ある家族の話―七月三十一日(II)―
――――――――/????(II)
……遠い。
とても遠い。
とても遠い場所から、波の音が聞こえてくる。
それは私が唯一安らぎを覚える音だった。
人の声よりも。
蝉の声よりも。
鳥の声よりも。
……風の音よりも。
どんな音楽よりも、私は波の音が好きだった。
よせて、ひいて、よせて、ひいて、よせて、ひいて。
ゆっくりと、ゆったりと、まるで揺りかごの中にいるように。
とても優しく、とてもなだらかで、とても懐かしい音楽。
それが聞こえるから、私は海が好きだった。
――――とても懐かしいから、好きだった。
けれど。
私は、海に呑まれた。
大きすぎる蒼の中に呑まれてしまった。
そこはとても暗くて、息苦しくて、手を伸ばしても何もない場所。
でも、その苦しみもいつしか途絶えた。
あれはいつのことだろう。
……私は今でも海が――――好きなのかな。
分からない。
でも、目を覚ませばきっと分かる気がする。
暗闇だらけの世界から、光ある場所へ引き戻されて。
いや、違う。
それはもうない。
私を助けたあの人は、もう私に興味をなくしたと言っていた。
もう助けようとはしないはず。
だったら、私を光ある場所へ引き戻すのは誰?
せっかくの安眠を邪魔されて、少しだけ腹立たしいけど。
でも、私が暗闇へ落ちることで何かが変わったのかどうか――それを確かめる為に、ちょっとだけ戻ってみてもいいと思った。
もうすぐ朝。
目が覚める。
波の音が聞こえなくなり、私は無音の中に放り出される。
そして。
そして――――。
――――――――/七月三十一日(II)
最初に感じたのは暑さだった。
海の中では忘れていた暑さ。
そこから抜け出そうと、私はベッドから抜け出た。
「……え」
そのままゴトン、とベッドから下へ落下。
至極当たり前のことなのに、私は戸惑いを隠せない。
痛む頭をさすりながら、私は周囲を見回した。
ろくに面白みもなく、せいぜいテレビと机くらいしか特徴のない部屋。
これは、私の部屋だった。
「……あれ」
おかしい。
私はあの日、一回だけ帰ってきて。
最後に日記をつけて、それから――――。
「夢、だったの?」
茫然自失としか言いようがない。
海の中へ向かった記憶はとても鮮明なもので、夢のような曖昧さがない。
身体もまだあの寒気と温かさを覚えている。
私は信じたくない、と思いながらも机の引き出しを開けた。
そこに私の日記帳が入っている。
毎日欠かさず書いているため、今はもう何冊目かも思い出せない。
書いている理由は決して健全なものじゃない。
やり場のない、現状への怒りをぶち撒けるためだった。
そんな私の呪いの日記帳。
パラパラとめくってみると、なぜか七月三十日までしか書かれてなかった。
「あれ……? おかしい」
絶対におかしい。
今日は何日かは知らないけど、私があの人と別れたのは八月六日。
もちろん、その間も私は日記を書き続けた。
「消した跡も見えない……なんで、どういうこと?」
認めたくない。
折角勇気を出して、あの人たちに分からせてやろうと思ったのに。
折角、楽になれたと思ったのに。
なんで、こんな場所に引き戻されるのか。
私はハッとして、携帯のディスプレイを見た。
嫌な予感がしたから。
そして、その予感は的中していた。
何の冗談か、そこには七月三十一日と書かれていたのだった。
ありえない。
あってはいけない。
こんなもの、あってはいけない。
それとも全て夢だったのだろうか。
あの人と出会ってから、私が決意したあの日のことまで。
実際の私にはあんな勇気はないというのだろうか。
テレビをつける。
丁度天気予報をやっていた。
やはり、今日は七月三十一日らしい。
「……なんで」
泣きたくなった。
あれだけ苦しい思いをして、それでもなおこの場所は私を縛るのか。
なんて――――最悪。
けれど、これが現実なら仕方がない。
とりあえず私はしなきゃならないことがある。
本当はしたくないしけど、私はしなきゃいけないことがある。
それは――――朝食を作ることだった。
過程はとても大切だと思う。
少なくとも、私と料理という二つの事柄が、もう少し良い出会いをしていたら、私はここまで料理を嫌いにならなかっただろう。
