第4話 蛇の道は藪


 マムシは倒した。

 だが襲い来るヤツマタ様は『二人一組』。

 そして今、本殿に居た子どもたちの姿が見えない。


 氷を丸呑みしたかのように胃の腑が冷える。


「ックソ……!」


 走り出そうとした俺は、つんのめるようにして踏みとどまった。

 マムシだ。

 マムシがまだ生きている。


 掴んだものを溶かす化け物。

 今は意識を失っているが、もし目覚めて襲われたら今度こそ最後だ。

 確実に殺しておかなければならない。


 ずぶ濡れで気絶している女の上で足を振り上げる。

 頭だ。

 頭を砕く。


 全体重を乗せてマムシを踏み殺そうとしたその瞬間、全身の筋肉が軋んだ。


「――――!」


 イップスか何かかと思い、再び足を振り上げる。


 こいつは爪楊枝を折る気安さで人間の腕を溶かす女だ。

 現に俺は溶かされた。

 それどころか死ぬより惨い目に遭わされるところだった。


 殺せ。

 殺せ。

 ――――殺せ!



 ――――



 ――――



 足が痙攣したように止まる。



「っ、くっ、そっ!!」


 落としどころを見失った俺の足は、玉砂利をぐじゃんと踏んだ。


 激痛や恐怖に襲われたわけではない。疲労でもない。

 理性が、俺の肉体にストップをかけている。


 既に戦いの熱は冷めた。

 アドレナリンも消費し尽くしてしまった。

 今の俺は素面しらふだ。

 素面で女を踏み殺すことなど、できるわけがない。


 姿形がほぼ人間と同じであるマムシを、俺の脳が『同族』だと認識してしまっている。

 同族殺しの禁忌タブーを冒すことに、全身が拒否反応を示しているのだ。

 早い話が臆病風。


(おいおい頼むよ……!)


 自分の情けなさに泣き出しそうになる。

 だが、こうなったらもうダメだ。俺の体のことは俺が一番分かっている。

 無理に踏み殺そうとしてマムシが息を吹き返したら、それこそ大惨事だ。

 こいつは軽く掴んだだけで俺を一本足に変えてしまうのだから。


 踏み殺すのは無理だ。

 なら方法を変えるしかない。 


 水に落とすか。――溺死するより先に目覚めたらどうする。

 首を絞める。――上に同じ。

 船の外に落とす。――そのためには一度彼女を抱えなければならない。これも危険だ。

 まず手を折る。――これだ。


 黒髪を垂らしたマムシを見る。

 その瞬間、むわりと煙に似た猜疑が胸を満たす。


(待て。こいつ、本当に意識無い、んだよな……?)


 気のせいか、倒れている場所が変わっている気がする。

 またフェイントではないのか。


 呼吸は弱々し過ぎて聞こえない。

 脈は――――いや、ダメだ。触れてはいけない。

 近づいて掴まれるだけで『詰み』だ。


(よく見ろ。よく……)


 そう。周囲の玉砂利の乾き方で分かる。

 マムシは動いてはいない。

 大丈夫だ。こいつは気絶している。


 ――本当か。

 本当に気絶しているのか。

 動いていないだけで、本当は意識があるのではないか。

 いや、そこに悩んでいる間にも目覚めるのではないか。


 何でもいい。

 とにかくどうにかして、こいつの始末をつけなければ。

 安全に、しかし確実に。


(……!)


 じとりと嫌な汗が滲む。

 顎髭をつまむ指が震える。


 マムシ自身に一切触れず、無力化あるいは殺害できるか。

 拘束。――道具が無い。

 灯籠を落とす。――重すぎる。

 武器。――カカシは船の反対側だ。


 ダメだ。時間がない。

 すぐにでも子供たちを捜しに行かなければ。

 やはり踏み殺すしかない。

 だがもし仕損じたら。あるいはマムシが実は意識を取り戻していたら。


(ど、どうする……?! どうするのが正解だ……?!)


