竜と出会った日
あるとき、あるところに、とても強い魔術師がいた。
彼女は誰かと共にあることを選ばず、安息の地を得ることを選ばなかった。
それは長い旅の物語だ。
旅をする人間は彼女だけだが、他に相棒がいる。
相棒に名はなく、ただずっと昔から世界に在り続けた。
数々の時代、様々な主と共に世界を見続けた存在。
それは、名もなき魔道書だ。
「――――おい、探求者(シーカー)。まさかまた道に迷ったのではないだろうな?」
「信用がないな、私も。前回一月ほど密林の中をさまよったのが信用下落の原因か?」
「当たり前だ。全く、お前は歴代マスターの中でも一番の方向オンチだ」
「はは、それは褒め言葉として受け取っておこう。真っ直ぐ決められた目的地を目指す旅など、面白くもなんともない。こうして寄り道脇道を行くことで、また得られるものも多くあるだろう」
探求者(シーカー)と呼ばれた彼女は大仰に両手を広げ、空を見上げながら笑い出した。
彼女は髪をストレートに伸ばし、その長さは腰まで届く。
利発そうな双眸、やや高めの鼻に、引き締まった細めの顔。
すらりとした体型を含めて、黙っていればそこらのモデル顔負けの美人だった。
もっとも、性格に少々難がある。
彼女は視線を降ろし、今度は前を見据えた。
前方には谷が見え、その向こう側にはいくつもの山が見え隠れしている。
無論、彼女と魔道書がいるこの場所も山の一角である。
木々に生える葉もまだ元気なもので、朝の雫がきらきらと光っていた。
「前向きなのはいいんだがな、現実的な問題を考えろ」
「食料のことなら問題ない。確かに現時点で残っているのは麓で買った人参一本だけだが、これだけあれば私は三日持つ。三日真っ直ぐ突き進んでいけば、とりあえず集落には辿り着くはずだ」
「大雑把な方針決定素晴らしい。……誰かこいつに常識を教えてやってくれ! 俺はもう疲れた!」
「ふむ、ナナシに疲労などという概念があったとは。古人も妙なところでこだわったものだ」
「それは俺も言いたいわ! 我が創造主め、なぜ俺に人間と同様の精神を与えたのだ! 肉体的に疲れなくとも精神的に疲れてばっかだわ! 毎回マスターになるのは変人ばかりだし!」
「叫ぶな、山の迷惑になるだろう。近くに人が住んでいたら物の怪の類と勘違いされるぞ」
「人外という点では大差ないがな……」
彼女の相手をしているのは、人間ではない。
宙にふわふわと浮かび上がる、小さなサイズの本。
それは太古の時代に創造されし魔道書であり、人間と同様の意志を持っている。
人語を解する空飛ぶ本、確かに傍から見れば物の怪と同じようなものだった。
「……だが、冗談抜きでこの辺りは早々に抜けるべきだ」
気苦労が溢れ出てきそうな声から一転、名もなき魔道書――ナナシは真剣な声で告げる。
彼女は不思議そうに首を傾げた。
「この辺りに何かいるのか? 特に目立った伝承は残っていないようだが」
「俺も直接会ったことはないが、なんでもこの辺りにはかつて竜がいたというのだ」
「――――ほう」
彼女の双眸に、好奇の炎が宿る。
言ってからナナシは後悔した。
こういった危険な話は、彼女にとっては興味の対象にしかならないのだ。
「今もいるなら会いに行こうではないか。竜族など滅多に会えるものでもない。なにしろ神獣クラスだ。秘められし力は日本の神々を凌駕すると言われているではないか」
「いや、それは……今もいるという保証はないぞ」
「何?」
ナナシの言葉は、彼女の機嫌をいたく損ねたらしい。
濡れた葉で敷き詰められた山道を進みながら、彼女は口を尖らせた。
「期待させておいてそれはないだろう我が友。むしろ下僕。貴様主をがっかりさせていいと思っているのかッ! 今度お仕置きだッ!」
