ある家族の話―八月六日~十日~(II)―

 ――――――――/八月六日


「……あれ?」

 八月六日。

 目が覚めたときには、既に陽は落ちていた。

 昨日は雨だったせいか、いろいろと一日のスケジュールが乱れた。

 きっとその影響だろう。

 体調を崩してないだけ儲けものだ。

 ただ。

「うーん、宿(仮)が流されたのは、痛かったな」

 昨日お爺さんの店でうまい棒を頂いている間に、僕の宿代わりとなっていた船は流されてしまった。

 ほんの五日間の付き合いだったけど、なくなってしまうと少し残念。

 砂浜にシートを敷いて寝るのは、正直気持ち悪い。

「寝袋の中に砂が……」

「顔中、砂だらけです」

 不意に、僕にハンカチが差し出された。

 視線の先には、昨日姿を見せなかったあの子がいた。

「水渡ちゃん? やあ、今晩は」

「今晩は。……宿は、流されてしまったんですか」

「そうみたいだね。あいつも旅に出たんだ」

 今頃は大海原を爆進中だろう。

 あるいは海底でのんびり寝ているに違いない。

「しかし水渡ちゃん、感心しないな。こんな時間に女の子の一人歩きは危険だよ?」

「……そうかもしれません」

 頷きながらも、反省する様子はなかった。

 水渡ちゃんは黙ってその場に座り込む。

 自然と並んで海を見る形になった。

 緩慢な波の音が、ある程度の調和を以って奏でられていく。

 僕らはしばらく、黙って自然の演奏を聴いていた。

「海で生まれ、海に消えていく。地球上で全ての大陸が失われても、海は相変わらず残るんだろうなぁ」

「……私たちは死ねば土に還る。その土もやがて海に還り、全ては海の底」

「うん、そう考えると海は本当に偉大と言うか、空恐ろしいね」

 実際全ての大陸が沈むかどうかなんて分からない。

 けれど、海だけは地球そのものが消えない限りそこに残り続けるんじゃないだろうか。

 ま、それはさておいて。

「水渡ちゃん。どうかしたのかい」

「……何がですか」

「――――旅に出たそうな顔をしてるよ。このままどこかへ消えそうな雰囲気だ」

 それは、と言いかけて彼女は口を閉ざした。

 ま、ある程度想像はついてたことだけど。

 彼女が僕の元へ通ってくるのは、僕が彼女を助けたからでも、マジシャンだからでもないだろう。

 おそらく僕が、旅人だと名乗ったからに違いない。

「今の環境が嫌かい?」

「……」

 水渡ちゃんは答えない。

 答えないが、その顔を見ればそんなものは明白だった。

 彼女は現状からどうにかして逃げ出そうとしている。

 その"現状"とやらがどんなものかは知らないが、少なくとも彼女自身は――――ついこの前知り合ったばかりの僕に対して、何かを期待しているような気がした。

 そしてそれは、それだけ追い詰められてるってことだ。

 水渡ちゃんは膝の間に顔を埋めさせたまま動かない。

「水渡ちゃん、ちょっと散歩しようか」

 どんな算段があったわけでもない。

 自然とそんな言葉が、口から漏れた。

 彼女の境遇を聞く気はさほどなかったし、彼女を連れて旅に出るつもりもなかった。

 だからそれは、本当の意味のないはずの問いかけ。

 物語のクライマックスで、俳優さんの出身校を尋ねたりするほど意味のない問いかけだ。

「この町で、まだ行ってないところにも行ってみたいんだ。僕は、旅人だからね」

「……分かりました」

 やや沈黙した後、水渡ちゃんは承諾してくれた。

 波の音に合わせるような緩慢な動きで立ち上がり、服についた砂を払い落とす。