 心拍が再び上昇を始める。

 だがアドレナリンはまだ出ない。

 困惑が舌を苦く刺激し、焦燥でべったりと腋が濡れる。




 ――ふと、気づく。




「ノヅチ!」


「そんな大声出さなくても聞こえてますよぉ」


 輪郭を取り戻したノヅチは両手で耳を押さえていた。


「……こいつ、頭を踏み砕いたら死ぬのか?」


「そんなわけないでしょ。アタシと同じで、生き死にの埒外らちがいですよ」


「……!」


 やはり。

 だが当たり前だ。マムシはこの世でもあの世でもない場所から来たのだ。

 死んであの世へ還るという概念自体が存在しない。


 つまりこいつは――――


「弱り切ったら迎えが来るんですよ。ほら」


 気付けば俺の周囲に黒い影が落ちていた。

 見上げれば、例の巨大蛇が長い舌をちらつかせているところだった。


「いおあっ!」


 飛び退き、本殿へ向かって走る。

 途中で一度振り返ると、大蛇はつるりとマムシを舌で絡め、飲み込むところだった。

 あれが『迎え』。


(もしかして『ヤツマタ様』は――――)


 俺は脳裏に浮かぶ不穏な考えを一旦忘れ、船首へ駆けた。

 マムシのことはもういい。

 今は子供たちだ。






 本殿に飛び込むと、巨大な鏡が一つ。

 俺が放ったスマホとマムシの腕も残されている。

 子供たちは――――やはり、いない。

 もう一人のヤツマタ様の姿も。


(どこ行った……?!)


 辺りを見回し、気づく。

 部屋の隅から細く白いものが漏れ出している。

 光。

 扉だ。


 軽く押すと、明るい世界が広がっていた。

 眼下には長く広い木の階段。

 微かにだが、ちんちん、どんどん、という軽快な音楽も聞こえる。


 そこで思い出す。

 灯篭廻船は死者を運ぶ船であることを。


(もしかして客室か……? 死人の……)


 俺は慎重に、しかし速やかに階段を駆け下りた。

 辿り着いたのは片側一車線の道路ほどに広い、畳敷きの長い通路だった。


 ――本当に長い。

 おそらく船の甲板とほぼ同じ長さがある。

 天井も驚くほど高い。


 左右には一枚一枚絵柄の違うふすまが並んでいる。

 試しに一枚開けてみると、中は高校の教室ほどもある畳張りの座敷だった。

 隣室とはふすまで隔てられており、壁面は障子窓。

 窓は半分ほど開いており、漆黒の世界から風が吹き込んでいる。

 屋形船のような造りだ。


 中には仮面をつけた死者たちがいた。

 部屋の中央で額を突き合わせ、何かをじっと見つめている。

 耳を澄ますと、ちるるる、という甲高い音。

 それにわんを振る仕草。

 どうやらチンチロに興じているらしい。


(これから死ぬのに賭場とば……?)


 気になるが、今は彼らに関わっている場合ではない。

 畳敷きの通路に戻る。


 今のサイズの部屋が並んでいるとしたら、ざっと二十以上の部屋がある計算だ。

 ひと部屋ずつ探している場合ではない。

 

「おい!!! おい、俺だ! ヒゲだ!!」


 空気を震わせるほどの怒声を上げる。


「どこだ?! ちびっ子! ふわふわ! ユメミさん!!」


 二十メートルほど離れた場所の襖が開き、ひょこっと顔が覗いた。

 男の子だ。

 彼は左右を気にしつつ、俺を手招きする。


「兄ちゃん! こっち!」


 良かった。ひとまずは無事らしい。

 そう思いながら部屋に到着し、ぎょっとする。


 明るい座敷では、浴衣姿の死者たちが踊っている。

 踊りはてんでばらばらで、南国の賑やかな踊りに興じる者もいれば、優雅なワルツを披露する者もいる。

 三味線を弾く死者たちもまるで息が合っていない。



 その中に忍者が――『ヤツマタ様』がいる。



 布とゴムの中間ほどの質感の、淡い桜色の忍び装束。

 体はマムシほど絞られておらず、胸や腰、尻に男の視線を吸い寄せる肉がついている。

 長い髪はクリーム色に近い茶色で、毛先が柔らかくカールしていた。

 年はマムシより少し上のようだ。


 忍び装束の側面には広めのスリットが走っていた。

 それは足首から胸の辺りまで伸びており、網目の向こうに地肌が覗いている。

 足首、腿、腹、乳房。

 スリットに沿って視線を上げた俺と女の目が合う。


(っ)


 桜色の忍者は目だけでにっこりと微笑んだ。

 マムシと同じく口元は布で覆われているのだが、頬と目尻の緩み具合で笑ったのだと分かる。


 両手が俺を向いた。

 手の平には、やはり『口』。

 ぬろおお、と伸びた二枚の舌には真珠つきのピアスが嵌められている。


「ッ!」


 俺は思わずたじろいだ。

 が、女はゆるく両手を上げ、踊りを続行する。

 動きからするに阿波踊りのようだ。


(何だこいつ……!?)