「やかましいわ常識知らずの偏屈魔術師! 確かにお前は我が主だが、俺は下僕と言われる覚えはない! 俺は無限に知識を得られる可能性を秘めた、世界最高の魔道書なんだぞっ!?」
「アレクサンドロス大王の家庭教師で有名なのは?」
「……アウグストゥス?」
少し間をおいてから出された答え。
それを聞いて、彼女は重々しい溜息をついた。
「……知識を得ても忘れていては意味がないな」
「い、いや待て。俺の精神は人間と同じで当然限界があってだな。身体は覚えているのだ」
「なんだか卑猥だな」
「どこがだ!?」
喚き散らすナナシを振り払いながら、彼女は小さく唸った。
「しかし竜族の情報などとは珍しい。ナナシが直接見たわけではないなら、誰に聞いた?」
「八代前のマスターだ。奴は人格面ではまともだったのだが、なぜかやたらと不幸な目にあう奴で、その点で俺も散々巻き添えを食らったものだが……」
「ナナシの愚痴は聞き飽きた。脱線させずに話を聞きたいのだがね」
「と言っても、そんなに詳しい話を聞いたわけじゃない。ただ古くからの伝承で、この地域には神聖なる竜族が眠っているという話を聞いたらしい。もっとも、あいつがその話を聞かされたのは当時既によぼよぼだった爺さんからで、他の村人なんかはそんな伝承知らなかったらしい」
「……そんな不確かな情報、しかもナナシは又聞きだったわけだ」
彼女はがっくりと肩を落とす。
その背中に向かって、ナナシは神妙な声で言った。
「竜だのドラゴンだの神族だの、そんなものには関わらないに越したことはない。連中は魔族のように『人間の敵対存在』じゃないが、怒りに触れれば即座に消し飛ぶぞ」
幻想によって生み出される竜族などは、幻想が薄れれば力も衰える。
今は太古の時代と比べると、大分世界を包む幻想は薄れてきている。
しかしそれでも尚、油断の出来る相手ではないのであった。
「分かっているさナナシ。さっきのは冗談だ。彼らは超越種、私も滅多なことはしない」
「どうだかな」
「おやおや、疑り深いな」
「そりゃそうだ。生憎俺のマスターとなる奴には、ある共通点がある。だから信用ならん」
「へぇ、そんなものがあるとは初耳だな。出来ればお聞かせ願いたいものだが」
彼女が冗談半分で言うと、ナナシもまた同じような調子で返してきた。
「簡単なことだ――――揃いも揃って、恐いもの知らずなんだよ」
まだ葉も枯れ落ちず、夏の暑さがかすかに残る日。
山の中で、彼女と魔道書は歩みを再開した。
それからしばらくして、彼女はある集落に辿り着いた。
彼女の故郷も田舎だったが、こちらは更にすごいものだった。
山の中にあり交通が不便なせいか、あまり都会のものもない。
建物も安値で出来るような簡素なものばかりだった。
「のどかだな……」
宿もないので、彼女は集落の長の家に厄介になった。
今は夕食を終え、いくつもの星々を見上げている。
少し視線を下げると、夜の闇に包まれた山が見えた。
そして手前には木々が生い茂っており、虫の鳴き声が聞こえてくる。
夏が過ぎ、秋がやって来たことを感じさせる。
「旅人さん、夕食はいかがでしたかな」
窓から外を見上げている彼女に、集落の長が声をかけた。
齢七十を越えたというが、まだまだ健康そうな身体つきである。
彼女は老人の方を振り向き、爽やかな営業スマイルを浮かべた。
「とても美味しい食事でした。あの料理を毎日食べられるとは、貴方が羨ましいぐらいです」
「ほっほっほ、家内もそれを聞いたら喜ぶでしょう。ともあれ、今日はゆっくりお休みください」
「お世話になります。ところで長、この辺りで何か良い場所は知りませんか? 私は旅人。常に新鮮な刺激に飢え続けています。何かあれば、お教え願いたい」
「……ふむ。旅人さんの興味をそそるかどうかは分かりませんが、怪物の話などはいかがでしょうかな」