確か六歳の頃だったか。
お父さんの仕事が忙しくなり、夕飯は自分で作れと言われた。
何も知らない六歳の子供に何を言うんだろう、と思った。
訳が分からなかった。
しばらくはまともな食事にありつけなかった。
ようやく最初に出来た、目玉焼き。
やっと完成したと思って見せに行ったら、あの人は勝手に食べた。
『あー、でも私の分だと思ったのよ。っていうか、私の分作ってくれなかったの? それじゃ、あんたも文句は言えないわよ』
何もしなかったくせに、口だけは一人前のその人に、私はひどく悪印象を抱いた。
そう、あの人は何もしない。
正確にはしないのではなく、出来ないのだ。
さすがに今の私には、それくらいのことは理解出来る。
理解は出来るが、納得なんか出来やしない。
……今朝はご飯に味噌汁、焼き魚といった定番のメニュー。
夢の中と同じなのか、この日お父さんはいなかった。
お父さんは仕事が忙しいとかで、家に帰らない日も多い。
一時期、この家を見限って別に家庭を持ってるんじゃないかという失礼極まりない想像をしたこともある。
しかしその様子は見受けられず、どうやら本当に仕事が忙しいらしい……という結論に達した。
だから用意するのは私と、あの人の分。
あの人はいつものように部屋で寝ているのだろう。
嫌だな、会いたくないな、声を聞きたくないな。
それでも私は行かなければならない。
行かなかったら、後々あの人が唯一人並以上に持っている口で何を言われるか分かったものじゃない。
私はトレイに食事を乗せて、零さないように気をつけながらあの人の部屋の前に立つ。
『蒼井浅海』と書かれたプレートが扉につけられている。
私は機械的な動作で扉をノックした。
「……誰?」
気だるそうな声が聞こえてくる。
この声を聞くだけで、私は喉から不快感を吐き出したくてたまらない気持ちになる。
この人は嫌いだ。
……蒼井浅海、私の母。
私は無言で扉を開けた。
「ご飯」
吐き捨てるように呟きながら、トレイをいつものようにデスクの上に乗せる。
すると、浅海は私を見て顔をゆがめた。
どうやら私の登場が不快らしい。
私は何も言わず、さっさと部屋から出ることにした。
扉を閉めると、中から最低の声が聞こえてくる。
「……なんで水渡、生きてるの」
声は震えていた。
なにやら信じたくない現実に直面しているような響きだった。
……今朝の私みたいに。
私が死んで清々した夢でも見ていたんだろう。
お生憎様だけど、私はどうやら生きている。
私にとっても、貴方にとっても不本意なことに。
浅海は極度の対人恐怖症らしい。
私はよく分からないが、あの人は部屋から出るのも怖くてたまらないのだそうだ。
自分の部屋でしか安心できない。
だからか、あの人は家事もろくに出来ない。
台所にあの人が立つ姿なんて想像すら出来ないし、洗濯物や買い物なんて論外だ。
あの人は何も出来ない。
『私はしないんじゃなくて出来ないのよ!』
その違いは大きいのかもしれないけど、私に降りかかる迷惑に変わりはない。
私は浅海と正反対で、外の方が好きだった。
家の中はあの人の声が届く。
『水渡! 遊んでばっかいないでちゃんと勉強しなさい!』
『あんた、学校での成績どうなの? 半端なんじゃ駄目よ。ちゃんとしなさい!』
『ちゃんと掃除終わった? 洗濯は? しっかりやんなさいよ!?』
ヒステリックで、何もしない人間の声が届く。
何も知らないくせに、適当なことばかり言う大人の声。
そんなものが、どこにいても届く。
実質的に蒼井の家はあの人の領域だ。
私はそんなところにいたくないから、外に出る。
あの家は私の居場所じゃない。
私の居場所は――――。
「ここ」
……波の音が聞こえる。
堤防の上から浜辺を見下ろすと、気持ちいい潮風が吹いてくる。
誰もいない浜辺には、ただ海と砂と波とがあった。
堤防から降りて、浜辺をゆっくりと進んでいく。
足元に波が辿り着き、冷たい感触が伝わってきた。
やがて水が引き、私は不意に沖の方へ流されそうになる。
「……そういえば、あの人は」
七月三十一日には、あの人はいるのだろうか。
夢の中で出会った不思議な旅人――――飛鳥井秋人。
あんな別れ方をしたけど、私はまだ彼を探している。