 やがて彼女は、名残惜しそうに海を見ながら歩き始めた。

「どこへ行くんだい?」

 先を歩く、頼りない背中に声をかける。

 水渡ちゃんは立ち止まり、少しだけ考えてから答えた。

「――――山」

 簡潔にして分かりやすい返答だった。


 夜の山は、歩いた経験のない人が想像しているよりもずっと闇が深い。

 こういうところを歩くと、街中に何気なく設置されている街灯の役割の重さを感じずにはいられない。

 下手をすれば前を歩く水渡ちゃんの姿さえ見失いそうになる。

 悲しいことに懐中電灯の類は全て電池切れで使用不可だったのだ。

 草と土の匂いに新鮮なものを感じながら、僕らは歩を進めていく。

 どこまで行くのか、なんて野暮な質問はしない。

 僕は散歩といったのだから、これでいいのだ。

 目的地の決まっている散歩なんて、つまらない。

「しばらく海の側で生活してたからなぁ……山は懐かしいね」

「そうですか。……私は山に懐かしさは感じません」

「水渡ちゃんは海派みたいだね」

「違うと思います。私は海に懐かしさを感じるだけで……それ以外は、特に」

「そうなの?」

 海に対する思いは人一倍強そうだ、とか思ってたんだけど。

 そうでもないのかな。

 ……懐かしさ、ねぇ。

「それじゃ、海と正反対の山に登るとさ。何かこう、自分はこんなところまで来てしまった、とか思うのかな」

「……っ」

 軽く戯言を口走らせただけなんだけど、水渡ちゃん予想以上に驚いてるご様子。

 僕はそんな変なことを言ったのだろうか。

 水渡ちゃんはそのまま顔を逸らしてしまった。

 今は僕と顔をあわせたくないらしい。

 何か選択肢を誤ったかな、などと思いながら、漆黒の道を進んでいく。

 わずかに触れる夜風と、草木の匂いが心地よかった。

 とても落ち着く。

 僕にとっては、やはりこういった匂いや雰囲気も慣れたものだけに、久々に感じると懐かしいものがある。

 山の空気は大概町中のものよりも綺麗だから、居心地がいいのだ。

 虫の鳴き声も聞こえてくるし、なんだか迎え入れてもらっているような気分になれる。

「――――飛鳥井さんは、帰る場所を持っていますか」

 不意に、水渡ちゃんが尋ねてきた。

 水渡ちゃんの質問が唐突なのは今に始まったことじゃないので、もう驚かない。

 僕は首を捻りながら、どう答えるべきか悩んだ。

「帰る場所はないかな。逆説的に言うなら、全てが僕の帰る場所。出かけることは帰ることにもなるし、帰ることが出かけること。それが根無し草の旅人というものだ」

 帰る場所を持ちながら旅に出かける旅行者とは違う。

 僕らは常にその日帰る場所を探しながら、昨日の場所を置いていく。

 毎日帰る場所を得ては置き、得ては置きの繰り返しだ。

 水渡ちゃんのような普通の人とは、そもそも『帰る場所』の重みが違う。

 僕らにとっては一晩過ごせればそれでいい程度の、薄っぺらいものだ。

 その代わり、置いた場所を再び拾うことも簡単にできる。

「水渡ちゃん、帰る場所を失くしたのかい?」

「……失くしてはいません。ただ、捨てたいと思っています」

「それは物騒な話だね」

「私にとってあの『家』は帰るだけの場所です。安らげる場所でもなければ、温かみを感じる場所でもありません」

 ……ふむ。

 彼女の中の歪みが、今少しだけ見えた気がした。

 今夜辺り、彼女は何かを決断しようとしているのではないだろうか。