「ほう? 怪物ですか。それは是非お聞かせ願いたい」
彼女の双眸がぎらりと光ったことに、長は気づいたのだろうか。
彼はぼそぼそと、心底困った風に話してくれた。
「数年前でしょうか。あの窓の向こうに見える山の方から、この世のものとは思えぬ声が聞こえてきたのです。本能的に恐れを感じさせる声とでも言いましょうか。あれに逆らってはいけない……そうした迫力があったのです」
「それが怪物ですか」
「はい。我らも恐ろしくなって、若者たち何人かが声の主を決死の覚悟で探しにまいりました。しかしいくら探しても声の主は見つからず。おまけに彼らは山の奥深くへと入り込んでしまったため、ここまで戻ってくることが出来ず、その晩は野宿をすることにしました。しかし、夜も更けた頃、彼らは例の声を聞いたのです。それも、声が次第に近づいてきたらしいのです」
見張りに立っていた一人が残りの仲間を叩き起こし、彼らはそれぞれ護身用として持っていた武器を手にした。
と言ってもそれは鍬や鎌などといった農具などで、実際獰猛な獣が相手ならば少々心許ない。
だが、彼らを待ち受けていたのは、そんなものにも勝る恐怖だった。
「……そこで彼らは、竜を見たらしいのです」
「竜、ですか」
「左様。私としてもちょっと信じがたいのですが、当人たちはそう言い張っております。彼らは迫り来る巨大な影が、伝説にある竜のようだと気づいたといいます。そして彼らの持っていた松明でかすかに照らされた怪物の姿は、まさに竜そのもの。必死に走って命からがら逃げてきたと言いますが、その途中で若者たちのうち一人が行方不明になりましてな……」
「今もまだ?」
「はい。……早く帰ってきて欲しいのですがな」
そう言って長は、ちらりと窓際の写真立てを見つめた。
その中には、穏やかな表情を浮かべた頼もしそうな青年が写っている。
なんとなく彼女は、戻らぬ青年とは長の子か何かではないか――――と思った。
翌日、既に彼女は集落から離れていた。
長夫婦に礼を述べ、竜に遭遇したという若者たちからそのときのことを詳しく聞きだしてきている。
「……お前、竜に会いに行くんだろ」
「ふむ。これはギブ・アンド・テイクだとは思わないかな、ナナシ。私は竜が見たい。長殿はおそらく子息に帰ってきて欲しいだろう。集落の人々も、竜の鳴き声に悩まされるのは嫌だ。さて、それでは全てを解決する方法とはなんだろうか?」
「お前が竜のところへ行ってどうにかこうにかするってことだろ。あーもう、利害計算の中には俺のことは入ってないのか? 俺が嫌がるということは計算の内に入らないのか?」
「利益三の害一だ。引いても二、どうせ行くことに変わりはない」
「ええい、自分勝手なくせにそれっぽい数の暴力振るいおってからに……!」
周囲は昼間だというのに薄暗い。
不気味な気配が森全体から放たれているようで、なんとなく居心地が悪い。
一歩進むごとに地獄へと近づいていくような、そんな感覚だった。
わずかに、彼女の歩みが遅くなった。
「……ナナシ、これはかなりのものだな。別に結界を張っているわけでもないのに、自然とそれに似たものが出来ている。誰に遠慮することもなく、ごく当たり前のようにこの地域を自らの巣としているようだぞ」
「圧倒的な存在感だろう。だから俺はやめておけと言ったんだ……だがもう遅い。どうやらこちらの存在を感づかれたようだ。かすかに風向きが変わっている。これは良くない兆候だぞ」
「なに、どうにかなる」
彼女にはこういうところがあった。
相手がいかに強大であろうと、凶悪であろうと、どうにかなるの一言で終わらせてしまう。
実際いつも"どうにかなっている"から彼女は今日まで生きてきている。
だが、さすがに今回はナナシもひやりとした。