「その人、ずっと踊ってるんです」


 肩から先を失った少女、ユメミが呟いた。

 表情は温和なものに戻っている。


「……イタチさん、あいつは?」


「ぶっ倒した」


 わっと少年が顔を輝かせる。


「本当?!」


「ああ。……それよりこいつだ」


 桜色のヤツマタ様は俺たちにまるで注意を向けず、死者たちに混じってよいよいと踊っている。

 左右に揺れる形の良い尻。

 顔を埋めたくなるような胸。

 むっちりした太もも。


「ヒゲ、鼻の下っ!」


 がっと脛に蹴りが入り、よろめく。

 ふわふわ髪だ。

 自分より一回りも大きな男を蹴るとは、大した根性だ。


「どうします、この人」ユメミが割り込む。「やりますか?」


「……」


 もちろん、そうする。

 だが、こいつはどう見ても運動能力の高いヤツじゃない。

 せいぜい週末にボクササイズを嗜むキャバ嬢といったところだ。

 果たして思い切りぶん殴って良いものか。


 と、ユメミの穏やかな表情が崩れた。

 糸目が薄く開き、苦し気に伸びた手が虚空をかすめる。

 元々は右腕のあった空間。今は何も無い場所を。


(ッ!)


 俺の左腕も強い痛み――否、熱を帯びた。

 肘から先に熱線が絡んだかのような、不可思議な感覚。

 思わず右手で掴もうとしたが、そこには何も無い。

 幻肢痛だ。


 右手が空を切った瞬間、かっと全身が熱を帯びる。


 そうだ。

 今更「ぶん殴って良いものか」も何もない。

 俺とユメミはマムシ一人のために片腕を失ったのだ。


 やるのだ。

 さもなくば、やられる。


「ユメミさん、さっきの……」


 ふわふわ髪がかばんを見せた。

 元は平たいはずだが、本の詰め込みすぎで今や揚げたてのカツサンドばりに膨らんでいる。


「イタチさん、こっちに……」


 俺たちはピンクの忍者に背を向け、額を突き合わせた。

 古めかしい筆箱から取り出されたのは先の尖った鉛筆。

 こんなものでもないよりマシだ。


「挟み撃ちで」


「ああ」


「顔じゃなくて胸を狙いましょう。最低でも肺を潰せます」


「あ、はい……」


 少年とふわふわ髪を退かせ、ヤツマタ様にそろりと近づく。

 と、桜色の女が俺を見る。

 さっと腕を隠す。


「あ、あ~。いやどうもどうも」


 俺が取ってつけた笑みを向けると、女はにこりと微笑んだ。

 そしてまた阿波踊りに戻る。

 ふにゃふにゃと頭上で手が揺れている。


(緊張感の無いヤツだな……)


 俺は脱力しつつも、ヤツマタ様の手から視線を外さなかった。

 注意すべきは、とにかく『手』だ。

 マムシとの戦いでも明らかなように、『掴む』攻撃さえ封じればこいつらの脅威度はぐっと下がる。


 鉛筆を隠したまま、じりじりと近づく。


「!」


 見ればユメミだけでなく、ふわふわ髪と少年も忍者を包囲しつつあった。

 手には鉛筆。

 皆、腰の後ろに手を回している。


(クソ。チビ二人は巻き込みたくなかったんだけどな……!)


 何せ反撃を喰らう可能性がある。

 身体の出来上がっていないチビ二人は『掴み』をまともに喰らって死ぬかも知れない。

 できれば安全な場所にいてほしかった。


 だが、もう手遅れだ。

 今さら不自然な指示を出せばピンクの女が気づいてしまう。

 こうなったらやるしかない。

 四人で一斉に飛びかかれば、さしものこいつも回避できないだろう。

 

 五歩。

 四歩。

 三――――


「今だっっっ!!!」


 俺の叫びと共に四人が跳ぶ。

 女は俺たちを見ない。

 ただ軽く、阿波踊りの手を動かした。

 蛇が鎌首をもたげるように。


(来る……!)


