10. 背ビレ

 多少迷いつつも、叔父の家に電話は入れずに三人で駅へ向かう。

 学校近くの駅から二つ先の真波駅で降り、改札を出れば、百貨店の入り口は直ぐそこだ。


 駅前には束ねられた竹が立てられ、広場のそこここで笹飾りが揺れている。七日を過ぎても、真波の七夕はまだ本番真っ最中だった。七月一杯は続く七夕の祭りは真波の名物で、笹に括り付けるのは短冊ではなく、金や黄色の色紙である。


「綺麗なもんだな」

「真波の七夕は、七夕じゃないんだよ」

「どういう意味だ?」


 賑やかな雰囲気に浮かれる真田へ、水原が知識を披露する。


「天女の伝説があるんだって。それが七夕の行事と混じったみたい」

「あー、そんな話を地域学習で言ってたな。天女じゃなくて、海女あまだった気が」

「海女じゃロマンチックさが半減じゃん」

「そうでもないだろ、海だって人気あるぞ。また今度さ、海で花火を――」


 夏休みの予定を語りだした真田を聞き流しつつ、亨も懐かしい光景を楽しく眺め回す。十年後なら、三人ともスマホを取り出して写真を撮りまくっていたに違いない。


 当たり障りの無い会話が一段落すると、最初は怖ず怖ず、最後は尋問かという勢いで亨は質問攻めにあった。普段はロクに返事もしないのだから、時に冗談まで交える彼は驚異的であり、ここぞとばかりに話が弾む。


 身体の調子は大丈夫なのか。美術の勉強はどうしているのか。嫌いな先生は? ゲームはする? 好きな食べ物は?


 どの問いにも真面目に答え、その度に二人は熱心に話を聞いて頷いた。これを過去に実行していたら、真田や水原は親友になったのだろうか。高校からやり直せば、また違った人生が待っていたのか。その答えを亨は知りようがない。この世界は、何れ醒める夢なのだから。


 百貨店の扉を入った一階正面のフロアで、亨は足を止めた。

 現実には訪れていない、十年前の東王百貨店。今見ると流行遅れの服に身を包んだ客たちが、バッグやアクセサリーの陳列台の間を行き交う。店員の制服も商品を喧伝するポップも一世代前のデザインで、レトロな雰囲気に片足を突っ込んでいた。

 たった十年でこうも変わるのかと感心するが、彼が立ち止まったのは、そんな時代への郷愁からではない。


「どうかした? エレベーターはあっちみたいよ」

「エスカレーターにしようぜ。待ってるのが面倒臭い」

「そうだな」


 依然、楽しそうな二人へ、彼は曖昧な笑みを返す。プールで溺れかけたことは、それなりに覚えていた。七月初めにしてはまだ過ごしやすい日だった。叔母に話すと病院で検診を受けた方がよいと言われ、異常無しの診断書を貰う。

 診察を受けたのはこの日だったか、それとも翌日の夜だったか――。


“何があるか分からないもの。ちゃんと診てもらいなさい”


 八階に在る催事場へと、三人は混んだエスカレーターに乗り込んだ。ここもやはり笹飾りだらけで、天井からも紙垂しでに似た色紙が垂れ下がる。

 二人の一段下に立った亨は、百貨店の案内チラシに目を向けながら、心に引っ掛かる刺の正体を考え続けた。


“やっぱり、携帯電話を持った方がいいんじゃない? 外で倒れた時なんか困るわよ”


 余計な出費が嫌で、彼は携帯を買い与えようという申し出を断る。この叔母との会話も夏にされたものだ。


“遅くなる時は、連絡が無いと心配なのよ”


 母の務めを請け負った叔母は実に甲斐甲斐しく、亨も文句の付けようがなかった。他人行儀な態度は止めろと、彼が叱られたくらいだ。叔母には実子がおらず、息子の代わりなのだろうと当時は考えた。これも褒められた捉え方ではなく、他人の好意に鈍感だった自分が嫌になる。


 しかし、寄り道をする亨ではないし、バイトも予備校も連絡先は教えていた。少し過保護気味で心配性、そんな叔母の印象を訂正する必要は無いと結論付ける。


「着いたぜ」


 八階に着いた途端、真田が目敏く会場の入り口を見つけて先に歩き出す。彼の分の入場料は水原も援助してやり、結局全員が三分の一の負担で納得した。券売窓口に並ぶ真田を、亨と水原が離れて待つ。


 三人のチケットが揃い、さあ中へと踏み出した亨の足元を緑がかすめる。

 まただ。緑の鰭が亨を追い越し、一早く会場に入って行った。


「ここにも……?」


 展覧会の趣旨や選考についてのボードが入り口付近に設置されているため、客が滞留して人の壁になっている。盛況なのは結構だが亨には障害物でしかなく、彼は人を押し退けるようにして鰭を追った。

 置いていかれそうになった級友二人が、ぶつかった人々に謝罪しつつ亨を呼び止めようとする。


「矢賀崎くん!」

「慌てんなよ、お目当てでもあるのか?」


 展示パネルを摺り抜けた鰭は、すぐに視界から消えてしまった。奥へ進む前に、戸惑う二人へ別行動をすると告げる。


「奥を見てくる。すぐ戻るから」

「えっ? なに?」

「水原はそこの『原界』って作品をよく鑑賞しとけ。将来、大物になるぞ」

「なんで……ちょっと!」


 はにかんだ真田が手を挙げて応えたのは、絶対に何か勘違いしていた。都合が良いので水原の相手は彼に任せ、亨は鰭の持ち主を探す。


 大きさも色も、一時は背中を貸してもらったあのシャチに違いない。床から背鰭だけを出して泳いでも、他の客たちは平然と鑑賞を続けている。シャチは亨以外には見えないと思われ、またその推論は極当然とも感じられた。


 魚は何かを見せたいのか。芳画展の何かを?

 パネルで区切られた会場は思ったより広く、蛇行する順路は人垣が邪魔でスムーズに歩けない。来場客の陰に鰭が隠れているかもしれず、彼は慎重に床の上を確かめながら進んで行った。


 五度ほど右に左にと曲がった先に、展覧会のグッズ売り場と出口が見える。ポストカードや小物を買う客が、入り口よりも多く溜まっていた。このまま会場を出るべきか、それとも引き返すべきなのか。判断を悩む彼の目の端に、緑の反射光が映る。


 出口近くに展示された絵の前、眺める数人の男女の足の間を縫って鰭が泳ぐ。

 亨が大股で近寄ると鰭は床下に消えてしまい、膝をついた彼は顔を床に近づけた。低い位置からシャチの行方を探しても、グレーのカーペットが敷き詰められた床があるだけだ。


 思わず舌打ちをした彼へ、周りの客が不審な視線を送る。注目され慌てた亨は、靴紐を直すフリをして取り繕った。溜め息をついて立ち上がり、壁に掛かった絵へ、何とは無しに顔を向ける。


 抽象画や荒いタッチの前衛作品が多い中、目の前に掛かるのは比較的モチーフのはっきりした風景画だった。鈍く灰にくすんだ雨空。小さな山吹色の花が咲き誇る樹。樹の前には、青く塗られた人影がこちらを向いて立つ。


 顔の特徴まで分かる精緻な画風ではなく、人も画面に対してずっと小さい。彼はその青い影から、目を逸らすことが出来なかった。

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