第31話 蛇の道は虹


 四方を見渡せば、地平線まで連なる山々。

 清涼な空気を肺一杯に吸い込むと、胸と脳の濁りが洗い流されるようだった。

 

 崖の下を覗き込むと新茶市が開かれていた土地が見える。

 今は幟一本すら立っておらず、駐車場にも俺の車しか停まっていない。


 着信音。

 スマホを耳に当てる。


「……もしもし。……はい」


 陽射しは強く、下草の緑は濃い。

 夏がすぐそこまで来ている。 


「うん。……うん。……じゃあ、そうしましょうか」


 短い通話を終える。

 相手は俺の会社の専務だ。

 少し前までは、親父の会社の専務だった。




 俺は両親の抱えていたすべてを相続した。

 土地も、家も、会社も。それ以外の諸々も。


 財務はおろか経理も人事もさっぱり分からないが、俺は父の会社の社長になった。

 偉ぶることなどできるわけがない。

 パート社員に頭を下げ、専務に頭を下げ、客先に頭を下げ、仕入れ先にも頭を下げる日々が続いている。

 客商売をやっていた頃よりずっと謝り、詫びている気がする。


 そのザマでどうにかなっているのは、親父が遺した指南書のおかげだった。

 自分の身に何かあった時に俺と専務の二人でも会社を回していけるよう、父は重要事項をまとめた経営マニュアルを用意していた。

 分厚く、手書きで、読む相手のことをまるで考えていない、居丈高に書かれたマニュアルだ。

 それでも、そのマニュアルのおかげで俺はどうにか地獄を見ずに済んでいる。


 母は自分名義で通帳を残してくれていた。

 小さな家なら買えてしまえるほどの、まとまった金額の貯金だった。

 通帳の一ページ目には紙片が挟まっていた。


 『いつか偉達いたちが仕事を失い、友達を失い、住む場所すら失くしても、ここに帰って来られるように』。


 手書きの文字の横には、父と母の署名が記されていた。

 どんなに生活が苦しい時も、決して手を付けずにいた貯金なのだろう。

 紙片を見た俺は、熱い涙を落とした。




「……」


 俺は一度伸びをして、後方を振り返った。

 そこはただの荒れ地で、草が好き勝手に伸びている。

 過去に神社かほこらでもあったのではないかと調べたが、特にそういった記録は無かった。


 俺は空き地に背を向け、眼下に広がる景色を眺めた。

 ネクタイを緩め、汗に濡れた首筋に風を通す。


 仕事の息抜きを兼ねて、たまにここへ来る。

 彼岸へ渡ってしまった父と母、祖母に逢えるかもしれない、なんてことを期待しているわけではない。

 俺にとってはこの場所が三人との最後の接点だからだ。

 俺が家族を見送ったのは霊安室でも火葬場でもなく、ここだ。

 ここにいると――


「!」


 がざざ、と後方で音が立った。

 俺は素早く振り向いたが、動くものはない。


 再び前を向き、気持ちを切り替えて今後の経営について考える。

 経営と言うか、財務。

 財務と言うか、借金。


 父が見栄で買った高級車を売り飛ばしてしまいたかったが、ろくに洗車もしていないせいで薄汚れている。

 それに、あれも俺が受け継いだものには違いない。

 だったら




「あの船はねぇ?」



 ピアノの黒鍵を叩くような、違和感の混じる声。



「別にここから出航してるわけじゃないんですよ」






 俺は振り返らなかった。

 さく、さく、と草を踏む音が近づいて来る。

 息遣いは聞こえなかったが、生ぬるい体温をすぐ傍に感じた。


「あんたがここに居たから、ここから出航したんですよ」


「?」


 声を出せず、俺はただ疑問符を浮かべた。


「『へそ』ってあるでしょう? 人がこの世に生まれ落ちる時、身体と身体は繋がってるじゃないですか」


 でもねぇ、とノヅチは絡めるように言葉を継ぐ。


心魂しんこんだって『緒』の形で親と繋がってるんですよ。それも両方の親とね。……ま、生きてる間は見えやしませんから、誰も知らないんですけどね」


「……」


「臍の緒は生まれる時に切れますがね? 『心魂の緒』の方はずうっと繋がったままなんですよ」


「いつ切れるんだ、それ」


「それは人によりますよねぇ。若い時分に親と喧嘩した拍子に切れたり、親元を離れて一人暮らしを始めて切れたり……仕事に没頭して切れたり、嫁や婿に出て切れたり、子供ができて切れたり……。あ、捨て子なんかは生まれてすぐに切れますよ。そもそも父親のが繋がってない、なんてこともある」