――――――ぴたりと、風が止まった。
木々のざわめき、不気味な気配、それら全てが一瞬にして消え去った。
それはまるで、何もない死の世界のようで――――
『……魔術師』
自分の頭に直接語りかけてくるような声がした。
彼女は右手で頭を抑えながら、ぐるりと周囲を見渡す。
が、何の影も見当たらない。
『我が領域へ足を踏み入れし魔術師よ。我は危害を加えるつもりはない』
肉声ではなく、思念が直接飛ばされてきているのだろう。
そのため声の質はよく分からなかったが、彼女がこの地へ来たことに腹を立てているようではなかった。
少し意識を集中すると、思念を飛ばすための"ライン"が見えた。
例えるなら電話線のようなもので、このラインを相手へ繋げることではじめて念話が可能になる。
逆に言えば、このラインは発信源――竜の元へ続いている、ということになる。
『"ライン"を辿り、我が巣へと来るがよい。そして出来るなら、我が頼みを聞き入れてもらいたい』
それきり、竜は思念を送ることをやめたようだった。
彼女はしばらくその場に棒立ちになっていたが、やがてナナシ、と声をかけた。
「あちらに敵意はないようだが……いやはや、これは大物と会えるかもしれないな」
「お、俺としては今心臓が潰れるかと思ったぞ……」
「君に心臓はないだろう」
「例え話だ! なんだ今の、契約すらしてないのにあっさり"ライン"繋げるわ、人語を用いるわ! 東洋の竜でここまでやる奴、俺は今まで聞いたことないぞ!?」
ちなみに"ライン"を相手に繋げる場合、大抵は契約というものが必要になる。
両者が合意し、細かい準備といくつかの魔術を経て、ようやく繋がるのである。
そのとき用いる魔術も素人には真似出来ないようなもので、精神系の魔術を専攻している魔術師でなければ成功する確率は薄い。
ちなみに失敗すれば、双方の精神にいくらかの被害が出る。最悪の場合廃人である。
割に合わないものなので、何か事情でもない限り、魔術師たちはこんなことをしたがらない。
さらに、人語を用いる竜というのは基本的に上級竜であるとされる。
人々の幻想が形となって生み出された竜だが、その種類も様々である。
悪さをして英雄に退治されるような竜から、神の化身として人々に崇められる竜。
どちらかと言うと、人語を解する竜は後者である傾向が強い。
言語を用いるということで神聖さが増すからかもしれなかった。
前者の場合なども、生み出されて数百年も経てば言語を解するようになり、創造主である人間の想像を越えた智恵を手にしていることもある。
どちらにせよ、人語を用いる竜というのは非常に希少価値が高い。
神代の頃ならばともかく、現代においては世界に数匹いればいい方であろう。
「ふふ、楽しみだ。失礼のない程度にじっくりと観察させていただこう。頼めば写真を撮らせてくれるだろうか」
「……お前の精神構造がどうなってるか、一度じっくりと調べたいところだ」
そんな竜と対面するというのに、彼女はいつもと変わらない調子だった。
辿り着いたのは、谷底にある湖だった。
東洋の竜は水中に潜むという話もあるから、竜の棲みかとしては適切だろう。
「ラインは湖中へと続いているのだが……」
湖の前に立ちながら、彼女は首を傾げた。
先ほどから待っているのだが、一向に竜が姿を現す気配がない。
さてどうしたものかと、困り果てているところだった。
異様な存在感が周囲を満たしているため、竜がここにいるのは間違いないのだろうが。
「仕方ない、湖に直接潜ってみるか」
そう言って彼女が服に手をかけようとしたとき、湖に異変が現れた。
円状の湖が中央から二つに裂け、湖中へと続く水作りの階段が創り上げられていく。
「……まるでモーセの行進だな。大掛かりなことを無造作にやってのける。そこに痺れる憧れるッ!」