なぜだろう。
会ったところで、もう話すこともないのに。
飛鳥井さんが寝泊りしていた場所に視線を向ける。
「あっ……」
あった。
飛鳥井さんが宿と呼んでいた、小さくて古い船。
最後の日には流されてしまっていた、とても小さな飛鳥井さんの居場所。
流されたはずなのに、その船は何事もなかったようにそこに存在していた。
――――少しだけ、期待してしまう。
あの船には飛鳥井さんがいて、夢の中と同じように変な挨拶をしながら登場したりとか。
それで、また嘘のようなマジックを見せてくれたりとか。
ほんの僅かな期待を胸の内に抱きながら、私は歩みを進めていく。
濡れた足が砂浜に沈んで、少しだけ足取りが重いのがもどかしかった。
「あの」
待ちきれず、声だけが先に出てしまう。
それに促されるように、私は船の中を覗き込んだ。
「――――」
……中は空っぽだった。
これで、本当に夢から覚めた。
飛鳥井秋人なんて人はいないし、私が海に還ろうとしたのも夢の中の出来事。
そして、現実は変わらない。
またいつものように、つまらない日常が再開される。
夢はもう、終わったんだ。
私はその日、ずっと浜辺に座り込んでいた。
誰が来るわけでもなく、ただ波の音と潮風だけがある場所。
心の中は空っぽで。
考えること、感じることを放棄すればどれだけ楽になるだろうと何度も思った。
けれど、結局はそれを放棄できない。
私は何も放棄出来ない――――何も出来ない、あの人と似ている。
だから私はまたここに帰って来る。
『蒼井』と書かれた表札が憎々しい。
本当にこの家は大嫌い。
ただいまも言わず私は家に入っていく。
どうせあの人は部屋から出てこないし、お父さんは仕事で忙しいからこの時間帯にはいない。
軽く家の中を掃除して、出かける前に干しておいた洗濯物を取り込んだ。
その後はすぐに夕飯の支度だった。
――――なんでもやってるんだ、偉いね。
クラスメートの子にそう言われたことがある。
だけど、嬉しくもなんともなかった。
学校の放課後、皆が遊びに行くようなときも私は行くことが出来ない。
『蒼井さん、皆でこれから駅前のゲーセン行くんだけどさ』
最初のうちは、皆誘ってくれる。
でも私の家のことを知ると、めっきり誘いはなくなった。
私には自由な時間がないということに気づいたのか、私自身の態度に問題があったのか。
休み時間なども、疲れて眠ってしまうことが多くて会話にあまり参加できない。
結果、一学期が終わる頃に私は孤立している。
あの人のこともそうだけど、体力があまりない自分が腹立たしい。
「ご飯」
「水渡、ちょっ」
「それじゃ」
私はろくに返事も聞かず、夕食を置いてあの人の部屋から出た。
口だけ達者なあの人の側にいると、大抵説教か、いらぬお節介が始まる。
だから私は、あの人の言葉は極力聞かないようにしていた。
何もしない人間の説教なんて、説得力もないし、聞いてる側としては不快なだけだから。
もう少ししたらお父さんが帰ってくるかもしれない。
少なくとも、夢の中では帰って来ていた。
私はお父さんもあまり好きではない。
あの人の治療を諦めて放っているのはお父さんだ。
仕事が忙しいのは分かるし、うちがあまり豊かじゃないのも分かっている。
けど、結果的に私があの人の面倒を看なきゃいけなくなる。
ずるいと思った。
卑怯だと思った。
そのくせ私の相談なんかには乗ってくれない。
家に帰ればすぐに寝てしまう。
それが、仕事疲れによるものだと理解してはいる。
だが納得は出来ない。
それでは、家庭を顧みないのと一緒じゃないか。
この家の一番嫌いなところがそれだった。
理解は出来ても、納得は出来ない。
あの人が対人恐怖症なのは理解出来る。
でも、それで私に負担がかかるのは納得出来ない。
お父さんが家を支える為に働くのも理解出来る。
それでも、私たちを放っているのは納得出来ない。
分かっている。
今私はあの人を支え、お父さんに迷惑をかけないようにしなくちゃいけない。
世間一般ではそれが善だとされている。
理解出来る。
でも納得出来ない。
なんで私がそんなことをしなくちゃいけないのか。
この家の子供に生まれたから。理解出来る。
でも納得出来ない。
なんであの人は私に説教ばかりするのか。
