Dive26
灰原司の家から高速道路に乗って車を走らせること約50分。久遠寺サイロが宿泊しているホテルに到着した。エントランスまで続くチョコレートのような色の黒い壁が続く廊下の先にあるシャンデリアから、淡い光が外まで延びていた。長いカウンターの前に立ったユウグレが綺麗にセンター分けされた従業員の前に立つ。
「ご予約のお客様でしょうか?」
「そう。相田アオ」
「……スイートルームご予約の相田様でよろしかったですか?」
「部屋は取れてる?」
「ご予約通り最上階のスイートを取ってあります。1603号室です。こちらにサインを……」
「ありがとう。なにか食べるものをすぐに持ってきて」
「どのようなものがよろしいでしょうか?」
「……シャトー・フィローに合うディナーがいい」
「シャトー・フィローの何年物でしょうか?」
「1956年物」
「かしこまりました。ぴったりのディナーをすぐにご用意いたします」
ユウグレはキーを受け取るとそれをレラージェに渡してエレベーターに向かう。ホテルのロビーはどこを見ても贅沢な作りをしていた。少し変わった形のダークブラウンのソファー。ほどよい明るさに調整されたシャンデリア。フロアからエレベーターの中にまで敷かれたカーペットは体験したことのない柔らかさで、歩く度に足がふわふわした。エレベーターの扉が静かに閉まり上昇していく。
「久遠寺サイロが宿泊している部屋の隣りの部屋に僕達が泊まるところまでは聞いたけど、それからどうする?」
「灰原司みたいなバカとは違って簡単にはいかないかもしれない」
「はじめてユウグレから弱気な言葉を聞いたよ」
「そう? 扉の前にはきっとガードがいる。最低2人」
「プランは?」
「……ない。というかまだ考えてない」
「ずいぶんはっきりと言い切ったね」
「お腹が空きすぎて頭が回らないんだ。レラージェ。ガードを眠らせることは可能?」
「この場所で気づかれずにやるのは難しいと思うよ。このホテルならきっと、廊下は見通しのいい真っ直ぐ延びた作りだと思うし。異変を察知するとすぐデカい声出すから、あいつらって……」
「だよね……だめだ。やっぱりご飯食べながら考える」
エレベーターのドアが開くとレラージェの言っていた通り、自分の目がおかしくなってしまったと錯覚するほどに真っ直ぐに延びた、あまりにも長すぎる廊下があらわれた。スイートルームが多いせいか、ドアの数が少ないことで、廊下が余計に長く見える。エレベーターからさほど離れていない距離にあるドアの前に体格のいい2人の男が立っている。久遠寺サイロのボディーガードだろう。距離は予想以上に近い。僕達は無言で彼らの目の前を通過し、隣にある1602号室に入る。
レラージェはドアが閉まるのと同時に僕とユウグレを見ながら唇にそっと指を近づけ沈黙をうながす仕草をしながらドアに耳を当てた。
「……大丈夫。警戒はされてないっぽい」
「そう。よかった」
ユウグレは全身の力が抜けたように巨大なベッドに体を投げ出した。間接照明だけが灯された部屋の巨大な窓からはパノラマの夜景が見える。部屋は円を半分にしたような作りで、1枚の巨大な窓が緩やかにカーブを描いていた。生まれてはじめて入ったスイートルームは広すぎてどこか落ち着かない。レラージェはテーブルに置かれたグラスを2つ取り、灰原司の家から持ってきたシャトー・フィローを注いだ。それから数分間は誰も口を開かなかった。みんな疲れているのかもしれない。部屋中に侵食する静寂に耐えられず、僕は窓から見える夜景を見ていた。そんな静けさをかき消すように誰かが部屋をノックした。レラージェは即座にソファーから飛び起きドアの覗き穴を確認した。その後ため息を吐きながら鍵を開けた。
「お待たせしました。ディナーをお持ちしました」
部屋に入ってきたホテルマンがテンポよく名前のわからない料理をテーブルに並べていく。すぐに8人ほどが座れる大きなテーブルが豪華な料理で埋めつくされた。レラージェがホテルマンにチップを渡すと深く頭を下げて静かに部屋から出て行った。
「ご苦労さま」
「食べよう。お腹が減って死にそうだ。レンガ、そこにあるサラダを取って」
「それにしてもすごい料理だ。残念なことに正確に名前がわかる料理が1つもないけど」
「名前がわかっても味は変わらないよ」
「そうだね。だけど気に入った料理の名前ぐらいは知りたいかな」
レラージェが氷の上に貝殻付きで並べらた牡蠣の皿を箸で指しながら言う。
「ユウグレが好きな牡蠣があるよ。レンガ。早く食べないとあれユウグレに全部取られちゃうよ」
「それじゃあ1つもらうよ」
「あたしは2つ」
「レラージェっ お前はゼロだ。今自分の小皿に載せた牡蠣2つを皿に戻せっ」
「ふぇ?」
「半年前のことを私はまだ覚えているぞ。私が牡蠣好きなことを知りながら、前に電話してる間に全部あたしの牡蠣を食べ尽くしただろ? だから今日はゼロだ。というかしばらくゼロだ。しばらくゼロ牡蠣で生きて行け」
「カラぐらいはあげてもいいんじゃない?」
「レンガ君ふざけてるのかな? 君はカラを食べれるのかい? あんなの食べたら死んじゃうだろうがっ」
「そうだな。特別に殻一つ食べたら牡蠣の中身を一つやろう。ミッションを達成すれば牡蠣を丸ごと食べられる。こんな贅沢はまずないぞレラージェ。さあゲームのはじまりだ」
「いや、殻なんか食べたら中身食べる前に病院行きだよっ」