「君の言う家は、僕がイメージしているものとは大分違うようだね」

「かもしれません。家は、少し変なんです。あるいは、私が変なのかもしれない」

 密閉された闇が終わり、開けた闇の空が頭上に広がっていく。

 今日はいい天気なのか、星や月もご機嫌のようだ。

 水渡ちゃんの全身が月明かりに照らされ、少し幻想的な雰囲気をかもし出している。

「その状況は覆せないのかい?」

「少なくとも、穏便な変化は無理だと思います」

「穏便じゃないやり方ならあるわけだ」

「……はい。でも私は、それが怖い」

 急激な変化は望まない。

 ただ、こうなってくれたらいいな、と願い続ける日々。

 自分から家を変えるほどの行動を起こすのは、水渡ちゃんの年齢を考えると厳しいものがあるだろう。

 この年頃の子は無力だ。

 周囲のことに少なからず不満を抱きつつ、それを変革するだけの力を持たず、手段を知らない。

 だから彼らは逃げ道を探している。

 他人への暴力、嫌がらせといった暴力的逃避。

 自殺、物事への無関心化、引きこもりなどの退廃的逃避。

 どちらにせよ、全く救えない話だ。

「それで、水渡ちゃん。君はどうしたいのかな」

「……」

 僕の静かな問いかけに、水渡ちゃんは鋭い視線を投げかけてくる。

 怒りではなく、緊張、恐れ、戸惑いなどが込められた視線だ。

 ……もう怖くない。

 僕の眼前にいるのは、何かに追い詰められた年相応の女の子だ。


「――――私を一緒に連れて行ってください」


 透き通るような夜風と夜空と夜景。

 その中で、水渡ちゃんは確かにそう言った。

 その言葉には強さがなく、ただ弱者の哀願のみがあった。

 追い詰められて。

 どうすればいいのか分からなくて。

 少しずつ傷ついていきながら。

 それでもどうすればいいのか分からなくて。

 何かをすれば、何かがどうにかなってしまうような恐怖を抱きながら。

 ……偶然出会っただけの旅人に、微かな光でも見たのだろうか。

 帰るべき家を捨てて。

 僕と共に旅に出ると、本気で言っているのだろうか。

 だとしたら。

 だとしたら、僕は。

 ……僕は。

「――――駄目だよ、蒼井水渡」

 はっきりと、拒絶の言葉を口にした。


 彼女は何を言われたか、まるで理解できてないようだった。

 僕が了承するだろうと信じて疑わなかったのだろう。

 唯一の希望に拒絶されるなどと、考えるだけでも怖いだろうから。

 だが無機質で冷たい僕の表情を見ては、次第に現実を認識していかざるを得ない。

 少しずつ。

 ゆっくりと。

 鉛を溶かすように、じっくりと。

 彼女の中で、希望が形を崩していくのが分かった。

「……な、なんで」

 彼女の表情は、らしくもなく崩れてしまっている。

 いや、違うか。

 いつも仏頂面で、鋭い視線を投げかけて、頑なだった彼女。

 ……そんなものは、表面上のことに過ぎない。

 彼女は弱々しかった。

 本当に強い人間は、僕なんかのところに来たりはしない。

 分かっていた。

 なんとなく、彼女が虚勢を張っていることに。

 強く覆われた表情の下で、いつも震えているであろうことに気づいていた。

 だから、彼女はようやく本当の自分を曝け出したに過ぎない。

 どちらかというと、最悪な形で。

「なんで、駄目なんですか」

「……旅はね、逃げ場じゃないんだよ。さっきも言っただろう? 全てが帰る場所であり、全てが行き着く先だと。君みたいに帰る居場所を捨てようという人と共に歩むことはできない」