娘が心配なのだろう。理解出来なくはない。
でも納得出来ない。
――――納得出来なくても、どうしようもない。
これは暴力でも犯罪でもなんでもない。
ただ境遇があるだけ。
私一人がそれに不満を抱いている。
理解出来る。
……でも、納得なんか出来やしない。
私は一人、リビングのテーブルに顔を埋めた。
苦しい、辛い、どうにもならない。
客観的に見直せば小さなこと。
でも毎日浴びせかけられては嫌になる。
もっとも、そんな弱音を言ったところで誰も理解してはくれないだろう。
それはお前のワガママだ、お母さんも大変なんだから我慢しなさい、辛いのは君だけじゃないんだ。
ありきたりな言葉が脳裏をよぎる。
いちいちそれらの言葉は理解出来るが、私には受け入れられない。
小さい頃は、ただ怒っていれば良かった。
『何もしないくせに、文句ばっか言って!』
あの人に対し、何度そう怒鳴り散らしただろう。
けれど、いつしか『何もしない』のではなく『何も出来ない』のだということに気づいた。
気づいてからは、怒りをぶち撒けることすら出来なくなった。
それが間違っているから。
それはいけないことだから。
私は行き詰った。
ただ『正しいこと』を続けるしか出来なくなった。
例えそれをどんなに嫌だと思おうと。
お父さんは家庭を支える為に、日夜仕事に励んでいる。
あの人は、自らの精神と戦い続け、苦しんでいる。
誰かが間違ってるわけじゃない。
誰も間違ってない。
だからこそ、私の突破口は存在しない。
この家を見捨てるか、自分自身を見捨てるかしない限りは。
時刻は十時過ぎ。
夢の通りならばそろそろお父さんが帰って来る頃だ。
急に私はお父さんに会いたくなくなり、部屋に戻ることにした。
テーブルの上に置かれた夕食にラップをして、部屋にすぐさま飛び込む。
電気は元々ついていなかったので、そのままベッドに入り込んだ。
いつまでこんな毎日が続くんだろう。
贅沢は言わない。
せめて学校の皆くらいの、自由と余裕のある生活が欲しかった。
無論それが既に贅沢だってことは分かってる。
世の中には私よりも苦労してる人がいるんだってことは分かってる。
それでも。
私は、普通の家庭に生まれたかった。
こんな全員が噛み合ってない、家族と言えるのかどうかも怪しい家庭になんか生まれたくなかった。
……明日は八月一日。
夢の中では、確かこの日に飛鳥井さんと出会った。
明日、もう一度行ってみようかな。
まだ期待を捨てきれない自分が馬鹿馬鹿しい。
もし彼がいたとしても、彼は私をこの家から切り離してはくれないだろう。
やるんだったら、自分一人でやらなきゃならない。
それは怖かった。
「……こんなことなら、半端に期待するような夢なんて、見なければ良かった」
出来れば今度は夢を見ませんように。
そんな風に期待をしながら、私は目を閉じて――――。
「――――随分と支離滅裂だね、水渡ちゃんの心は」
不意に、眼前が眩しく輝いた。
慌てて腕で目を隠し、眩しい光が収まるのを待つ。
……とくん。
待ちながらも、私の鼓動は激しく動きつつあった。
今の声に、聞き覚えがあったから。
「飛鳥井……さん?」
名を呼ぶと同時に、光は嘘のように消え去った。
再び部屋は暗闇に包まれる。
けど、さっきまでなかったものがそこにあった。
さっきまでいなかった人が、そこにいた。
「……飛鳥井さん」
「やぁ水渡ちゃん――――仲直りしに来たよ」
私は再び夢の中に叩き落されたのか。
それとも、最初から全てが現実だったのか。
私の混乱を他所に、飛鳥井さんは肩を竦めてみせた。
「歪だねぇ。結局君はどうしたいのかな。普通の生活を送りたい? するとお母さんの対人恐怖症が直ることを願っているのかな? そのためには何が必要なんだろうね。まぁ焦らずゆっくり考えていこうか」
「……なんで?」
「ん?」
「なんで、ここに……」
「仲直りしに来たんだよ。んで、お詫びってことで――――水渡ちゃんを、ちょっと助けようと思ってね」
そう言って、飛鳥井さんは笑った。
私が絶対に浮かべることのない表情が、そこにあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます