懐かしい歌(後編)

 今日も歌が聞こえる。

 何度言い聞かせても、ちっとも直らない歌。

 支離滅裂で出鱈目な、幻想の歌。

「……おりんよ」

「あ、幽霊さんだ。こんばんは」

「こんばんは。……またその歌か」

「うん」

「某が何度も言っているであろう。その内容は真実のものではない」

 道を行けば鵺に出会う。

 鵺の背中は大きくなって、天に続く道ができる。

 その道を行こうとすると見越し入道が現れて、邪魔をする。

 落とされてしまえば地獄で鬼と鬼ごっこ。

 天に昇れば仏様がお説教。

「佳境もなく終わりもなく何もかも適当ではないか」

「むーっ。そんなこと言わなくてもいいじゃない」

「しかしな。なんというか……」

 この子の見ている世界は、自分と違う。違い過ぎる。

 それが不安で、心配なのだ。この子のことを思って、ではない。この子がこの歌を歌っていると、自分が今まで見聞きしてきたことが、歪んでいく気がするのである。

 自分を保てなくなる。

 裏を返せば、それだけの力がこの歌にはあるということになる。少なくとも、名無しの魔道書に対しては。

「この歌は、私にとって世の中のすべてなの」

「……いや。だから。某が話して聞かせておるではないか。いろいろな話を」

「だって幽霊さんの話、面白いのは面白いけど……」

 そこまで言いかけて、おりんは大きくせき込んだ。こういうとき人間なら背中をさするなり水を持ってくるなりできるのだろうが――ナナシは、その点何もできない。

 何も言わないことぐらいしか――できない。

「……はあ、はぁ」

「大丈夫か」

「うん。少し……けほっ、落ち着いた」

 もうしばらく待つ。おりんが大丈夫と言っても、少し待たないと実際は危険だ。以前馬鹿正直に「そうか」と話を続けようとして、おりんの病状が悪化したことがある。

 そのうち、おりんが呟いた。

「……できないもん」

「む?」

「確認。……できないもん」

 それは、先ほどの話の続きらしかった。

「私には……幽霊さんの話が本当かどうか、確認できないもん。幽霊さんが行った場所に行くことできないし、幽霊さんが出会った人に会うこともできないもん」

「……まあ、そうだな」

 こういうやり取りは、これが初めてではない。

 何度も言い合って、何度もどうしようもない現実を見つめてきた。

「なあ、おりん」

「ん?」

「迷惑だろうか」

 自分の手では救うことのできない少女。

 外の世界を夢見て歌にする少女。

 その子に対して、いろいろと世界の話をしてやろうというのは――自己満足に過ぎないのではないか。

「お前にとっては、この部屋と、その歌が、世のすべてなのだろう。某はそれを、ただいたずらに壊しているだけではないのか」

 おりんが聞き手となることを望んだのではない。いわば、ナナシは押しかけの語り手であった。

 おりんはいつも楽しそうに聞いていたが――それを望んでいたわけではない。

「迷惑じゃないよ。面白いもん」

「だが」

「確かめられないのは残念だけど、いろんなお話聞けたのは嬉しいよ?」

 そう言っておりんは、青ざめた顔で笑った。

「幽霊さんは、私の歌好き?」

「何だ、突然。まあ、好きか嫌いかと問われたなら、好ましいと答える」

「それと同じだよ。私が幽霊さんのお話好きなのは」

「……ふむ」

 それがどういう意味なのか、ナナシにはよく分からなかった。ただ、ここで分からないと答えたら、この子を失望させてしまうような気がした。

 だから、さも理解したように相槌を打った。

「もし私が、外に出れて、幽霊さんと同じようにあちこち見て歩けたらなぁ」

「そうしたら、どうする?」

「幽霊さんの歌も作ってあげられるのに」

 言って――おりんはまた歌い始めた。

 何度言い聞かせても、ちっとも直らない歌。

 支離滅裂で出鱈目な、幻想の歌。

 ――おりんの歌だ。


「夏名の歌っていた歌がそれに似ていてな。歌詞は全然違うが、曲調や雰囲気が」

 ひとしきり語り終えて、ナナシはそう締めた。

「不思議なものですね。私、そのおりんちゃんは存じ上げませんけれど……」