「無表情でキャラ違う台詞発するのは止めろ!」
「軽いジョークだ。ま、とりあえず招かれている身としては進むのが礼儀だな。さっさと行くとしよう」
水によって構成された階段は、分厚い絨毯が敷かれているようだった。
椅子にしてみたらさぞかし座り心地がいいだろう、などと考えながら、長い階段を降りていく。
どうやら湖はかなりの深さがあるらしく、まだ階段を降りきっていないというのに、陽の光が届かない。
「……あれは」
さらに進むと、湖の底に水晶の宮殿があるのが見えた。
天井部分に大きな円状の穴が空いているのは、おそらく竜が地上へと出入りするためのものだろう。
永劫不滅の美しさがあり、いったいこの宮殿がいつごろの時代に造られたものか、まるで想像もつかない。
その宮殿の前に、一人の男がいる。
この場には似つかわしくない、ごく普通の男だった。
宮殿を守る番人にも見えない。
階段を降りきると、ちょうど宮殿の真正面だった。
男は無愛想な表情で彼女の前に歩み出る。
「あんたが竜神さんの言ってた客人か……」
「君はなんだね? 案内人かね」
「いや、俺はただのお節介焼きだ。果たして竜神さんに会わせていい奴かどうか、ちょいと見ておこうと思ったのさ」
「安心したまえ、私は竜に手をあげるほど愚かではないよ」
肩を竦めて愛想笑いを浮かべる。
もっとも彼女の笑みは、相手に安心感を与えるものではなく、どちらかというと挑発的なものだった。
男はかすかに顔をしかめたが、頭を振った。
「まぁいい。竜神さんなら中にいる、入りたければ入れ」
「そうさせてもらうよ」
男は一緒に入るつもりはないのか、宮殿の入り口に立ったままだった。
彼女はちらりと彼を一瞥し、扉を開けて中へと足を踏み入れた。
宮殿と言っても、部屋はいくつもない。
竜が休むための場所なので、入り口を抜ければすぐにその姿が視界に飛び込んでくる。
が、彼女は最初それが"竜"であることに疑問を感じた。
中にいたのは、か細い身体つきの女性である。
全身から溢れ出る神聖な力からして、彼女が件の竜であることは間違いない。
ただそれは、直に見てみると、ひどく弱々しいものであった。
確かに神々しくはあるが、力強さはあまり感じさせない。
ここに来るまでに感じた、あの圧倒的な存在感の主がこの女性だとはとても思えなかった。
そんな彼女の胸中を察したのか、女性は薄く笑みを浮かべた。
口は開かず、思念を送ってくる。
『……まさか我がこのような姿だとは、思っていなかったであろう』
「失礼だが、その通りだ。ここに来るまでに凄まじい大物っぷりを感じたのだが、これは……」
いや、と彼女は言葉を切った。
しばし相応しい言葉を思案し、再び女性を見つめる。
「確かに貴方からは神聖なものを感じる。竜であるという事実も受け入れよう。その姿に関しても、上級竜は人に身を変える術を持っていたところでおかしくはないから、まぁいい。……だが一つ問題がある」
微笑む女性に対し、彼女は鋭い視線を向けた。
「――――貴方の命はもはや尽きようとしている。それは何故か、出来ればお聞かせ願いたいものだ」
女性――竜は水晶の椅子に座っている。
彼女もまた、用意してもらった椅子に腰を落ち着けていた。
間には輝くテーブルがあり、両者は喫茶店で向き合うような形で対峙していた。
『……そなたは魔術師故に知っていよう。この我が、どういった存在なのかを』
「魔力という器に様々な幻想が詰め込まれることで生まれる存在。幻想種だな」
世界は現実である『法』と、仮初である『認識』によって構成されている。
例え現実にないものであっても、世界中の人間が"ある"と認識すれば、それは世界に存在したことになる。
強力な認識は、魔術という器を得ると形を成す。