レラージェは店員のミスで自分が注文したものと別の料理を仕方なく食べるような顔で、ローストビーフに似た料理を口に運んだ。2人は灰原司の家から持ってきたシャトー・フィローをハイペースで呑みながら料理を食べていく。酔いつぶれてしまわないか心配になってくる。僕の方は生まれてから一度も味わったことのない料理の数々が、満腹中枢をおかしくしているのか、口に料理を運ぶ手が止まらなかった。お酒を呑んでいなくても、すぐに眠ってしまうかもしれない。ほとんどの料理がみんなの胃に収まったところでユウグレは立ち上がり、ベッドにうつ伏せの状態でMacBookを開き、なにやら操作をはじめた。レラージェは長すぎるソファに横になり目を閉じる。
「ユウグレ。うちは早目に寝るよ」
「ああああ……おやすみ」
僕はすぐに眠る気になれなかったので、大きな窓の前に置かれたイスの前に座り、ぼんやりと夜景を見ていた。建ち並ぶビルを見ているとケシキとビルから飛ぼうとしたあの日の風景が再生された。ただ2人で世界を嫌っていたあの日々が、今思うととても幸せな時間だったのではないだろうか?と思った。この件の真実に辿りつけば、僕はケシキの死を受け入れられるのだろうか? 12月の天国。そのプロジェクト名は不思議と嫌いにはなれなかった。
「レンガ。あんたも早目に寝れば?」
「僕達は本当に真実に近づいているのかな?」
「近づいてるっていうか……もう両足がどっぷり浸かってるよ。真実っていう黒い沼に」
「黒い沼か。きっとユウグレはそれを怖いとは思わないんだろうね」
「私はそのドロドロした沼を自由に泳ぐんだ。そこで沈みそうになっている奴らを掻き分け、沼の底に漂う腐敗したすべて、それら1つ1つを丁寧に手に取って眺め続ける。その1つ1つを眺め続けていると……最後には一体なにが起こると思う?」
「わからない。どうなる?」
「物語が完成するのさ。嘘のない物語。その物語が私を楽しませる」
「僕はフィクションの物語の方が好きだな」
「レンガに楽しむのは無理だよ。事実は小説よりも奇なり。というより事実は小説よりも醜悪で奇怪で残酷なり……とあたしは思ってる。そんな全部を含めて人間が好きじゃないとこの物語は楽しめない」
「人間が好き……」
「ああ。意外か? こんなに面白くて愛おしい存在はこの世界で人間だけだよ。フヒヒィ」
ユウグレはなにか面白い情報を見つけたのか、MacBookのモニターを見つめながら笑っている。
「久遠寺サイロの新しい情報でも見つけたの?」
「いいや。ただ久遠寺サイロはかなりの変態さんみたいだ。プパっ」
ユウグレが立ち上がり僕の前に立つとMacBook本体を回転させて、モニターを僕に近づける。画面の中で久遠寺サイロは、なぜか頭の先からつま先まで得体の知れない半透明の薄いゴムのような素材に覆われ、ベッドの上で時折バタバタと動いていた。映像はベッドのほぼ全体を映しだしていて、遠くから見るとホラー映画に出てきそうなクリーチャーに見えて不気味だった。あまりにおぞましい姿から今にも夢に出そうだ。僕は何か見てはいけないものを見てしまったような気分になり画面から目を背けた。
「この映像ってなんの映像? この部屋にあらかじめ盗撮ようの小型カメラでも設置していたの?」
「レンガそれマジで言ってるの?」
「真面目に聞いてるけど」
「久遠寺サイロのPCからの映像に決まってるじゃん」
「でもどうやって?」
「モニターの上についているカメラ。電源が入っていようが、いまいがカメラのついたディスプレイが開いていればそこから映像を盗み見ることができる」
ユウグレはモニターに映る異様な光景を見ながら、数学の難問を必死に解こうとしているような表情をしていた。僕はユウグレの後ろに回り込み一緒にモニターを見つめる。ユウグレはMacBookの画面下に並んでいる様々なアプリの中からディスプレイのようなアイコンをクリックした。
「そのアプリはなに?」
「今あたしのMacBookに映っているモニター画面を録画するアプリ。とりあえずこの面白い光景を録画しとく」
「それをネタに久遠寺サイロを脅すのか?」
その時部屋が再びノックされた。レラージェは一瞬その音に反応したが、寝返りを打っただけで寝息を立てて再び眠りにつく。
「そのまま寝かせておこう。レンガ見てきてくれ。きっと空いた食器を片付けにきただけだ」
「わかった」
イスから立ち上がり、レラージェを起こさないように静かにドアに向かう。クリーム色のドアの前に立ち、覗きあなから廊下を確認すると、感じの良さそうなホテルマンが笑顔でこちらを見ていた。
「やっぱりホテルマンみたいだ」
「入れていいよ」
僕はドアノブを下げてホテルマンを招き入れる。するとその後すぐに3人の男達が部屋に入ってきた。たった今ユウグレのモニターで見て、今も隣の部屋にいるはずの久遠寺サイロと2人のボディーガードだった。
「……嘘だろ」
「嘘ではないよレンガ君。レンガ……本当に変わった名前だ。口に出してみると実に奇妙な響きだ。そんなことよりこれは紛れもなく現実だ。モニターに映っている方が、今起きてる現実であるという思い込みはハッカーに特に多いそうだ。知っていたかいユウグレさん?」
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