「偶然似ていただけだろう、とは思うのだがな」

「あるいは、同じような起源を持つ歌なのかもしれないよ」

 と、秋人が両手の人差し指を立てる。

「そのおりんって子と同じように、いろいろなものを夢見ながら、それを叶えられなかった子供が、夏名さんの故郷に昔いたのかもしれない」

「……」

「歌は、普通にしていたら語れないようなことを形にする、数少ない手段だ。似たような願いがあって、似たような不幸があって、そこから似たような歌が――物語が生まれたとしても、そう不思議なことじゃない」

「そうなんですか?」

「普通の言葉で空想を語れば、それはただの妄言になる。けど、歌として表せば、それは一つの物語になる。事実ではないけど――歌い手・聞き手にとっては真実になる」

 おりんにとっては、あの童謡こそが己の人生の真実だったのかもしれない。

 どこにも行けない身体ではあったが、おりんにはおりんの真実があった。人生があったのだろう。

「……結局、俺のしたことは無駄だったのかもしれぬな」

 ナナシがぽつりと呟く。

 いたずらにおりんの世界を崩しただけ。結局、救うことはできなかった。

「そんなことはないよ、ナナシ」

 秋人は先を歩く。

「ナナシはおりんちゃんの歌を覚えているんだろ?」

「何を寝惚けたことを。一度覚えたことは忘れぬ。それが俺だ」

「それだけでいいんだよ」

「は?」

「それだけで――おりんちゃんは救われたんだよ」

 もしもナナシに顔があったら、さぞかし怪訝な表情を浮かべていただろう。

「……さっぱり分からん」

「なら、いつか分かればいいさ」

 それきり会話は絶えた。

 ただ、しばらくして歌が聞こえてきた。

 先ほど夏名が歌っていたものとは別のものである。

 最初は一つだった歌声が、やがて二つ、三つと増えていった。

 一人の少女の歌だ。

 かつて少女が往けなかった道を、少女の歌が往く。


 以下は余談である。

 ナナシの知らなかった話であり――ゆえに真実かどうかは分からない。

 おそらくそうだっただろう、というだけの、歌と同じ夢物語である。


 庭先から鳥のさえずりが聞こえてくる。

 ぼうっとして何も考えられないのに、それだけはよく聞こえる。

 そのうちさえずりのことだけが頭に浮かぶようになり、自分が鳥になったような気分になる。だが、飛び方が分からない。そのことに気付いた時、自分がただの人間であることを思い出す。

 視界が霞む。

 天井の染みが妖怪の顔に見えてきた。間抜けな顔の妖怪が、あんぐりと口を開けているような感じがする。

 あの先はどこかへ繋がっているのだろうか。

 知らない場所に行けるだろうか。

 どこからか歌が聞こえてくる。

 自分が作った歌だ。

 誰が歌っているのだろう。父はちゃんとは覚えていないだろうし、他に知っている人もいないはずだ。

 ……幽霊さんかな。

 きちんと教えたことはないが、幽霊さんは「一度聞けば覚える。一度覚えれば忘れることはない」と豪語していた。

 近頃はあまり来てくれなくなったが――最期に会いに来てくれたのだろうか。

 自分でも、変な歌だと思う。だが歌っていると気分が良かった。

 自分が世の中を歩きまわっているような気になれた。それは嘘だと知っていたし、幽霊さんによって、本当の世の中のこともいろいろ知ることができた。

 それでもこの歌は――自分にとっての世界だった。

 霞んでいた景色が晴れる。

 そこには、自分がうたっていた世界があった。

 自分だけのものだった世界があった。

 だが、それも今は違う。もう自分だけの世界ではない。

 どこの誰かも分からないが――聞いてくれた人がいる。

 だからどう、というわけではない。

 ただ、嬉しかった。

 陰りのある空想だった自分の世界に、明りが生じた。

 往こう。

 手を引かれるように、背中を押されるように、歩き出す。


 いつか一人の少女が、そんな夢を見たかもしれない。

 そんな、他愛もない夢物語である。

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