「結構もろいんだな」


 ですねえ、とノヅチはゆったりと相槌を打った。


「でも、いつまで経っても切れない親子もいるんですよ。普通は親か子か、どっちか片方が勝手に切っちゃうモンなんですがね」


「……切れないと、どうなるんだ」


「どうなると思います?」


 問いかける声は耳の産毛をくすぐった。

 俺は振り返らず、肩をすくめる。


 ノヅチは音もなく笑った。


「片方が死んだ時にね? あの世へ引っ張られちゃうんですよ」


「――――」


「緒で結ばれてるんだから道理でしょう? この世からあの世に『連れて行かれる』んです」


 俺は自分の腹の辺りを手でなぞった。


「あんたも繋がったままでした。それも、父親と母親の両方とね」


 父と母。

 シュウとロッコ。

 俺はあの二人と見えない糸で繋がっていた。

 恋や絆の糸ではなく、呪わしい執着の糸で。




「ヒゲさんはあの船に『迷い込んだ』わけじゃないんです。……『引きずり込まれた』んですよ」




 ぬるい風が吹いた。

 

「あの二人、死ぬ間際になってもあんたに伸びた心魂の緒を切れなかった。で、あんたの方も緒を切れていなかった。あんた方は繋がったままだった」


 ざざあ、と空き地の草が揺れた。

 

「ヒゲさんの心魂はね、まだ生まれてなかったんですよ。だからあの船で『狭間』をさまよう羽目になった。……『お七夜』って分かりますかね? 灯籠廻船に乗ってるのは心魂の七夜が済まないうちに死んじまった人たちなんですよ」


 おっと、とノヅチは言葉を切った。

 続いて、「そんな話はどうでもいいですね」と言葉を継ぐ。


「あんた自身がどこにいたって一緒だったんですよ。自分の意思で船に乗ったわけじゃなかったんですからね。人混みの中にいようが、寺社仏閣の中にいようが、あんたは二親ふたおやに心魂の緒を引っ張られて灯籠廻船に連れ去られていたんです」


「……」


「最後にあの二人が謝ってたでしょう? あれはそういうことです。あんたを引きずり込んでしまったことへの「違うな」」


 俺が言葉を割り込ませると、ノヅチは小首をかしげた。

 俺の目に映ったわけではないが、その気配があった。


「違うんだよ、ノヅチ」


「?」


「親父とお袋が謝ってたのはそっちじゃない」


 俺は草地の上に腰を下ろし、あぐらをかいた。


 目を閉じ、三人の顔を思い出す。

 申し訳なさそうに、不安そうに俺を見つめる顔を。

 ――既に、記憶からは薄れ始めている顔を。


「親父とお袋が謝ってたのは、そんな些細なことじゃないんだよ」


「……そうですかねぇ」


「そうさ」


 断じ、俺は小さく笑う。


「俺には分かる。血の繋がった家族だからな」


 なるほどねぇ、と呆れたような感心したような声と共にノヅチが腕を組んだ。


「ヒゲさん?」


「何だ」


「今度乗る時は、あんまり暴れないでくださいよ」


「覚えてたらな」


 あと、と俺は言葉を足す。


「俺はあの船に乗らない」


「……へえ?」


「俺はちゃんとやる」


 立派な父親にはなれないかも知れないが、それでも。

 それでも、真っ当な父親になってみせる。


「俺は――大丈夫だ」


「……」


「三人にもそう言っといてくれ。だから――様子見になんて来るなよってな」


 ふ、とノヅチが笑った。

 そして浴衣を翻し、俺に背を向けた。


 さらさらさらさら、と何かが草の上を這うような音がした。

 その音もすぐに聞こえなくなり、初夏の日差しの熱だけが残った。






 着信音。

 恋人からだった。


「もしもし。……あ、うん。サボってるところ」


 婿入りの話は無くなった。

 状況が状況だったこともあるが、そもそも俺の方から辞退した。


「……なあ」


 今後についてあれこれまくし立てる恋人の話に割り込む。


「一つ、謝っときたいんだけどさ」


 恋人は電話の向こうで疑問符を浮かべた。


「俺さ……正直、良い夫婦になれるかどうか分からないんだ。自信もあんまりない」


 恋人の吐息に緊張が混じった。

 けど、と俺は言葉を継ぐ。


「良い父親には……絶対なりたいって思ってる」


 だから、と続ける。


「頑張ろうな、色々。……生まれてくる子が、幸せになれるようにさ」


 恋人は短く、「うん」と応じた。


「お義父さんとかにも聞きながらさ。――、――――」


 座ったまま顔を上げる。


 抜けるような晴天だった。

 雲は見えず、強い日差しを浴びた俺の影が地面に長く伸びている。


 わしわしわし、と気の早い蝉が鳴き出していた。

 夏草の匂いが、つんと鼻を刺した。




 <了>

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灯籠廻船 icecrepe/氷桃甘雪 @icecrepe

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