「貴方は違うんですか。旅に出る前、家はあったんじゃないんですかっ! そこを捨てたわけではないんですかっ!?」

 以前話した師匠とのことを言っているんだろう。

 確かにあれは喧嘩別れだった。

 だが逃げたわけじゃない。

 君みたいに、逃げ道として旅を選んだわけじゃない。

 最初の両親と過ごした家も、師匠と過ごした家も、捨てきったわけじゃあ、ない。

「言ったろう、全てが帰る場所だって。捨てたわけじゃない、あの家が嫌で逃げ出したわけじゃないんだよ」

 気が向けばいつでも帰っていただろう。

 師匠の機嫌が直っていれば。

 もっとも、それで様子見に帰ったら既に師匠はこの世の人じゃなくなっていたが。

「いいかい、蒼井水渡。旅は逃げ場じゃない。いつか言ったろう、旅はやりがいがあると。楽ではないが、面白いと」

「……」

「何かを求めて旅をするならばいい。しかし逃げる為に家を出るなら、それはただの家出だ」

「私は……違う、もうあの家に縛られるのが嫌で、自由が欲しくて」

「君の求めるような自由は旅の中にはない。帰る場所を切り捨てて、何を求めるわけでもなく旅をやっても無意味だ」

 逃避としての旅に意味などない。

 結局その先には、何も残らない。

 帰る場所を失って、何も求めるものがなくて、旅に疲れて。

 どこにも行けなくなって、そこで終わりだ。

 停滞だ。

 本当の死だ。

 何も変わらないし、何も残らない。

「君は旅には不向きな人間だ。帰る家があるなら、例え嫌でも帰った方がいい」

「……嫌だ」

「帰りなさい」

「……嫌だっ」

「――――――――帰れッ!」

 自分でも驚く程の怒声。

 一瞬、周囲に聞こえていた虫の鳴き声も聞こえなくなった。

 彼女は僕の大喝にビクリと身を竦ませている。

「最初に会った君は、死のうとしていた。しかしそれによって何かを変えようとしていた。面白いと思っていた。だが今の君はひどくつまらない。面白くない。不愉快だ」

「……っ」

「泣くぐらいなら己の力で何かを変えてみたらどうだい」

 悪意の込められた僕の言葉に、水渡ちゃんはひどく傷つけられたような顔をした。

 目元には薄っすらと涙が浮かび、歯を食いしばっている口元は歪んでいる。

「僕なんかを頼るな。何かしたければ一人でするといい。こんな救いがたい物語はもう見飽きた。僕は退場させてもらう」

 彼女の言葉を待たずに、僕は彼女に背を向けて歩き始めた。

 後ろの方で嗚咽らしきものが聞こえたが、どうでもいい。

 逃げることしか知らない子供など、もういい。

 僕はいささかも躊躇うことなく、山奥へと足を進めた。


 ――――水渡ちゃん。君が自分で何かを求める時が来たのなら、そのときは僕も存分に力を貸そう。


 ばいばい、さようなら。




 ――――――――/八月十日


 しばらく山中を歩き回り、山菜などでお腹を膨らませる。

 あれから四日。

 なんとなく気が進まなかったので山中に潜伏していたのだが、うっかり麓まで降りてきてしまった。

 久々の町。

 相変わらず人が少なく、無駄に広いもんだ。

 ふわりと、夏名さんが実体化した。

「秋人さん、これからどうするんですか?」

「そうだなぁ……そろそろこの町を離れようと思ってるんですけど。ここではどのみち路銀得られませんし、どうにかして近くの町へ行きたいところです」

「でも行った先の町がここみたいだったら、どうにもなりませんよ?」

「ご心配なく。あの駄菓子屋のお爺さんのところで聞いてみますから」

 ついでにうまい棒とかも貰えたらいいなぁ。

 まだ全部の味制覇してないし。

 うまい棒、安くて美味くて奥が深い。

「しっかし山中だと木陰に隠れてれば良かったけど、町中は相変わらずくそ暑いなぁ」

「夏は暑いものだ。むしろ暑さを堪能しろ」

 またナナシが変なことを言う。

 そんな境地に達することは、僕には出来そうにない。

 暑さで死ぬのと寒さで死ぬのだったら、僕は迷わず寒さを選んで死ぬね。

「あとは自転車でも落ちてればな。移動が大分楽になるんだけど」

 そんなことを言っているうちに、懐かしの駄菓子屋に到着。

 そういえば六日までは、僕の宿がすぐ側にあったんだよなぁ。

 あれ、流されたのは五日だっけ?

 山中のサバイバル体験が、記憶を少し鈍らせている。

 ……いや違うな、暑さのせいだ。

「ごめんくださーい」

 お爺さんに聞こえるように、大きな声で戸を潜る。

 相変わらず駄菓子がいっぱいだ。

 ベビスタも久々に食べてみたいが、現在の所持金では不可能と判断。

 うまい棒を恵んでもらうしかないか。

「なんじゃ、お前さんか」

 のっそりと、重い足取りでお爺さんが姿を現した。

 数日前、最後に見たときとまるで変わっていない。

「最近来ないから、てっきり旅に出たものだと思っていたがのう」

「山の中で修行してました。山菜大量でウッハウハです」

「……無断で取ったんかい」

「あ、お土産はちゃんと持ってきましたよ。食べれるやつですからご安心を」

 はい、とビニール袋に入れた山菜をお爺さんに手渡す。

 お爺さんはやや困った顔をしながらも、とりあえず受け取ってくれた。

「で、これから本格的に旅に出たいんですけど……あのですね。バイトとか出来そうな近場の町ってありませんかね」

「んー、そうじゃな……ここからあっちの方歩いていくと灯台があるの、分かるか?」

「はい。一度彼女に連れて行ってもらいました」

「……そうか」

「?」

 お爺さんがなにやら沈痛な面持ちとなる。

 何かあったのかな、と思いつつ、さほど関心はなかった。

 彼女と僕の物語はもう終わっている。

 それもとびきりのバッドエンドだ。

 今更何を思うことがあるというのやら。

「まぁええ。それでな、その先を真っ直ぐ行くと大きな岬が見えてくる。そこで左に行く道があるから、そこを曲がっていけばええ。歩きだとどれくらいかかるか分からんが、この付近では大きな町に出られるぞ」