 俺は即座に――――鉛筆をするんと落とした。

 そして、手の中に握り込んでいた砂礫をぶぱっと投げつける。

 甲板で掴み、鉛筆と共に掌中に握り込んでおいた砂礫を。


 桜の忍者が目を見開いた。

 だがもう遅い。

 極小の砂粒はマムシでも防げない。


(目さえ潰せば後はユメミさんたちが――――)




 がぎぎぎ、と。

 突き立てられた鉛筆が折れた。




「!?」


 ユメミが折れた鉛筆を見、女を見る。

 つられて俺も女を見る。


(何だ……?)


 ばらら、と砂礫が女の身を叩く。

 だが、粒が彼女の目や鼻に入ることはない。

 銅像にでもぶつかったかのように身を滑り、畳へ落ちている。


 女は目を閉じ、両手を上げたポーズのままぴたりと動きを止めていた。


「……!」


 こちらの攻撃は通らなかったが、反撃して来る様子もない。

 おそるおそる伸ばした手で胸を鷲掴むと、異様な感触があった。

 拒絶という概念を実体化したかのような、冷たく硬質な手触り。

 生物の肉の感触ではない。

 

(何だこれ……?! バリア……?)


「どいてください。腕を獲ります!」


 ユメミが俺の脇を抜け、桜の女へ腕を伸ばす。

 ぱちっと忍者がまばたきし、ユメミを見た。




 次の瞬間。

 忍者が消えた。




「……は? え……?」


 ユメミの腕は何もない空間を貫いていた。

 彼女だけでなく少年少女も顔を上げ、困惑の表情を浮かべる。


「お、おい。あいつどこ行った……?!」


 いない。

 ピンクの忍者が。

 どこにも。


「ヒゲ! あれ!」


 ばっと振り返ると、桜の忍者は俺たちに背を向けている。

 形の良い尻を左右に揺らしながら、和室を出て行くところだった。


 俺は唖然とした。


(っ! いつの間に……?!)


 俺たちは四方向から彼女を攻撃した。

 なのに桜の忍者は誰も突き飛ばさず、押しのけもせずに包囲を抜けた。

 能力は『バリア』だけではないのか。


 脳内でアラートが発せられた。

 呼応するようにして心臓が高鳴る。


(何かまずいぞ、こいつ……!)


 俺はすぐさま駆け出し、畳張りの通路に飛び出した。

 桜色のヤツマタ様はゆったりとした歩みで階段へ向かっている。


 立ち止まった彼女は俺に一瞥を寄こし、ひらひらと手を振った。


(? 敵意が無い、のか……?)


 何故だ。

 ノヅチの話からするに、こいつらは人体における白血球のような存在だ。

 俺たちを見逃す理由などないはず。


 俺は走り出そうとした。

 が、手首を掴まれる。

 

「深追いは危険です」


 ユメミだ。


「あの人、私たちがここへ来た時からずっとあんな感じでした。本人がその気なら、いつでもこちらを襲えたはずです」


「なのに何もして来なかった。……ってことは、やっぱ敵意が無い感じか?」


「おそらく」


「……。分かった。今は放っとく」


 今は。

 ――次はこうは行かない。


「ロッコちゃん、シュウくん。外に出て、ピンクの人が戻ってこないか見張ってて」


「はい! ユメミさんは……?」


「この人と少し話します」


 二人が外へ出ると、ユメミはふすまをぱたんと閉じ、俺に向き直った。


 170に届く長身に黒く長い髪。

 楚々とした雰囲気の持ち主だが、目を少しでも開くと妙な威圧感がある。

 それにあの素人離れした体捌たいさばき。


 花は花でも、柔らかい茎に支えられたスイセンやチューリップではない。

 太く堅い幹に支えられた、サクラやツバキの花を思わせる女。


「自己紹介が遅れました。ユメミです。イタチさん……でしたよね?」


「ああ。鎌ヶ瀬かまがせ 偉達いたちだ」


「――」


「どうした?」


「いえ。今さらですが、確かにお顔がイタチっぽいなと」


「ええ……?」


 よく言われるが、この状況でそんな感想が出るとは。

 ちょっと天然の気があるのか。


「腕、大丈夫か?」


「多少痛みます。イタチさんは?」


「へ、平気だ」


 嘘だ。

 とんでもなく痛い。

 断面が疼痛を帯びているし、肘から先も不定期に幻肢痛に襲われる。

 だが、ユメミの痛みが「多少」なら、俺が泣きごとを言うわけにもいかない。


「……ユメミさん。苗字は?」


 と、ユメミは困惑を滲ませる。


「あの、お察しいただけませんか……?」


「お察し……?」


「ええ。その、私……知らない方には苗字を名乗れないんです」


(……)


