懐かしい歌(中編)

 幸いなことに、中川はなかなかの教え上手だった。ナナシも一度見聞きしたことは忘れないので、日本語学習は一晩で大分進んだ。

「とりあえず、簡単な会話ならできるようになったようだね」

「うむ。言葉交わらぬというのも不便であった。これで些か楽になったというもの」

「……うん。間違ってはいないけど若干変な気はするね。まあいいか」

 それでは、と中川は脇にナナシを抱えて立ち上がる。

「あの店に行くのか?」

「うん。ああ、君は店で喋らないようにね」

「承知した」

 ちなみにナナシは『普通の会話』も『普通でない会話』もできる。普通の会話とは、実際に聞こえる声によるもの。普通でない会話とは、音にはならない会話である。

 妖怪たちの会話は後者であり、普通の人間には聞こえない。ナナシが今注意されたのは前者の方である。

 中川は口調こそ老いを感じさせない男だったが、歩き方はふらふらとしていてどこか頼りない。抱えられたナナシも、自然ふらふらとする。

 蘭書ということで物珍しげに人々がナナシに視線を向けてくる。否、人以外の者たちも好奇の眼差しでナナシを見ていた。

 ……どこにでも妖怪がいるな。

 人間たちは気付いていないようだが、どこに目を向けても、よくよく注意してみれば妖怪の姿が垣間見える。ここまで幻想的な光景は久しく見ていない。西欧では、少しずつ幻想が薄れつつあった。

「おお、中川先生!」

 店の前に来ると、店主が複雑な表情で駆け寄ってきた。期待半分不安半分――そんな風に見えた。

 ちなみにその周囲では付喪神やら猫又やら家鳴りやらが顔を出して、

「蘭書様が帰って来たぞ」

「売られたんじゃなかったのかの」

「蘭書様~」

 わいわいと騒ぎ立てている。言葉が分からない頃は右から左にと流していたが、言っていることが分かるようになるとどうも小うるさく感じる。

「そなたら、少し神妙にしてくれぬか」

 これは、妖怪にだけ聞こえる言葉である。

「わ」

「ら、蘭書様が……」

「蘭書様が喋ったぁ~!」

 当然、これまで無言を徹していたナナシが喋れば、妖怪たちも驚くのが道理である。余計うるさく騒ぎ始めた妖怪たちに、ナナシは頭を抱えたいような気分になった。

 そこに、あの歌が聞こえてきた。

 単調なようでいて、どこか寂しい印象のあるあの歌だ。

「おりんちゃんの歌だわ」

「うむ。今日も歌っておるのぅ」

 妖怪たちも人間たちも、その歌を聞くと、途端にしんみりとする。

「これは何という歌なのだ?」

 気になったナナシは付喪神に尋ねてみた。この古書憑きが一番詳しそうだと思ったからだ。しかし付喪神は難しい顔をして首を捻ってみせるばかり。

「さてのう。わしには歌のことなんて書いてないからのう」

「書いてなければ分からんのか」

「古書の付喪神とはそういうものじゃ。蘭書様もそうじゃないのか?」

「某は違う。だいたい、書いてあることしか分からんなら普通に読むのと一緒ではないか。妖怪としてそれでいいのか」

「いや、だってそもそも、そういうものなんじゃが」

 と、そこで会話は打ち切られた。店主の承諾を得て、ナナシを抱えた中川が奥の間に進み始めたからである。

「何か話してたのかい?」

 小声で中川が尋ねる。彼にはナナシと妖怪たちの会話など聞こえていないのだが、気配でそれとなく察したらしい。元々、妖怪は見聞きするものではなく、気配を察したりする程度のものなのだが。

「あの歌が何なのか古書の付喪神に聞いた。だが知らんそうだ」

「童謡とかはあまり書物に載ってないだろうしねえ」

 言いながら、中川は足を止めた。

「おりんちゃん。入っていいかな」

「中川先生?」

 中から聞こえてきたのは、弱々しい声だった。

「そうだよ」

「うん。いいよ」

 ふすまを開ける。

 中には、布団から半身を起している十歳前後の少女がいた。

 青白い表情にほっそりとした身体つきは、まるで人形のようである。

「先生、その本はなあに?」

「これか。この本は平吉さんが仕入れてきたもので、私が今解読しているんだ」

「へえ。中川先生が読むってことは、蘭書?」

「ああ。なかなか難しい内容でね。しかし、とても興味深い。……それより、調子はどうだい? 薬はきちんと飲んでいるかな」

「うん。今日は大分気分がいいの。だから庭を見ながら歌ってたのよ」

「ははは。店先の方にも聞こえてきたよ。平吉さんが心配していた」

「お父さんは心配性なのよ」

 言って、おりんは視線を庭先に向け、また歌い始めた。中川も強いてそれを止めるつもりはないらしい。ただ黙って耳を傾けている。

「……」

 ナナシは、その様子を静かに見守っていた。


「某にあの娘を治療する術はない」

 帰宅後、ナナシは冷淡に切り出した。

「君も見たことがない病だったのかい?」

「いや。知っている。病そのものはな。だが、あれには名前がない。人間がまだどのような病か理解できていないのだ。当然――治す術も見つけだせていない」

「その、呪術的なやり方でも駄目なのかな」

「生憎俺の知識では無理だ」

 ナナシが関わって来た魔術師は、人の病を治療しようという発想を持たない人物ばかりだった。どちらかと言えば、病等で命を落としたとしても、それは天命だと割り切ってしまう者たちが多かった。