「そうですか、岬ですね。ご親切にどうもありがとうございます」

 言いながら、さり気なく視線をうまい棒へ向ける。

 このお爺さんは察しがいいので、こうしてれば気づいて、うまい棒をくれるかもしれない。

 ところが僕の期待とは裏腹に、お爺さんは気づいてくれなかった。

 なにやら言いたいことがあるように思える。

「あの、どうかしましたか? 気分が悪いんだったら病院でも行きますか?」

「そうじゃないわい。飛鳥井さんや、あんたは知ってるのかと思ってのう」

「知ってるって、何をですか?」

「……その様子じゃ、知らんようだの」

 なんだろう。

 そんな言い方をされては、気になる。

 なにしろ僕は『歩く好奇心』をたった今自称し始めたばかりの男なのだ。

「何かあったんですか? 面白いニュースとか」

「面白くはないわ。……どうやら本当に知らんようだの。お前さんいつごろから山にいた」

「六日の夜辺りからですかね」

「なるほどな……」

 お爺さんは何度か頷いてから、いつもより更に重々しい口調で、しかし大きな声を張り上げて告げた。


「――――――蒼井水渡ちゃんが、三日前に死んだ」


 ……。

 ……。

 ……まさか。

「お爺さん。つまらない嘘は止めてください」

「こんな嘘をつくか、たわけ。嘘だと思うなら今夜、蒼井家に行ってみるがええ。ちょうど通夜が行われる」

「……」

 おいおい。

 いくらなんでも、この展開は。

 ……何を驚いている、飛鳥井秋人。

 お前はこの結末を知っていたはずだろう。

 知らない。

 嘘をつくなよ。

 彼女は逃げ場を求めていた。

 お前と言う逃げ場が塞がれた以上、彼女は何をする?

 何って、それは。

 お前という逃げ口を知る前。

 彼女は何をしようとしていた?

 ……そういえばお前は彼女にこう言ったよな。

『最初に会った君は、死のうとしていた。しかしそれによって何かを変えようとしていた。

面白いと思っていた。だが今の君はひどくつまらない。面白くない。不愉快だ』

『泣くぐらいなら己の力で何かを変えてみたらどうだい』

 驚くなよ。

 お前がけしかけたようなものだろう?

「――――」

 やれやれだ。

 本当にやれやれだ。

 あんなバッドエンドに、こんなエピローグがついてくるとは。

 久々だ、こんなに胸糞悪くなるのは。


 通夜は悲しいほど質素だった。

 学校の友達は皆どこかへ旅行に行っているのか、そもそも友達なんていないのか。

 通夜に参加していたのは、僅かな親戚とご近所さん。

 そしてこの僕、得体の知れない薄汚れた旅人だった。

 喪主は蒼井航路(あおい こうじ)と名乗った。

 よく話を聞いていなかったが、おそらく彼女の父親だろう。

 何か、とても大切なものを失ったような顔をしている。

 少なくとも彼女の死を真剣に受け止めている様子ではあった。

 母親の姿は見えないが、あの父親を見ていると、それほどひどい家には思えなかった。

 彼女は一体何が不満だったのだろう。

 何に耐え続けていたのだろう。

 今となっては、分かるはずもない。

 面倒なので、通夜ぶるまいの前に蒼井家を抜け出る。

 これ以上この場所にいるのは無意味だと思えた。

 こっそり外に出ると、偶然にも航路氏が立っていた。

 休憩しているのだろう、煙草を吸いながら虚ろに空を見上げている。

 やがて彼は僕に気づくと、軽く頭を下げた。

「水渡の友達か?」

「……そんなところです」

 反吐が出る。

 あんなことを言っておきながら友人を名乗るとは、僕も小物に成り下がったものだ。

「見たところ、学校の人でもなさそうだが……ひょっとして、飛鳥井……さん?」

「僕の名前を?」

「……今更になって、初めて知った。昨日、娘の遺品をちょっと整理してみたんだがな。日記の中に、貴方の名前があった」

「日記なんてつけてたんですか、彼女」

「ああ。意外にマメな娘だった……それだけに、というべきか。俺は馬鹿だ」

 航路氏の言葉は要領を得ておらず、よく分からない。

 ただ、彼は自分が取り返しのつかない失敗を犯したと思っているようだった。

「娘の日記は、見るだけでも辛い。怨みの塊だった。塵も積もれば山となる、一旦山が出来れば容易には塵に戻らない……そんな感じだった。だが、貴方と会ってからの数日。たった数日の間だけ、娘の日記は和らいだんだ」

