、彼が有意な夢を見ることはなく、次に目を開いた時には薄暗い寝室の天井が在った。


 繰り返される玄関チャイムが、亨の頭を現実に引き戻す。放浪の末、遂に独り寝る十年後の自宅へ帰ってはきたが、それほど嬉しくもなかった。

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