そうして生まれた『思い込みの現実』を、魔術師たちは幻想種と呼んでいた。
今は人々が現実に近づき、そうした思い込み――――幻想は薄れてきている。
故に幻想種は、昔と比べるとめっきり少なくなった。
『左様、人間はそのように呼ぶらしいな。では当然、我という幻想種の命が尽きかかっておる原因も、想像はつくであろう』
「……魔力と幻想が幻想種を構成する要素だ。つまり、そのどちらかが欠ければ貴方は消える」
死ではなく消滅。
それが幻想種の最期だ。
死とは生命に等しく与えられる者だが、幻想種にはそれがない。
仮に消えたとしても、再びその存在が蘇ることもある。
故に彼らには、人にあるような明確な死は存在しない。
もっとも、元々は生物だったものが幻想種へと昇華した場合、幻想が完全に消滅すると死を迎えることもある。
このような、進化することで幻想種へと至ったものは変識種とも言われ、こちらは生物としての特色をいくらか備えていることもある。
『我は元々蛇であり人間であった。それらはとうに活動を停止していたが、後世の幻想が入り込むことで我という竜になった』
「伝説や神話といった幻想が適合存在を引き上げた訳か。ないとも言えないが、よほど強力な幻想がなければ難しいことだな」
『人は我を神と崇めた。おそらく相応の幻想があったのだろう。だがさすがに今は、我を維持するほどの幻想は残されていない』
強大な幻想によって生み出される幻想種の代表は竜や巨人、果ては神である。
彼らは素材である幻想が強大なだけに、その力は凄まじいものがある。
だからこそ、彼らは己という存在を維持することが困難でもある。
「ハイリスクハイリターンだな。神への信仰心の有無はともかく、竜が実在するなどと思っているものは大分少なくなったろう」
『その通り。故に我は消える』
例えるなら芸能人のようなものだ。
トップスターにまで上りつめた人でも、皆から忘れ去られてしまえば、例えその人自体は生きていようとも、芸能人のトップスターという存在ではなくなる。
もっとも、竜神の声に哀しみの色は見えない。
むしろ、ようやく休めるという安堵があるようだった。
『我はこの結末について言うことはない。在るべき形、法へと戻るだけなのだからな。……だがしかし、一つだけ困ったことがある。そのことについて、そなたに助力を願いたい』
「竜神から頼まれごとをするとは思っていなかったな……いや、私なら構わないがね。それで、困ったこととはなんだね?」
『これを見て欲しい』
竜神はテーブルの上に、やや大きめの玉を置いた。
サッカーボールよりは小さく、野球の球よりはやや大きい。
薄っすらと光り輝いており、そこからは竜神と同様の神々しさが感じられた。
『我が子だ』
「――――。つまり、これは卵ということかね」
『そうだ。孵るまでまだ十年近くかかる。だが当然、その頃には我はいない。それまでの間、卵をどうにかして守らねばならぬ。そこでそなたには、この宮殿に結界を張ってもらいたい』
湖中にある宮殿だから、普通の人間が侵入する可能性はあまりないだろう。
問題は、竜の卵を狙う悪質な魔術師のような者たちである。
竜神が言っているのは、そうした輩から卵を守るために結界を張ってくれ、ということだった。
『我が見るところ、そなたは魔術師としては一流すらも遥かに上回る実力者のようだ。それだけの者に結界を張ってもらえれば、我も思い残すことなく消えることが出来るというもの』
「まぁ、それぐらいならお安い御用だが」
彼女はテーブルの上に置かれた卵をじっと見て、唸り声を上げた。
「初めてだ。幻想種に本来、生殖機能はない。変識種としても珍しいな。……ここに来て良かったよ。どういった経緯でこの卵が出来たのかは問わないが、これを見せてもらったことには感謝する」
