大きな器と小さな亀裂

 吹き抜けていく冷たい風。

 それはまだ寒い季節のこと。

 飛鳥井秋人は雪の道を歩いていた。しっかりとした歩き方、まるで疲労の色を見せないその様子は秋人が歩くことに慣れている証拠だった。

 時折耳を傾けると、すぐそばにある海から波の音が聞こえてくる。

「冬の海で泳いでみたいと思ったことはないかい、ナナシ」

 秋人はバッグの中で寒さを凌いでいる相棒のナナシに尋ねた。

 ナナシは彼の旅に付き合う唯一の相棒。

 題名のない魔法の本、それがナナシである。

「お前、たまに俺が本であるということを忘れてないか?」

「あ、そうか。海なんかに入ったらさすがのナナシも死ぬかな」

「そこらの本と一緒にするな。俺はそんなことでは死にはしない……だが、試そうとするのはとてもやめていただきたい」

 自分のことを掴んで海へと放り投げようとする秋人を、ナナシは慌てて止めた。かなり残念そうにして、秋人は渋々ナナシをバッグの中へとしまう。

「俺は水によってふにゃけるような素材は使っていないから死にはしないが、寒いものは寒いと感じる。つまりお前たちと同じなのだ」

「だったら最初のツッコミいらないんじゃないかい?」

「手足もなければ魚のような身体構造もしていないから俺には泳ぐという行為が不可能なんだッ!」

 お互い相手の言葉の隙をうかがっては揚げ足を取り合う。これがこの二人の会話、その一つのパターンだった。

「でもさ、本当に寒いのかな」

 歩くのをやめて、秋人はガードレールに腰掛けながら海を眺めた。

「ほら、寒いのはひょっとしたら陸の上だけで海の中は夏と変わらないかもよ」

「何を阿呆なことを言っとるか。試しに入ってみるか、死ぬぞ?」

「冗談だよ」

 苦笑して缶コーヒーを取り出す。数時間前に自販機で買ったものだが、まだそこそこ温かかった。

「でも眺めている限りでは夏も冬もあまり変わらないよね、海って」

「確かにな。陸の上では風景そのものが変質するものだが、それに対して海は安定していると言えよう」

 静かに波の音が響く。


「でもさ」

 ふと、飲みかけの缶コーヒーを手に秋人は海のほうに歩き出した。

「こうして常に波が存在している時点で、本当は海も変わり続けているんだよねぇ」

「む……そうとも言えるが、その意見はやや即物的でつまらんな。そんなことを言えば空気にも同じことが言えるぞ」

「いや、まぁそうなんだけど。でも見えないところにある変化。これって案外興味深いよ」

 それを聞いてナナシはため息をついた。

 秋人の悪い癖なのだ。なんでもないことや変なことに興味を持つのが。

「人間が滅ぶとしたら、それはそういうところから始まっていくのかもしれない」

 波が秋人の靴を濡らす。秋人は自らが手にしていた缶コーヒーを海に向かって投げ捨てた。

「……おい?」

 突然の秋人の行動にナナシはない眉をひそめる。やがて飲みかけのコーヒーは、缶からこぼれて海を少しだけ異質な色に染めた。

「これでまた少し海が汚れた。でもこのことに気づけるのは投げ捨てた本人である僕か、目撃者であるナナシぐらいだ。それはなぜか」

 ナナシは答えずに海の様子をじっと見ていた。最初は異質だった色もやがて繰り返す波によって海の一部へと変質していく。

「海があまりに大きいからか。小さいことを飲み込んでしまうぐらい巨大だから、意識することが出来ない」

「そう。でもいくら巨大だからといって無限ではありえない。いつか歪みが生じてそこから何かが壊れていく」

 そう言って秋人は周囲を改めて見回した。

 冬の浜辺には呆れるくらいのゴミが散乱している。いくつかの、魚の死骸も転がっていた。

「こんなふうにね。これが人間の、ある意味での限界なのかもしれない」

 肩を竦めてみせた後、秋人は不意に自らの手に魔力を集中させた。

「戻れ」

 その言葉と共に、まるで時間が巻き戻しにされるようにして、海に放り投げた缶コーヒーが秋人の手元に戻ってきた。中身もきちんと元通りになっている。

「どうせなら『浄化』でここらを全て綺麗にしてやったらどうだ?」

「ナナシはお人好しだなぁ。浄化は疲れるから嫌だよ。僕がここを綺麗にする理由もないし」

「ふむ……そういうものか」

「そうだよ、だいたいここを綺麗にしたところで何がどうなるんだって気もするし」

 そう呟き再び歩き出す秋人。ナナシは何も言わずにバッグの中で温まっている。


 しばらく歩いて、ふと秋人は海のほうをまた眺め始めた。

「そうそう、ナナシ。やっぱり冬の海は冷たいねぇ」

「なんだ、まさか本当に泳ぐつもりだったのか?」

「突発的にそういう行動を起こしたくなるときもある」

 吐く息は白く、秋人の視界に映っては消える。

「でも直接触ってみたらやっぱり寒いなぁって。見てるだけだとそんな気しないのにね」

「それは、そうだろう。誰だって直に触れれば否応なしに理解する」

 そこまでナナシが言ったところで、波しぶきが秋人に少しかかった。少しといってもこの季節ではややきつい冷たさを感じさせる。

「―――否応なしにな」

 その様子をバッグの中からどう察知したのか、ナナシは面白そうな声で言った。

「なるほどね」

 秋人は冷えた身体を温めようと先程のコーヒーを飲み、絶句した。

「どうした?」

「すごく、塩辛い」

 苦い表情で呻く秋人。

 ナナシは愉快そうに笑った。

「日ごろの行いが悪いから天罰が下されたんだ。そう思っておけば今後俺の生活が少しは快適になる」

「うぅ……これは、もう飲めないな」

 ナナシの言葉を無視して、秋人は周囲にゴミ箱がないかどうか探した。周囲には道と海ぐらいしか見当たらない。

 いや……視界の隅に、沢山のゴミが散乱している場所があった。

「あそこでいいか」

 秋人はそのゴミの山に自らが持っていた缶を放り投げた。

「おい、いいのか」

 ナナシが少し咎めるような声で尋ねる。しかし秋人はいいんだよ、と苦笑して答えた。

「どうせあれだけゴミがあるんだ。今更一つや二つ増えても変わらないよ」

「……」

 ナナシは今度は完全に沈黙した。しかしすぐにため息をつく。

「お前も、人間……ということか」

 その呟きと同時に秋人は盛大なくしゃみをする。鼻をこすりながら、

「何か言ったかい、ナナシ?」

「―――天罰だな」

 秋人の疑問は、ナナシの笑みを含んだ返答によって打ち消された。

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