 だから、ナナシもそういう方面には疎い。

 太古に生まれた、意志のある魔道書。

 大層な肩書きではあるが、それは万能からは程遠い。

 知らないことは知らないのである。

「……あの子は、あとどれくらい持つ?」

「それも正確なところは分からぬ。だからこれは勘になるが……およそ五年持てば良い方であろうな」

「五年か」

 早すぎる。中川は唸るように言った。


 それから数カ月が経った。

 おりんの容態は今のところ安定している。

 中川は年の割にいろいろと活動の多い男で、いつも忙しそうにしていたが、一月に一度はおりんの様子を伺いに行っていた。

 その日、おりんの元から戻って来た中川は、ゆっくりと腰を下ろし、居間に転がっていたナナシを手に取った。

「君、最近夜中に出歩いているようだね」

「……」

「そのことは私も気付いていた。けど、悪さをしているようでもなかったから放っておいたんだが――おりんちゃんのところに行っていたのか」

「うむ」

 あっさりとナナシは応えた。

「夜中、ときどき天井裏のお化けと話してるんだ、とあの子が教えてくれたよ。病人の眠りを妨げるのは感心しないね」

「別に驚かそうと思っているわけではない。お化けというのは、あの娘の思い込みである」

「それはどうでもいい。病人の眠りを妨げるなと言っているんだ」

 珍しく中川は厳しい口調だった。

 ナナシもこう強く出られると、少々ばつが悪い。

「……すまなかった。某は人間ではなく、病に対する理解が薄い。そこまで気が回らなかった」

「分かればいい」

 そう言って、中川はナナシを元の位置に戻した。

「……旅の話をしてるんだって?」

「ああ。まあ、そう……だな」

「遠慮しなくていい。話をしてやること自体は反対じゃないんだ。むしろ、相手をしてやって欲しいくらいだ。ただ、状況を考えてくれ、ということだよ」

「うむ。把握した」

「本当かな」

 蝋燭に火を灯し、筆を手にしながら中川は続ける。

「あの子、喜んでたよ。知らない場所の話をたくさん聞けて嬉しいと。ただ、本当のことかどうかは怪しんでいたが」

「まあ、そうであろうな。竜退治の話やリヴァイアサンと会った話など、あの娘にしてみれば夢物語以外の何物でもあるまい」

「内容を知らないから何とも言えないが……。私にも今度聞かせてほしいものだ。しかし一つ疑問がある」

「ん?」

「なぜ、あの子にそんな話をしようと思ったんだ? いつも顔を合わせている私たちにも、そんな話をしたことはなかったろう」

「そなたらはそんな話に興味ないだろう」

「あるけどな。夢物語。君は知らないだろうが、この国にもいろいろあるんだ。私も若い頃はそうした話を聞かされながら育ったんだよ」

「多少なら某も知っている。あの店の連中から聞いた。この国はいろいろなファンタジーが存在しているな。以前何度か来たときは、ごたごたしていてそれどころではなかったのだが」

「聞いたって……ああ、人間じゃなくて妖怪の方かな? いいな、私も一度会話してみたいものだ」

 そう言って、中川は咳払いをした。

 閑話休題。

「……おりんちゃんは、そういう話に興味があったのかい」

「あの歌を聞いて、そう思った」

「おりんちゃんがいつも歌っている歌かい? あれ、私には全然意味が分からなかったんだが」

「それはそうだろう。あの歌の言葉に意味はない。いろいろな場所の風景を適当に歌っているだけだ。しかも支離滅裂である。あれは、あの娘が作った歌なのだ」

「……」

 外の世界を知らない少女が、外の世界を夢見て作った歌。

 意味のない歌、寂しげでいて明るい雰囲気。

 ナナシが妙に惹かれたのは、そういう歌だった。

「某には、あの娘の病を治す力はない。だからせめて、夢見ているものを伝えてやれぬかと、そう思った次第である。こういうのを余計な世話と言うのだろうか」

「どうかな。それは、おりんちゃんじゃないと分からないよ」

 筆を進めながら、中川は静かに言った。

 少し、優しい声になっていた。

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