彼女はそう言って立ち上がり、鞄からナナシを取り出した。
「そういうわけだ、ナナシ。神からの頼み事とあれば手を抜くわけにもいくまい。そら、久々に本気で行くぞ」
それから数時間経って、彼女は宮殿から出てきた。
入り口には来たときと変わらず、男が立っている。
「……竜神さんは、どうした?」
「私の結界を見て、安心して消えたよ。いかに竜神と言えど、やはり我が子は可愛いものなのだろうな」
「そっか」
男は力なくその場に座り込んだ。
彼女は彼を見下ろしながら、無表情に一言告げた。
「残念だったな。最愛の人がいなくなって」
「……彼女から聞いたのかよ?」
「いや、彼女は何も言っていなかったよ。なんとなく察しただけさ」
彼女は肩を竦めると、そのまま階段を昇り始めようとした。
その背中に、男の声がかかる。
「俺が彼女と最初に会ったのは、もう数年前になる」
山菜を採りに出かけた際、仲間とはぐれて怪我をした。
偶然この湖へと辿り着き、湖の水を使って手当てをした。
そのときである。
絶世の美女が、ふらりと目の前に現れた。
「以来、俺は何度もここへ足を運ぶようになった。彼女の正体も途中で知った。最初は信じられなかったが、いつしか信じざるを得なくなった」
彼女の姿が何の前触れもなく消えるようになったり、突然倒れたりすることが多くなった。
いくら薬を飲ませてみてもまるで効果はない。
そこにきて、ようやく男は彼女の正体を実感するようになった。
「卵があったんだ。せめてそれが孵るまでは持たせたいと言っていたから、夜に吼えてみるのがいいんじゃないかと提案した」
「幻想種は何かに認識されることで存在するからね。謎の鳴き声という程度でも認識されることに違いはないから、あながち悪い意見ではないな」
「だが効果はほとんどなかった。悪あがき程度に過ぎなかった……どんどん弱まっていく彼女を前に、俺は何も出来なかった」
振り返らない彼女の後ろで、男はうなだれて泣き始めた。
彼女は階段をさらに一歩上り、
「これから君はどうするのかね」
「……分からない」
「――――――だったら、もう泣かずに済むようによく考えたまえ」
それだけを言い残し、彼女は颯爽と去っていった。
後に残ったのは、主なき宮殿と泣き崩れる男。
そして、未だ孵らぬ卵だけだった。
「あの人間、どうするかな」
山中の道、ナナシがぼそりと呟いた。
彼女はあくびを噛み殺しながら、
「さぁて……私はあちらにはさほど興味はない。集落に戻るも良し、あそこで卵を見守り続けるのも良し。全ては彼次第だ」
「冷たい奴だな」
「自分に正直と言ってくれ。それよりも、私が気になるのは彼女とあの卵だな」
「何か問題でもあったのか?」
「いや、問題と言うよりは素朴な疑問だよ。生命とは何なのだろうね、という」
彼女は空を見上げた。
日が沈みかけている。
オレンジ色の夕焼け空が、どこか物寂しげであった。
「彼女は元々は普通の生き物だった。だが今は幻想と成り果てていた。忘れ去られただけで消えた」
「……」
「――彼女に生命はあったのか?」
「……」
「――――卵から孵るのは、果たして生命なのか?」
「……」
「――――――もし私が全てに忘れ去られたら、そのとき私は"生きている"のだろうか……?」
彼女の問いかけに、ナナシは一拍置いてから答えた。
「俺には分からん。だからお前が探すんだろう? 人間……生命の探求者よ」
湖の方から、一際強い風が吹いた。
なんとなく、行けと言われたような気がした。
だから、彼女はまだまだ進んでみようと思った。
いつの日か完全に沈む、そのときまで。
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