 少し考え、気づく。

 言動から察するに、ユメミは良家の子女だ。


「もしかして珍しい苗字だったりする……? 鳳凰院だの、後白河だの……」


 ユメミは曖昧な笑みを浮かべる。

 その反応を見て俺は納得した。


(そういうことね……)


 俺の故郷、つまりユメミの地元は田舎だ。

 市内に一つか二つしかない苗字というものも存在する。

 そのほとんどが地主や豪商の家系――要するに成り上がり系ではない、古くからの金持ちだ。


 ここで苗字を含めた素性を明らかにすれば、生還した後に身元を特定されかねない。

 俺が善人なら何の問題もないが、悪人なら金をせびるかも知れない。

 ユメミはそれを警戒しているのだ。


(信頼されてねえなあ……)


 もっとも、どこの馬の骨とも分からない男に借りを作りたくないという気持ちは、分からなくもない。

 金持ちには金持ちなりの苦労があるということだろう。


「ユメミさん。あいつ、行っちゃいましたよ」


 ランドセルの男の子と、ふわふわ髪の女の子が現れる。

 年はそれぞれ八歳と十四歳、といったところか。


「男の子はシュウくん、女の子はロッコちゃんです」


 ロッコ。

 俺が言うのも何だが、親のセンスを疑いたくなる名前だ。


「何? 私の名前が何か?」


「いや……ラッコみてえだなと思って」


「はあ?! あんただってイタチのくせに!」


「ロッコちゃん。やめて」


 ユメミは通路を示す。


「一旦、上に出ませんか? さっきの人の様子も気になりますし、ノヅチさんにも詳しい話を聞きたいです」


「分かった。行くか」


 俺たちは死者を置き去りに、階段へ向かう。


 ユメミは一度だけ俺に顔を寄せ、囁いた。

 ロッコちゃんとシュウくんも同じなのであしからず、と。

 ――――俺が知らないだけで、世の中には金持ちが大勢いるらしい。






 長い階段を昇り、甲板を兼ねる境内に辿り着く。

 既にピンクの忍者の姿は無い。


「あらゆっくりしたご到着で」


 ノヅチがゆらりと俺を見る。


「ピンクの奴は?」


「ヒバカリ様ならお帰りになられましたよ」


 ヒバカリ。

 それが桜の忍者の名前。


「私たちに敵意が無いみたいだったんですけど、あれは……?」


「ヒバカリ様はヤツマタ様の中でも一番……何と言うんでしょうねぇ、ものぐさ、ですか」


「やる気が無い……?」


「無いことは無いのですがねぇ。状況によってはあのようにやる気を失くされてしまわれるのです。ええ……」


(――――)


 よく分からないが、ひとまずの危機は脱したらしい。

 マムシ。ヒバカリ。

 第一夜のヤツマタ様はこれでいなくなった。


 船は先ほどまでの騒ぎが嘘のように静まり返っている。

 聞こえるのは風ともつかぬ波の音だけ。


 ロッコとシュウはへたり込んだが、俺とユメミは目配せした。


「ノヅチ」


「はい?」


「この船と、ヤツマタ様についてもっと教えろ」


「ええ~……? アタシも別に暇してるわけじゃ――」

 

 すっ、と。

 俺とユメミは胸の前に手を運ぶ。

 片手での合掌。


「どっちのきょうを聞きたい? 選ばせてやるよ」


 ノヅチは両手をぶんぶんと上げ下げし、やめるようジェスチャーした。


「わ、分かりました分かりました! 言いますよ言いますからやめてください!」


 ノヅチは小さく肩を落とし、「ここじゃ何ですから」と船内へ歩き出す。




 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 灯籠廻船は死者を運ぶ船。

 沈没せず、座礁せず、七夜の航海で死者を彼岸へ運ぶ。

 走っているのは海ではなく、彼岸と此岸の狭間。落ちたら助からない。

 死者を運び終えた後は此岸、つまり元の世界へ戻る。


 生者が死者に触れることはできず、触れられることもない。

 死者は生者に干渉しない。


 船に生者が紛れ込むと、ヤツマタ様が襲って来る。

 ヤツマタ様は『主様』の命令で行動しており、毎夜、必ず二人一組で出現する。

 ただし船に乗れるのは一夜につき二人なので、『下』へ落とせばその夜はもう現れない。

 また、ヤツマタ様は不死身である。


 彼岸へ到着したら、つまり七夜を超えればヤツマタ様は生者を襲わない。

 ただしその時、主様の名を呼び、救いを乞わなければ灯籠廻船は此岸へ向かわない。

 此岸へ向かえなかった生者は、そのまま永遠に彼岸を彷徨う。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