「和らいだ?」

「ずっと、辛い、苦しい、もう嫌だと。そんなことばかり書いてあったんだが……二日の日記に初めて、面白いと。面白かったと……そういう言葉が書かれていたんだ」

「……」

 二日。

 もう一週間以上前か。

 確かあの日、僕は二度目の救出を果たして……彼女にマジックを見せた。

「……あの、一つ聞いてもいいですか」

「なんだね?」

「六日の日記には、何か書かれていましたか」

「――――」

 航路さんは急に口を閉ざした。

 何か僕に言えないような訳でもあるのだろうか。

 それとも、

「……なさいと」

「え?」

 小さな、とても小さな声で航路さんは何かを言った。

 よく聞こえなかった。

 今、貴方はなんと言ったんですか?

「――――ごめんなさい、と。ただ一言、それだけが書かれていた」

 ……ごめんなさい、か。

 何を謝ってるんだ、彼女は。

 誰に謝ってるんだ、彼女は。

 何が変わるというんだ、彼女が死んだことで。

 僕は最後に一度だけ航路さんに頭を下げて、その場を立ち去った。


 吹き抜けるような蒼い夜空。

 天に輝くいくつかの星星と、見事な月。

 心地よい海の匂いと潮風が吹きぬけていく。

 両手を広げると、自分がまるで自然の中へ溶け込んでいくような気がした。

 ここは灯台の展望台。

 いつの日か、彼女と二人でやって来た場所だった。

「秋人……」

「秋人さん……」

 彼女の死が告げられてからずっと沈黙していた二人が、心配そうな声を漏らす。

 だが僕は心配無用、という形の笑顔を作った。

 涙はない。

 悲しくはない。

 しかし、納得はいかない。

 この不様な物語で。

 僕は何も成し得なかった。

 いくら腹が減っていたり、暑さでまいっていたりしたとしても、これほど不様なことはない。

「ナナシ、夏名さん。ようやく僕は目が覚めた気がする」

「え?」

「これは魔法使いであり旅人でもある男の物語だ。だが、今回の僕は道化に過ぎなかった」

「……ま、そうだな」

 ナナシは容赦がない。

 だがその容赦のなさが、今は心地よかった。

 そう、世界はこんなにも心地よいもので溢れているのだ。

 海の中に還ってしまえば、人間は息苦しさしか感じない。

 だから、取り戻そう。

 取り戻すんだ。

「道化芝居はもう終わりだ。僕は魔法使いとして宣告する――――この物語を、やり直すと」

 時間逆転。

 過去から未来へ流れる時間を、未来から過去へ流れるように変革する力。

 禁呪にして禁忌にして最悪の法変換、偶然僕に宿ってしまった奇妙な力――――魔法。

 それを今。

 初めて僕は、自分自身の為に使うと決めた。

 もう、こんなエンディングは嫌だから。

「今回の客人はナナシと夏名さん、そして今は亡き彼女とその家族だ」

「目的は」

「彼女の『家』を書き換える」

「成功確率は」

「世界を書き換えるより難儀だが、不可能ではない」

「いつまで続けるつもりだ」

「……彼女が笑えるようになるまでだ」

 そう、彼女は一度も笑わなかった。

 追い詰められて追い詰められて、僕にまで見放されて。

 何かを変えようとして、海へと還って行った。

 何が変わったかは僕には分からない。

 しかし、これが最高の結末ではないことだけは確かだった。

 君を旅に連れて行くつもりはない。

 しかし、君の手伝いをもっとしてやるべきだった。

 人は強くない。

 何を求めればいいのか、分からない人も大勢いる。

 だから、今度は一緒に探してあげよう。

 そして、君が何かを見つけ出した時には……。

「二人とも、僕のワガママに付き合ってくれないか」

「……ま、どうせお前はやるんだろう? となれば、今回のことを覚えて戻る方が得だ」

「私は、いつでも秋人さんの手伝いをするつもりでいますから」

 ナナシと夏名さんは同意してくれた。

 ならば後は、思い悩むこともない。

 ただ行くだけ。

 僕は両手を広げたまま、展望台から身を乗り出した。

 そのまま足場を蹴って、夜空に飛び出す。

 とても気持ち良かった。

 風も、波も、空も。

 やがて、地に激突する寸前。

 ――――――世界は逆転した。


 ――――――――/(II)

 そしてここから、物語は再開する。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る