「――だいたい、こんな感じですかね」


 ノヅチはのんびりと告げた。

 俺、ロッコ、シュウは青ざめていたが、ユメミはややバランスを崩しつつも問うた。


「死者の方々、年齢がずいぶんばらけていましたが、これは――?」


 言われてみればそうだ。

 死者を運ぶ船なら老人か、五十代以上の人間に集中するはず。

 だが俺の見たところ、子供や若者も相当数混じっていた気がする。


「死を迎えると、時間という概念から解放されますからねぇ。現在も過去も無関係。夢の中にいるようなもんです」


「夢の中だから自分の時間も曖昧……ってことか?」


「そんな感じですねぇ。だから皆さん、好き勝手なことなさってるでしょ? 賭博に踊り、料理に謡曲……とね」


「死者にヤツマタ様の手は?」


「そりゃ効きませんよ。死んだらモノじゃないんですから、『あらゆるもの』の埒外です」


 ユメミがさらさらと藁半紙に鉛筆を走らせる。

 俺は筆記が終わるのを確認し、ノヅチに顔を寄せた。


「能力を全員分教えろ。あと名前と性格、弱点も」


「そりゃできませんよぉ」


 俺は片手で合掌した。


「なーむあーみ「あーあーあーあー! お経はやめてくださいって!」」


「じゃ、言えよ」


「だからできませんって。あんまりヒゲさん達に肩入れし過ぎると、主様に怒られちゃいますからねぇ」


「それはお前の問題だろ」


「いえいえ。主様を怒らせたらイタチさんたちも大変ですよ? そもそもあんた方は蛇の巣穴に迷い込んだカエルなわけですからね? ヤツマタ様総出でぱくんとやられても仕方ないんです。それを主様がお優しくも『ヤツマタを七夜退けて、自分の名前を唱えることができたら帰してやる』とおっしゃってるんです」


 言われてみれば確かにそうだ。

 今までの話を総合すると、ヤツマタ様が一斉攻撃して来ない理由は、無い。

 その『主様』とやらの気まぐれがなければ、とっくに俺たちは連れ去られているだろう。


「ここに迷い込んだら人生終わり!だとあまりにも生者が不憫、と主様は仰られているわけですよ。慈悲ですよね、慈悲」


「……」


「アタシは主様に従ってますのでね。ヤツマタ様に肩入れしない代わりに、あんた方に肩入れもできないんですよ」


「してるだろ」


「慈悲の範囲でね。何事も均衡ですよ、均衡」


 よく分からないが、ノヅチはヤツマタ様が不利にならない範囲で俺たちの味方、ということらしい。

 本当に審判のようだ。


 そこでユメミが小さく唸る。


「八人が七夜……ということは……つまり、ヤツマタ様の『席』は十四……?」


 俺は頷いた。

 それはマムシに『迎え』が来た時にも抱いた危惧だった。


「ああ。ってことは、『何度も襲って来る奴』がいるってことだ」


「……」


 それがヒバカリのような怠けものならラッキーだが。

 マムシのような奴、マムシより仕事熱心な奴が何度も来たらひとたまりもない。


 すとん、とノヅチが窓を開けた。

 屋形船を思わせる客室の障子窓からは、漆黒の闇が見える。


「お空に見えますでしょ? 赤~い二つ星が」


 ノヅチの示す夜空には赤い星が二つ煌めいている。

 

「一夜ごとに二つ増えるんです。あ、陽は差しませんので逆ですね。二つ増えたら二夜ってことです」


「そしたらまた誰かが来るのか」


「ええ、そういうことです」


(……)


「他に何かあります? ま、後でも構いませんがね」


 顔を見合わせ、首を振る。

 ここは大学の研究室ではない。戦場だ。

 いくら質疑応答や真実の探求に時間を割いても事態は好転しない。


「作戦会議しないとな。……ユメミさん、紙、まだあるな? ノヅチの話をまとめよう。その後、船の見取り図を書く」


「分かりました」


 ロッコとシュウはやや困惑しているようだった。

 何せ挨拶も身の上話もできていないのだ。


 だが今はそれどころじゃない。


 五体満足の状態で、マムシ一人にこのザマ。

 次は、腕二本無い状態でのスタートだ。

 劣勢で始まる死闘。

 与太話に興じている暇はない。






 船の構造はシンプルだった。

 船首に本殿と鏡、それに客室へ続く階段。

 右舷にカカシ。左舷に堀。船尾に石造りの鳥居。


 客室は階段を下りて一本道。

 左右にやたら広い座敷があり、襖で別れている。

 左右に十二つずつ、計二十四の部屋があり、死者たちが意思疎通の取れない宴に興じている。

 屋形船のように障子窓があるので、ここからヤツマタ様を落とすこともできる。


 客室通路の突き当りは二手に分かれており、右手がトイレで左手が大浴場。

 大浴場はヒノキ造りで妙に凝っていたが、トイレには便器がなく、ノヅチに用途を聞いて初めて意味が分かった。

 曰く、「そらァ、夢で精巧な厠なんて見ないでしょぉ? それに厠は時代時代で形が変わるじゃありませんか」とのこと。

 ドアが石の引き戸なのもそれが原因らしい。


 どうやらこの船全体が、ある種の普遍性を帯びているようだ。

 七十代の死者でも、十代の死者でも、何となく自分の時代だと感じるようにできているらしい。


 持ち物は、俺がスマホと財布。

 ユメミさんは丸腰。ロッコはノートの詰まった鞄と辞書数冊。鉛筆。

 シュウは筆箱と藁半紙の束が入ったランドセル。




 強大な武器は、残念ながら無かった。


 客室で実体化しているのは畳とふすま、障子戸ぐらいだ。

 食器や楽器、賭博道具、箪笥などはすべて死者側の品物。触れることすらできない。


 一つだけ、実体を持つ布団の敷かれた部屋もあった。

 そこはノヅチの休憩所らしく、布団には妙に丸っこい蛇の姿が描かれていた。

 懇願するノヅチを跳ねのけ、俺は布団を没収した。


 甲板のカカシは解体したが、使いどころが難しい。

 棒はリーチが広いものの、持っていることが丸見えだ。

 不用意に振り回して警戒されるぐらいなら、鉛筆で奇襲した方がマシだ。


 船べりにずらりと置かれた灯籠はサッカーボール大の割に重く、片手では持ち上げられなかった。

 灯籠と呼ぶより行灯あんどんに近い形状の灯りの前で、俺とユメミは腰を下ろす。


「これは無理ですね。使えません」


「ああ……」


 汗みずくの俺は、ふとユメミの手を見る。


「……足じゃなくて良かったな、ユメミさん」


「え?」


「マムシに脚を掴まれてたら、今よりもっと不便だっただろ?」


「そんなことありませんよ。もし脚を掴まれていたら、そのまま両手でマムシを締め落としていましたから」


 ユメミが鶏の首を絞めるような仕草を見せる。


「マムシもそれに気づいていたから、足じゃなくて手を溶かしたんだと思います」


「あ、そう……?」


 しかし、隻腕二人は具合が悪い。

 カカシの腕でも接ぎたいが、棒切れを接いでどうするのか。


 そんな話をしていると、ノヅチがひょっこりと顔を見せた。


「お困りみたいですねぇ」


「何だよ。布団なら返さないぞ」


「いえいえ、布団はいいんですよ。それより、不便を解消する方法が一つございましてね……」


 ノヅチは浴衣の裾からおぞましいものを取り出した。

 ――――マムシの腕だ。






 灯籠廻船の中は時間の流れ方が曖昧だ。

 経過したのは一時間のようでもあったし、一日のようでもあった。

 不思議と、腹は減らない。尿意も催さない。


 二つ星の輝く空を見上げ、俺はもう一つ考えていた。


(主様の名前を呼ばないと……か)


 正直それどころではないのだが、覚えておかなければならない。

 ただヤツマタ様を退けるだけでは、俺たちは生還できないのだ。


「イタチさん」


 甲板の中央、俺の十歩ほど横に立つユメミが呟く。

 目線は前へ向けたままだ。


「不便じゃありませんか?」


 俺は喪った腕にマントのごとく布団を巻きつけている。

 薄くスライスしてはいるが、不便と言えば不便だ。


「大丈夫だ。ユメミさんこそ不便じゃないか?」


「平気です」


 ユメミは軽く視線を落とし、また上げる。


「……来ます」


「!」


「二人とも、星が!!」


 ロッコが叫ぶ。

 見れば夜天の赤星が、四つに増えている。


 更に夜空が色を変えていく。

 黒から、赤へ。


 燃えるような夕焼け空。

 左右に広がるのは黄金の稲穂が無限に連なる風景。


「おいノヅチ。何か変わったぞ」


『そりゃ、毎夜同じ風景だとお客様も飽きますからねぇ』


「……これ、夕方の風景じゃありません?」


『ええ? いえいえ、これも夜ですよぅ』


 そこで会話は中断された。

 ぬうう、と。

 赤い空の向こうに怪獣のごとく巨大な蛇が姿を現したからだ。


 赤茶の蛇と、桜色の蛇。

 広い広い夕焼け空を、小さな池のように泳ぐ大蛇。


(……!)


 赤い蛇はゆったりと空を泳いでいるが、桜の蛇はするすると船に近づき、鳥居に顎を乗せた。

 口が開き、粘液まみれの女が現れる。

 暖簾をくぐる気安さで現れたのは――――豊満な肉体の女。


 波紋が広がるようにして薄いピンク色の布が裸体を包んでいく。

 ボディラインをくっきり浮かび上がらせる桜色の忍び装束。

 体側にスリット。

 ゆらりと風になびく淡い色の髪。

 ぬろおお、と手の平から伸びる舌には真珠のピアス。


(ヒバカリ……!)


 桜の忍者は鳥居に腰かけ、ひらひらと手を振った。

 動く気配はない。

 それによく見ると、手に何かを抱えている。


「武器か、あれ……?」


ざるみたいです」


ざる……?」


「何か入っています。注意してください」


 毒か。それとも目潰しか。

 俺たちは身構える。

 

「二人とも! 赤いのも来るよ!!」


 シュウの声。


「! ユメミさん、行くぞ!」


「はい!」


 俺たちは船尾に顔を近づける蛇めがけて駆け出した。


『あららぁ? 血気盛んですねぇ』


 違う。 

 マムシの時も、今のヒバカリもそうだ。

 ヤツマタ様は蛇から出た直後、完全な丸腰。

 そこを狙えば、圧倒的に優位に立てる。


 ヒバカリは甲板を掛ける俺たちをじっと見下ろしている。

 彼女はピアスつきの舌を口から出し入れするだけで、俺たちを妨害しはしなかった。


(行ける……! 先制攻撃……!!)


 赤い巨大蛇が船尾に顎を乗せる。

 ――――が。


「!」


 ずるるん、と。

 蛇が滑落するように船尾へ消えた。


「お、落ちた?!」


「違う……!」


 蛇は船尾から数メートル離れた場所に再び姿を現した。

 滝を登る鯉のごとく真上に伸び、夕焼け空に口を向ける。

 口が開く。




 ぬばあん、と。

 裸の女が飛び出した。




 ちょうどゴールテープを切るランナーに似た姿勢だった。

 胸を突き出し、両手を後方へ垂らしたポーズ。

 違うのは、蛇の口を背に、天へ向かって胸を突き出していること。


 砲弾のごとく飛んだ女は鳥居と同じ高さに至り、ぴんと脚を伸ばした。

 ランナーの次はバレリーナ。

 秋の落葉を思わせる赤茶色のボディスーツが全身を包んでいく。


 女はヒバカリの傍を通り過ぎ、空中で三回転しながら俺たちの背後に着地した。


 背が高い。180センチは超えている。

 髪は焦げ茶色のショートカットで、右側へ軽く流している。

 骨太ではないが、筋肉質な肢体。

 胸や尻に肉はついているが、不思議といやらしさを感じない。

 色気はあっても色香は無い、とでも言うのか。

 佇まいは男装の麗人を思わせる。


 靴は足袋ではなく、ヒールブーツ。

 装束の腹部には丸い銀の輪。

 輪の中にはカエル、スズメ、ネズミを模した銀のエンブレム。


『これはこれは。次はあなた様ですか』


 ノヅチが声を漏らすと、天から何かが降り注いだ。

 それは紙吹雪だった。

 ヒバカリがざるに盛った紙吹雪を散らしている。


 赤い女の前髪は長く、鼻に届いていた。

 口を持たず、目すら隠した美貌の女は気取った調子で片手を眉間に当てた。

 そして軽く腰を曲げ、もう片方の手を俺へ向ける。


『ご機嫌麗しゅう。――――『カガチ様』』


 手の中は蛇の口。

 のるるる、と真っ赤な舌が踊る。

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